自由は知ってるがフリーダムは知らない。
自由とはフリーダムに当てる言葉として、
幕末頃に創られたらしい。
これに限らず欧米の新しい概念を和語に取り入れるため、
他にも膨大な言葉が創られた。
漢字の字義を吟味して主として二字熟語として。
それが日本の近代化に大いに貢献した。
それは日本だけに留まらない。
シナ朝鮮もその恩恵を受けた。
自由もその中の一つであった。
起源はともかく、
漢字は日本の文字になっているのだ。
だから安易にカタカナ語で代用しなかった。
意味・内容を十分考え抜いて、
相応しい文字を当てたのです。
・・・・・
辞書では、
自由とは自分の意のままに振る舞うこと、
勝手気ままなこと、
などと…。
これってフリーダムのことでは。
自由とはそんなものではないと、
…私は思っている。
日本には奴隷はいなかったのだ。
それは鎖に繋がれて働かされるようなイメージだが、
そんな人はいなかった。
犯罪ならともかく、公にはいなかった。
よって辞書の説明は、
奴隷が前提の社会でのことかと、
つまり自由ではなくフリーダムのこと。
でもフリーダムに自由と謂う文字を当てたのだから、
間違ってるとも言えない。
それはそうだが。
なら自由とは?
日本人の言う自由とは?
ここからは私の言葉遊び。
てか既に言っていること。
この世界(宇宙)は、
言わずもがな皆繋がっている。
存在するものは皆繋がっているのです。
これが大前提。
そこで自由を下記のごとく言った、
競争と協調の狭間で自分を見つけること、と。
競争も協調も存在の一局面だから、
存在と存在の狭間で自分を見つけること、に同じ。
これはどういうことだ。
存在するものはすべて繋がっている筈?
ということは、
存在という分けられないものを、
実としては分けられないものを、
敢えて分けるからか。
さすればそこに隙間ができる。
そこに自分がいるのか。
分けた張本人である自分がである。
なら自分が自分を見ることになる。
そしてそれは自分を知ることにも。
ときに自分が自分である由を知る。
それが自由なのか。
なら辞書の説明とはかなり違う。
でもそれが日本人の自由である。
字義を捉えればそう謂うことに。
ちなみに、
競争と協調と言ったのは、
自然界の生命の在り方がその様だから。
総じて言えば調和だろう。
ところで、
これらすべては言葉の為せる技。
だからそれを考慮すれば以下の表現に。
自由とは言葉を持った人間が、
それ故ものごとに線を引くことになり、
そこにできた隙間を繋ぐ必要・必然に迫られる。
それを繋ぐには別の存在が必要になる。
そこには自分という存在しかなかった。
だから自分をその隙間に置いた。
ときに自分が自分を見たのです。
そこで自分を知ることに。
そして自分が自分であることの由を。
それが自由である。
言葉を持たない生き物は、
線を引かないから自由は必要ない。
あらためて自分を知る必然はないのです、
ただまんまに在ればいいだけで。
でも人は線を引いてしまった。
だから自由が必要になった。
人を人間と言う所以かも。
それを知っていたのか、
畏るべしかな日本人。
・・・・・
かくのごとく、
日本はもとより自由の国であるが、
そしてフリーダムも知っているが、
多くの人は違いを分かっていない。
或いは騙されているのか。
それはさておき、
こういう例はほかにもあるだろう。
例えば民主主義とデモクラシーもそうかと。
思えば言語は、
聖書に問えばもとは一つなのだが、
それが多くに分かれてしまったと。
だから言語間には当然重なる部分があるが、
ときが経てば経つほど別物となる。
そうなれば直訳では無理が生じる。
ゆえに苦労して置き換える。
それを翻訳と言う。
それにも限界があろう。
なら同じ言語の別の語彙・構文だと思えばいい。
それなら問題はない。
語学が得意な人は多分これだろう。
でも才能が必要で凡人には無理だ。
とりわけ私のような語学音痴には。
やはり最後は翻訳に頼るしかない。
ときに日本語の凄さがあらわれる。
どんなものでも翻訳できてしまう。
漢字には大きな造語力があるのだ。
カタカナはやすやすと言葉を創る。
日本語は言葉のブラックホールだ。
でもそれゆえに注意が必要になる。
言葉に流されると騙されてしまう。
おっと、
なんか話がそれてきた、
ここらで一休み…。
うん!
自由とはフリーダムに当てる言葉として、
幕末頃に創られたらしい。
これに限らず欧米の新しい概念を和語に取り入れるため、
他にも膨大な言葉が創られた。
漢字の字義を吟味して主として二字熟語として。
それが日本の近代化に大いに貢献した。
それは日本だけに留まらない。
シナ朝鮮もその恩恵を受けた。
自由もその中の一つであった。
起源はともかく、
漢字は日本の文字になっているのだ。
だから安易にカタカナ語で代用しなかった。
意味・内容を十分考え抜いて、
相応しい文字を当てたのです。
・・・・・
辞書では、
自由とは自分の意のままに振る舞うこと、
勝手気ままなこと、
などと…。
これってフリーダムのことでは。
自由とはそんなものではないと、
…私は思っている。
日本には奴隷はいなかったのだ。
それは鎖に繋がれて働かされるようなイメージだが、
そんな人はいなかった。
犯罪ならともかく、公にはいなかった。
よって辞書の説明は、
奴隷が前提の社会でのことかと、
つまり自由ではなくフリーダムのこと。
でもフリーダムに自由と謂う文字を当てたのだから、
間違ってるとも言えない。
それはそうだが。
なら自由とは?
日本人の言う自由とは?
ここからは私の言葉遊び。
てか既に言っていること。
この世界(宇宙)は、
言わずもがな皆繋がっている。
存在するものは皆繋がっているのです。
これが大前提。
そこで自由を下記のごとく言った、
競争と協調の狭間で自分を見つけること、と。
競争も協調も存在の一局面だから、
存在と存在の狭間で自分を見つけること、に同じ。
これはどういうことだ。
存在するものはすべて繋がっている筈?
ということは、
存在という分けられないものを、
実としては分けられないものを、
敢えて分けるからか。
さすればそこに隙間ができる。
そこに自分がいるのか。
分けた張本人である自分がである。
なら自分が自分を見ることになる。
そしてそれは自分を知ることにも。
ときに自分が自分である由を知る。
それが自由なのか。
なら辞書の説明とはかなり違う。
でもそれが日本人の自由である。
字義を捉えればそう謂うことに。
ちなみに、
競争と協調と言ったのは、
自然界の生命の在り方がその様だから。
総じて言えば調和だろう。
ところで、
これらすべては言葉の為せる技。
だからそれを考慮すれば以下の表現に。
自由とは言葉を持った人間が、
それ故ものごとに線を引くことになり、
そこにできた隙間を繋ぐ必要・必然に迫られる。
それを繋ぐには別の存在が必要になる。
そこには自分という存在しかなかった。
だから自分をその隙間に置いた。
ときに自分が自分を見たのです。
そこで自分を知ることに。
そして自分が自分であることの由を。
それが自由である。
言葉を持たない生き物は、
線を引かないから自由は必要ない。
あらためて自分を知る必然はないのです、
ただまんまに在ればいいだけで。
でも人は線を引いてしまった。
だから自由が必要になった。
人を人間と言う所以かも。
それを知っていたのか、
畏るべしかな日本人。
・・・・・
かくのごとく、
日本はもとより自由の国であるが、
そしてフリーダムも知っているが、
多くの人は違いを分かっていない。
或いは騙されているのか。
それはさておき、
こういう例はほかにもあるだろう。
例えば民主主義とデモクラシーもそうかと。
思えば言語は、
聖書に問えばもとは一つなのだが、
それが多くに分かれてしまったと。
だから言語間には当然重なる部分があるが、
ときが経てば経つほど別物となる。
そうなれば直訳では無理が生じる。
ゆえに苦労して置き換える。
それを翻訳と言う。
それにも限界があろう。
なら同じ言語の別の語彙・構文だと思えばいい。
それなら問題はない。
語学が得意な人は多分これだろう。
でも才能が必要で凡人には無理だ。
とりわけ私のような語学音痴には。
やはり最後は翻訳に頼るしかない。
ときに日本語の凄さがあらわれる。
どんなものでも翻訳できてしまう。
漢字には大きな造語力があるのだ。
カタカナはやすやすと言葉を創る。
日本語は言葉のブラックホールだ。
でもそれゆえに注意が必要になる。
言葉に流されると騙されてしまう。
おっと、
なんか話がそれてきた、
ここらで一休み…。
うん!
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