歌舞伎座『さよなら公演 御名残四月大歌舞伎 第二部』 1等1階センター前方
私の現歌舞伎座での観劇はこれが最後。今まで素敵な舞台を見せてくれてありがとう!名残を惜しみつつ、新しい歌舞伎座に期待していこうと思います。
第二部もとても面白かったです。タイプの違う役者が揃った大顔合わせの『寺子屋』がどういう方向の芝居になるか、不安と期待とでしたが、これがすこぶる面白かったです。芸達者が揃い、芝居の方向性が揃うとこうなるのかという、ちょっと独特な空気感をもった芝居でした。また『三人吉三』も役者が嵌り、これぞ歌舞伎!といった濃厚な一幕。満足、満足の第二部でした。
『寺小屋』
とにかく面白かった。気持ちがどんどん芝居に入り込んでいって、『寺子屋』という芝居の、やるせなさがストレートに伝わり胸に迫ってきました。今まで拝見してきた『寺子屋』とはだいぶ肌合いが違っていました。人物像の心情を強調する様式美の部分を見せるのではなく、物語性の部分をよりリアルにし、人物たちの心情もその流れに沿うようにかなり細やかに作り込んでいってました。その芝居の緩急のなかでの歌舞伎独特の間合いを短めにとり密な空気を途切らせない作り。
ビックリしたのは源蔵@仁左衛門さんと千代@玉三郎さんがかなりリアル志向の演劇的な芝居をしてきたこと。松王丸@幸四郎さん、戸浪@勘三郎さんもかなりリアル志向だったけどいわゆる型の部分も重視し、そのバランスでの芝居だったように思う。そういう部分で松王丸@幸四郎さん&千代@玉三郎さんの夫婦、源蔵@仁左衛門さん&戸浪@勘三郎さんの夫婦の組み合わせは「歌舞伎」としてバランスが取れていたかも。とりあえず、方向性が皆一緒だったという部分ですさまじく密な一幕だった。あそこまで、芝居としての緊張感がまったく切れないというのも珍しい。決まりの部分で一瞬、役者を観るという感じの間合いが普通はあるが、今回それがほとんどなかった。役者がその隙を与えない。
勿論、源蔵@仁左衛門さんにしろ松王丸@幸四郎さんにしろ台詞を謳いあげる場面はある、だけどそこからの芝居の持っていきかたが非常にリアル。勿論、控えているときも気持ちを持続しての受けが基本ではあると思うのが、その受けの部分の芝居がいつも以上に相手に反応しての芝居。また松王丸夫婦、源蔵夫婦の目線のやりとりがいつもより多い。また、その場ごとの相手に対するリアクションもかなり細かい。それがその場の情景をより真に迫ったものにしていたと思う。松王丸夫婦、源蔵夫婦のありようがあの場面だけのものではない、という膨らみがあった。
このところ、幸四郎さんが芯を取る歌舞伎ではこういう芝居が多く、さすが現代劇を多く手掛けてきただけある演出方法をしてくるな、と思ってはいたのですが今回のさよなら公演で演劇志向の『寺小屋』を拝見するとは思ってみなかった。またこれも次世代への歌舞伎のあり方のひとつとしての提示でもあるのだろうかと思ったりしました。座組みに物語性を大事にする仁左衛門さんが、そしてリアル志向の玉三郎さん、芝居の上手さがある勘三郎が揃ったからこそ、それが出来たんだろう。
松王丸@幸四郎さん、2006年秀山祭で演じた時はだいぶご自身の工夫を入れ込み、子の命を投げ出す父の悲哀を心情の頂点として、そこを首実検の場に凝縮した演じ方で、台詞回しもかなりリアル志向であったと思います。今回はそのご自身の工夫の部分をほぼやめ、古典的な型通りのとこで白鸚さん譲りの存在感を見せてきました。まずは松王丸としての大きさを押し出しつつ、そのなかに、自分の計略への心の奥底の動揺、小太郎への想いといった複雑な心情を、型のなかに細かく表現していきます。
単に病身を装うというだけでなく、そのなかに不安を隠しているための弱々しさと足取りの重さとしての表現。また源蔵夫婦への居丈高さは、玄蕃に対するポーズだけではなく、「小太郎を打ってくれるだろうな」という厳しい問いかけのようにも見えました。前回は自身の不安との戦いのような源蔵との見合い方でしたが、今回は相手への覚悟を探るという雰囲気がありました。そういう部分で幸四郎さん松王丸は前回に比べ小太郎を死なす覚悟が強い。なので首実検は前回は小太郎への嘆きだけだったように思いますが、今回の「でかした!」は小太郎へ、そして源蔵へと二人に対していました。一個の父として落とし込んだ松王丸ではなく、その時代の主君へそして親への恩義、忠義ゆえの苦悩を背負った運命に翻弄される松王丸としていたと思う。そこがあったため、千代へ「家で十分吼えたではないか」とたしなめるその言葉に、かえって夫婦の絆が立ち現れ、また決断が正しかったんだと自身へ言い聞かせる言葉となる。この人はどれだけ我慢してきたのだろうという哀れさがあった。時代がかった台詞廻しのなかに、心のなかの翳を纏いつつ表現していくのがやはり上手いです。朗々と謳いあげるのが得意な幸四郎さんですが、今回だいぶ抑えていましたね。
息子を死なせたその悲しさのなかで、忠義を果たせず自害した桜丸を想い、大泣きに落とす場では、桜丸不憫さとともに、きっとあの世で会うであろうから息子を頼む、その思いではなかったかと今回思い当たった。やはり、ここは「桜丸、桜丸」での泣きでしかありえない。この台詞はこのままで演じるべきだし、今回台詞を戻したのは正解だ。
千代@玉三郎さん、出のところでの愁いを秘めた佇まいがとても美しかった。小太郎がどうなったか、母としての不安を絶えず抱えた千代。覚悟しきれない、もしかしたら小太郎は打たれないで済んでいるかもという淡い期待を抱いた千代であったと思う。相手がどうでるか、小太郎はどうなっているのか、その不安と緊張感。物語がわかっていてなお、千代の不安感にこちらがハラハラしてしまった。そして小太郎が打たれたとわかった瞬間、まずは武家の女としての矜持が顔に出て、千代を精神を支える。お役にたったか、というその思い。その後、夫の顔を見てがくっとその矜持が揺れる。母として、子を死なせた哀しみがそこで襲ってきたようだった。この千代は夫と子だけが自分の世界にある人だ。夫の苦悩をただひたすら受け止め、自分の家族だけを守ってきた人、そんな風に思えた。いつも以上に思い入れが深い千代だったように思う。
源蔵@仁左衛門さん、とてもリアルな心情を押し出した源蔵でした。このところ、より演じる人物像の心情を細やかに丁寧に演じてきている仁左衛門さんですがそれをもっと今回押し進めてきた演じよう。物語の流れを重視し、従来の手順をかなり見直してきました。より自然な立ち振る舞い。菅秀才の匿い方、自身の行動、立ち位置、細かくいえば羽織の脱ぎ着のタイミング等、かなり工夫がありました。また、恋女房への戸浪に対する愛情をそこここで見せてきます。現代の観客が納得できる夫婦のありように近い造詣。情の深さ、忠義の深さがあるがゆえに、殺す子を探す非情さの裏の苦悩もリアルに浮かんでくる。「守る」ことの決意の強さは半面、とても怖いものである、という「生きる」ことの難儀がまたこの源蔵夫婦にもある。絶えず神経を研ぎ澄ませた仁左衛門さんの芝居は、源蔵のカドカドの決まりの部分でいつも以上に間をおかない。文楽人形が人より人らしく動くと思う時がある。そういう感じを連想させた。さらりと流れる部分で、もっと溜めをたっぷりとって決まってくれてもいいかなと思う部分もあったのだけど、心持のほうが先にたった芝居の緊迫感の見事さにこれで十分なんだなと思いました。
戸浪@勘三郎さん、私は今月の勘三郎さんのなかでは戸浪が一番だ。戸浪なりの情のありかたが非常に良い。心持のありようがリアルだが佇まいがふっくらしていて、出るべきところの決まり方にどこか古風さがある。芝居が流れず、すっと型に嵌るときがあるのだ。相反するようだがそこがしっくり馴染む。戸浪は芝翫さん譲りかな?芝翫さんの芸風ってそこが特徴なので、芝翫さんの稽古つけてもらったかな?と。出すぎずに女らしい細やかな気遣いや情を見せつつ、いざという時の覚悟のほどがそこにある。女房として源蔵と一蓮托生というだけの部分だけではない、戸浪なりの恩義、忠義が底にある。その一瞬の思いいれを表現できるのがやはり勘三郎さんの上手さ。
玄蕃@彦三郎さん、いかにも赤っ面の敵役といった古風さのある線の太い玄蕃。この場では敵役ではあるけどある意味、主君に忠実な家来なんだよな、というのが真面目な彦三郎さんだけに伝わってくるのが面白い。
園生の前@時蔵さん、また園生の前としての品格の高さが素晴らしい。加えて華やかさがあるなあ。うん、これは良いですよ。
菅秀才@金太郎くん、お行儀よくしっかり芝居してました。長台詞のところが声が続かず、若干声が小さくなりがちな部分もありましたが、姿勢もよく、きちんと微動だもせず座り、芝居の流れのなかでまた目線がしっかり源蔵と見る、松王夫婦を見る、母を見る、ときちんと芝居ができてました。今回、菅秀才は皆と一緒に奥に引っ込みようになっていた。皆と仲良く遊んでいたんだなと思うと、「われに代はると知るならばこの悲しみはさすまいに」の台詞が活きていい。今回の演出、ほんとにいいなあ。
しかしこの頃の時代ものの価値観がなかなか現代には判りにくくなっているのか、この芝居が苦手という人も多くなっている。だけど、「生きて行く」ことがより困難な時代ということ、どこかに属することが家(命)を守ることでもあった時代ということに思いをはせることが出来れば、また違うのではないか。彼らにとって家を守るということは自分だけではなく、家族、係累、使用人すべての命が掛かっている。要は彼らに生きる場を与えてくれるのが主君ということであり、「恩義」のために行動をするのが当たり前。また「子は一世、夫婦は二世、主従三世、他人は五世」という価値観も前提に観ると多少の理解は得られると思う。
『三人吉三』「大川端庚申塚の場」
華やかでどっしりとした大川端で、観ていてウキウキしました。わああい、楽しいぞ~、って感じです。この場だけだとドラマ性はまったくないけど、菊五郎さん、吉右衛門さん、團十郎さんの華やかな絵面とた~っぷりな台詞廻しを楽しみました。満足。
お嬢吉三@菊五郎さん、私は今の菊五郎さんの女形の姿がやたらとツボらしい。どーみても年増でいかにも怪しくて、「おとせちゃん、逃げて~~」と思わなくもないんだけど(笑)、ちょっと崩れた線がある今だからある愛嬌と色気がなんともいえない。観ていてニマニマしちゃう。女声と男声の切り替えの上手さはこの方に勝る役者はいないかなあ。七五調の台詞を朗々と謳いあげで惚れ惚れ。このくらいたっぷり演じてくれる菊五郎さんのほうが個人的には好みだ。あっさりイナセな感じもいいんだけどね。
お坊吉三@吉右衛門さん、痩せられたのもありすっきりとカッコイイ。少し陰の篭った台詞回しが色ぽくて、明るい調子のお嬢菊五郎さんとの対比も活きて、とても良いわ~。それにどっしりとした存在感が舞台を大きくみせる。立ち姿がいつも以上に綺麗だったなあ。
和尚吉三@團十郎さん、和尚の拵えが似合う。目が利くのがまたよし。台詞廻しは多少もっさりしているのだけど、きちんと兄貴分の大きさを見せる。信頼していいなって思わせる空気感があるのが和尚らしくて好き。
『藤娘』
藤十郎さん、相変わらず若いですねえ。はんなりとした色気。いつもよりはピンクオーラ(笑)が薄めだったかな。後半、さすがにお疲れかなという部分もありましたがとても華やかな踊りでした。
鳴物連中がとっても良かったです。
私の現歌舞伎座での観劇はこれが最後。今まで素敵な舞台を見せてくれてありがとう!名残を惜しみつつ、新しい歌舞伎座に期待していこうと思います。
第二部もとても面白かったです。タイプの違う役者が揃った大顔合わせの『寺子屋』がどういう方向の芝居になるか、不安と期待とでしたが、これがすこぶる面白かったです。芸達者が揃い、芝居の方向性が揃うとこうなるのかという、ちょっと独特な空気感をもった芝居でした。また『三人吉三』も役者が嵌り、これぞ歌舞伎!といった濃厚な一幕。満足、満足の第二部でした。
『寺小屋』
とにかく面白かった。気持ちがどんどん芝居に入り込んでいって、『寺子屋』という芝居の、やるせなさがストレートに伝わり胸に迫ってきました。今まで拝見してきた『寺子屋』とはだいぶ肌合いが違っていました。人物像の心情を強調する様式美の部分を見せるのではなく、物語性の部分をよりリアルにし、人物たちの心情もその流れに沿うようにかなり細やかに作り込んでいってました。その芝居の緩急のなかでの歌舞伎独特の間合いを短めにとり密な空気を途切らせない作り。
ビックリしたのは源蔵@仁左衛門さんと千代@玉三郎さんがかなりリアル志向の演劇的な芝居をしてきたこと。松王丸@幸四郎さん、戸浪@勘三郎さんもかなりリアル志向だったけどいわゆる型の部分も重視し、そのバランスでの芝居だったように思う。そういう部分で松王丸@幸四郎さん&千代@玉三郎さんの夫婦、源蔵@仁左衛門さん&戸浪@勘三郎さんの夫婦の組み合わせは「歌舞伎」としてバランスが取れていたかも。とりあえず、方向性が皆一緒だったという部分ですさまじく密な一幕だった。あそこまで、芝居としての緊張感がまったく切れないというのも珍しい。決まりの部分で一瞬、役者を観るという感じの間合いが普通はあるが、今回それがほとんどなかった。役者がその隙を与えない。
勿論、源蔵@仁左衛門さんにしろ松王丸@幸四郎さんにしろ台詞を謳いあげる場面はある、だけどそこからの芝居の持っていきかたが非常にリアル。勿論、控えているときも気持ちを持続しての受けが基本ではあると思うのが、その受けの部分の芝居がいつも以上に相手に反応しての芝居。また松王丸夫婦、源蔵夫婦の目線のやりとりがいつもより多い。また、その場ごとの相手に対するリアクションもかなり細かい。それがその場の情景をより真に迫ったものにしていたと思う。松王丸夫婦、源蔵夫婦のありようがあの場面だけのものではない、という膨らみがあった。
このところ、幸四郎さんが芯を取る歌舞伎ではこういう芝居が多く、さすが現代劇を多く手掛けてきただけある演出方法をしてくるな、と思ってはいたのですが今回のさよなら公演で演劇志向の『寺小屋』を拝見するとは思ってみなかった。またこれも次世代への歌舞伎のあり方のひとつとしての提示でもあるのだろうかと思ったりしました。座組みに物語性を大事にする仁左衛門さんが、そしてリアル志向の玉三郎さん、芝居の上手さがある勘三郎が揃ったからこそ、それが出来たんだろう。
松王丸@幸四郎さん、2006年秀山祭で演じた時はだいぶご自身の工夫を入れ込み、子の命を投げ出す父の悲哀を心情の頂点として、そこを首実検の場に凝縮した演じ方で、台詞回しもかなりリアル志向であったと思います。今回はそのご自身の工夫の部分をほぼやめ、古典的な型通りのとこで白鸚さん譲りの存在感を見せてきました。まずは松王丸としての大きさを押し出しつつ、そのなかに、自分の計略への心の奥底の動揺、小太郎への想いといった複雑な心情を、型のなかに細かく表現していきます。
単に病身を装うというだけでなく、そのなかに不安を隠しているための弱々しさと足取りの重さとしての表現。また源蔵夫婦への居丈高さは、玄蕃に対するポーズだけではなく、「小太郎を打ってくれるだろうな」という厳しい問いかけのようにも見えました。前回は自身の不安との戦いのような源蔵との見合い方でしたが、今回は相手への覚悟を探るという雰囲気がありました。そういう部分で幸四郎さん松王丸は前回に比べ小太郎を死なす覚悟が強い。なので首実検は前回は小太郎への嘆きだけだったように思いますが、今回の「でかした!」は小太郎へ、そして源蔵へと二人に対していました。一個の父として落とし込んだ松王丸ではなく、その時代の主君へそして親への恩義、忠義ゆえの苦悩を背負った運命に翻弄される松王丸としていたと思う。そこがあったため、千代へ「家で十分吼えたではないか」とたしなめるその言葉に、かえって夫婦の絆が立ち現れ、また決断が正しかったんだと自身へ言い聞かせる言葉となる。この人はどれだけ我慢してきたのだろうという哀れさがあった。時代がかった台詞廻しのなかに、心のなかの翳を纏いつつ表現していくのがやはり上手いです。朗々と謳いあげるのが得意な幸四郎さんですが、今回だいぶ抑えていましたね。
息子を死なせたその悲しさのなかで、忠義を果たせず自害した桜丸を想い、大泣きに落とす場では、桜丸不憫さとともに、きっとあの世で会うであろうから息子を頼む、その思いではなかったかと今回思い当たった。やはり、ここは「桜丸、桜丸」での泣きでしかありえない。この台詞はこのままで演じるべきだし、今回台詞を戻したのは正解だ。
千代@玉三郎さん、出のところでの愁いを秘めた佇まいがとても美しかった。小太郎がどうなったか、母としての不安を絶えず抱えた千代。覚悟しきれない、もしかしたら小太郎は打たれないで済んでいるかもという淡い期待を抱いた千代であったと思う。相手がどうでるか、小太郎はどうなっているのか、その不安と緊張感。物語がわかっていてなお、千代の不安感にこちらがハラハラしてしまった。そして小太郎が打たれたとわかった瞬間、まずは武家の女としての矜持が顔に出て、千代を精神を支える。お役にたったか、というその思い。その後、夫の顔を見てがくっとその矜持が揺れる。母として、子を死なせた哀しみがそこで襲ってきたようだった。この千代は夫と子だけが自分の世界にある人だ。夫の苦悩をただひたすら受け止め、自分の家族だけを守ってきた人、そんな風に思えた。いつも以上に思い入れが深い千代だったように思う。
源蔵@仁左衛門さん、とてもリアルな心情を押し出した源蔵でした。このところ、より演じる人物像の心情を細やかに丁寧に演じてきている仁左衛門さんですがそれをもっと今回押し進めてきた演じよう。物語の流れを重視し、従来の手順をかなり見直してきました。より自然な立ち振る舞い。菅秀才の匿い方、自身の行動、立ち位置、細かくいえば羽織の脱ぎ着のタイミング等、かなり工夫がありました。また、恋女房への戸浪に対する愛情をそこここで見せてきます。現代の観客が納得できる夫婦のありように近い造詣。情の深さ、忠義の深さがあるがゆえに、殺す子を探す非情さの裏の苦悩もリアルに浮かんでくる。「守る」ことの決意の強さは半面、とても怖いものである、という「生きる」ことの難儀がまたこの源蔵夫婦にもある。絶えず神経を研ぎ澄ませた仁左衛門さんの芝居は、源蔵のカドカドの決まりの部分でいつも以上に間をおかない。文楽人形が人より人らしく動くと思う時がある。そういう感じを連想させた。さらりと流れる部分で、もっと溜めをたっぷりとって決まってくれてもいいかなと思う部分もあったのだけど、心持のほうが先にたった芝居の緊迫感の見事さにこれで十分なんだなと思いました。
戸浪@勘三郎さん、私は今月の勘三郎さんのなかでは戸浪が一番だ。戸浪なりの情のありかたが非常に良い。心持のありようがリアルだが佇まいがふっくらしていて、出るべきところの決まり方にどこか古風さがある。芝居が流れず、すっと型に嵌るときがあるのだ。相反するようだがそこがしっくり馴染む。戸浪は芝翫さん譲りかな?芝翫さんの芸風ってそこが特徴なので、芝翫さんの稽古つけてもらったかな?と。出すぎずに女らしい細やかな気遣いや情を見せつつ、いざという時の覚悟のほどがそこにある。女房として源蔵と一蓮托生というだけの部分だけではない、戸浪なりの恩義、忠義が底にある。その一瞬の思いいれを表現できるのがやはり勘三郎さんの上手さ。
玄蕃@彦三郎さん、いかにも赤っ面の敵役といった古風さのある線の太い玄蕃。この場では敵役ではあるけどある意味、主君に忠実な家来なんだよな、というのが真面目な彦三郎さんだけに伝わってくるのが面白い。
園生の前@時蔵さん、また園生の前としての品格の高さが素晴らしい。加えて華やかさがあるなあ。うん、これは良いですよ。
菅秀才@金太郎くん、お行儀よくしっかり芝居してました。長台詞のところが声が続かず、若干声が小さくなりがちな部分もありましたが、姿勢もよく、きちんと微動だもせず座り、芝居の流れのなかでまた目線がしっかり源蔵と見る、松王夫婦を見る、母を見る、ときちんと芝居ができてました。今回、菅秀才は皆と一緒に奥に引っ込みようになっていた。皆と仲良く遊んでいたんだなと思うと、「われに代はると知るならばこの悲しみはさすまいに」の台詞が活きていい。今回の演出、ほんとにいいなあ。
しかしこの頃の時代ものの価値観がなかなか現代には判りにくくなっているのか、この芝居が苦手という人も多くなっている。だけど、「生きて行く」ことがより困難な時代ということ、どこかに属することが家(命)を守ることでもあった時代ということに思いをはせることが出来れば、また違うのではないか。彼らにとって家を守るということは自分だけではなく、家族、係累、使用人すべての命が掛かっている。要は彼らに生きる場を与えてくれるのが主君ということであり、「恩義」のために行動をするのが当たり前。また「子は一世、夫婦は二世、主従三世、他人は五世」という価値観も前提に観ると多少の理解は得られると思う。
『三人吉三』「大川端庚申塚の場」
華やかでどっしりとした大川端で、観ていてウキウキしました。わああい、楽しいぞ~、って感じです。この場だけだとドラマ性はまったくないけど、菊五郎さん、吉右衛門さん、團十郎さんの華やかな絵面とた~っぷりな台詞廻しを楽しみました。満足。
お嬢吉三@菊五郎さん、私は今の菊五郎さんの女形の姿がやたらとツボらしい。どーみても年増でいかにも怪しくて、「おとせちゃん、逃げて~~」と思わなくもないんだけど(笑)、ちょっと崩れた線がある今だからある愛嬌と色気がなんともいえない。観ていてニマニマしちゃう。女声と男声の切り替えの上手さはこの方に勝る役者はいないかなあ。七五調の台詞を朗々と謳いあげで惚れ惚れ。このくらいたっぷり演じてくれる菊五郎さんのほうが個人的には好みだ。あっさりイナセな感じもいいんだけどね。
お坊吉三@吉右衛門さん、痩せられたのもありすっきりとカッコイイ。少し陰の篭った台詞回しが色ぽくて、明るい調子のお嬢菊五郎さんとの対比も活きて、とても良いわ~。それにどっしりとした存在感が舞台を大きくみせる。立ち姿がいつも以上に綺麗だったなあ。
和尚吉三@團十郎さん、和尚の拵えが似合う。目が利くのがまたよし。台詞廻しは多少もっさりしているのだけど、きちんと兄貴分の大きさを見せる。信頼していいなって思わせる空気感があるのが和尚らしくて好き。
『藤娘』
藤十郎さん、相変わらず若いですねえ。はんなりとした色気。いつもよりはピンクオーラ(笑)が薄めだったかな。後半、さすがにお疲れかなという部分もありましたがとても華やかな踊りでした。
鳴物連中がとっても良かったです。