Snowtree わたしの頭蓋骨の下 *鑑賞記録*

舞台は生もの、賞賛も不満もその日の出来次第、観客側のその日の気分次第。感想というものは単なる個人の私感でしかありません。

シアターコクーン『女教師は二度抱かれた』3回目ソワレ S席1階後方センター

2008年08月27日 | 演劇
シアターコクーン『女教師は二度抱かれた』3回目 ソワレ千穐楽 S席1階後方センター

演出家の串田和美さん、長塚圭史さんがいらしてました。この二人のおかげもあり、ちょっと違った視点で見れた部分がありました。この二人も歌舞伎役者を使ってる演出家。特に串田さんは今回の芝居のなかで皮肉ぽくライバル視されてる一人。

計3回の観劇のうち今回の観劇が舞台を俯瞰できる後ろの席でした。最初にこの席で観たかったです。ようやくしっかり舞台の全体像が見えた。最初は後方かとガッカリしてたけど、この位置で見れたのは自分的にはかなりの収穫だった。あまりに前方の席だとどうしても観たい役者中心に観ることになってしまい芝居が伝えたいことがかえって見えにくくなる。

松尾スズキさんの芝居は一見ゆるそうだけど作りこみはかなり密だ。役者を遊ばせているようで遊ぶ余地をほとんど作っていない。そして完全に松尾スズキさんの個人的宇宙を体現させるための空間だ。野田秀樹氏の芝居にも感じることがあるけど、野田さんのそれより空間は密かもしれない。しかも松尾さんの場合、まず視点を下に置く。大抵、演出家というのは「神視点」だと思うのだけど、それがほとんどみえない。

私が『女教師は二度抱かれた』という芝居に「不満」があるのに妙に気になるのはたぶん、松尾スズキさんの世界観が好きだから、なんだと思う。作家の大江健三郎に近しいものも感じる。私小説という枠組みのなかでのミクロな視点の積み重ねがこの世界に生きていくことの哀しみや人間の図太さみたいなものを醸し出しているところとか。大江健三郎さんは松尾スズキさんに大江健三郎賞をあげるといいよ、って思いました(笑)

大楽を観る前に『女教師は二度抱かれた』の観劇感想をいくつか拾って読んだのだけどそのなかで松尾スズキさんのファンの何人かが松尾スズキは「女」の部分を持っていると書いていた。「女」だ、と断定している人もいた(笑)。だから好きなんだ、共感できるのだと。私は、感覚的、生理的にたぶん「女」の弱いとこ、イヤな部分を受け入れられる人なんだと感じた。

あ、だから栗乃助はゲイなのかな?今回、歌舞伎の世界を描いていないのは、確信犯かなと思ったりもしました。というか描ききれないというのが本音というか。

松尾さん的には「歌舞伎役者」と「その周辺」は、「大きなものを手にしていく」象徴であり「精神的に周りがみえなくなるまで引っ掻き回された」象徴だったりするのかなと。栗乃助を女形にした意味は今回も見出せなかった。でも立役にしたら、松尾さんにとって生々しすぎたのかもしれない、そう思った。

なぜ、そう思えたのか、と言えば、串田さんと長塚さんがあの場にいたからだ。演出家として「歌舞伎役者」に対峙してきている小劇場出身の演出家が揃っていた。そして「歌舞伎役者」の役者としての文法の違いに向かい合った(合っている)人たちでもあったから。だから歌舞伎役者を同じ演劇人として、という部分ではなく、彼らに対する最初の戸惑いをストレートに描いたのかもしれないなあとか…。

栗之助は、愛すべきモンスターだ。あの個性の強さと押しの強さ、そして思ったことを口に出さないではいられない無邪気さ。歌舞伎役者のプロ意識の激しさと歌舞伎という世界に風穴を空けたい矜持とを理解したうえで、ああいう風に描かざるおえなかった?栗乃助をゲイにしたのは弱い部分もある、その部分を理解しているという松尾さんなりの受け入れ方だったりするのかなと。穿ちすぎかと思うが、まあここは書かせてください。

それでもやっぱり同じ表現者として「影響しあえた」部分も描いて欲しかったというのが正直な気持ちではあるけれど。

松尾さんは今回のお芝居で自分に手ごたえを感じなかった場合、当分、芝居を書くことをやめるつもりと公言していた。そして、その成否は「染五郎」にかかっていると。そして、その「染五郎」に「歌舞伎役者」としての本分を捨てさせた。どう出るか?冒険だったんだろう。私は染五郎さんは役のためならなんでもやる、その覚悟がある人という認識で、だから今回の役は冒険じゃないと思っていた。だけど、松尾スズキさんが染五郎さんを松尾さんのリアルな世界のなかで素材として扱うという部分でやっぱり冒険だったのかもしれないと感じた。

そして松尾さんは言う、稽古を始めてみて楽しかったと。染ちゃんがとても良いのだと言う。たぶん、染五郎さんがすんなりと松尾スズキの世界に入ってきたことが嬉しかったんじゃないかと思う。染五郎という人は「真っ白でいる」ことを自分に課している役者だ。その覚悟を染五郎さんに感じたからこそ、天久六郎があんなにも可愛らしい切ない男になったのかもしれないなあ、とか。六郎という造詣は「許せない男」じゃなくて「許される男」だ。松尾さん、甘いんじゃないの?って思ったけど、染ちゃんとやるうちに甘くなっていったんじゃないかなと。

そして妙に等身大の男性としてそこにいた天久六郎は染五郎さんの松尾さんのイメージであり、そして松尾さん自身だ。染五郎さんと松尾さん、ピタリとどこかハマった部分があるんだと思う。個人的に「受け入れる」という感覚の部分がどこか似通った資質をお互い持っている気がする(あくまでも気がするだけだけど)。

千穐楽で私は天久六郎に演出家のそして演劇人としての宿命が見えた。あー、染五郎さんであり松尾さんだって、とっさに思った。崩れて崩れても、どんな状況でも「よーい、はい」の世界のなかに居るしかない自分。居なくちゃいけない自分。居たい自分。生きていくことの哀しさのなかでそれでも生きていく。ああ、そうだ、そんなものが見えた気がした。

ただ、私には選び取る能動的なものがないのが不満ではある。どうせならその意思もみせてほしかった。でもまだ松尾さん自身がその段階じゃないのかもね。「居て欲しい」と後押ししてほしい段階なのかも。そして松尾さんにとって「生きていくこと」そのものが贖いの対象なんだなあなんていうのも感じた。そして天久六郎が「贖わなければいけない」のは『女教師は二度抱かれた』は彼の物語だからだ。山岸諒子、そして鉱物、江川昭子はそのなかに内包されている。あくまでも天久六郎の物語であった。あまりに脇道のエピソードが多いから、そこを上手く掬い取れてなかった。でも、あの世界はすべて天久六郎が感じた世界だ。内省から始まり内省で終わる。

だから染五郎さんの「夢から醒めないで」のラストでの最後の最後まで哀しい顔、というのは正解だと思う。

役者に関しては皆が皆、きちんと自分の役割をこなしていたという部分でまとまりがあったと思う。アクの強さが役者の個性としてじゃなく松尾スズキの世界の住人としてあったと思う。

ただ、栗乃助@阿部サダヲさんの歌舞伎役者としての説得力のなさの部分をもう少し何か補えなかったかなと思う。象徴としてのキャラとしては十分かもしれない。でも「歌舞伎」を描いてほしかったという意味でやはりもっとどうにかしてほしかった。愛すべきモンスターとしての存在感は十分でした。

サダヲちゃんの影に隠れて書いてなかったけど弁慶@荒川良々の「歌舞伎」の模倣もひどすぎて、やらせるな~って思ったけどね。それとなんだろ、栗乃介と弁慶の精神的繋がりの部分でもね、足りなかったな。

天久六郎@染五郎さんは贔屓目込みで書くけど六郎として軸がまったくぶれていなかったという意味で見事に演じていたと思う。六郎としてのごく自然な、不安感、優しさ、甘え、流されてしまう弱さ、受け入れることの強さがあった思う。染五郎さんにとってこの役は意外性がない代わりに自身の近しい感情を自然に出すという部分で案外大変だったかもしれないなと今更のようには感じました。ただ、そろそろ来月の歌舞伎に向けて稽古に入っているからか、ぐだぐだにやらなければいけない歌舞伎所作が微妙に綺麗になっていたり、メリハリのない弱い台詞のはずのとこで時々声を張ってしまい妙に響かせちゃったりと、ふと歌舞伎役者の地が出てました。あ~、あなたはやっぱり歌舞伎役者(笑)

それにしても、『女教師は二度抱かれた』は私にとっては語りがいのある芝居だったな。まだたぶん、あれこれ反芻するだろう。まだこの感想は第一稿って感じです。で、結論としてはやっぱり、こういうものに出る染五郎さんを追いかけるよってことだったりもする。

歌舞伎座『八月納涼大歌舞伎 第三部』 3等A席前方中央

2008年08月21日 | 歌舞伎
歌舞伎座『八月納涼大歌舞伎 第三部』 3等A席前方中央

『新歌舞伎十八番の内 紅葉狩』
リアル雷の音が劇場に響いた一幕。ってインパクト強かったのはそこかいっ。えーっとですね、二部三部を続けてみますと似たような羽目物、しかも前幕がお父さんの勘三郎さん、というのは勘太郎くんに不利ですな…。あれだけボロボロな勘三郎さんの踊りでしたがやっぱり、場の吸引力とか大きさとかメリハリとかオーラとか全然違うんですよ。お父ちゃん、すごいわ、という感想になっちゃう。ごめんよ勘太郎。

勘太郎くんは若手のなかでは踊りは上手いし、兼ねる役者なので姫も鬼もどちらもいけるはず。しかし今回はちょっと小さくまとまりすぎかなあ。今まで彼が踊りで見せていた勢いとか熱が今回前面に出てこなかった。更科姫ではしっかり赤姫の品があったし可愛い雰囲気もあって、なにより形がいいし丁寧。でももっとほのかな色気とかしなやかさとか出せるような気がするんだけど。声を潰しちゃって女形の声が出てない、というのもあるけど、どちらかというと体全体から滲む出る雰囲気が硬い。うーん、最近姫役をやっていないせいかなあ。鬼女の本性をチラリと出すとこ、三階から見るとあまり「異」が出てなかった。だから引っ込みでいきなり股を割るのが急に単に男ぽい雰囲気になったという印象になり…。あそこもう少し女の部分残して欲しい。鬼女は印象が薄い出来。大きさとか勢いとかがあまり無い。珍しく回転軸が少しブレてたしなあ、ここからというところでフッと小さくなる感じ?なんだろ~???

平維茂@橋之助さん、姿は本当にいいです。私は海老蔵より橋之助さんのほうが歌舞伎顔としてはほんとの二枚目だと思うわ。だけど今回、堅物な貴人ていう雰囲気があまり無く、なんか面倒なとこきちゃったって雰囲気のほうが強かった…。なんかこう高貴な方って感じがしないのよね。最近では錦之助さんの維茂が一番雰囲気あったなあ、と思う私。

今回とても良いと思ったのは右源太@高麗蔵さん。左源太@亀蔵さんも頑張っていた。中堅役者の実力と堅実さがよくみえました。高麗蔵さん、第二部、三部とも何気にとっても良い感じ。

田毎@家橘さん、岩橋@市蔵さんの中堅コンビも確実だったけどいつもよりなんとなくピリッとした味わいが足りなかったような?

山神@巳之助くんは…。腰が入ってませんねえ。力任せにやってるだけ。足踏みの音が浅すぎ。これからもっと精進してください。坂東流の家元になる人なんだから。


『野田版 愛陀姫』
私はオペラのアイーダは観たことないし筋も知らない。でもそのままの普通の単なる翻訳劇だなという印象。だって登場人物の行動様式がまんま西洋劇。国家と個人の葛藤という部分も西洋的な感覚のまま描かれるし。

芝居としてはまあまあ面白く観れた、特に後半。ただ歌舞伎に翻案しきれてないなあと。それと演出もほとんどオペラ様式のままじゃない?オペラは古典的な演出のものを数本しか観て無いけど、あらオペラまんまじゃないという感じ。野田さんらしさは美術と人心の弱さ、怖さを加えたところくらいかなああ。濃姫のラストは野田さんオリジナルだよね?違う?

それにしてももう少し日本の時代物として翻案してほしかったかなあ。あとスケール感がないのがねええ。オペラぽい演出と野田さん独特の小世界がうまく噛みあわなかったかなあ。音の使い方も中途半端な感じが。もうこうなったらそのまま西洋楽器だけで流したほうが気持ちよかったかも?(笑)しかもラスト、なぜかアダージェット…。野田さ~ん、何かでも使ってなかったっけ?この曲好きなのはわかるけどここで使わなくても~~。

オペラを歌舞伎に、というアイディアはいけると思ってた。私自身が前から、もしかしたら面白いかもとか思ってた。だけど思った以上に西洋のものを日本に移植するのは難しいのねえ~と思いました。

ただ、なんだかんだ、ちゃんと演劇にはなっていたという部分は面白かった。

濃姫@勘三郎さん、なんであんなメイクなの?もっと可愛く作ってよ~~~。不気味すぎるし、年増女に見えるよ~。声がいつも以上に潰れているのもそれに拍車をかけてる。基本、濃姫は赤姫タイプで作ったほうがいいんじゃなの?10年前の勘三郎さんだったらなあ、もっと全然いけてたと思うんだけど…。なんというか最近、女形をする時の硬軟のバランスが悪い。最近、硬の部分出そうとしてそれが力みになってる。それと品格の部分、もっと出せるよね?ビックリするくらい品のいい貴人を演じてきてたのに、最近出せないのはなんでかなああ。とちょっと文句は言いつつも芝居の上手さという部分では改めて、上手いと思った。濃姫の傲慢な切なさがよく出てた。ただ恋に一途な愚かさの部分がね、ねちっこさに転化されちゃつてちょっと違うかなあと。なんかもったいないなあ。濃姫じゃなく愛陀姫のほうが案外良かったんじゃないかと思ったり。

愛陀姫@七之助くんはよく頑張っていた。台詞もしっかり気持ちを伝えようとする台詞だったし、恋する女の一途さが良く出てた。存在感もだいぶ出てきていい女形になりそうって思う。ただ、勘三郎さんの濃姫とのバランスは悪い。恋に一途でそれゆえに愚かに嫉妬する女という部分で濃姫を七之助くんでも良かったかも。

駄目助左衛門@橋之助さんはこちらの役のほうが似合ってた。もう少し悩める男でもいいかなとか思いましたが。

歌舞伎座『八月納涼大歌舞伎 第二部』 3等B席下手寄り

2008年08月21日 | 歌舞伎
歌舞伎座『八月納涼大歌舞伎 第二部』 3等B席下手寄り

ほぼ2ヶ月ぶりの歌舞伎座&歌舞伎鑑賞。この2ヶ月はストレートプレイばかり見ていたせいか、8月の歌舞伎座は若い人がいつもより多いのに、うわあ、年齢層高いなあとつい思ってしまいました…(笑)それにしてもマナー悪っ、前ノメラー多い、とちょっと(--;)な感じが…。ま、3等席で文句言うなという感じですが。ただそれでも歌舞伎座の「ハレ」の雰囲気はやはり良いですねえ。意味無くウロウロしたりしてました。

『つばくろは帰る』
新歌舞伎ですよね。わりと普通のお芝居に近い、という部分でストレートプレイと比べちゃいました…ダメじゃん私。このところのストプレの転換の早さに慣れていたせいか、テンポがすごくまったりに感じられてとっとと進まないかな、なんて思ってた私です。でも、だんだん慣れてきて文五郎が京都に着いてからはわりときちんと見れましたが。ベタベタな人情劇だなあとか、人と人の距離感がこってりだなあとか、母子の対面の所でかなりホロリときたわりにストレートすぎて乗れず仕舞い。そうか、歌舞伎ってこういう世界だったっけ。屈折しまくりの芝居をこのところ続けざまに観てたので、なんというかこそばゆくてね…。とっても良い話だと思うですけど。

文五郎@三津五郎さんが非常に良かったです。江戸っ子気質の大工、というものが体現されていました。しかし、まあ結局は君香に一目ぼれっすか?お互いの立場がわかってるんだからちょっとは躊躇しないさいよ、と突っ込みも少々。ほんとは見た目より若いんだろうね(笑)どうしても三津五郎さんだともっと思慮分別がありそうな棟梁にみえちゃうね。

君香@福助さんは前半、ちょっと作りすぎな感じがあってどうかなあという感じだったんですが後半の母性を感じさせるとこはとってもよくて泣かせました。でも祗園の芸妓というより江戸前の芸者ぽいよね。

舞妓のみつ@七之助くんが可愛かった~。健気で優しくて、きちんと自分の立場をわきまえてるのが切ない。

三次郎@勘太郎くんはこういう職人さんみたいな役、似合うよね。いい感じでした。

鉄之助@巳之助くんはいわゆる上手さはないけど楽しそうにやってるのがいい。

安之助@小吉くんも一生懸命。

女将おしの@扇雀さんだったのはわからなかった…<双眼鏡忘れてしまっていて…。なぜか上村吉弥さんあたりかと勘違いしてました。祇園の女将という雰囲気が体全体から出ていて良かったです。

掏摸お銀@高麗蔵さんが伝法な感じで印象に残りました。こういう役の女形だとピッタリ。


『大江山酒呑童子』
今年の納涼歌舞伎で一番期待してたのがこれです。が、期待しすぎたかも…。

私は勘三郎さんの熱が伝わってくる舞踊が好きです。でも今回はちょっと伝わってこなかった。疲れているんでしょうか?なんだかちょっと痛々しいくらい体のキレがなかった。それでも童子のほうは独特の異のオーラとか舞台の支配力とかそんなものは見事だった。やっぱりこういうところ勘三郎さんじゃないと出せない。ただ、鬼神になってからが動けてなかった。あんなすそ裁きする人じゃないでしょ~~~~~(泣)

串田さんの美術は相変わらずちんまりですね。もっと舞台を大きく使って欲しいんだけどなあ。ラストも3階の後ろからだと迫力不足。1階からだとおおっと思ったのかな?あれだけのために所作台を小さくしたんでしょうけど、個人的には所作台はきちんと敷いて欲しかったな。足裁きの音がねえ違うんですよ。良い音がすこんと来ない。

四天王はレベルが揃ってないので…。まあ納涼は修行の場でもあるので、若干二名はがんばれ~ってとこですね。勘太郎くんはやっぱ上手いな。

パルコ劇場『ウ-マン・イン・ブラック』 S席前方上手寄り

2008年08月17日 | 演劇
パルコ劇場『ウ-マン・イン・ブラック』 マチネ S席前方上手寄り

とっても面白かったです。でも怖いよ~、怖いよ~。心臓に悪いです、このお芝居。

ロンドン発のゴシックホラーPLAYです。原作がスーザン・ヒル『黒衣の女』。ゴシックホラー好きなら読んだことがあるでしょう。いわゆるゴシックホラーの典型的な物語です。これをそのまま芝居にするのではなく「芝居」の二重構造に脚色しています。この脚色が良いんですよ。「芝居」ってどういうものなのか、って部分も語られる。翻訳劇ってあまり観ないのけど評価が高いものを観ているせいか、戯曲が密で、構成が上手いものが多いなという印象。

そして、劇中劇として語られる『ウ-マン・イン・ブラック』の物語の立ち上げ方もいい。演出がまず上手い、そして役者が良い、そのうえにスタッフワークも良い。上質な芝居です。ゴシックホラー好きは観に行くといいよ。

不満はほとんど無いですが基本、会話劇なのでこの芝居にはもう少し小さい小屋のほうが似合っているかもしれません。観客側のイマジネーションも必要とされる芝居なのでそれを喚起されるために必要な臨場感はパルコ劇場の真ん中通路より前の座席かなと。私は幸いなことに真ん中の列より若干前のほうだったので最初からハマって観られましたが後ろのほうだと集中力が必要かも。これから観に行く人は体調をよくして行きましょう。

演じる役者は二人。役者が上手くないと見せられないタイプの芝居ですが、上川隆也さん、斎藤晴彦がハマり役。上川さんの爽やかな直球のお芝居と斎藤晴彦さんのベテランらしい上手さがかみ合っていました。

上川さん、この方も舞台の上のほうが光る役者ですね。張りのある声とまっすぐな情熱がダイレクトに伝わってきます。また感情表現がほんとに上手いなあと。「主役を張る人」のオーラがあります。

斎藤晴彦さんは舞台上では初めて見たんですが、とにかく上手い。複数の役を演じるのですがその切り替えが見事です。ほんとに全然違う役に一瞬にしてなってしまう。物語の流れ的には上川さんが主役ですが舞台上の空気をコントロールしていたのは斎藤さん。

ネタばれ厳禁な内容なので芝居の内容に関してはあらすじを紹介するだけに止めます。

【あらすじ】
ヴィクトリア様式の小さな劇場。舞台には特別な装置やセットはなく、ガランとしている。そこへ中年の弁護士キップスと若い俳優が相次いで現われる。キップスには青年時代、家族や友人にも告白できないような呪われた体験があった。以来、その記憶のために悪夢に悩まされ、安らぎのない日々を送っていたのだ。悩みぬいた末、キップスはこの忌まわしい記憶を、家族に打ち明けようとする。あの怪奇な出来事を劇場で語ることによって、悪魔祓いにかえ、呪縛から解放されようというのだ。その手助けに、若い俳優を雇ったのだった。
 キップスの告白はひどく長い。そのため、俳優が“若き日のキップス”を、“キップスが出会った人々”をキップスが演じるという上演の形が、俳優から提案される。 そして「芝居」は始まった。

【原作】スーザン・ヒル
【脚色】スティーブン・マラトレット
【演出】ロビン・ハ-フォ-ド
【出演】
上川隆也:俳優/ヤング・キップス 
斎藤晴彦:オールド・キップス/キップスが出会った人々

シアターコクーン『女教師は二度抱かれた』 2回目 S席1階前方センター

2008年08月16日 | 演劇
シアターコクーン『女教師は二度抱かれた』2回目 ソワレ S席1階前方センター

1回目(8/10)に観た時に松尾スズキさんの視点の在り様は好みなんだけど芝居としてはかなり物足りない感があって、なんでだろうなあ?なんて疑問とともに観劇前に『文學界9月号』に掲載された脚本をざっと立ち読みなんかしてみたり。文字だけだともう少しテーマが際立つ感じはした。あとやはり私小説系の戯曲だなという印象。でも基本的なとこで広がりがないかなあ、という感じも。そんな予習をしてからの2回目観劇でした。結局劇場で『文學界9月号』買いました。

で、2回目に臨んだんですが、すでに物語を把握していた分、薄い部分がもっと見えちゃって、なんでそうなるわけ?という不満が募る。とにかく歌舞伎界サイドのキャラクター造詣の薄さに、なぜそうなる?という疑問符が沸くばかり。滝川栗之介の存在感の無さって何?安部サダヲさんの芝居の濃さ&テンションの高さと反比例してこのキャラ必要ないのでは?な印象がますます…。ほとんど箸休め的使い方しかされてない。安部サダヲさん、荒川良々さんあたりは大人計画ファンを満足させるためにいつもの使い方で宴会芸させてみましたとしか思えないんですけど(毒)

歌舞伎界側の人間をまったくと言っていいほど本筋に絡ませないのはなぜですか?松尾さんにとって歌舞伎界はそんなに遠い存在ですか?演劇界のヒエラルキーのtopにある存在だと思っている節がありますがどうしてですか?歌舞伎のことをまったく知らない人が書くのならまだしも知っていてなお表面をなぞるだけの世界しか描かないんでしょうか?滝川栗之介というキャラが歌舞伎役者で女形である意味をまったく見出せないです。歌舞伎の世界をどういう切り口であれしっかり描いてくれれば芝居自体に深みが出たと思うんだけどなあ。

今回の芝居の視点はあくまでも弱者側にあって、その弱者が弱者を傷つけた悲哀とか罪悪と許しとか、強者の側に行くことの後ろ冷たさとか、そんなものが描かれているんだけど、そのなかで歌舞伎は「絶対的な強者」としての側面しか描かれない。かといってその強者としてのエネルギーが何かを、磁場を持つってこともない。人と人が交差していかない。誰かが何かをすることで傷つく人間がいる。それが人生と謳うのなら、絶対的価値観が底辺にあることで揺らぐ世界の人の悲哀も描くべきでは?

松尾さんが描きたかったものは前回以上に伝わってきた。私小説的に自分を投影しているのは天久六郎@染五郎さん、山岸諒子@大竹しのぶさん、鉱物@浅野和之さん、江川昭子@池津祥子さんの4名。だって基本この4名だけで話済んでしまうもの。プラス、「劇団ビリーバーズ」という名の自分のアイディンティティのひとつであろう小劇団という場への愛情かな。上へ上と行こうとして壊れやすくなっている人たちそれぞれのどこか掛け違っていく感情が愛しいのだろう。それはわかる。でも、己の成功していくうちに忘れてしまった見失ったもの、を直視してないよね。自分のずるさをもっと出そうよ、と思う。「落とし前」と付けなくちゃと思うのであれば、幸せの前借をしたと思うのであれば、「逃げた自分」「流された自分」をもっと表現してほしかった。

天久六郎は初っ端から自己反省をしはじめている。でもその前があるはずでしょう?「落とし前をつける時期」がくるその前が。それが描かれて無いと引き受けた重さに潰される。六郎のずるさを描こうよ、流れてしまう弱さをもっと描こうよ。

鉱物のほうは松尾さんがなりたかった自分なんだろうなと思った。一途に愛する人のためだけに生きる人生。そのために誰かを犠牲にしてもいいと思える強さ。愛に狂った男。

でもさなんかね、ただ切ないだけで終わらせるのはどうよ?と思ってしまう私であった。感情のすれ違い、行き違い、そんな不幸な流れをどこかで受け入れる。でも受け入れることの大きさも描こうよ。

結局劇場で『文學界9月号』を買っちゃったのは松尾さんが表現したかったものをもっときちんと知りたいため。なんで不満足な芝居の戯曲を買わなきゃいけないんだよっ。どーしてだよっ、私。でもだから気になるんだよ。方向性は嫌いじゃないから。

それにしても外に向かってない芝居だなあ。内へ内へと向かっている。私小説的芝居という観点でみると自己完結している。でも視点を下に置くのはいいけど、引っ張りあげることもしたほうがいいよ。好きと愛してるは免罪符にならないよ。受け入れることだけじゃダメなんだよ。山岸せんせいを救おうとするなら泉ちゃんも救ってあげようよ。これが「現実」なんだとしても。

と、まあ本筋に関してはモヤモヤが続いています。

滝川栗之介@安部サダヲさんははたぶん、歌舞伎を背負う重さをもつキャラだ、というその部分はわかっていると思う。でも表現するべき場が少なすぎるうえに、滝川栗之介というキャラをオン、オフともにテンションmaxにさせすぎ。CM撮影のシーンでプロ根性の凄みを出してもよかったような?なんだろ緩急が少なすぎ。テンションmaxのサダヲちゃんを期待する客が多いから?それで評価されるしね。個人的に今回の安部サダヲを全面評価できない。厳しい部分を出せるのに出さないってどうなんでしょう。いくらでも表現する隙はあると思うのです。この際、歌舞伎役者にまったく見えないのはどーでもいいです。今回の箸休め的キャラに甘んじてほしくない。ラスト一瞬だけ出すけど、もう後が無さすぎ。うーん、ほんと今回のサダヲちゃんの使い方はもったいない。このキャラ、褒められてるんで普通のファンにはいいんでしょうけど、。でも物語設定に対して、という部分でまったく使いこなせてないよね。

天久六郎@染五郎さんは気弱で、でも「俺のことわかって~」と叫びだしたくてしょうがない、でもその弱みもみせたくない、そんなまだ大人になりきれない男の子でした。その先に行きたいけど、その先へ行くことへの不安をどこかもてあましてしまっている自分の居場所を決めかねているそんな風情。悩める男としての等身大さがいいです。でも演劇界の風雲児と呼ばれるどこかぶっとんだ雰囲気もみせてほしかったかなあ。松尾さんはそこを求めてなさげでしたが…。山岸諒子@大竹しのぶさんとのバランスは良かったと思う。滝川栗之介@安部サダヲちゃんとのバランスは今回イマイチだった。朧でのライとキンタでのコンビネーションはいずこ?

染ちゃんファン目線で言えばやはりかなり可愛いです。ふにゃ~とした顔もポニョポニョしたお腹も、テンションひく~い、眠そうな目も、やたらとセクシーな横顔も。子供ぽく歌う「先生と待ち合わせ」のはじけっぷりも可愛い。最後のほうの感情が爆発してしまう部分の、すべてを飲み込んだその哀しげな表情や切ない台詞廻しは「ああだから染ちゃんのこと好きなんだよね」とか思ってしまったり。歌の生声が聞けたもの個人的に萌え系でした。ラストの「夢から醒めないで」のとこ、前回以上によく声をだしていた。歌うこと、案外好きなんじゃないかなあ。

山岸諒子@大竹しのぶさん、「女優」としての腹の括りよう感動を覚えた。表情の凄みに今回やられた。歌の『吐息のジュテーム』の「あたし女優」のフレーズのとこの表情がすごかったよ。今回は狂いの部分よりここにやられた。可愛らしさと凄みの同居。それと弁天小僧の台詞回しが、ほんと上手い。何でここまでできるの?ってくらい凄かった。拍手もんです。歌舞伎の台詞廻しに関してはサダヲちゃん、負けてるよっ(笑)

あーなんかこれ感想?って感じの文章になりました…。

ps.
もっと言いたい放題:

今回の芝居はいわゆる「振れ幅」が少ない。脚本家の自己完結系物語だから、役者や観客が物語を膨らませる余地が少ない。

松尾スズキさんは気持ち的に弱者側。 歪んだ救いはみせるけど、ストレートな救いはみせない。弱者と弱者じゃ傷の舐めあいになるから、だろう。私小説、という部分での解釈として、書きますが…たぶん「成功した自分」に開き直れていないでは?成功したことで傷ついた部分も多分にありそうだし。松尾さんは基本的に弱者への共感が多い人なんだと思う。弱者の強さもわかってるからこそ真正面から弱者を描けるのかなと。外れた人の弱さも強さもひっくるめて描く。ただ、強者の弱さはまだ描けてない。この部分、まだ自分を見つめ切れてないってとこかなあとか。

シアターコクーン『女教師は二度抱かれた』 S席1階前方センター

2008年08月10日 | 演劇
シアターコクーン『女教師は二度抱かれた』 マチネ S席1階前方センター

普通に楽しく面白かったです。松尾スズキさんは猥雑でいや~なお話を書く、という事前情報でどんだけいや~な話なんだとワクワク期待してたんですが、わりと真っ当でまっすぐな芝居でした。個人的にもっといや~なところを期待してたんで、ちょっと拍子抜けな感じも。私小説ぽい芝居、という部分で微妙に人間不信なネガティブさはありましたが、どちらかというと「男の子」な芝居。男というより男の子(笑)。なんだ可愛い芝居じゃん、という印象です。

ただ本質的な部分で突っ込みきれてないな、というところは不満。特に歌舞伎界の部分。まったくと言っていいほど描かれていない。「壊そうと思っても壊れない」その世界をどんなアプローチでもいいからきちんと表現してほしかった。阿部サダヲさんならその部分もきちんと表現できたはず。今回、あまりにステレオ的で表面的すぎでした。歌舞伎役者の個としての葛藤とか重圧とか、根っこにある伝統の強さとか。いくらでもやりようがあったと思うのだけど。滝川栗乃介@サダヲさんの役の意味がほとんどないというのは…。一番の不満点はここですね。女形である意味も歌舞伎役者である意味も見出せない。しかも本筋に絡まなさすぎ。せめて立役なのにゲイという設定のほうがまだ栗乃介の歌舞伎を壊したいというモチベーションの在り様がでたかもしれないかなあとか思ったり。うーん、とにかく滝川栗乃介と天久六郎が精神的な部分で絡まないというのはどうにも使い方としてツマラナイしもったいない。やっぱり「歌舞伎」の世界を描くのって難しいのかなあ。今まで歌舞伎外の演出家の人たちの「歌舞伎」に絡む作品を色々観てきて、いつもいつもどこか遠慮があるというか踏み込んでいかないイメージがあるのだけど今回もそうだった。せっかく染五郎さんがそちらの小劇場演劇の世界に飛び込んだんだから、松尾さんにもその覚悟をみせてほしかった。

滝川栗乃介@阿部サダヲさんに関してはいつものいわゆるサダヲさんのキャラそのまま。我侭さが許される天真爛漫な憎めなさ。この持ち味を活かしてもっとなんとかならなかったかなあ。テンションの高さの裏に秘められた重圧や屈折をみせる、という方向にしてほしかった。結局は天久になんの影響を受けさせない程度のキャラクターで本筋の周辺でワーワー騒いで終わるのってどうなんだろう。お騒がせキャラだけど可愛いってところだけで納めないでほしかったなあ。物語上の役割の不満は相当ある。またサダヲちゃん、歌舞伎役者としての説得力は思った以上に皆無だった…というよりまったく歌舞伎役者としての呈をなしてない、ひどさ。あれじゃ「大根役者」とすら言ってもらえないと思う。歌舞伎というのは一朝一夕で出来るものじゃないのは判っていたけどなんでもこなせそうなサダヲさんでも無理なのかと唖然とした。ほんとに「歌舞伎役者」として存在することの難しさを知りました。でも、そこの部分は「サダヲちゃんだから」で許せました(笑)

天久六郎@染五郎さん、可愛いしカッコイイしでどこがダメダメ男やねん、という。個人的にほんとのダメダメのどーしようもなくかっこ悪い役を希望?してたので、あれ?と肩透かし。普通に女が許しちゃう可愛い男でした。しかも普通に素敵だし。松尾スズキさんの自己が投影されている役だと思うのですが、おいおい、これじゃ「可愛い素敵な俺」になってますがっ。この役、もっと無神経でダメ男じゃないとラスト活きないと思うんだけどなあ。天久六郎は流されやすいし甘ったれだけど、純真で優しい。向き合わないといけないところできちんと向き合ってる。これは「おとしまえ」をつけきれない男じゃないよ。型を外したところの「つっころばし」かな。染五郎さんの殻を破るほどのダメさ加減じゃない。新境地な役とまではいかなかった気がする。もっと崩させてもよかったと思う。とはいえ松尾スズキさんが思う以上に染五郎さん自身のオーラに自然なふんわりした優しさがあるし崩しきれない品のよさの部分で純真さが現れてしまった部分もあるかも。今回の場合、良いのか悪いのか等身大の普通の男性としての可愛らしさがありすぎです。

パンツ一丁のはだかは筋肉バッチリの太ももと上半身の細さのアンバランスと適度な肉付きのお腹はある意味エロい。もっとぽよぽよお腹のだらしな~いのを想像してたので…。これ34歳男子としていい感じじゃん?着物姿にベストな肉付きがたまらん、という方向です、私的に(笑)。学ラン姿は微妙な似合い方で(笑)歌は普通に上手いですね。アイドルチックな振りが笑えた。染ちゃんの自然体なローテンションな姿を見られるという意味でファンにかなり美味しい役でありました。眼鏡というか薄い色のサングラスが似合いすぎ。作業着姿は正直、萌え系でした。あ?私だけ?

山岸諒子@大竹しのぶさんは可愛いです。山岸諒子はほんと可愛い女だなあ。まっすぐすぎたゆえの不幸な女。それにしても正気と狂気の狭間の部分の自然さが凄いです。改めてほんとに上手い女優さんだと思った。それとオーラが濃いですねえ。出てくるだけで場を締めるし、役柄にスコンと入りきってしまう。凄いとしかいいようがない。 終盤に行くにつれ山岸せんせいと天久の絡みはとても切なくて、大竹しのぶさんと染ちゃんの持ち味が自然にいい感じで浮かび上がってきたんじゃないかなと思いました。

鉱物@浅野和之さん、最初の得体の知れなさから諒子さんを一度捨ててしまったことでの罪悪感で尽くす切ないという方向へ転換する役を説得力持って演じていました。雰囲気がいい部分と諒子一途さの怖さがある部分とが絶妙。

江川昭子@池津祥子さん、ある意味やはり一途。でもその一途さはどこか歪んでいる。彼女のしたことは実は「おとしまえ」が必要。無自覚の罪ですね。やったことの「ずるさ」を彼女自身わかってないんじゃないかと。六郎と同罪な気もしなくもなのだけど彼女の「好き」の気持ちで許される。「好き」は免罪符にならないよと思うけど 松尾さんのなかでは免罪符になっている。池津祥子さんは高校時代の江川が良かった。なんかヘンな女の子ってところが(笑)


とりあえず楽しめたのだけどもっと、もっと何かが欲しいという、いつもの私のパターンに入り込みました。どんだけハードル高いんじゃ、と自分でも思うが。何かイヤな感じの方向でいいので「おっ!」という引っかかりが欲しかったです。このまま行くのか変わるのか。とりあえず次回を楽しみにして。ただの染ちゃん萌えだけで終わるのはイヤかな。

追記:ラストの「落とし前」のありかたがなんとなく納得できない件

六郎は見ない振りして逃げ回っているというように見えなかった。いつも罪意識があって、成功した自分を許せないでいる。それがインポテンツに繋がっているわけで。どこかで落とし前をつけなきゃいけないという意識が底のほうにある。山岸先生が現れた時、ほんとに逃げ回るようなずるさがあったら、あの場、逃げると思う。でもちゃんと対応する優しさがある。もう受け入れることを予感させるわけ。染五郎さんの持ち味がそう感じさせてしまう部分もあるかなとは思うけど、ほんとのずるさ、みたいな部分がないとラスト、落とし前をつけきれてない六郎にならないような気がする。もっと目の前のことに逃げる卑怯さとかがみえてもいいかなあ。

松尾スズキさん、江川に「ずるさ」の部分を引き受けさせすぎなのかも。だってあれ普通乗せられちゃうでしょ、六郎じゃなくても。山岸先生、おれのこと好き?って勘違いしてるわけだし。まさか山岸先生が最後までやらせてくれるとも思ってなさそうだし。それに恋人とデート中にやらせる山岸せんせも山岸せんせだし、とか思ってしまうわけで…。なんというかシチュエーションがね、「約束」の重さみたいなとこがみえないのがなあ。もう少し描いてもらえればまた違ったかなあとか。山岸せんせのトラウマって六郎のせいじゃないし。


【ストーリー】
演劇界の風雲児と呼ばれる劇団の演出家は、歌舞伎界の異端児と注目されている女形とタッグを組み、新しい現代の歌舞伎を創造しようと、威勢よく狼煙を上げている。そんな前途洋々の彼の前に、高校時代の演劇部の顧問である女教師が突然現われる・・・。これは、壊そうと思っても壊れないものと、壊れてほしくないのに壊れていくものの物語である。

【作・演出】
松尾スズキ

【出演】
市川染五郎:天久六郎
大竹しのぶ:山岸諒子
市川実和子:白石 泉
阿部サダヲ:滝川栗乃介/研究生
荒川良々:弁慶/動物/修学旅行生
星野 源:元気/三郎/助監督
池津祥子:江川昭子/パート
ノゾエ征爾:つげ/研究生
宍戸美和公:輪尾/ババア/クルーゼ妻/メリヤス/動物/修学旅行生
少路勇介:ポッキー/録音部/動物園職員/救助隊員/工員
村杉蝉之介:家出/パート
菅原永二:山木/一宮カノン/副主任/研究生
皆川猿時:克夫/司会/主任/ディレクター/救急隊員
平岩 紙:杏/研究生/ウエイトレス/黒子
浅野和之:鉱物圭一
松尾スズキ:ルクルーゼ/ダンサー/お子様ランチ/一本木