ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

標(しるべ)

2021-04-12 07:09:01 | 日記・エッセイ・コラム
「しるし」に似ているものに、
「しるべ」がある。
道標(みちしるべ)のしるべである。
この語句は、
道という字と木偏があるので、
木片などで作った目印であり、
道の行き先を示すものである。
しるべとは漢字で導とも記す。
この字の読みは「みちびき」だが「しるべ」とも読む。
その意は繋がっている。
それに標は「しるし」とも読む。
音韻としては同じでも、微妙に使い分けるのだ。
印・徴・標、などと。
動詞にも「し」があって、それは知るとも識るとも記す。
そこには共通の音韻「し」が関わっている。
かくて「し」はこれらすべての本源なのだ。
大和言葉は本源を忘れない。
その音韻で多くをあらわす。
根は同じでも微妙な違いを。
そして原初を残す。
・・・・・
前に言葉とは脳内に置いた目印だと言った。
その目印が問題を惹起する。
置いたはいいが、それ以外が不明だと気付くのです。
目印がなければそも一体で一つのものが、
目印を置けば置くほど不明が増えていく。
そして不安が大きくなる。
それを鎮めなければならない。
そこで出番となるのが祈りである。
祈りが言葉とともにある所以なのです。
では言葉を持たない生物に祈りはあるのか。
私の答えは、無い。
無いとは必要がない、のである。
彼の脳内に写った世界には濃淡はあっても目印はない。
だからそこに分断はないのである。
いつも世界と一体なのである。
あるがまま思うがまま生きる、
個体としては様々であっても。
そこには何があるのだろうか。
脳という物ではあるが、事としては何があるのか。
それを私は「無私の想像力」と言う。
以前は本能と言っていたのだが、
最近はそれをほとんど言わない。
だから私も言い方を変えました。
「無私の想像力」と。
なかなか気に入っている。
自画自賛!
人間にも有ったはずだ、それが。
今もあるだろう、目印と目印の間の空間には。
祈りとはまさにそこに焦点を当てるものです。
目印によって見失われたその存在が、
はっきりと浮かび上がるのです。
さすれば世界は一つになる。
脳内で我と世界が繋がれる。
楽園ではそうであったように。
もともとはそうであったのに。
それなのに神の禁忌を犯した。
禁断の智慧の実を食べたのだ。
それを智慧の実と言うのが、
聖書の意図の深遠なところ。
それは「し」(しるし)を手に入れたのだ、
言葉を持ったのである。
だからです、
祈りが古来から連綿と続いてきたのは。
言葉の世界を生きてきた人間は、
同時に祈りの世界を生きてきた。
それは必然だった。
・・・・・
この標には商標と言うのもある。
商品(という物)に付けたしるしの札である。
それはレッテルとも言う。
もとはオランダ語らしい。
リベラル人士はレッテル貼りが好きなようだが、
そのレッテルである。
先に言葉は脳内に置いた目印である、と言った。
それに瘡蓋のようなものであるとも。
それならレッテルとも言えるだろう。
まあどうとでも言えるが。
つまりレッテルを貼るとは脳内に目印を置くことで、
さりながらレッテルは当然ながら実体ではないのだ。
それでも当初はレッテルは実体と呼応していたろう。
その限りでは実体とも言えるだろう。
だがあくまでも目印である。
無私の想像力と伴にあって初めて実体化する。
無私の想像力と伴にあって初めて意味が取れるのだ。
無私の想像力こそ人間の本源である。
それなのにレッテルが一人歩きする。
そしたらどうなる。
それは現況を見れば明らか。
何をか言わんや、
実に酷い有様だ。
誰が一体そんなことをしてるのか。
一つ、リベラル(言葉至上主義)
一つ、中華思想(自己絶対主義)
一つ、原理主義(言葉至上主義)
以上。
その力を何とかしようしたのがトランプである。
トランプが引いた今、何とも無残な状況である。
これから増々酷くなるだろう。
覚悟しておこう。

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