「しるし」に似ているものに、
「しるべ」がある。
道標(みちしるべ)のしるべである。
この語句は、
道という字と木偏があるので、
木片などで作った目印であり、
道の行き先を示すものである。
しるべとは漢字で導とも記す。
この字の読みは「みちびき」だが「しるべ」とも読む。
その意は繋がっている。
それに標は「しるし」とも読む。
音韻としては同じでも、微妙に使い分けるのだ。
印・徴・標、などと。
動詞にも「し」があって、それは知るとも識るとも記す。
そこには共通の音韻「し」が関わっている。
かくて「し」はこれらすべての本源なのだ。
大和言葉は本源を忘れない。
その音韻で多くをあらわす。
根は同じでも微妙な違いを。
そして原初を残す。
・・・・・
前に言葉とは脳内に置いた目印だと言った。
その目印が問題を惹起する。
置いたはいいが、それ以外が不明だと気付くのです。
目印がなければそも一体で一つのものが、
目印を置けば置くほど不明が増えていく。
そして不安が大きくなる。
それを鎮めなければならない。
そこで出番となるのが祈りである。
祈りが言葉とともにある所以なのです。
では言葉を持たない生物に祈りはあるのか。
私の答えは、無い。
無いとは必要がない、のである。
彼の脳内に写った世界には濃淡はあっても目印はない。
だからそこに分断はないのである。
いつも世界と一体なのである。
あるがまま思うがまま生きる、
個体としては様々であっても。
そこには何があるのだろうか。
脳という物ではあるが、事としては何があるのか。
それを私は「無私の想像力」と言う。
以前は本能と言っていたのだが、
最近はそれをほとんど言わない。
だから私も言い方を変えました。
「無私の想像力」と。
なかなか気に入っている。
自画自賛!
人間にも有ったはずだ、それが。
今もあるだろう、目印と目印の間の空間には。
祈りとはまさにそこに焦点を当てるものです。
目印によって見失われたその存在が、
はっきりと浮かび上がるのです。
さすれば世界は一つになる。
脳内で我と世界が繋がれる。
楽園ではそうであったように。
もともとはそうであったのに。
それなのに神の禁忌を犯した。
禁断の智慧の実を食べたのだ。
それを智慧の実と言うのが、
聖書の意図の深遠なところ。
それは「し」(しるし)を手に入れたのだ、
言葉を持ったのである。
だからです、
祈りが古来から連綿と続いてきたのは。
言葉の世界を生きてきた人間は、
同時に祈りの世界を生きてきた。
それは必然だった。
・・・・・
この標には商標と言うのもある。
商品(という物)に付けたしるしの札である。
それはレッテルとも言う。
もとはオランダ語らしい。
リベラル人士はレッテル貼りが好きなようだが、
そのレッテルである。
先に言葉は脳内に置いた目印である、と言った。
それに瘡蓋のようなものであるとも。
それならレッテルとも言えるだろう。
まあどうとでも言えるが。
つまりレッテルを貼るとは脳内に目印を置くことで、
さりながらレッテルは当然ながら実体ではないのだ。
それでも当初はレッテルは実体と呼応していたろう。
その限りでは実体とも言えるだろう。
だがあくまでも目印である。
無私の想像力と伴にあって初めて実体化する。
無私の想像力と伴にあって初めて意味が取れるのだ。
無私の想像力こそ人間の本源である。
それなのにレッテルが一人歩きする。
そしたらどうなる。
それは現況を見れば明らか。
何をか言わんや、
実に酷い有様だ。
誰が一体そんなことをしてるのか。
一つ、リベラル(言葉至上主義)
一つ、中華思想(自己絶対主義)
一つ、原理主義(言葉至上主義)
以上。
その力を何とかしようしたのがトランプである。
トランプが引いた今、何とも無残な状況である。
これから増々酷くなるだろう。
覚悟しておこう。
「しるべ」がある。
道標(みちしるべ)のしるべである。
この語句は、
道という字と木偏があるので、
木片などで作った目印であり、
道の行き先を示すものである。
しるべとは漢字で導とも記す。
この字の読みは「みちびき」だが「しるべ」とも読む。
その意は繋がっている。
それに標は「しるし」とも読む。
音韻としては同じでも、微妙に使い分けるのだ。
印・徴・標、などと。
動詞にも「し」があって、それは知るとも識るとも記す。
そこには共通の音韻「し」が関わっている。
かくて「し」はこれらすべての本源なのだ。
大和言葉は本源を忘れない。
その音韻で多くをあらわす。
根は同じでも微妙な違いを。
そして原初を残す。
・・・・・
前に言葉とは脳内に置いた目印だと言った。
その目印が問題を惹起する。
置いたはいいが、それ以外が不明だと気付くのです。
目印がなければそも一体で一つのものが、
目印を置けば置くほど不明が増えていく。
そして不安が大きくなる。
それを鎮めなければならない。
そこで出番となるのが祈りである。
祈りが言葉とともにある所以なのです。
では言葉を持たない生物に祈りはあるのか。
私の答えは、無い。
無いとは必要がない、のである。
彼の脳内に写った世界には濃淡はあっても目印はない。
だからそこに分断はないのである。
いつも世界と一体なのである。
あるがまま思うがまま生きる、
個体としては様々であっても。
そこには何があるのだろうか。
脳という物ではあるが、事としては何があるのか。
それを私は「無私の想像力」と言う。
以前は本能と言っていたのだが、
最近はそれをほとんど言わない。
だから私も言い方を変えました。
「無私の想像力」と。
なかなか気に入っている。
自画自賛!
人間にも有ったはずだ、それが。
今もあるだろう、目印と目印の間の空間には。
祈りとはまさにそこに焦点を当てるものです。
目印によって見失われたその存在が、
はっきりと浮かび上がるのです。
さすれば世界は一つになる。
脳内で我と世界が繋がれる。
楽園ではそうであったように。
もともとはそうであったのに。
それなのに神の禁忌を犯した。
禁断の智慧の実を食べたのだ。
それを智慧の実と言うのが、
聖書の意図の深遠なところ。
それは「し」(しるし)を手に入れたのだ、
言葉を持ったのである。
だからです、
祈りが古来から連綿と続いてきたのは。
言葉の世界を生きてきた人間は、
同時に祈りの世界を生きてきた。
それは必然だった。
・・・・・
この標には商標と言うのもある。
商品(という物)に付けたしるしの札である。
それはレッテルとも言う。
もとはオランダ語らしい。
リベラル人士はレッテル貼りが好きなようだが、
そのレッテルである。
先に言葉は脳内に置いた目印である、と言った。
それに瘡蓋のようなものであるとも。
それならレッテルとも言えるだろう。
まあどうとでも言えるが。
つまりレッテルを貼るとは脳内に目印を置くことで、
さりながらレッテルは当然ながら実体ではないのだ。
それでも当初はレッテルは実体と呼応していたろう。
その限りでは実体とも言えるだろう。
だがあくまでも目印である。
無私の想像力と伴にあって初めて実体化する。
無私の想像力と伴にあって初めて意味が取れるのだ。
無私の想像力こそ人間の本源である。
それなのにレッテルが一人歩きする。
そしたらどうなる。
それは現況を見れば明らか。
何をか言わんや、
実に酷い有様だ。
誰が一体そんなことをしてるのか。
一つ、リベラル(言葉至上主義)
一つ、中華思想(自己絶対主義)
一つ、原理主義(言葉至上主義)
以上。
その力を何とかしようしたのがトランプである。
トランプが引いた今、何とも無残な状況である。
これから増々酷くなるだろう。
覚悟しておこう。
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