ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

うた

2024-06-10 13:35:08 | 日記・エッセイ・コラム
ここに心地の良い波動がある。
音にもいろいろあるから。
それを音楽と言っている。
音には声(言葉)もある。
それを歌(うた)と謂う。
日本は言霊の幸はふ国であり、
声音の国であり歌う国である。
歌は声であり言葉であり祈りである。
ゆえに祈り人である陛下は歌い人でもある。
皇族の方々も同様である。
時の折々に歌われている。
年の初めの歌会始もそれ。
そこでは陛下や皇族の方々や、
それに国民も挙って応募して。
歌にもいろいろあるのですが、
これは和歌と言わるれもので、
いにしえからの由緒あるもの。
まさに歌う国であります。
・・・・・
もともと和歌にはそれほど思い入れはなかった。
でも言葉の不可思議に想い致す中で、
思うところがいろいろ。
そんな中で思い浮かぶ歌がチラホラ。
それは学校教育で教わったもの。
てかそれ以外はありません。
そんなに多くはないが、
それにすべて覚えてる訳ではないが、
心に残っているものが。
その一つ、
敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花、
本居宣長の歌です。
真っ先に浮かぶ歌です。
これは真正面で真っ直ぐに大和心を歌っている。
それは桜であり、
これを美しさではなく、
匂うと歌うのです、
それも朝日がそうさせると、
まあそういう歌。
これは以前言ったイロハ歌に寄っている。
宣長翁は意識していたかは知らない。
でも意識なき意識は確実にあったと。
いろは歌の頭句とまさに共振共鳴しているのです。
色は匂えど散りぬるを…、
色とは光(日)の綾、
これは物が発する光、
直接でない間接の光、
もとは日の光である、
光は本当は見えない、
見えるのは物である、
だから色は物である、
それが散るのである、
それはやはり桜花か、
てかとか。
このイロハ歌も50音表であり、
まさに波動であり言霊であると。
彼の歌はこれにまったき共振共鳴している。
しかもそれを匂うと言う。
朝日に匂うと言うのです。
完全なる共鳴、
畏るべしかな。
・・・・・
もう一つ、
海恋し潮の遠鳴り数えては乙女となりし父母の家、
与謝野晶子の歌です。
その時には特に勧興はなかった。
それが最近よく思い出すのです。
女性を出汁にしたリベラルの嘘のせいかも。
それはともかくもこの歌のこと。
これは悠久の生命を歌っている。
晶子嬢の想いは知らず、
私はそう想うのである。
生命はそも海で生まれたとか、
それが進化して陸上に上がる、
徐々に上がってなお進化する。
そして哺乳類が現われ、
ついに人類が登場する。
これは雌雄で命を繋ぐ。
それが父母なのである。
でも生むのは雌である。
それを人は乙女と言う。
そして乙女は母となる。
その事の場が父母の家。
そんなことを私は想うのです。
これをまとめて言えば、
それは悠久の生命を歌っていると、
それを和歌という衣裳を着て、
それも又みごとに着こなして。
それが心魂に染み入る。
畏れいります。
でも思うのである、
ここにはLGBT~の出番はない。
それは仕方のないこと。
でも出番は必ずあると。
命の使命は命を繋ぐことただひとつ。
為にすべての命があるのです。
直接的に為せなくとも。
それを疑わない。
女性はみんな生みの人である。
でもときに産めない人もいる。
それでも皆かけがえなき存在。
それに男も必要である。
そこには二つのことが。
一つは言わずもがなか。
一つはかけがえなきものを守るため。
そんなこんなを含めて、
命は繋がれてきたのだ。
この歌にはその響きが。
その響きを想う。
・・・・・
言葉はそも響きである。
歌はまさにその響きそのもの。
それは人の體に届けられる。
そして人の體を包み込む。
包み込んでも縛らない。
その受け方は自由なのです。
それに比べれば、
理屈は実に厄介である。
これは一重に脳に届けられる。
一重に脳にである。
ここに危険がある。
この脳化社会の今。
それは脳を超えて體をも縛る。
それは現実を縛るに同じこと。
そして終には現実を否定する。
注意が必要な訳である。
そも理屈は手段である。
目的的なこともあるが。
しても目的は絶対化しやすい。
この絶対化こそが一番の危険。
概念の絶対化は危険なのです。
それに比べれば、
歌は素晴らしい。
万葉の時代から今に至るまで、
歌う国・祈りの国の日本には、
色んな歌がある。
今世界的にも人気があるのは、
アニソンにシティポップてか。
ところで、
この今まさに聞いている、
鶫が奏でる歌声を、
良きかな、
良きかな、