ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

かたわら

2024-03-04 08:31:19 | 日記・エッセイ・コラム
言葉の最初は?
それは音(声)に違いなし。
それは命の音であり、命を養う音・命を繋ぐ音。
オトは耳で受けるが、同時に全身で受けるもの。
それは目と違って24時間あいている。
それはときに命の危機を知らせる。
全身全霊で発する命の音として。
その積み重ねが言葉の初めか。
してもその後には途方もない飛躍・飛翔が。
とかなんとかと思うのだが、
何とも陳腐な発想ではある。
でもその飛躍飛翔の基の力が分かりません。
それは人の力の結晶なのか、
さても神の力の賜物なのか。
てかどちらにしても神は関わっている。
そのかたわらで。
ときの言葉はまこと。
そこに嘘はなかった。
言葉は現実であった。
現実が言葉になった。
ゆえ神話から始まる。
・・・・・
皇室の主祭神である天照大神は、
我が子を諸々いきさつがあって、
その子の子を地上を治めるべく天下らせた。
有名な天孫降臨の話である。
ときに神はその子に3っつの神器を授けた。
三種の神器といい、鏡と剣と玉である。
その中で鏡には特に言葉が添えられた。
 この宝鏡を見ること、
 私を視るようにせよ。と、
天照大神はこれは私だとは言っていない、
あくまで「ようにせよ」なのです。
それにこの鏡は神の依代ではない。
既に神が宿っていると謂うべきか。
天照大神から見てもそこは同じか。
だから宝鏡と言うのだと。
しかしてそこに宿っている神とは、
すべての時すべての所に在るもの。
その「時と所」を私は「かたわら」と言う。
その名は「一にして全」を表わす。
しても鏡は見る者を写すもの。
ときに見るのは己自身である。
自分で自分は見えないのだが、
鏡はそれを写すのである。
そこにかたわらの神を伴って。
だから言ったのか我を視るようにせよ、と。
この我とは、
ゆえ天照大神であり鏡の宿神であり自分自神である。
その心は神に帰れであり、まことに帰れであろうと。
と勝手に思ってるのだが、
我田引水ここに極まれり、
ご容赦!
ところでですが、
すべてではないと思うが、
多くの神社では拝殿の正面に、
鏡が安置されている。
ならばです、
参拝すれば皆同じことになる、
ニニギノミコトと。
・・・・・
なぜかここで突然、
あの織田信長が登場する。
信長はときに癇癪持ちのように語られ、
あげくはそこに狂気があったかの様に。
その逸話は、
姉川の合戦の戦勝祝賀の宴で、
敵将浅井長政のしゃれこうべを盃にして、
酒を飲んだり飲ませたりとか、
妹お市の方の伴侶だったのに。
それに、
比叡山焼討ちでの件も、
僧兵だけでなく女子供でも容赦するなとか。
それに、
凡そ天下を手に入れて、
その証か安土城を建て、
その天守閣か次の間で、
己を写す鏡を見て「ここに神がいる」と呟いたとか。
まるで自分が神であるかのように。
なるほど挙げて見れば、
ちょっと狂気が感じられる。
でも話半分?てか半分もないかも。
最後のくだりはとくに。
そばで見ていた者がいたかのよう。
或いはしたり顔の作り話か。
でも私は思うのです、
これはニニギノミコトの振る舞いでは。と、
織田家はそも弾正家である。
江戸幕府で言えば大目付いや超大目付の役割であり、
右大臣左大臣を目付する役。
それに神官の家柄でもある。
想えば歴史はその大筋や流れに嘘はなかろう。
それはおいそれとは変えられない。
でも個別の事象はまた別物。
脚色や誇張それに捏造、それはもう何でもありかと。
思うにあれほどの事績を残した英雄である。
うつけや狂気で為せるはずもなし。
腹をくくらなければできないこと。
だから「覚悟」の人である。
そう思うのです。
ついでだが、明智光秀も。
どこまでも織田信長に従っていた。
それが最後の最後でどんでん返しである。
そして謀反の汚名を被った。
しかして以下も作り話か、
信長の最後の台詞「是非もなし」。
そも一蓮托生の上司と部下の間柄。
立場は違えど同士であったのです。
それを知ってのことか、この台詞。
ならあの謀反は敢えての汚名だったか。
光秀もまた「覚悟」の人であった、
ということか、
・・・・・
サピエンスは虚構で立った。
虚構は嘘ではない。
これは「ヒトの言葉の構え」である。
ヒトの言葉は神の言葉をまねたもの。
決して真にはなれない。
それを覚悟してこそ真に迫れる。
だから「構え」と謂う。
その構えを違えればウソとなる。
虚構を私はカタカナ語でフィクションと謂う。
フィクションはウソではない。
てかそも初めから真ではないとしている。
まことに天晴な心構え。
それをまた別の言葉で物語りと謂う。
虚構を立てるとは物語りを作ること。
その初めに神話がある。
すべてそこから始まる。
宗教・哲学・科学ほか諸々が生れる。
要するに、
すべてはかたわらの神からなのです。
まあそんなことです。
ところで先の信長の台詞・言葉、
「ここに神がいる」
「是非もなし」
これは虚構だとしても嘘ではないと、
そう思っている。
うん!

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