ル テアトル銀座『二月花形歌舞伎 第二部『女殺油地獄』』 1等席中央方センター
千穐楽を拝見。演目が演目だけに千穐楽のお遊びはさすがにまったく無し。いくつか細かいハプニングがありましたが、さりげなく周囲の役者がその役そのままできちんとフォローしてさすがだなあと感心しました。
芝居が終って拍手がなかなかやまず、まさかのカーテンコール。最後が逮夜の場だからこそできたのでしょう。本当に急遽出たという感じでした。与兵衛の姿だけどまったく与兵衛じゃない素の可愛げな染五郎さんがそこに立っておりました。亀治郎さんはお風呂中で出られず(笑)。染五郎さんは真摯に「これからも色々試行錯誤しながら歌舞伎の灯を消さないよう努力し頑張りたい。皆様よろしく」というようなことをご挨拶。
『女殺油地獄』
毎週のように観て4回目の観劇です。今月の『女殺油地獄』は歌舞伎での入れごとをだいぶ削ぎ落とし「逮夜の場」のいくつかの台詞、行動の補足はありつつほぼ文楽の床本(原作)通りの上演でした。4回拝見してわかったのは、今までの歌舞伎では与兵衛を主にクローズアップさせたものでしたが今回、原作通りにしたことで与兵衛のみならず河内屋家族と豊島家族の物語も大きく浮かんできていたということ。文楽でこの演目を観た場合、語る人、人形を操る人でそれぞれの人物像の印象は変わるものの、与兵衛の存在が河内屋家族の悲劇となり、またお吉と子供の悲劇へと繋がっていく物語としての印象を強くします。今回のルテ銀版『女殺油地獄』はその趣きを濃く出ていた、出していたように思います。いつの時代も変わることのない人の営みとそのなかにある哀しみがより強く伝わってくる芝居でした。
そのなかで染五郎さんの与兵衛は毎回のように造詣を変えてきていました。千穐楽もまた違う造詣をしてきていました。ものの見事に本当に毎回毎回違う与兵衛で実のところまだまだ消化しきれてません。でもこの4回で感じたのは染五郎さんは仁左衛門さんが作り上げてきた『女殺油地獄』の与兵衛とは違う与兵衛をこれから作っていくんだなということ。染五郎さん、あえて大変な道を選んだんだなと思いました。
千穐楽の与兵衛@染五郎さんは「魔(狂気)」の部分が無い与兵衛だった。私は4回観劇のなかで魔に完全に支配された与兵衛と弱い人そのものの与兵衛の両極端を観たことになる。そういう部分で染五郎さんは与兵衛という人物の落としどころをどこつけるかまだ定まってない気がしました。たぶん、次の機会に演じるときに見極めそこを深めていくんだろうと思う。
個人的印象で言わせていただければ、今回の「新地の場」「逮夜の場」の演出は魔の禍々しい部分が強い与兵衛で演じたほうがより効果的に見せられると思う。そして染五郎さんもまずはそこに与兵衛を見つけ出そうとしていたように思う。10日周辺がその最たるものの造詣としてあった。この造詣は演劇としてはかなり面白い効果があったし面白かった。ただし、魔王の取替えっ子のようなひたすらに底知れぬ悪(今で言うサイコ系)に満ち満ちた与兵衛は怖すぎてというか気持ち悪すぎて観客から拒絶反応をくらっていた。あまりに怖すぎて芝居が終ったあと拍手したものか染五郎さんファンの私でさえ悩みましたから(笑) 共演者でさえそこに付いていって芝居できたのは秀太郎さんくらいだったように見えた。
魔と人の間で揺れ動きつつ人としての弱さに比重を置き始めたのが3週目後半あたりか。19日は寂しいを抱え甘える方向を間違った与兵衛のからっぽな性根に魔が差し、その魔と弱い自分との狭間に揺れ動いた与兵衛だった。この時は殺すと決意した時はまだ人。殺し場の途中で人でない「狂い」が入ってた。
染五郎さんは殺し場での表情も毎回違っています。追い詰めていく過程で帯を掴んだ瞬間に狂っているように「ニタリ」と笑い狂ったように追い詰めていったり(初日)、手に触った瞬間から終始恍惚感がはいったように余裕をもって追い詰めて楽しんでいるかのようだったり(10日)、手に触った瞬間、ニマ~っと笑い子供のように楽しげになって追い詰めたり(19日)、ただひたすらおびえながらも殺さねば殺さねばと必死になっていたり(千穐楽)。
今思えばルテ銀版として今回の「逮夜の場」まで通す上でバランスのよい与兵衛は19日あたりだったような気がします。19日のこの日は豊島屋へふらふらと焼香をあげに行くときはとても意識的だった。何も考えずに遊べる自分と罪の意識におびえる自分の狭間で誰か自分を止めてくれと。心が引き裂かれていた。
『女殺油地獄』千穐楽は染五郎さんはどうくるか。まったく予測がつきませんでた。そしてこの日の与兵衛は性根という器すら出来上がってない未分化な甘えたな子供のような与兵衛だった。訳も無く寂しい、寂しい、誰か愛して愛して。愛してもらっている実感をもてずに、その自覚すらまだ芽生えてないまま絶えず人を試して、愛してくれてる?愛してくれてる?と問いかけてるようだった。とても未成熟な本当に哀れな与兵衛だった。その自分の弱さから逃げて逃げて、それゆえに人を不幸に陥れる。
特にこの日、与兵衛はあんなに継父の顔色を伺うものだっけ?というくらい継父の愛情を試していた。愛されることだけに貪欲でその飢えゆえに刹那的に金を散財し、女・酒遊びをする。愛することがなんなのか理解できていない。しかし愛されていない自分と思っていたこの与兵衛はあの晩、親の愛情は悟れるのだ。愛されていたと。だがあまりに子供じみ近視眼すぎる与兵衛は、今度はその親のためにお吉の親切を測り始めてしまう。自分のしでかしたことが親の難儀になることはわかっても、お吉の難儀、他人の難儀を推し量れない。そしてその先の遊びは現実逃避なんだろうなと思った。「人の嘆き人の難儀」がどういうものかなにか悟り始めていながら、そこに蓋をしようとしている。だからまったく楽しめてない、そんな気がした。
豊島屋へふらふらと焼香をあげに行くときは無自覚。自分で自分を持て余し、知らず知らずに向かってしまった風情だった。そして自分の愚かさを本当の意味で悟ったような気がする。でも、そんな自分をなお、庇おうとする兄にそんなことをしてくれるな、バカだ、バカだと突き放す。こんな自分にかかずらった皆が今度はバカにみえてきたんじゃないかなあ。自分の愚かさへの自嘲の笑いと、こんな俺で悪かったなという冷ややかさが同居していた気がする。自分を笑い、それでもやっぱりこんな自分を判って欲しかったのかもしない。
それで、千穐楽の与兵衛は本当に弱くて哀しい人なので逮夜の場での開き直りの強さと齟齬がおきていたような気がする。魔が忍び込んでいないので、あそこはあんなに強そうでは、与兵衛のあらゆる面での弱さと摺り合わなくなっている。まずはもっと必死に逃げようとしないと。染五郎さんの立ち回りが上手すぎるのかもしれないけど、妙に強くみえちゃうのですよ。一世一度のばか力にみえない。たぶん、あの場の演出・演技はどちらかというと魔が強いほうでの立ち振る舞い。与兵衛の人物像を変えていく過程で、新しく作った場だしまだどう落とし込むか揺れてる段階で直しきれなかったかなと。とはいえあの逮夜の場は見物人それぞれが観たいものを観る場のような気もして。あの一連の芝居と最後の笑みは人によってかなり解釈が変わるかなとも思う。しかしながら、もし千穐楽での子供じみた弱さにもがく、捩れてしまった与兵衛の彼なりの本気の本気の生き方を演じるなら少し変えていかないといけないかなと思う。染五郎さんの今後の落しどころ次第かな。
あと、初日に戻りますけど、初日の染与兵衛は仁左衛門さん与兵衛(解釈は孝夫時代のほうだった。自分は愛されていると、そこにあぐらをかいていた傲慢さと憎みきれない甘さ)をかなり髣髴させるものだった。ああ、これはソックリだという部分が多かった。そこからどんどん変えていった。次の週ではほとんど仁左衛門さん与兵衛の影が消えていた。千穐楽、一瞬初日近くに戻したか?と思ったけど、甘えた、甘ったれな甘さはあるけど、愛されたがりな部分が正反対。何をしても許されるという傲慢さはなく、愛されてないと感じてしまう、よるべない寂しさのほうが勝る。「おれもおれを可愛がるおやじが愛しい」の絶叫が哀しいまでに本物だ。
そこで染五郎さんは自分の与兵衛への道を歩むんだな、と痛烈に感じたんですよね。あとは、どのように持っていくかは今後演じる時の染五郎さん次第。今までの仁左衛門さんが練り上げた歌舞伎の入れごとを戻す可能性もあるし、それは今回で得た色んなものから次へと繋げていくんだろう。たぶん、仁左衛門さんにも秀太郎さんにはそれは伝えたんだろうなという気がします。秀太郎さん、ほんとによくコロコロと変えて来た与兵衛に対応してくれていました。他の役者や観客が置いてきぼりになりそうな与兵衛にさえ、しっかり対応していてさすがと思いました。染五郎さん、次回演じる時は落しどころをある程度見極めて深めていくことをしていってほしい。それにつけてもやはり歌舞伎用の多少大きめな小屋で見たいなあ。今回、殺し場がほんと窮屈そうでみてて可哀相だった。たっぷりみせてこれなかった花道の短さ含めて。小屋次第で印象がかなりまた変わってくるだろうと思う。
お吉@亀治郎さん、後半に入ってからの造詣は見事だったと思います。秀太郎さん、孝太郎さんにある「大阪のおせっかいなおばちゃん」な部分は元より出せない、また雀右衛門さんのような色気がありつつも包容力のある母たるお吉を造詣した場合、亀治郎さんの場合、大きな母性がまだないために色気のほうが立ってしまう可能性がある。しかし、お吉に色気がありすぎると、悲劇が際立たない。『女殺油地獄』は心中ものじゃないのだ。理不尽な理由で理不尽に殺される、その悲劇をどう体現するのか。亀治郎さんは極力色気を抑えてきていました。ほんのり人妻の色気は感じさせるものの、母の顔をしっかり持ち、与兵衛も自分の子供もどことなく一緒くたにしているような世話好きの面と一家を切り盛りする少しばかり気の強い凛としたお吉を造詣してきていた。だからこそ、殺されようとする場での、「今死んでは年端もいかぬ子が流浪する。それが不憫死にとうない」の必死の嘆願、「お光、お伝」の叫びが際立つ。子ゆえに死にたくない、その必死さ。与兵衛の親のための必死さとお吉の子のための必死さの対比がどうにもやりきれない理不尽さを際立たす。
おさわ@秀太郎さん、今月のおさわは絶品としか言いようがない。与兵衛の母としての存在感、哀しいまでの「母」の顔。強さと弱さが絶妙に立ち現れる。そして、与兵衛が強くでればそれ以上の大きさを出しきつめにキッパリと、与兵衛が弱さをみせれば強さのなかに愛情が含まれる優しげな声色に。その加減が毎回のように違う。さりげないんだけど今月の与兵衛の母そのものだった。また、夫婦の情愛の部分でも、夫婦間の絶妙な距離をみせる。信頼と遠慮と。
父徳兵衛@彦三郎さん、独特の無骨な味わいの徳兵衛だった。前半、台詞が入りきってないうちは少しばかり存在が弱かったように思いけど、後半になり家族に対する様々な想いをしっかりと表現してくださったように思う。自分の立場の複雑さ、そのなかで家族とどう対応していけばいいのか、悩み悩みながら一生懸命に生きてきたそんな徳兵衛さんだった。主だった先代に似た与兵衛を見るにつけ、従から主になった自分に負い目をもってしまったのかなあ。だからもしかしたら、どこか与兵衛と距離感があったのかもしれないなあ。そこを与兵衛に見透かされてたのかもしれない。そんなことも感じさせた。
兄太兵衛@亀鶴さん、生真面目で心根がとっても優しい兄。存在感が増していた。小さいころから聞き分けがよく、また母の立場を思いやれるはしこい子だったんだろうな。真っ直ぐに真っ直ぐに生きられる人。家族が大事で弟のこともいつもいつも心配してたんだろう。与兵衛は真っ直ぐなそんな兄が羨ましかったかな。兄の優しさが悔しかったりしたのかも。
おかち@宗之助さん、まだまだ幼い素直さのあるおかちでした。可愛がられて育ち、それでもちょっと遠慮がちで。与兵衛はワガママで乱暴な兄だけど、優しい時はとことん優しかったんじゃないかな。だからどんなことされても憎めない、大好きなんだよね。
ああ、なんだか今月のルテ銀の河内屋の人々は「家族」だったなあ。なんだろ、家族ってなんだろう?そんなことを考えた、
覚書(3/1up):
いまだ今回のルテ銀版『女殺油地獄』を友人たちと考えている。そのなかでいくつか覚書として。友人とのやりとりなので会話文になっています。
*今回の『女殺油地獄』は「家族の物語」でした。与兵衛という人物が照らし出した家族の物語だったような気がする。そして後半週に見せた染五郎与兵衛は愛ゆえに闇を抱え、愛ゆえに歪んでしまった与兵衛だったかなあと。なぜここまで考えちゃうかというと、やっぱり色々齟齬もおきた場ではあるけど「新地の場」「逮夜の場」をつけたせいだと思うんですよね。なぜ、与兵衛はこうなってしまったのかとか、なぜこういう人なんだろう?という思いと共に残されたお吉の家族、そしてなにより与兵衛の家族の哀れさがみえるから。他の人の感想を聞くと単純に人を殺した与兵衛が逮捕されてスッキリした気分で芝居を観終えた人もいるし、やはり、あそこで自分のなにを投影するかで感想は変わるんだなって思います。
*それにしても歌舞伎でこれだけあれこれ考えることって珍しい気がします。良くも悪くもカタルシスに気持ちが高揚することが多いですから。今回の油地獄はそこからは外れますよね。で、今に通じる演劇として成り立たせた染五郎さんって不思議な役者だなって思いました。染五郎さんて色んな部分で境界線上にいる役者なのかなあって思います。
*『女殺油地獄』の「新地の場」、「逮夜の場」は近松にとっては必然なんだと今回思いました。この物語って与兵衛の話ってだけじゃなく、親とか(義理ある仲の親)とか商家の家族とか共同体の話でもあるんだなって印象を強くした。近松は性根の悪い、甘やかされたはみだしものの与兵衛と、それでも身内として、身内が可愛い家族を描いたんだと思う。そうすると逮夜の場って必要なんだよね。それを共同体の皆が糾弾し捕まえる、そうでないと社会としては立ち行かないから。
与兵衛の最後の言葉って反省しているようにも反省していないようにも読める。そこをどう解釈するかでも変わるよね。時代性を考えたら近松は悪いことをしたという自覚が芽生えたというニュアンスで書いたのだったと私は思う。仏の慈悲をまだ信じてる時代だから。
それで、与兵衛の「性根が悪い」部分を強くすると、共同体のなか、はみ出しものを抱える家族の悲劇やそこに強く関わった家族の悲劇がみえてくる。与兵衛の「心の弱さゆえ」を強調すると、お互いの愛情を掛け違った親子の悲劇とその対称としてお吉と夫・子供の悲劇が強くみえてくる。
染五郎さんの造詣があまりに揺れていたのでまだそこが明確になる時とならない時があったけど。逮夜の場の今回の演出や造詣は性根が悪い部分を強調すると納得いった。でも心の弱さを出すと、あそこは別な演出、芝居が必要かなと思う。この場合、たぶんお吉の旦那と与兵衛の兄の役者がもっと大きい役者だとそこら辺もっとよかったんだと思う。与兵衛より格上感のある役者がお吉の旦那と与兵衛の兄だと印象がだいぶ変わる。
いま、歌舞伎でも文楽でもそこが明確に出てないのは「殺し場」が大きな見せ場になってるから。原作だとあれほど追い掛け回さずに一気に殺している。本来はあそこはあれほど突出した場じゃないんだよね。歌舞伎の様式美を入れたために少し変質したんだと思う。今の文楽はそこを逆輸入しちゃってる。
染五郎さんは最初のうちは「性根の悪さ」と原作にみえる家族の悲劇を強調するつもりだった思う。殺し場も劇場の間口の狭さのせいでたっぷりできなかったせいもあるけど、あえてたっぷりみせないという選択でもあったかなと今は思っています。でも、そこの部分で造詣を押し通さなかったのはなぜかな?っていまグルグルと考えてる。染五郎さん、観客に憎まれきると演じる前は言っていた。途中からなぜ与兵衛はこうなったのかな?って今度は考え始めちゃったのか、もしくは、演じてて違和感があったのか、どこで演じたら自分にしっくりくるか、を模索してたのか。
*与兵衛とってのお吉は心理的に親の代替とも読める。親に認められていないと感じる与兵衛にとっては、どうしようもないわね、と言いつつそのままの与兵衛を受け入れている存在は重要。それがなぜ殺されなければいけないのか。代替が必要なくなったから。これは穿ちすぎなフロイト的解釈だな(笑)
愛情に敏感で計ることでしか人生を送っていなかったために、金を貸してくれないという行為が与兵衛そのものへの拒絶と受け取ってしまう。
千穐楽を拝見。演目が演目だけに千穐楽のお遊びはさすがにまったく無し。いくつか細かいハプニングがありましたが、さりげなく周囲の役者がその役そのままできちんとフォローしてさすがだなあと感心しました。
芝居が終って拍手がなかなかやまず、まさかのカーテンコール。最後が逮夜の場だからこそできたのでしょう。本当に急遽出たという感じでした。与兵衛の姿だけどまったく与兵衛じゃない素の可愛げな染五郎さんがそこに立っておりました。亀治郎さんはお風呂中で出られず(笑)。染五郎さんは真摯に「これからも色々試行錯誤しながら歌舞伎の灯を消さないよう努力し頑張りたい。皆様よろしく」というようなことをご挨拶。
『女殺油地獄』
毎週のように観て4回目の観劇です。今月の『女殺油地獄』は歌舞伎での入れごとをだいぶ削ぎ落とし「逮夜の場」のいくつかの台詞、行動の補足はありつつほぼ文楽の床本(原作)通りの上演でした。4回拝見してわかったのは、今までの歌舞伎では与兵衛を主にクローズアップさせたものでしたが今回、原作通りにしたことで与兵衛のみならず河内屋家族と豊島家族の物語も大きく浮かんできていたということ。文楽でこの演目を観た場合、語る人、人形を操る人でそれぞれの人物像の印象は変わるものの、与兵衛の存在が河内屋家族の悲劇となり、またお吉と子供の悲劇へと繋がっていく物語としての印象を強くします。今回のルテ銀版『女殺油地獄』はその趣きを濃く出ていた、出していたように思います。いつの時代も変わることのない人の営みとそのなかにある哀しみがより強く伝わってくる芝居でした。
そのなかで染五郎さんの与兵衛は毎回のように造詣を変えてきていました。千穐楽もまた違う造詣をしてきていました。ものの見事に本当に毎回毎回違う与兵衛で実のところまだまだ消化しきれてません。でもこの4回で感じたのは染五郎さんは仁左衛門さんが作り上げてきた『女殺油地獄』の与兵衛とは違う与兵衛をこれから作っていくんだなということ。染五郎さん、あえて大変な道を選んだんだなと思いました。
千穐楽の与兵衛@染五郎さんは「魔(狂気)」の部分が無い与兵衛だった。私は4回観劇のなかで魔に完全に支配された与兵衛と弱い人そのものの与兵衛の両極端を観たことになる。そういう部分で染五郎さんは与兵衛という人物の落としどころをどこつけるかまだ定まってない気がしました。たぶん、次の機会に演じるときに見極めそこを深めていくんだろうと思う。
個人的印象で言わせていただければ、今回の「新地の場」「逮夜の場」の演出は魔の禍々しい部分が強い与兵衛で演じたほうがより効果的に見せられると思う。そして染五郎さんもまずはそこに与兵衛を見つけ出そうとしていたように思う。10日周辺がその最たるものの造詣としてあった。この造詣は演劇としてはかなり面白い効果があったし面白かった。ただし、魔王の取替えっ子のようなひたすらに底知れぬ悪(今で言うサイコ系)に満ち満ちた与兵衛は怖すぎてというか気持ち悪すぎて観客から拒絶反応をくらっていた。あまりに怖すぎて芝居が終ったあと拍手したものか染五郎さんファンの私でさえ悩みましたから(笑) 共演者でさえそこに付いていって芝居できたのは秀太郎さんくらいだったように見えた。
魔と人の間で揺れ動きつつ人としての弱さに比重を置き始めたのが3週目後半あたりか。19日は寂しいを抱え甘える方向を間違った与兵衛のからっぽな性根に魔が差し、その魔と弱い自分との狭間に揺れ動いた与兵衛だった。この時は殺すと決意した時はまだ人。殺し場の途中で人でない「狂い」が入ってた。
染五郎さんは殺し場での表情も毎回違っています。追い詰めていく過程で帯を掴んだ瞬間に狂っているように「ニタリ」と笑い狂ったように追い詰めていったり(初日)、手に触った瞬間から終始恍惚感がはいったように余裕をもって追い詰めて楽しんでいるかのようだったり(10日)、手に触った瞬間、ニマ~っと笑い子供のように楽しげになって追い詰めたり(19日)、ただひたすらおびえながらも殺さねば殺さねばと必死になっていたり(千穐楽)。
今思えばルテ銀版として今回の「逮夜の場」まで通す上でバランスのよい与兵衛は19日あたりだったような気がします。19日のこの日は豊島屋へふらふらと焼香をあげに行くときはとても意識的だった。何も考えずに遊べる自分と罪の意識におびえる自分の狭間で誰か自分を止めてくれと。心が引き裂かれていた。
『女殺油地獄』千穐楽は染五郎さんはどうくるか。まったく予測がつきませんでた。そしてこの日の与兵衛は性根という器すら出来上がってない未分化な甘えたな子供のような与兵衛だった。訳も無く寂しい、寂しい、誰か愛して愛して。愛してもらっている実感をもてずに、その自覚すらまだ芽生えてないまま絶えず人を試して、愛してくれてる?愛してくれてる?と問いかけてるようだった。とても未成熟な本当に哀れな与兵衛だった。その自分の弱さから逃げて逃げて、それゆえに人を不幸に陥れる。
特にこの日、与兵衛はあんなに継父の顔色を伺うものだっけ?というくらい継父の愛情を試していた。愛されることだけに貪欲でその飢えゆえに刹那的に金を散財し、女・酒遊びをする。愛することがなんなのか理解できていない。しかし愛されていない自分と思っていたこの与兵衛はあの晩、親の愛情は悟れるのだ。愛されていたと。だがあまりに子供じみ近視眼すぎる与兵衛は、今度はその親のためにお吉の親切を測り始めてしまう。自分のしでかしたことが親の難儀になることはわかっても、お吉の難儀、他人の難儀を推し量れない。そしてその先の遊びは現実逃避なんだろうなと思った。「人の嘆き人の難儀」がどういうものかなにか悟り始めていながら、そこに蓋をしようとしている。だからまったく楽しめてない、そんな気がした。
豊島屋へふらふらと焼香をあげに行くときは無自覚。自分で自分を持て余し、知らず知らずに向かってしまった風情だった。そして自分の愚かさを本当の意味で悟ったような気がする。でも、そんな自分をなお、庇おうとする兄にそんなことをしてくれるな、バカだ、バカだと突き放す。こんな自分にかかずらった皆が今度はバカにみえてきたんじゃないかなあ。自分の愚かさへの自嘲の笑いと、こんな俺で悪かったなという冷ややかさが同居していた気がする。自分を笑い、それでもやっぱりこんな自分を判って欲しかったのかもしない。
それで、千穐楽の与兵衛は本当に弱くて哀しい人なので逮夜の場での開き直りの強さと齟齬がおきていたような気がする。魔が忍び込んでいないので、あそこはあんなに強そうでは、与兵衛のあらゆる面での弱さと摺り合わなくなっている。まずはもっと必死に逃げようとしないと。染五郎さんの立ち回りが上手すぎるのかもしれないけど、妙に強くみえちゃうのですよ。一世一度のばか力にみえない。たぶん、あの場の演出・演技はどちらかというと魔が強いほうでの立ち振る舞い。与兵衛の人物像を変えていく過程で、新しく作った場だしまだどう落とし込むか揺れてる段階で直しきれなかったかなと。とはいえあの逮夜の場は見物人それぞれが観たいものを観る場のような気もして。あの一連の芝居と最後の笑みは人によってかなり解釈が変わるかなとも思う。しかしながら、もし千穐楽での子供じみた弱さにもがく、捩れてしまった与兵衛の彼なりの本気の本気の生き方を演じるなら少し変えていかないといけないかなと思う。染五郎さんの今後の落しどころ次第かな。
あと、初日に戻りますけど、初日の染与兵衛は仁左衛門さん与兵衛(解釈は孝夫時代のほうだった。自分は愛されていると、そこにあぐらをかいていた傲慢さと憎みきれない甘さ)をかなり髣髴させるものだった。ああ、これはソックリだという部分が多かった。そこからどんどん変えていった。次の週ではほとんど仁左衛門さん与兵衛の影が消えていた。千穐楽、一瞬初日近くに戻したか?と思ったけど、甘えた、甘ったれな甘さはあるけど、愛されたがりな部分が正反対。何をしても許されるという傲慢さはなく、愛されてないと感じてしまう、よるべない寂しさのほうが勝る。「おれもおれを可愛がるおやじが愛しい」の絶叫が哀しいまでに本物だ。
そこで染五郎さんは自分の与兵衛への道を歩むんだな、と痛烈に感じたんですよね。あとは、どのように持っていくかは今後演じる時の染五郎さん次第。今までの仁左衛門さんが練り上げた歌舞伎の入れごとを戻す可能性もあるし、それは今回で得た色んなものから次へと繋げていくんだろう。たぶん、仁左衛門さんにも秀太郎さんにはそれは伝えたんだろうなという気がします。秀太郎さん、ほんとによくコロコロと変えて来た与兵衛に対応してくれていました。他の役者や観客が置いてきぼりになりそうな与兵衛にさえ、しっかり対応していてさすがと思いました。染五郎さん、次回演じる時は落しどころをある程度見極めて深めていくことをしていってほしい。それにつけてもやはり歌舞伎用の多少大きめな小屋で見たいなあ。今回、殺し場がほんと窮屈そうでみてて可哀相だった。たっぷりみせてこれなかった花道の短さ含めて。小屋次第で印象がかなりまた変わってくるだろうと思う。
お吉@亀治郎さん、後半に入ってからの造詣は見事だったと思います。秀太郎さん、孝太郎さんにある「大阪のおせっかいなおばちゃん」な部分は元より出せない、また雀右衛門さんのような色気がありつつも包容力のある母たるお吉を造詣した場合、亀治郎さんの場合、大きな母性がまだないために色気のほうが立ってしまう可能性がある。しかし、お吉に色気がありすぎると、悲劇が際立たない。『女殺油地獄』は心中ものじゃないのだ。理不尽な理由で理不尽に殺される、その悲劇をどう体現するのか。亀治郎さんは極力色気を抑えてきていました。ほんのり人妻の色気は感じさせるものの、母の顔をしっかり持ち、与兵衛も自分の子供もどことなく一緒くたにしているような世話好きの面と一家を切り盛りする少しばかり気の強い凛としたお吉を造詣してきていた。だからこそ、殺されようとする場での、「今死んでは年端もいかぬ子が流浪する。それが不憫死にとうない」の必死の嘆願、「お光、お伝」の叫びが際立つ。子ゆえに死にたくない、その必死さ。与兵衛の親のための必死さとお吉の子のための必死さの対比がどうにもやりきれない理不尽さを際立たす。
おさわ@秀太郎さん、今月のおさわは絶品としか言いようがない。与兵衛の母としての存在感、哀しいまでの「母」の顔。強さと弱さが絶妙に立ち現れる。そして、与兵衛が強くでればそれ以上の大きさを出しきつめにキッパリと、与兵衛が弱さをみせれば強さのなかに愛情が含まれる優しげな声色に。その加減が毎回のように違う。さりげないんだけど今月の与兵衛の母そのものだった。また、夫婦の情愛の部分でも、夫婦間の絶妙な距離をみせる。信頼と遠慮と。
父徳兵衛@彦三郎さん、独特の無骨な味わいの徳兵衛だった。前半、台詞が入りきってないうちは少しばかり存在が弱かったように思いけど、後半になり家族に対する様々な想いをしっかりと表現してくださったように思う。自分の立場の複雑さ、そのなかで家族とどう対応していけばいいのか、悩み悩みながら一生懸命に生きてきたそんな徳兵衛さんだった。主だった先代に似た与兵衛を見るにつけ、従から主になった自分に負い目をもってしまったのかなあ。だからもしかしたら、どこか与兵衛と距離感があったのかもしれないなあ。そこを与兵衛に見透かされてたのかもしれない。そんなことも感じさせた。
兄太兵衛@亀鶴さん、生真面目で心根がとっても優しい兄。存在感が増していた。小さいころから聞き分けがよく、また母の立場を思いやれるはしこい子だったんだろうな。真っ直ぐに真っ直ぐに生きられる人。家族が大事で弟のこともいつもいつも心配してたんだろう。与兵衛は真っ直ぐなそんな兄が羨ましかったかな。兄の優しさが悔しかったりしたのかも。
おかち@宗之助さん、まだまだ幼い素直さのあるおかちでした。可愛がられて育ち、それでもちょっと遠慮がちで。与兵衛はワガママで乱暴な兄だけど、優しい時はとことん優しかったんじゃないかな。だからどんなことされても憎めない、大好きなんだよね。
ああ、なんだか今月のルテ銀の河内屋の人々は「家族」だったなあ。なんだろ、家族ってなんだろう?そんなことを考えた、
覚書(3/1up):
いまだ今回のルテ銀版『女殺油地獄』を友人たちと考えている。そのなかでいくつか覚書として。友人とのやりとりなので会話文になっています。
*今回の『女殺油地獄』は「家族の物語」でした。与兵衛という人物が照らし出した家族の物語だったような気がする。そして後半週に見せた染五郎与兵衛は愛ゆえに闇を抱え、愛ゆえに歪んでしまった与兵衛だったかなあと。なぜここまで考えちゃうかというと、やっぱり色々齟齬もおきた場ではあるけど「新地の場」「逮夜の場」をつけたせいだと思うんですよね。なぜ、与兵衛はこうなってしまったのかとか、なぜこういう人なんだろう?という思いと共に残されたお吉の家族、そしてなにより与兵衛の家族の哀れさがみえるから。他の人の感想を聞くと単純に人を殺した与兵衛が逮捕されてスッキリした気分で芝居を観終えた人もいるし、やはり、あそこで自分のなにを投影するかで感想は変わるんだなって思います。
*それにしても歌舞伎でこれだけあれこれ考えることって珍しい気がします。良くも悪くもカタルシスに気持ちが高揚することが多いですから。今回の油地獄はそこからは外れますよね。で、今に通じる演劇として成り立たせた染五郎さんって不思議な役者だなって思いました。染五郎さんて色んな部分で境界線上にいる役者なのかなあって思います。
*『女殺油地獄』の「新地の場」、「逮夜の場」は近松にとっては必然なんだと今回思いました。この物語って与兵衛の話ってだけじゃなく、親とか(義理ある仲の親)とか商家の家族とか共同体の話でもあるんだなって印象を強くした。近松は性根の悪い、甘やかされたはみだしものの与兵衛と、それでも身内として、身内が可愛い家族を描いたんだと思う。そうすると逮夜の場って必要なんだよね。それを共同体の皆が糾弾し捕まえる、そうでないと社会としては立ち行かないから。
与兵衛の最後の言葉って反省しているようにも反省していないようにも読める。そこをどう解釈するかでも変わるよね。時代性を考えたら近松は悪いことをしたという自覚が芽生えたというニュアンスで書いたのだったと私は思う。仏の慈悲をまだ信じてる時代だから。
それで、与兵衛の「性根が悪い」部分を強くすると、共同体のなか、はみ出しものを抱える家族の悲劇やそこに強く関わった家族の悲劇がみえてくる。与兵衛の「心の弱さゆえ」を強調すると、お互いの愛情を掛け違った親子の悲劇とその対称としてお吉と夫・子供の悲劇が強くみえてくる。
染五郎さんの造詣があまりに揺れていたのでまだそこが明確になる時とならない時があったけど。逮夜の場の今回の演出や造詣は性根が悪い部分を強調すると納得いった。でも心の弱さを出すと、あそこは別な演出、芝居が必要かなと思う。この場合、たぶんお吉の旦那と与兵衛の兄の役者がもっと大きい役者だとそこら辺もっとよかったんだと思う。与兵衛より格上感のある役者がお吉の旦那と与兵衛の兄だと印象がだいぶ変わる。
いま、歌舞伎でも文楽でもそこが明確に出てないのは「殺し場」が大きな見せ場になってるから。原作だとあれほど追い掛け回さずに一気に殺している。本来はあそこはあれほど突出した場じゃないんだよね。歌舞伎の様式美を入れたために少し変質したんだと思う。今の文楽はそこを逆輸入しちゃってる。
染五郎さんは最初のうちは「性根の悪さ」と原作にみえる家族の悲劇を強調するつもりだった思う。殺し場も劇場の間口の狭さのせいでたっぷりできなかったせいもあるけど、あえてたっぷりみせないという選択でもあったかなと今は思っています。でも、そこの部分で造詣を押し通さなかったのはなぜかな?っていまグルグルと考えてる。染五郎さん、観客に憎まれきると演じる前は言っていた。途中からなぜ与兵衛はこうなったのかな?って今度は考え始めちゃったのか、もしくは、演じてて違和感があったのか、どこで演じたら自分にしっくりくるか、を模索してたのか。
*与兵衛とってのお吉は心理的に親の代替とも読める。親に認められていないと感じる与兵衛にとっては、どうしようもないわね、と言いつつそのままの与兵衛を受け入れている存在は重要。それがなぜ殺されなければいけないのか。代替が必要なくなったから。これは穿ちすぎなフロイト的解釈だな(笑)
愛情に敏感で計ることでしか人生を送っていなかったために、金を貸してくれないという行為が与兵衛そのものへの拒絶と受け取ってしまう。