ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

漢字

2024-06-17 06:18:42 | 日記・エッセイ・コラム
日本の教育は俗に言われている、
一言で「読み書きそろばん」と。
まことにまことに。
読みとは素読であり声(音)に出して読むこと。
書きとは字を習うこと、つまり習字であります。
教育はすぐれて脳に関わるもの、
してもこれら二つは體に始まる。
ここに本質的な<こと>がある。
ここで習うのは漢字とひらがな。
この習字が特殊と言うか珍しい。
単に字を覚えるだけではないと。
その先に美をも追及する。
それを書道と言う。
しても漢字を実に我がものとしている。
漢の字と言ってはいるが、
もはや日本語そのものに。
不可思議、
まかまか、
・・・・・
漢字が凄いのは絵的記号であること、
漢字が凄いのは記号的絵であること。
どうとでも言えるのだが、
要するに記号ではないと。
言葉は體が発するのだが、
それが特異なのは體から離れたとき、
ときの場では言霊が乗っており現実、
してもときが経てば現実から離れる。
それは一般化し抽象(概念)化する。
それが脳内に蓄積される。
蓄積して利用するは良し、
でも脳がそれに縛られる。
これが大問題なのである。
記号(文字)はそれを助長するのだ。
文字とは基本的に聞く音を見る音にするもの。
それを世間は表音文字と言っている。
ときに抽象化が促進されるのである。
これが言葉の力を大幅に向上させる。
ところで表意文字だがこれは音に捉われない。
それが漢字だがもともとは大陸に起源がある。
そこは広くいろんな人が住んでいた。
しても話し言葉は結構違っていたと。
さりながら漢字は使っていたようで。
その大陸を最初に統一したのが秦の始皇帝で、
彼はその王朝を支配するためそれを利用した。
漢字をひとつに纏めて全国で使用することに。
音が違っていても意味が通じるよう。
これが漢字の凄いところ。
見て意味が分かるのです。
これは世界で只一つかも。
ちなみにエジプトのヒエログリフは、
象形文字と言われており、
それは絵そのものがその意を表わす絵文字で、
そこから始まって漢字と同じ表意文字になり、
さらには表音文字としても使われた。
文字の歴史を体現するが如しである。
でも今は使われていない。
知る限りでは表意文字は漢字だけか。
しても簡体字はどうにも馴染めない。
てかまあお好きなように
・・・・・
ところで習字で習うのは、
ひらがなに始まり主には漢字である。
ここにも意味があるかと。
漢字は一字一意であるが、
ひらがなも同様なのです。
日本語には50音あるが、
これは一音一意であると。
ゆえに文字にすれば漢字に同じかと。
ちなみにカナもあるがこれは習わないのです。
ここにも意味があろうと。
カナは専ら音に宛てているかのよう。
一音一意はかなに任せて。
そのように棲み分けしているのかも。
それにカナは崩して書くには不向き。
そもそういう習慣がない。
だからか昨今はそこに新たな役割が加わった。
それは欧米語を音のまま写すことに。
発想は悪くないのですが、
その氾濫ぶりを見るに余りに安直すぎて不快。
まるでどこからか故意に仕組まれてるかの様。
それに比すれば幕末時に創られた漢字熟語は、
字義の吟味とその宛て方が実に秀逸であった。
思えば漢字はそれほど日本語に馴染んでいた。
てか完全に日本語化していたのです。
それにしても不可思議なことがある。
漢字はその字義やその在り方がそも、
日本人の思いに深く根差していると。
その筆頭が神という字に。
それは示して申すである。
それを以って「かみ」と
もう一つは船という字に。
これはその素は舟である。
そこに八の口があるのだ。
人としては八人が乗った、
あのノアの箱舟のことか。
ともにこれは聖書にあり。
漢字の始まりの始まりは知らない、
でもその成り立ちには聖書が関わっている、
としか思えない。
・・・・・
起源を語るものに起源はない、
起源はその起源を語らず、
てか語る必要がない。
今のところその起源はシナの殷王朝にあると。
そこでの卜占に始まると。
してもここに古史古伝がある。
そこに「殷元これ倭国なり」とある。
これは「契丹古伝」と言われるもの。
偽書とも言われているがそれは疑問、
それは書いた者にしか分かりません。
それと漢字を一つに纏めたと謂われる秦王朝、
この王朝はその後短命に終わったが、
その一族郎党の多くは他所へ移った。
それが日本だとも。
秦氏はそれを言う。
知る者は知るだが、
にしてもその信憑性は定かではない。
でも失われたパーツがここには集まっている。
それが埋まっていくのだ。
てか私の中での話ですが、
ん?