Snowtree わたしの頭蓋骨の下 *鑑賞記録*

舞台は生もの、賞賛も不満もその日の出来次第、観客側のその日の気分次第。感想というものは単なる個人の私感でしかありません。

シアターコクーン『女教師は二度抱かれた』3回目ソワレ S席1階後方センター

2008年08月27日 | 演劇
シアターコクーン『女教師は二度抱かれた』3回目 ソワレ千穐楽 S席1階後方センター

演出家の串田和美さん、長塚圭史さんがいらしてました。この二人のおかげもあり、ちょっと違った視点で見れた部分がありました。この二人も歌舞伎役者を使ってる演出家。特に串田さんは今回の芝居のなかで皮肉ぽくライバル視されてる一人。

計3回の観劇のうち今回の観劇が舞台を俯瞰できる後ろの席でした。最初にこの席で観たかったです。ようやくしっかり舞台の全体像が見えた。最初は後方かとガッカリしてたけど、この位置で見れたのは自分的にはかなりの収穫だった。あまりに前方の席だとどうしても観たい役者中心に観ることになってしまい芝居が伝えたいことがかえって見えにくくなる。

松尾スズキさんの芝居は一見ゆるそうだけど作りこみはかなり密だ。役者を遊ばせているようで遊ぶ余地をほとんど作っていない。そして完全に松尾スズキさんの個人的宇宙を体現させるための空間だ。野田秀樹氏の芝居にも感じることがあるけど、野田さんのそれより空間は密かもしれない。しかも松尾さんの場合、まず視点を下に置く。大抵、演出家というのは「神視点」だと思うのだけど、それがほとんどみえない。

私が『女教師は二度抱かれた』という芝居に「不満」があるのに妙に気になるのはたぶん、松尾スズキさんの世界観が好きだから、なんだと思う。作家の大江健三郎に近しいものも感じる。私小説という枠組みのなかでのミクロな視点の積み重ねがこの世界に生きていくことの哀しみや人間の図太さみたいなものを醸し出しているところとか。大江健三郎さんは松尾スズキさんに大江健三郎賞をあげるといいよ、って思いました(笑)

大楽を観る前に『女教師は二度抱かれた』の観劇感想をいくつか拾って読んだのだけどそのなかで松尾スズキさんのファンの何人かが松尾スズキは「女」の部分を持っていると書いていた。「女」だ、と断定している人もいた(笑)。だから好きなんだ、共感できるのだと。私は、感覚的、生理的にたぶん「女」の弱いとこ、イヤな部分を受け入れられる人なんだと感じた。

あ、だから栗乃助はゲイなのかな?今回、歌舞伎の世界を描いていないのは、確信犯かなと思ったりもしました。というか描ききれないというのが本音というか。

松尾さん的には「歌舞伎役者」と「その周辺」は、「大きなものを手にしていく」象徴であり「精神的に周りがみえなくなるまで引っ掻き回された」象徴だったりするのかなと。栗乃助を女形にした意味は今回も見出せなかった。でも立役にしたら、松尾さんにとって生々しすぎたのかもしれない、そう思った。

なぜ、そう思えたのか、と言えば、串田さんと長塚さんがあの場にいたからだ。演出家として「歌舞伎役者」に対峙してきている小劇場出身の演出家が揃っていた。そして「歌舞伎役者」の役者としての文法の違いに向かい合った(合っている)人たちでもあったから。だから歌舞伎役者を同じ演劇人として、という部分ではなく、彼らに対する最初の戸惑いをストレートに描いたのかもしれないなあとか…。

栗之助は、愛すべきモンスターだ。あの個性の強さと押しの強さ、そして思ったことを口に出さないではいられない無邪気さ。歌舞伎役者のプロ意識の激しさと歌舞伎という世界に風穴を空けたい矜持とを理解したうえで、ああいう風に描かざるおえなかった?栗乃助をゲイにしたのは弱い部分もある、その部分を理解しているという松尾さんなりの受け入れ方だったりするのかなと。穿ちすぎかと思うが、まあここは書かせてください。

それでもやっぱり同じ表現者として「影響しあえた」部分も描いて欲しかったというのが正直な気持ちではあるけれど。

松尾さんは今回のお芝居で自分に手ごたえを感じなかった場合、当分、芝居を書くことをやめるつもりと公言していた。そして、その成否は「染五郎」にかかっていると。そして、その「染五郎」に「歌舞伎役者」としての本分を捨てさせた。どう出るか?冒険だったんだろう。私は染五郎さんは役のためならなんでもやる、その覚悟がある人という認識で、だから今回の役は冒険じゃないと思っていた。だけど、松尾スズキさんが染五郎さんを松尾さんのリアルな世界のなかで素材として扱うという部分でやっぱり冒険だったのかもしれないと感じた。

そして松尾さんは言う、稽古を始めてみて楽しかったと。染ちゃんがとても良いのだと言う。たぶん、染五郎さんがすんなりと松尾スズキの世界に入ってきたことが嬉しかったんじゃないかと思う。染五郎という人は「真っ白でいる」ことを自分に課している役者だ。その覚悟を染五郎さんに感じたからこそ、天久六郎があんなにも可愛らしい切ない男になったのかもしれないなあ、とか。六郎という造詣は「許せない男」じゃなくて「許される男」だ。松尾さん、甘いんじゃないの?って思ったけど、染ちゃんとやるうちに甘くなっていったんじゃないかなと。

そして妙に等身大の男性としてそこにいた天久六郎は染五郎さんの松尾さんのイメージであり、そして松尾さん自身だ。染五郎さんと松尾さん、ピタリとどこかハマった部分があるんだと思う。個人的に「受け入れる」という感覚の部分がどこか似通った資質をお互い持っている気がする(あくまでも気がするだけだけど)。

千穐楽で私は天久六郎に演出家のそして演劇人としての宿命が見えた。あー、染五郎さんであり松尾さんだって、とっさに思った。崩れて崩れても、どんな状況でも「よーい、はい」の世界のなかに居るしかない自分。居なくちゃいけない自分。居たい自分。生きていくことの哀しさのなかでそれでも生きていく。ああ、そうだ、そんなものが見えた気がした。

ただ、私には選び取る能動的なものがないのが不満ではある。どうせならその意思もみせてほしかった。でもまだ松尾さん自身がその段階じゃないのかもね。「居て欲しい」と後押ししてほしい段階なのかも。そして松尾さんにとって「生きていくこと」そのものが贖いの対象なんだなあなんていうのも感じた。そして天久六郎が「贖わなければいけない」のは『女教師は二度抱かれた』は彼の物語だからだ。山岸諒子、そして鉱物、江川昭子はそのなかに内包されている。あくまでも天久六郎の物語であった。あまりに脇道のエピソードが多いから、そこを上手く掬い取れてなかった。でも、あの世界はすべて天久六郎が感じた世界だ。内省から始まり内省で終わる。

だから染五郎さんの「夢から醒めないで」のラストでの最後の最後まで哀しい顔、というのは正解だと思う。

役者に関しては皆が皆、きちんと自分の役割をこなしていたという部分でまとまりがあったと思う。アクの強さが役者の個性としてじゃなく松尾スズキの世界の住人としてあったと思う。

ただ、栗乃助@阿部サダヲさんの歌舞伎役者としての説得力のなさの部分をもう少し何か補えなかったかなと思う。象徴としてのキャラとしては十分かもしれない。でも「歌舞伎」を描いてほしかったという意味でやはりもっとどうにかしてほしかった。愛すべきモンスターとしての存在感は十分でした。

サダヲちゃんの影に隠れて書いてなかったけど弁慶@荒川良々の「歌舞伎」の模倣もひどすぎて、やらせるな~って思ったけどね。それとなんだろ、栗乃介と弁慶の精神的繋がりの部分でもね、足りなかったな。

天久六郎@染五郎さんは贔屓目込みで書くけど六郎として軸がまったくぶれていなかったという意味で見事に演じていたと思う。六郎としてのごく自然な、不安感、優しさ、甘え、流されてしまう弱さ、受け入れることの強さがあった思う。染五郎さんにとってこの役は意外性がない代わりに自身の近しい感情を自然に出すという部分で案外大変だったかもしれないなと今更のようには感じました。ただ、そろそろ来月の歌舞伎に向けて稽古に入っているからか、ぐだぐだにやらなければいけない歌舞伎所作が微妙に綺麗になっていたり、メリハリのない弱い台詞のはずのとこで時々声を張ってしまい妙に響かせちゃったりと、ふと歌舞伎役者の地が出てました。あ~、あなたはやっぱり歌舞伎役者(笑)

それにしても、『女教師は二度抱かれた』は私にとっては語りがいのある芝居だったな。まだたぶん、あれこれ反芻するだろう。まだこの感想は第一稿って感じです。で、結論としてはやっぱり、こういうものに出る染五郎さんを追いかけるよってことだったりもする。