身分は「みぶん」と読むが、
これは「みわけ」や「しんぶん」とも読める。
そも「みぶん」とは重箱読みであり、
訓読みと音読みがまざっている。
まぁここでの話とは関係がない。
あくまで余談である。
・・・・・
表題の身分と自由、
この二つは切っても切れぬ関係にある。
それに漸く気づいたのです。
それはやはり字義からです。
身とは自身であり、分とは分けること。
身をその部位に分けるのではない。
身の集合体である世間(社会)の中で、
その身を仕分けして認識するもの。
そもすべての存在は単体では存在できない。
身も単体では存在できない。
身は身(の集合)の中でしか存在できない。
全体の中での部分なのです。
さながら部分には部分としての役割がある。
それを身分と謂う。
その身分はなぜその身分なのか。
その身分はどこで決まったのか。
その身分は一体誰が決めたのか。
そこに肝がある。
思うにその中心には自由がある。
自身のことは自身で決める、と。
自分の由がそれに当たるのだが、
それは言葉により創られたもの。
先にも言ったように、
自分があるのは、
親があり、親族があり、世間があるから。
父母から生まれ、
父母に育てられ、
父母に教えられ、
それも世間があってこそ、
その中でのこと。
自分が自分である由も結局はそこにある。
そういうことと。
そこで身分だが、
それを職業とするなら、
当然に分かるだろうが、
それを希望したとして、
皆が同じ職業に就くことはできない。
それでは社会が成り立たない。
ときの状況からは逃れられないのだ。
そこでは選択は限られてくる。
例えば江戸時代。
農民が少なくとも7割以上か。
だから農民の子は大抵農民になる。
子沢山で養えなければ、
ときによそへ出ていく。
ときに身分も変わると。
それは武士も同じこと。
社会が安定的に推移していれば尚更に。
基本的には親の職業を継ぐのです。
それを家督を継ぐという。
それは自由を縛るのではない、
それは自由の結果としてある。
実際のところは、
事情は複雑で様々だろうが。
・・・・・
身分とは階級ではない。
階級とはつまり上下関係である。
階という字がそれを示している。
そこには抜きがたい尊卑の匂いがする。
しかもだからこそ固定的である。
少し誤解があるのか、
身分に差別という言葉を付けたがる人がいる、
身分差別とか言って。
本当は大いなる誤解である。
それは言葉を替えれば職業差別である。
親の家督を継ぐのが基本の社会に、
それを良しとする社会に、
職業差別はなかったろう。
基本的にモノづくりは尊重されていた。
それは今も変わらない。
ただ昨今はサービスが増えてきた。
でも根本は変わらない。
その精神は変わらない。
モノづくりの国はおもてなしの国でもある。
先にも言ったが、
身分差別とは職業差別に同じ。
昔もあっただろうし今もある。
それはまともな人はしないが、
今も確かにある。
何かにつけて差別という言葉を持出し、
弱者を救う振りをしながら、
その実彼らを差別している。
そんな輩がどこにでもいる。
それが今問題になっている。
コラボ問題とか言うらしい。
これらは皆リベラルの仕業。
おっとまた話がそれてきた。
それはそれとして、
自由について、
競争と協調の狭間で自分を見つける、
しかして自分が自分である由を知る、
ことと言った。
基より身分を決めるのは自分である。
だがそれは自分一人の意のままではなく、
ましてや勝手気ままにではない。
父母の思いや世間の要請を考慮して、
自分が決めるのである。
他でもない自分自身が。
それが自由と謂うもの。
それに身分は固定していない。
ときとところで変わるもの。
成長しても変わるだろう。
そういうものであると。
・・・・・
だから思うのです。
言葉が「狂」となっているこの時代、
こういう時代だからこそ、
分を知ろう、
分をわきまえよう、
と。
分とは「わける」こと。
ちなみに別もまた同じ。
両方合わせると、
分別と言う。
うん!
これは「みわけ」や「しんぶん」とも読める。
そも「みぶん」とは重箱読みであり、
訓読みと音読みがまざっている。
まぁここでの話とは関係がない。
あくまで余談である。
・・・・・
表題の身分と自由、
この二つは切っても切れぬ関係にある。
それに漸く気づいたのです。
それはやはり字義からです。
身とは自身であり、分とは分けること。
身をその部位に分けるのではない。
身の集合体である世間(社会)の中で、
その身を仕分けして認識するもの。
そもすべての存在は単体では存在できない。
身も単体では存在できない。
身は身(の集合)の中でしか存在できない。
全体の中での部分なのです。
さながら部分には部分としての役割がある。
それを身分と謂う。
その身分はなぜその身分なのか。
その身分はどこで決まったのか。
その身分は一体誰が決めたのか。
そこに肝がある。
思うにその中心には自由がある。
自身のことは自身で決める、と。
自分の由がそれに当たるのだが、
それは言葉により創られたもの。
先にも言ったように、
自分があるのは、
親があり、親族があり、世間があるから。
父母から生まれ、
父母に育てられ、
父母に教えられ、
それも世間があってこそ、
その中でのこと。
自分が自分である由も結局はそこにある。
そういうことと。
そこで身分だが、
それを職業とするなら、
当然に分かるだろうが、
それを希望したとして、
皆が同じ職業に就くことはできない。
それでは社会が成り立たない。
ときの状況からは逃れられないのだ。
そこでは選択は限られてくる。
例えば江戸時代。
農民が少なくとも7割以上か。
だから農民の子は大抵農民になる。
子沢山で養えなければ、
ときによそへ出ていく。
ときに身分も変わると。
それは武士も同じこと。
社会が安定的に推移していれば尚更に。
基本的には親の職業を継ぐのです。
それを家督を継ぐという。
それは自由を縛るのではない、
それは自由の結果としてある。
実際のところは、
事情は複雑で様々だろうが。
・・・・・
身分とは階級ではない。
階級とはつまり上下関係である。
階という字がそれを示している。
そこには抜きがたい尊卑の匂いがする。
しかもだからこそ固定的である。
少し誤解があるのか、
身分に差別という言葉を付けたがる人がいる、
身分差別とか言って。
本当は大いなる誤解である。
それは言葉を替えれば職業差別である。
親の家督を継ぐのが基本の社会に、
それを良しとする社会に、
職業差別はなかったろう。
基本的にモノづくりは尊重されていた。
それは今も変わらない。
ただ昨今はサービスが増えてきた。
でも根本は変わらない。
その精神は変わらない。
モノづくりの国はおもてなしの国でもある。
先にも言ったが、
身分差別とは職業差別に同じ。
昔もあっただろうし今もある。
それはまともな人はしないが、
今も確かにある。
何かにつけて差別という言葉を持出し、
弱者を救う振りをしながら、
その実彼らを差別している。
そんな輩がどこにでもいる。
それが今問題になっている。
コラボ問題とか言うらしい。
これらは皆リベラルの仕業。
おっとまた話がそれてきた。
それはそれとして、
自由について、
競争と協調の狭間で自分を見つける、
しかして自分が自分である由を知る、
ことと言った。
基より身分を決めるのは自分である。
だがそれは自分一人の意のままではなく、
ましてや勝手気ままにではない。
父母の思いや世間の要請を考慮して、
自分が決めるのである。
他でもない自分自身が。
それが自由と謂うもの。
それに身分は固定していない。
ときとところで変わるもの。
成長しても変わるだろう。
そういうものであると。
・・・・・
だから思うのです。
言葉が「狂」となっているこの時代、
こういう時代だからこそ、
分を知ろう、
分をわきまえよう、
と。
分とは「わける」こと。
ちなみに別もまた同じ。
両方合わせると、
分別と言う。
うん!
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