ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

身分(と自由)

2023-01-16 10:24:41 | 日記・エッセイ・コラム
身分は「みぶん」と読むが、
これは「みわけ」や「しんぶん」とも読める。
そも「みぶん」とは重箱読みであり、
訓読みと音読みがまざっている。
まぁここでの話とは関係がない。
あくまで余談である。
・・・・・
表題の身分と自由、
この二つは切っても切れぬ関係にある。
それに漸く気づいたのです。
それはやはり字義からです。
身とは自身であり、分とは分けること。
身をその部位に分けるのではない。
身の集合体である世間(社会)の中で、
その身を仕分けして認識するもの。
そもすべての存在は単体では存在できない。
身も単体では存在できない。
身は身(の集合)の中でしか存在できない。
全体の中での部分なのです。
さながら部分には部分としての役割がある。
それを身分と謂う。
その身分はなぜその身分なのか。
その身分はどこで決まったのか。
その身分は一体誰が決めたのか。
そこに肝がある。
思うにその中心には自由がある。
自身のことは自身で決める、と。
自分の由がそれに当たるのだが、
それは言葉により創られたもの。
先にも言ったように、
自分があるのは、
親があり、親族があり、世間があるから。
父母から生まれ、
父母に育てられ、
父母に教えられ、
それも世間があってこそ、
その中でのこと。
自分が自分である由も結局はそこにある。
そういうことと。
そこで身分だが、
それを職業とするなら、
当然に分かるだろうが、
それを希望したとして、
皆が同じ職業に就くことはできない。
それでは社会が成り立たない。
ときの状況からは逃れられないのだ。
そこでは選択は限られてくる。
例えば江戸時代。
農民が少なくとも7割以上か。
だから農民の子は大抵農民になる。
子沢山で養えなければ、
ときによそへ出ていく。
ときに身分も変わると。
それは武士も同じこと。
社会が安定的に推移していれば尚更に。
基本的には親の職業を継ぐのです。
それを家督を継ぐという。
それは自由を縛るのではない、
それは自由の結果としてある。
実際のところは、
事情は複雑で様々だろうが。
・・・・・
身分とは階級ではない。
階級とはつまり上下関係である。
階という字がそれを示している。
そこには抜きがたい尊卑の匂いがする。
しかもだからこそ固定的である。
少し誤解があるのか、
身分に差別という言葉を付けたがる人がいる、
身分差別とか言って。
本当は大いなる誤解である。
それは言葉を替えれば職業差別である。
親の家督を継ぐのが基本の社会に、
それを良しとする社会に、
職業差別はなかったろう。
基本的にモノづくりは尊重されていた。
それは今も変わらない。
ただ昨今はサービスが増えてきた。
でも根本は変わらない。
その精神は変わらない。
モノづくりの国はおもてなしの国でもある。
先にも言ったが、
身分差別とは職業差別に同じ。
昔もあっただろうし今もある。
それはまともな人はしないが、
今も確かにある。
何かにつけて差別という言葉を持出し、
弱者を救う振りをしながら、
その実彼らを差別している。
そんな輩がどこにでもいる。
それが今問題になっている。
コラボ問題とか言うらしい。
これらは皆リベラルの仕業。
おっとまた話がそれてきた。
それはそれとして、
自由について、
競争と協調の狭間で自分を見つける、
しかして自分が自分である由を知る、
ことと言った。
基より身分を決めるのは自分である。
だがそれは自分一人の意のままではなく、
ましてや勝手気ままにではない。
父母の思いや世間の要請を考慮して、
自分が決めるのである。
他でもない自分自身が。
それが自由と謂うもの。
それに身分は固定していない。
ときとところで変わるもの。
成長しても変わるだろう。
そういうものであると。
・・・・・
だから思うのです。
言葉が「狂」となっているこの時代、
こういう時代だからこそ、
分を知ろう、
分をわきまえよう、
と。
分とは「わける」こと。
ちなみに別もまた同じ。
両方合わせると、
分別と言う。
うん!

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