言葉の最初は?
それは音(声)に違いなし。
それは命の音であり、命を養う音・命を繋ぐ音。
オトは耳で受けるが、同時に全身で受けるもの。
それは目と違って24時間あいている。
それはときに命の危機を知らせる。
全身全霊で発する命の音として。
その積み重ねが言葉の初めか。
してもその後には途方もない飛躍・飛翔が。
とかなんとかと思うのだが、
何とも陳腐な発想ではある。
でもその飛躍飛翔の基の力が分かりません。
それは人の力の結晶なのか、
さても神の力の賜物なのか。
てかどちらにしても神は関わっている。
そのかたわらで。
ときの言葉はまこと。
そこに嘘はなかった。
言葉は現実であった。
現実が言葉になった。
ゆえ神話から始まる。
・・・・・
皇室の主祭神である天照大神は、
我が子を諸々いきさつがあって、
その子の子を地上を治めるべく天下らせた。
有名な天孫降臨の話である。
ときに神はその子に3っつの神器を授けた。
三種の神器といい、鏡と剣と玉である。
その中で鏡には特に言葉が添えられた。
この宝鏡を見ること、
私を視るようにせよ。と、
天照大神はこれは私だとは言っていない、
あくまで「ようにせよ」なのです。
それにこの鏡は神の依代ではない。
既に神が宿っていると謂うべきか。
天照大神から見てもそこは同じか。
だから宝鏡と言うのだと。
しかしてそこに宿っている神とは、
すべての時すべての所に在るもの。
その「時と所」を私は「かたわら」と言う。
その名は「一にして全」を表わす。
しても鏡は見る者を写すもの。
ときに見るのは己自身である。
自分で自分は見えないのだが、
鏡はそれを写すのである。
そこにかたわらの神を伴って。
だから言ったのか我を視るようにせよ、と。
この我とは、
ゆえ天照大神であり鏡の宿神であり自分自神である。
その心は神に帰れであり、まことに帰れであろうと。
と勝手に思ってるのだが、
我田引水ここに極まれり、
ご容赦!
ところでですが、
すべてではないと思うが、
多くの神社では拝殿の正面に、
鏡が安置されている。
ならばです、
参拝すれば皆同じことになる、
ニニギノミコトと。
・・・・・
なぜかここで突然、
あの織田信長が登場する。
信長はときに癇癪持ちのように語られ、
あげくはそこに狂気があったかの様に。
その逸話は、
姉川の合戦の戦勝祝賀の宴で、
敵将浅井長政のしゃれこうべを盃にして、
酒を飲んだり飲ませたりとか、
妹お市の方の伴侶だったのに。
それに、
比叡山焼討ちでの件も、
僧兵だけでなく女子供でも容赦するなとか。
それに、
凡そ天下を手に入れて、
その証か安土城を建て、
その天守閣か次の間で、
己を写す鏡を見て「ここに神がいる」と呟いたとか。
まるで自分が神であるかのように。
なるほど挙げて見れば、
ちょっと狂気が感じられる。
でも話半分?てか半分もないかも。
最後のくだりはとくに。
そばで見ていた者がいたかのよう。
或いはしたり顔の作り話か。
でも私は思うのです、
これはニニギノミコトの振る舞いでは。と、
織田家はそも弾正家である。
江戸幕府で言えば大目付いや超大目付の役割であり、
右大臣左大臣を目付する役。
それに神官の家柄でもある。
想えば歴史はその大筋や流れに嘘はなかろう。
それはおいそれとは変えられない。
でも個別の事象はまた別物。
脚色や誇張それに捏造、それはもう何でもありかと。
思うにあれほどの事績を残した英雄である。
うつけや狂気で為せるはずもなし。
腹をくくらなければできないこと。
だから「覚悟」の人である。
そう思うのです。
ついでだが、明智光秀も。
どこまでも織田信長に従っていた。
それが最後の最後でどんでん返しである。
そして謀反の汚名を被った。
しかして以下も作り話か、
信長の最後の台詞「是非もなし」。
そも一蓮托生の上司と部下の間柄。
立場は違えど同士であったのです。
それを知ってのことか、この台詞。
ならあの謀反は敢えての汚名だったか。
光秀もまた「覚悟」の人であった、
ということか、
・・・・・
サピエンスは虚構で立った。
虚構は嘘ではない。
これは「ヒトの言葉の構え」である。
ヒトの言葉は神の言葉をまねたもの。
決して真にはなれない。
それを覚悟してこそ真に迫れる。
だから「構え」と謂う。
その構えを違えればウソとなる。
虚構を私はカタカナ語でフィクションと謂う。
フィクションはウソではない。
てかそも初めから真ではないとしている。
まことに天晴な心構え。
それをまた別の言葉で物語りと謂う。
虚構を立てるとは物語りを作ること。
その初めに神話がある。
すべてそこから始まる。
宗教・哲学・科学ほか諸々が生れる。
要するに、
すべてはかたわらの神からなのです。
まあそんなことです。
ところで先の信長の台詞・言葉、
「ここに神がいる」
「是非もなし」
これは虚構だとしても嘘ではないと、
そう思っている。
うん!
それは音(声)に違いなし。
それは命の音であり、命を養う音・命を繋ぐ音。
オトは耳で受けるが、同時に全身で受けるもの。
それは目と違って24時間あいている。
それはときに命の危機を知らせる。
全身全霊で発する命の音として。
その積み重ねが言葉の初めか。
してもその後には途方もない飛躍・飛翔が。
とかなんとかと思うのだが、
何とも陳腐な発想ではある。
でもその飛躍飛翔の基の力が分かりません。
それは人の力の結晶なのか、
さても神の力の賜物なのか。
てかどちらにしても神は関わっている。
そのかたわらで。
ときの言葉はまこと。
そこに嘘はなかった。
言葉は現実であった。
現実が言葉になった。
ゆえ神話から始まる。
・・・・・
皇室の主祭神である天照大神は、
我が子を諸々いきさつがあって、
その子の子を地上を治めるべく天下らせた。
有名な天孫降臨の話である。
ときに神はその子に3っつの神器を授けた。
三種の神器といい、鏡と剣と玉である。
その中で鏡には特に言葉が添えられた。
この宝鏡を見ること、
私を視るようにせよ。と、
天照大神はこれは私だとは言っていない、
あくまで「ようにせよ」なのです。
それにこの鏡は神の依代ではない。
既に神が宿っていると謂うべきか。
天照大神から見てもそこは同じか。
だから宝鏡と言うのだと。
しかしてそこに宿っている神とは、
すべての時すべての所に在るもの。
その「時と所」を私は「かたわら」と言う。
その名は「一にして全」を表わす。
しても鏡は見る者を写すもの。
ときに見るのは己自身である。
自分で自分は見えないのだが、
鏡はそれを写すのである。
そこにかたわらの神を伴って。
だから言ったのか我を視るようにせよ、と。
この我とは、
ゆえ天照大神であり鏡の宿神であり自分自神である。
その心は神に帰れであり、まことに帰れであろうと。
と勝手に思ってるのだが、
我田引水ここに極まれり、
ご容赦!
ところでですが、
すべてではないと思うが、
多くの神社では拝殿の正面に、
鏡が安置されている。
ならばです、
参拝すれば皆同じことになる、
ニニギノミコトと。
・・・・・
なぜかここで突然、
あの織田信長が登場する。
信長はときに癇癪持ちのように語られ、
あげくはそこに狂気があったかの様に。
その逸話は、
姉川の合戦の戦勝祝賀の宴で、
敵将浅井長政のしゃれこうべを盃にして、
酒を飲んだり飲ませたりとか、
妹お市の方の伴侶だったのに。
それに、
比叡山焼討ちでの件も、
僧兵だけでなく女子供でも容赦するなとか。
それに、
凡そ天下を手に入れて、
その証か安土城を建て、
その天守閣か次の間で、
己を写す鏡を見て「ここに神がいる」と呟いたとか。
まるで自分が神であるかのように。
なるほど挙げて見れば、
ちょっと狂気が感じられる。
でも話半分?てか半分もないかも。
最後のくだりはとくに。
そばで見ていた者がいたかのよう。
或いはしたり顔の作り話か。
でも私は思うのです、
これはニニギノミコトの振る舞いでは。と、
織田家はそも弾正家である。
江戸幕府で言えば大目付いや超大目付の役割であり、
右大臣左大臣を目付する役。
それに神官の家柄でもある。
想えば歴史はその大筋や流れに嘘はなかろう。
それはおいそれとは変えられない。
でも個別の事象はまた別物。
脚色や誇張それに捏造、それはもう何でもありかと。
思うにあれほどの事績を残した英雄である。
うつけや狂気で為せるはずもなし。
腹をくくらなければできないこと。
だから「覚悟」の人である。
そう思うのです。
ついでだが、明智光秀も。
どこまでも織田信長に従っていた。
それが最後の最後でどんでん返しである。
そして謀反の汚名を被った。
しかして以下も作り話か、
信長の最後の台詞「是非もなし」。
そも一蓮托生の上司と部下の間柄。
立場は違えど同士であったのです。
それを知ってのことか、この台詞。
ならあの謀反は敢えての汚名だったか。
光秀もまた「覚悟」の人であった、
ということか、
・・・・・
サピエンスは虚構で立った。
虚構は嘘ではない。
これは「ヒトの言葉の構え」である。
ヒトの言葉は神の言葉をまねたもの。
決して真にはなれない。
それを覚悟してこそ真に迫れる。
だから「構え」と謂う。
その構えを違えればウソとなる。
虚構を私はカタカナ語でフィクションと謂う。
フィクションはウソではない。
てかそも初めから真ではないとしている。
まことに天晴な心構え。
それをまた別の言葉で物語りと謂う。
虚構を立てるとは物語りを作ること。
その初めに神話がある。
すべてそこから始まる。
宗教・哲学・科学ほか諸々が生れる。
要するに、
すべてはかたわらの神からなのです。
まあそんなことです。
ところで先の信長の台詞・言葉、
「ここに神がいる」
「是非もなし」
これは虚構だとしても嘘ではないと、
そう思っている。
うん!
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