ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

面従腹背

2017-07-09 13:25:13 | 日記・エッセイ・コラム
面従腹背で思い出したが、
例の前川喜平氏が記者会見で、
堂々と言ったとか。
本来は余り良い言葉ではない。
人々に広言するのはどうかと思う。
自身の心底に留めておけば未だしも。
辞めたから言わせたのか、そも人品が疑われる。
しかもそれが文科省である。
教育に携わる機関なのだ。
そこの事務次官であったのに…。
・・・・・
考えてみれば、面従腹背なんてどこにでもある。
人が集まって組織ができれば、皆が皆よろしきとはならない。
割を食う人もいるだろう。
組織(の権限者)の意向なら断れない。
厭なら「否」と言えばいいのだが。
力や理をもって迫られたら、そうもいかないだろう。
皆生活が懸かってるのだ。
それを前向きにこなす人もいるだろう。
それを渋々認める人もいるだろう。
中には表向きは認めても裏で舌を出してる人もいるだろう。
最悪なのは陰で足を引っ張る人である。
これが完全な面従腹背である。
でもまあ面従腹背的なことは普通にあるだろう。
人が集まればそういうことになる。
世の中は世知辛いのだ。
・・・・・
日本は「まこと」の国である。
嘘を嫌うのだ。
だから「ハイ」と言えば「ハイ」である。
それを「ハイ」と言って、裏で「イナ」とは最悪だ。
他人は騙せても自分は騙せない。
自分を否定し認められなくなる。
そも「イナ」なら最初から「イナ」を通すべし。
「ハイ」なら少なくとも「イナ」は引っ込める。
積極的でなくとも、少なくとも認めるべし。
それが「ハイ」の覚悟である。
日本人の「まこと」をもってすれば面従腹背はありえない。
面従腹背的なことはあるだろうが。
知っての通りシナ・朝鮮では普通にある。
彼らには「まこと」がない。
嘘と本当の区別がないのだ。
自分の都合しかない。
だから面従腹背というのは日常である。
騙される方が悪いという常識がある所以だ。
まあそういうことだ。
・・・・・
さりながら、
勿論、
シナ人・朝鮮人にも少しは「まこと」が残されている。
彼らの厳しい歴史の中であらかた壊されてしまったが。
それはそうだが、
人科の単一種(ホモサピエンス)としての遠い昔の名残なのか、
まったく無くなった訳ではなさそうだ。
なので「まこと」の人もいるのだ、それなりに。
それはつまり、
日本人もいろいろ、
シナ人もいろいろ、
朝鮮人もいろいろ、
ということだ。
それに付けても、政治の世界は恐ろしい。
魑魅魍魎が跋扈する…、
桑原桑原!






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