ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

自由(と身分)

2023-01-09 08:59:59 | 日記・エッセイ・コラム
自由は知ってるがフリーダムは知らない。
自由とはフリーダムに当てる言葉として、
幕末頃に創られたらしい。
これに限らず欧米の新しい概念を和語に取り入れるため、
他にも膨大な言葉が創られた。
漢字の字義を吟味して主として二字熟語として。
それが日本の近代化に大いに貢献した。
それは日本だけに留まらない。
シナ朝鮮もその恩恵を受けた。
自由もその中の一つであった。
起源はともかく、
漢字は日本の文字になっているのだ。
だから安易にカタカナ語で代用しなかった。
意味・内容を十分考え抜いて、
相応しい文字を当てたのです。
・・・・・
辞書では、
自由とは自分の意のままに振る舞うこと、
勝手気ままなこと、
などと…。
これってフリーダムのことでは。
自由とはそんなものではないと、
…私は思っている。
日本には奴隷はいなかったのだ。
それは鎖に繋がれて働かされるようなイメージだが、
そんな人はいなかった。
犯罪ならともかく、公にはいなかった。
よって辞書の説明は、
奴隷が前提の社会でのことかと、
つまり自由ではなくフリーダムのこと。
でもフリーダムに自由と謂う文字を当てたのだから、
間違ってるとも言えない。
それはそうだが。
なら自由とは?
日本人の言う自由とは?
ここからは私の言葉遊び。
てか既に言っていること。
この世界(宇宙)は、
言わずもがな皆繋がっている。
存在するものは皆繋がっているのです。
これが大前提。
そこで自由を下記のごとく言った、
競争と協調の狭間で自分を見つけること、と。
競争も協調も存在の一局面だから、
存在と存在の狭間で自分を見つけること、に同じ。
これはどういうことだ。
存在するものはすべて繋がっている筈?
ということは、
存在という分けられないものを、
実としては分けられないものを、
敢えて分けるからか。
さすればそこに隙間ができる。
そこに自分がいるのか。
分けた張本人である自分がである。
なら自分が自分を見ることになる。
そしてそれは自分を知ることにも。
ときに自分が自分である由を知る。
それが自由なのか。
なら辞書の説明とはかなり違う。
でもそれが日本人の自由である。
字義を捉えればそう謂うことに。
ちなみに、
競争と協調と言ったのは、
自然界の生命の在り方がその様だから。
総じて言えば調和だろう。
ところで、
これらすべては言葉の為せる技。
だからそれを考慮すれば以下の表現に。
自由とは言葉を持った人間が、
それ故ものごとに線を引くことになり、
そこにできた隙間を繋ぐ必要・必然に迫られる。
それを繋ぐには別の存在が必要になる。
そこには自分という存在しかなかった。
だから自分をその隙間に置いた。
ときに自分が自分を見たのです。
そこで自分を知ることに。
そして自分が自分であることの由を。
それが自由である。
言葉を持たない生き物は、
線を引かないから自由は必要ない。
あらためて自分を知る必然はないのです、
ただまんまに在ればいいだけで。
でも人は線を引いてしまった。
だから自由が必要になった。
人を人間と言う所以かも。
それを知っていたのか、
畏るべしかな日本人。
・・・・・
かくのごとく、
日本はもとより自由の国であるが、
そしてフリーダムも知っているが、
多くの人は違いを分かっていない。
或いは騙されているのか。
それはさておき、
こういう例はほかにもあるだろう。
例えば民主主義とデモクラシーもそうかと。
思えば言語は、
聖書に問えばもとは一つなのだが、
それが多くに分かれてしまったと。
だから言語間には当然重なる部分があるが、
ときが経てば経つほど別物となる。
そうなれば直訳では無理が生じる。
ゆえに苦労して置き換える。
それを翻訳と言う。
それにも限界があろう。
なら同じ言語の別の語彙・構文だと思えばいい。
それなら問題はない。
語学が得意な人は多分これだろう。
でも才能が必要で凡人には無理だ。
とりわけ私のような語学音痴には。
やはり最後は翻訳に頼るしかない。
ときに日本語の凄さがあらわれる。
どんなものでも翻訳できてしまう。
漢字には大きな造語力があるのだ。
カタカナはやすやすと言葉を創る。
日本語は言葉のブラックホールだ。
でもそれゆえに注意が必要になる。
言葉に流されると騙されてしまう。
おっと、
なんか話がそれてきた、
ここらで一休み…。
うん!

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