ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

障り

2021-03-08 08:48:15 | 日記・エッセイ・コラム
不思議なことに日本は、
聖書を持たないのに聖書的世界を、
生きている。
そう思わざるを得ない。
戦国時代や明治時代には外の世界が押し寄せ、
それと同時にキリスト教がやってきた。
紆余曲折はあったが、結局それほど伸びなかった。
それは敗戦後もである。
なぜ伸びないのだろう。
それはたぶん、
その精神が既にあったからだろう。
そうとしか思えない。
・・・・・
ところで聖書には障りがあると、
前に記した。
聖書(旧約)の初めは神話である。
天地創造から始まり楽園の追放へと…。
神話とはつまりは物語であり、
言葉を持った人間にとっての、
時を圧縮した魂の物語である。
それは原初の歴史とも言える。
その点で言えば、
聖書(旧約)と古事記・日本書紀は同じ構図にある。
聖書は預言者の言葉を中心に記されているが、
いわばイスラエルの歴史でもある。
それに詩編と言われるものもあり、
それはどこか万葉集にも似ている。
ところで障りだが、
それは男と女の関係性に先後(上下)を示していること、
それと罪を強調するところにある、
と思考する。
それが罪の結果の罰として、
男には労働を女には出産という苦痛を与えた、
ということに繋がる。
聖書を残した人たちの思いの表現だろうが、
今にして思えば誤解を与えている。
聖書もコーランと同様で、
神の言葉が記されていると言われるが、
それは否定しないが、
コーランと同じく、
神の言葉そのもので記されてはいない、
あくまで人の言葉で記されているのだ、
もとが神の言葉であっても。
・・・・・
それに引き換え対照的なのが、
日本の神話である。
日本の神話は人が記している。
古よりの伝承をあらためて文字に起こしたものである。
ときの天皇の命により。
それは神代から始まるが、
神と人とは分断されていない、
神代と人世は繋がっているのです。
そもすべてが神の創造なら、
神の子が神であるように、
すべての存在は神的なのだ。
勿論人間だけではない。
すべての存在が神的なのだ。
そういう思想である。
ちなみに、
だから日本は神国と言うのである。
これは事実である。
心魂の事実である。
それに前にも記したが、
男女に先後上下の別はない。
それどころかすべての存在に上下はない。
すべては神の手の中で平等なのだ。
犬や猫もそれに虫たちも。
それが根底にある。
・・・・・
障りとは以上のゆえ。
だがこれは聖書を残した人の思いとは限らない。
勿論残されたのは事実だ。
しかしてその思いは別にして、
それをどう受け取るかは後の者次第である。
ということで、
現下の受け取りようには、
障りがあると思っている。
これが欧米や中東における男女差別の因でもあり、
ここに男女同権運動の起りがある。
これは日本にはそも不要なものだ。
にも関わらず踊らされてる馬鹿がいる。
男は口を出しにくいから、
多くは女性であるが、
これは女が女を馬鹿にする運動に如かず。
個人名を出すのはどうかと思うが、
蓮舫とか辻本とか野田とか…。
まあ気にしないで下さい。
てか心配など無用だろう。

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