Snowtree わたしの頭蓋骨の下 *鑑賞記録*

舞台は生もの、賞賛も不満もその日の出来次第、観客側のその日の気分次第。感想というものは単なる個人の私感でしかありません。

パルコ劇場『SISTERS』ソワレ S席前方センター

2008年07月26日 | 演劇
パルコ劇場『SISTERS』ソワレ S席前方センター

パルコ劇場に長塚圭史作・演出、松たか子主演『SISTERS』を観に行きました。これからこの芝居を観る人は前知識なしのほうが確実に楽しめるので読まないほうがいいと思います。

長塚圭史さんの芝居は今回がお初。上演時間は約2時間15分で休憩なし。終始緊張感が保たれ長さをまったく感じませんでした。とはいえ、淡々と進むので物語に沿えないと退屈する可能性もある微妙なバランスでの芝居でもあったと思います。この芝居好き嫌いが分かれそうです。私はといえば嫌いではない。むしろ好きな方向。ただし、「うわあ、これ見てよかった~!!!!」と素直に言えない。何かが足りない。 (観た直後より後になってジワジワきました。物足りなさ、という部分は最初思ったのと変化はないが、題材の捉え方に対してはもっと考える余地が出て、あれこれ咀嚼する面白さを感じています。8/4追記)

まず良いところ。とにかく役者たちが皆良すぎです。長塚さん、イギリス留学前にパルコから贅沢な壮行会を開いてもらった(いい役者を揃えて長塚さん好きに芝居作っていいよ~)ってとこじゃ、と勘繰りたくなったよ(笑)この役者たちにこの芝居やらせんのか!って感じ。いや、まあこの役者陣だから緊迫感溢れた芝居になったわけで。ここにヘタな人が入ったらまったく台無しになったと思う。それほど危うい芝居でもあった。

松たか子、鈴木杏、田中哲司、中村まこと、梅沢昌代、吉田鋼太郎の6人が相当レベルの高い芝居をしています。特に松たか子、鈴木杏の熱演が圧倒的だった。なんか力技でどーんとやられたって感じ。なんというか神経がザワザワして感情移入できない登場人物ばかりなのに(田中哲司だけは別だが)、意識をどこかに投げる暇を与えない。どうしても集中して観てしまう。

馨@松たか子さんは、前半はいつもの役柄と違ってかなり弱々しいです。終始おびえている。自分の存在への肯定と否定が絶えず葛藤している、そんな役柄のたか子ちゃんは妙に可愛くて色ぽかった。後半は感情を剥き出しにしていくのだけどここはもう、なんというか彼女独特のオーラが出て、凄いとしかいいようが。怒りと哀れさとが交じり合った台詞に惹き込まれる。馨は自分が汚いというけど、たか子ちゃんの馨はあくまでも真っ白で無垢な女性。その繊細さゆえの精神の崩れが尚更痛々しい。高麗屋はほんとこういう純粋な狂気の芝居が上手い。でもって心身ともに体当たりすぎて「大丈夫かな?」とつい心配にもなってしまう。

このたか子ちゃんに対峙する美鳥@鈴木杏さんがまた良い。いやあ、杏ちゃんも元々、天才少女ではあるけど、でも数年前に比べすんごく上手くなった。芯の太さと繊細さ、そのバランスがよかった。それとやっぱ杏ちゃんには華がある。たか子ちゃんの華とは違った色の強い華。美鳥の片意地張った強さと弱さのなかに毒々しさが秘められていた。

信助@田中哲司さんはたぶん儲け役。でもニュートラルな役柄にぴたりとハマってイヤミがまったくない。普通さをそのまま納得させて存在感もきちんとある、ってなかなか難しいんじゃないかと思う。個人的に信助というキャラクターはそのままニュートラルな状態で先に行って欲しい。馨と共に生きることで変質していかないといいな、なんて思いながらみていました。支配されることに慣れてしまった馨を解放してあげられるのだろうか。

礼二@吉田鋼太郎さんは男の身勝手さ、弱さ、父としての苦悩、不安、そんなものを等身大の男として体現していた。上手いです。

優治@中村まことはいやらしい小市民な男をストレートに徹底的に。愛嬌とかそういうものを見せないところが見事だ。

稔子@梅沢昌代さん、妙な存在感。背景がみえないキャラだけに不安感を一番誘う。

それから演出&美術もかなり良かった。長塚さん演出の腕前はかなり良いんじゃないかと思う。舞台は一つの部屋のみ、にもかかわらず別々の2つの部屋として成り立つ。厳密にいえば3つの部屋になる。そのうえで時空も簡単に超える。空間、時間の立ち上げ方がかなりスムーズで洗練されていて上手い。美術も良かった。部屋はリアルなところと微妙に書割な雰囲気とがmixされているのだけどそれが効果的。バスルームの使い方も上手かったな。不安感を象徴的する部屋。ラストも照明と水の使い方がある種幻想的で印象的(ただしラストに関しては個人的に不満なので舞台の使い方の上手さとして、ということではあるが)

あら、ここまで書くと大絶賛かよ、な勢いですが。でもね~、違うんです。肝心の長塚さんの脚本なんですよ。物語の構成力は見事です。ミステリ好き的にこの構成のうまさには惹かれました。また題材(近親相姦、それも父の娘に対しての性的虐待)に関しても誠実に向き合っている。だけどね骨格はしっかりしているのに血肉があまり付いてないんです。言葉の使い方かなあ。日本語なんだけどどこか翻訳調で綺麗なんだけど膨らみがないというか。この題材だともっとヒリつくものがあるべきかと思うんだけど、そこが足りない。ドロドロした題材なのに、いやなものをきちんと見せようとはしているのに、でもどこか綺麗。終始不安を煽る台詞であり、演出であり、それに沿った役者たちの熱演。ここまで揃ってるのに足りない。たぶんこの芝居には必要なのは「剥き出しの長塚圭史」。理論武装しすぎてるのではないか。あえてこの題材を選んだんなら、もっとギリギリの研ぎ澄まされた感情が欲しい。問題の捉え方は悪くない。ただ、なんていうのか頭で組み立てすぎ、というか。感情の部分で曝け出せてない。じゃあ長塚さんはこのテーマをどう考えてるの?ってところで知識以上のものが出てきてない。こういう題材をテーマにしたいなら自分自身がもっとキツいとこまでこないとダメじゃないかなと。勝手なこと言ってますが…表現者としてもっと自身の感情に自信を持ってくれ、と。 たぶん、その象徴がラストの父と娘の選択。ダメだよ。あれは絶対ダメ。


【ストーリー】
舞台は・・・ある寂れたホテル。

このホテルの女主人でありレストランを切り盛りしていた操子が数ヶ月前に亡くなった。今は彼女の夫であり、このホテルのシェフである三田村優治(中村まこと)がホテルを経営している。しかし、操子の死後、客は遠のき、優治の料理の評判もいまひとつ。そこで優治と従業員の稔子(梅沢昌代)は、優治の従兄弟で、東京のビストロでシェフをしている尾崎信助(田中哲司)にレストランの新メニューを作ってもらうよう依頼した。

新婚である信助は、妻の馨(松たか子)と共にこのホテルにやって来る。このホテルの一室には10年ほど前から、操子の兄であり小説家の神城礼二(吉田鋼太郎)が娘・美鳥(鈴木杏)と共にひっそり暮らしていた。美鳥が馨に近づいてくことにより、馨の隠された過去がじわじわと忍び寄ってくる。

【配役】
尾崎馨-----------松たか子
尾崎信助---------田中哲司
神城美鳥---------鈴木杏
神城礼二---------吉田鋼太郎
三田村優治-------中村まこと
真田稔子---------梅沢昌代

【スタッフ】
作・演出---------長塚圭史
美術-------------二村周作
照明-------------小川幾雄
衣裳-------------伊賀大介
ヘアメイク-------河村陽子
演出助手---------山田美紀
舞台監督---------菅野将機

宣伝美術---------有山達也
宣伝写真---------久家靖秀
宣伝PR---------る・ひまわり

プロデューサー---佐藤玄/毛利美咲
制作協力---------伊藤達哉
製作-------------山崎浩一
企画製作---------株式会社パルコ

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完全ネタばれ補足:自分用覚書(8/4追記)

>長塚さん、作・演出に対して
視点は絶えず弱者の女性側にあって、男性側の支配的な「愛」は否定している。どちらかというと娘の親としての父に対する愛情のほうが焦点。その違いはちゃんと描いている。でもこの部分、どうしても「愛」で括られてしまうのできちんと区別しては描けない。これはどうしようもないところで、性的虐待じゃなくても色んな虐待児が結局は親を求めてしまう部分を描かざるおえない。その人間の哀しさみたいな部分で描いてる。父のほうはまったく正当性を持たないままではあると思う。でもやはり「死」というものを選ぶ安易さは否めないし突き詰めて描ききれてない。

またその帰結の部分で物語上、2重構造になってて、彼らの「死の意味」が曖昧にされてるのが一番の難点。そこら辺、ちょっと逃げ、だと思う。ここにいたって死を選ぶ当事者の葛藤がないまま。だから傷ついても親を求めるしかない娘の哀れさが立ち上がってこない部分を感じた。

>水の演出
演出が綺麗すぎるのが個人的にはマイナス。やった意味合いはわかるんだけども。水を大量に使う。父娘の小さい世界の崩壊、馨の精神の不安定さ、女の生む性であるための弱さと強さ(羊水への連想)、そして象徴的に使われたバスルームでの「死」等々、すべてを孕んでそのなかでもがき苦しむ。でもねえ、実際問題、透明な水って綺麗だし、すべてを包み込むイメージがあるので罪を内包してしまう。それでいいのか?照明にあたってキラキラしてる様の美しさをどう判断すればいいのか。これが血の色だったら?と考えたが長塚さんはあえて封印したとのこと。確かにそれだけで痛みを表現するのはかえって安易か。それにしても水には包み込むイメージもあるから使い方が難しい。観る人によっては気持ち悪いとか怖いと思ったらしいのでこれは解釈は人それぞれにという部分でもあったかな。

>馨@たか子ちゃん
精神的にも肉体的にも不安定な役。馨は父に犯され、守ろうとした妹も餌食され彼女を守れなかったことへの後悔に打ちひしがれているのだけど、それでも父が妹を連れ死んだことに対してなぜ父は自分を選んでくれなかったのかと怨んでもいる。<ラスト判明する。結婚したものの自分がこのまま幸せになれるかどうか不安がっている。そして自分と同じ目にあっている杏ちゃんを助けようとするのだけど、精神のバランスも崩れていってしまう。

>美鳥@杏ちゃん
現在進行形で父と関係を持ち、それが愛情だと信じ込もうとしている娘。近親相姦を知った叔父(血の繋がりはない)からは脅され、肉体関係をもたされている。妊娠(父のほうの子)してしまったことで、確固たる自信がなくなり不安がって誰かに助けてもらいたいと自分で知らず知らず信頼おけると思った人に父との関係を話してしまう。が妊娠は美鳥の選択でもある。今回の「物語」を生み出すきっかけのキャラクター。

この物語のなかで不幸になるのは女ばかり。この二人だけではない。ただ、心根がまっすぐな青年が一人いるので救いは少しだけだけどある。でもその青年もどう転ぶかわからない危険もはらんでいる<これは私の解釈。

>ラスト
美鳥@杏ちゃん親子を馨@たか子ちゃんの父&妹に重ねてる。そこでようやく馨の父が妹を連れ死んだことを観客は初めて知る。馨がなぜ美鳥親子に深入りし、そこまで狂えるのか、って部分を見せるという部分で物語構成は上手い。<小説的、なのかもしれない。

馨が「なぜ私じゃないの」と父の遺体にすがり「父さん、父さん」と繰り返す。その前のシーンで凄まじい憎しみ&心の傷を美鳥父に向けるだけにそれだけじゃないものも抱えてしまった娘が立ち上がってきます。
*舞台上には美鳥と美鳥に父の死体。馨のなかで自分の父と妹に変換されている。

だけど、その二重構造は美鳥親子と完全に重ねられるものではなく、そこでじゃあ美鳥親子の選択はどうなんだ、という部分が曖昧になっちゃう。

>美鳥父
児童文学作家で自意識が少々過剰な人間。美鳥のことは完全に囲い込もうとはしていない。自分のしていることの自覚はあるが、それ以上に人間として弱い。言い訳をしながら毎日を生きている、そういうタイプ。彼なりの美鳥に対する愛情の言い訳は馨の前じゃまったく意味を成さない。という構成。共感を起こさせる一歩手前に押さえられている。ここの場面は力量がないと無理。吉田鋼太郎さんがよくぞギリギリの部分で演じてくれた、と思うし、そこに松たか子の凄まじい身を抉るような対峙があるので成り立っている。

美鳥といえば、父の愛情を試すために妊娠する。これは美鳥の選択。この事実を馨から告げられた美鳥父は愛と言い訳していたものが完全に崩れ、動けなくなってしまう。そこに馨と父の会話をすべて聞いていた美鳥がそれでも父のほうに飛び込んでいく。美鳥はあくまでも子供が親を愛する感覚のみだけで突き進んだのか。

そのまま倒れこむ美鳥と父→馨のなかで自分の父と妹の死体になる。それまでにも芝居の途中で馨の妄想が視覚化されているので美鳥と父の感情の部分が「曖昧」なまま馨の父と妹の死体になってしまう。

>馨自身の過去、
妹を父から守ろうとするけど、父がいわゆる暴力だけで支配していないので<馨の言葉で「最初の頃は優しいの、騙されないで」という台詞がある。妹のほうは関係を持たされたあと、馨に忠告されるのを振り切り、父のご機嫌を取りにいってしまう。 たぶん性的関係を強いられた妹は11,2歳。父は娘の生理が始まった途端性的関係を始めるという設定なので馨も年の時にだろう。母は不在(死に別れか離婚かはわからず)の家庭。

馨と妹の過去は短くて示唆するだけのシーンだけどすべてが読み取れる。演出、上手い。

>馨と旦那の関係。
馨の旦那は優しいし暴力は振るわない。少し不安定な馨を受け止める度量のある男性。ただ、優しすぎるゆえか、馨が支配的なものを求める(コンプレックスゆえ?)のでその求めに応じてしまう面がある。この夫婦のありようは愛情のあり方って難しいと考えさせられる部分だった。どう受け入れるべきかってとこで。

>>ラストのラスト
馨の旦那が精神のバランスを崩しかけた馨に「帰ろう、家に帰ろう」って呼びかけるの。馨はふっ、と我にかえって「うん」と応える。

このシーンは最初からこの夫婦の関係性をみてないと解釈が難しい。また役者の芝居の仕方とかでも変化する場面だし。演出意図もどこまで含まれるかな部分も。このシーン、信助@田中さんは怒鳴るように命令口調だ。なぜだろう?

東京オペラシティ『ピエール=ロラン・エマール ピアノ・リサイタル』 B席3階RA3扉

2008年07月15日 | 音楽
東京オペラシティ・コンサートホール『ピエール=ロラン・エマール ピアノ・リサイタル』 B席3階RA3扉

3年ぶりのエマール氏のリサイタル。この方のテクニックと音色の多彩に惚れこんでおりまして今回もすごーく楽しみにしておりました。現代音楽の旗手と言われるエマール氏、私の現代音楽への苦手意識を取っ払ってくれたピアニストの一人。また、モーツァルトの演奏では透明感溢れる繊細で優しく可愛らしい音色での演奏ぶりで実に幅の広い演奏家であるというところにも目を瞠らされたのです。

今回は現代音楽中心ではなくカーターとメシアンを間に入れつつ古典の難曲と言われているバッハ『フーガの技法』とベートーヴェンの晩年のピアノ・ソナタ『ピアノ・ソナタ第31番』を入れたプログラム。

で、ですね、まず素直な感想として「や~ら~れ~た~!」という感じです。なにがって、想像していた演奏と違ってたんです。なんじゃ、こりゃ~!なわけで…。なんていうの?古典のつもりしてたら全部コンテンポラリーだったというか。今回はピエール=ロラン・エマール俺様コンサートでした(笑)解釈がね、とっても独特なんです。つらつらと思い返すに凄い演奏を聴いてしまった気になっております。咀嚼するのに時間が掛かったということかもしれない。

バッハなんだけどバッハじゃない、ベートーヴェンなんだけどベートーヴェンじゃない。バッハが、ベートーヴェンが、現代音楽に聴こえるの。なんですか?これは?ある意味破壊して再構築してみましたな感じ。作曲家の精神性とは違う部分でその曲の「事象」を提示してました。これに気がついたのは後半の演奏になってから、という情けなさ(笑)凄まじいテクニックに裏打ちされているので、かえってそれに気がつかない。だってきちんとバッハでベートーヴェンなんだもの。でも違うんですよ。カーターとメシアンと同列なの。普通、そこを同じに置かないでしょ?根っこは同じ、という発想での演奏会でした。

前半はあれ?なんか調子悪い?肩に力入りすぎ?とか思ったんです。バッハに柔らかさがまったくないの。素が剥き出しになった音が連なり曲の構造そのままが提示されちゃう感じ。でもその代わりカーターやメシアンが少しばかりクラシカルな叙情が含まれる。音の面白さ、曲想の面白さが色彩とともに浮いてくる。あら、エマール氏はやっぱ現代音楽のほうが良い人なのか、なんて感じで。でも後半になって、「あっ、違う」ってわかりました。後半のバッハとベートーヴェンが凄まじかった。へたすりゃおいてきぼりになりそうなぐらいの勢いの演奏。曲想に浸る暇なんてないです。曲そのものを剥き出しにした感じというか、その曲の「事象」がそこにあるって思わせるようなそんな演奏。あ、これはコンテンポラリーだってようやくわかりました。精密すぎてクラシカルな叙情に流されないの。ちゃんとバッハでベートーヴェン、でも違う(笑)とにかく「面白い演奏会」でした。

そしてアンコール曲がまたすごいんですよ。カーターとメシアンを計6曲。これを楽しく面白く聴かせちゃう。たぶん、エマール氏、してやったりだったと思う。現代音楽って面白いでしょ、バッハ~ベートーヴェンから脈々と続く音楽のひとつなんだよ、って一つの演奏会で見せちゃった。

それにしても音出し自体が3年前の時は曲想によって変化させていたのに、今回はすべて同じ音色で弾ききりましたよ(^^;)ピエール=ロラン・エマール氏の音色の豊かさバリエーションの多彩さを知らない人が聞いたら、同じ音色の人って認識されちゃうよ…。いや、それでもかなり多彩でしたけどね。この方が弾くと、色がぽんぽんと曲に付いていくんですよ。

力強さと色彩がみえる華やかさと硬質さ、一音づつの明快さと流れるようなタッチ。すんごい複雑で早いテンポの曲を軽々と弾いてしまう。ミスタッチが一個もないんですよ。とんでもないテクニック。だからこそ、現代音楽を楽しく面白く聴かせられるんだろうなとつくづく思いました。

ああ、しかしこれクラシック音楽素人にはオススメできない演奏会でもあったかも(笑)素人な私はあやうく「…」で終わったかもしれない危険性大だった。でも3年前のコンサートがあったから、あの音色を聴いていたから、なんとなく意図を感じ取れたような気がする。ハードル高かった。


【曲目】
J.S.バッハ:フーガの技法 BWV 1080から 
 コントラプンクトゥスI/3度の対位における10度のカノン

カーター:2つのダイヴァージョン

J.S.バッハ:フーガの技法 BWV 1080から 
 5度の対位における12度のカノン
 反進行における拡大カノン

メシアン:「8つの前奏曲」から
 第2曲 悲しい風景の中の恍惚の歌 
 第5曲 夢の中の触れ得ない音
 第8曲 風の中の反射光

*******

J.S.バッハ:フーガの技法 BWV 1080から 
 コントラプンクトゥスX/コントラプンクトゥスXII.1 
 コントラプンクトゥスXI/コントラプンクトゥスXII.2 
 コントラプンクトゥスIX(12度における)

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 op.110


【アンコール曲】
カーター:カテネール(日本初演)
メシアン:「8つの前奏曲」から 鳩
メシアン:「4つのリズムの練習曲」から 火の島第1、第2
カーター:マトリビュート
メシアン:静かな訴え

新宿コマ劇場『SHINKANSEN☆RX 五右衛門ロック』 S席中央センター

2008年07月13日 | 演劇
新宿コマ劇場『SHINKANSEN☆RX 五右衛門ロック』 S席中央センター

役者本位で観たら楽しいかも。役者それぞれに、特にゲストには見せ場たっぷり。お祭り系の顔見せ芝居としてみれば十分楽しい。総じて、役者さんたちは皆すごく良かった。

でもゲストに見せ場がありすぎて肝心の五右衛門@古田新太さんが主役であって主役じゃなかったのが少々残念。小技を色々やっていたし、古ちんらしいキャラで活き活きとはしていたけれどもうちょっとなんとかしてあげてと思った。いわゆる狂言廻し的役割かな。「五右衛門」の意味があったのか?と。でもまあラスト付近の名乗りのとこは異常にかっこよかった!!歌舞伎役者になれるよ、古ちん! それとお色気対決の時のバックダンサーしてた時が妙におかしくて私的ツボに入りました。あれは可愛かった。

主役オーラがあったのはクガイ@北大路欣也さんかな。あの存在感はすごい。いるだけでいい、という。友人いわく地獄の黙示録のマーロン・ブランドだそう。確かにそうだ。すべてにおいて重量感がある。いると舞台が締まるんですよね。佇んでいるだけでクガイの人生を醸し出す。また殺陣がカッコイイです。殺陣筋がずっしりとい重いんですよ。さすがです。あの渋い声で歌ってしまうのも素敵。まさか歌うとは思ってもみなかった。

カルマ@森山未来くんが弾けてたというか第二の主役かも。まあよく動く、動く。ダンスが上手いのはモチロンだけど、歌もしっかりしているし、台詞も前にきちんと届く。

岩倉左門字@江口洋介さんは思った以上に新感線の舞台に馴染んでて良かったなあ。姿がいいし台詞も上手い。とぼけた感じが可愛いし、予想以上にいい感じ。殺陣は腰が浮いてしまってまだまだな感じでしたが…。でも存在感あるし、これからも舞台に色々立って欲しいです。

ペドロ・モッカ@川平慈英さんはなんーつか、いやあ、面白いわ。あの気持ち悪い役をノリノリで演じるなんて…楽しい。絶えず動き回って、はじけてて、それで歌も上手いしダンスもできるし。舞台人なんですね~。

真砂のお竜@松雪泰子さんも色ぽいしカッコイイし。でも歌、ヘタじゃないのに歌詞が届かないのがチト難点かも。

シュザク夫人@濱田マリ&ボノー将軍@橋本じゅん夫婦がちっちゃいのが可愛かった(笑)。この二人、妙にバランスよかったな。

インガ@高田聖子さんはいつものパターンだけど、でもやっぱ間が良いというか、緩急があってやはり上手い。

と、役者で見たらすごく良かったんだけど、物語本位で観たら、とっちらかりすぎ、グダグダすぎ。やってることはいつもの少年ジャンプ系のノリにルパン三世を足しましたな感じなんですが…。イメージ先行でうまく脚本にまとめられなかったのかな、という感じです。どうせならもっと五右衛門をどんと中心の添えて破天荒なものにして欲しかった。中島さん、微妙にやっつけじゃない?あと演出も間延びしすぎ。

特に1幕目がどーにもこーにも、だらだら。新感線はまあ、いつも一幕目は間延びしがちなこと多いけど、それにしても…。あの大音量の芝居のなかウトウト眠ってる観客も複数名いたし…。殺陣が無駄に多いと思ったのは初めてだ。今回、いつもより単調な殺陣が多かったような気がするのは気のせい?舞台転換の上手さは相変わらずで、そういう部分はいつも感心する。

二幕目は一応物語も動くし個々の役者の力技でなんとか一気に見せていった。特に白波五人男ばりの名乗りのツラネの演出は素敵でした。森山未来くんはここでは台詞廻しに若さがでちゃって、がんばれ~っていう感じだったけど、松雪さん、江口さんが案外いい感じにパシっと決めて、そしたら古ちんが「おおっ、それはちゃんと歌舞伎役者に習いましたね?染ちゃんお手伝いしましたか?」な歌舞伎口調での名乗り。なんかこれでそれまでのグダグダを許そうかなって感じでした。

そういえば、いつもは配役表に歌詞も載せてくれるのに今回無かったのが残念。台詞は皆きちんと届くのだけど、歌となると全然届かない人がいたり、部分部分、聞き取れなかったりしたので歌詞カードはきちんと作ってほしかったなあああああ。物語の流れで大事な詩がいっぱいあったと思うんだけど。

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【あらすじ】
時は桃山の世。豊臣秀吉の寝所に忍び込んだ石川五右衛門は、岩倉左門字ら役人の手でお縄になり、三条川原で釜茹での刑に処されることになった。その五右衛門の葬式を仕切っていたのが謎の美女、真砂のお竜。そこを訪れた左門字は五右衛門の死を信じていない様子だったが、棺桶に入った黒焦げの死体を見ると帰っていく。しかし実は、その棺桶に死体と一緒に納まっていたのは、五右衛門!お竜や手下たちが釜に仕掛けをしておいたおかげで、生き延びていたのだ。
そこに現れる、うさんくさい南蛮人ペドロ・モッカたち。このイスパニアの貿易商が五右衛門救出作戦の出資者で、お竜と組み、ある宝玉を盗み出してくれる人材を探しているという。その宝とは南の果てにあるタタラ島に眠るといわれる神秘の石“月生石(げっしょうせき)”だ。
タタラ島を目指して船出する五右衛門一味。さらに、五右衛門生還を知った左門字も船で追ってくる。だが、この二艘の船を猛烈な暴風雨が襲い、一同は海に投げ出されてしまう。
なんとか南の島に流れ着いた五右衛門と左門字は、生き永らえた…と思った途端に原住民に襲われる。そして捕らえられた二人の前に現れた人物こそ、タタラ島国王のクガイだった!絶体絶命のピンチに陥った五右衛門と左門字だが、そこに砲撃が。クガイを憎む、バラバ国のカルマ王子、ボノー将軍と妻・シュザク夫人が攻め込んできたのだ。
“月生石”の持つ力とは…?クガイとはどういう因縁を持つ男なのか…??果たして、五右衛門の運命やいかに!!

【CAST】
石川五右衛門…古田新太
真砂のお竜…松雪泰子
カルマ王子…森山未來
岩倉左門字…江口洋介
ペドロ・モッカ…川平慈英
シュザク夫人…濱田マリ
ボノー将軍…橋本じゅん
インガ…高田聖子
ガモー将軍…粟根まこと
クガイ…北大路欣也

彩の国さいたま芸術劇場『La La La Human Steps『Amjad』 』 S席1階センター

2008年07月07日 | 演劇
彩の国さいたま芸術劇場『La La La Human Steps『Amjad』』S席1階センター

彩の国さいたま芸術劇場にラ・ラ・ラ・ヒューマン・ステップスの『Amjad アムジャッド』を観に行きました。コンテンポラリーダンスもすっかり観劇範疇に入っている私です。

ピナ・バウシュやヤン・ファーブルのダンスを観た時はどこか演劇に近いものがあり彼らの「想い」どーんと伝わってくる感じがあったのですが今回は思想性というよりは極限の身体性を提示してくる感じ。肉体そのものから発する言語を受け止めろ、って感じ。反射的な感覚で観るしかない。まさにダンス、ダンス。観ていて筋肉が痛くなってきた(笑)脳より体が反応してしまう感じでした。あまりの速さ、極限で精密な動き。時々、ダンサーが人形に見えてきたり。2倍速だか3倍速で観ているような『白鳥の湖』のパ・ド・ドゥーにはすでに物語は無い、ただ動きがあるだけ。照明の効果で腕の軌跡が残像のように残る。意味を見つけようとしてもサラサラと指から零れ落ちてしまう。だけどどこか印象的。ジェンダーの意識がありそうでどこにも無い。女性性、男性性、あるのに無い。その不思議。ひとつの未来像か。ひどく安定感のある世界観だった。

全生庵『すずめ二人會 -夏の巻- 「怪談牡丹燈籠」』

2008年07月04日 | 古典芸能その他
全生庵『すずめ二人會 -夏の巻- 「怪談牡丹燈籠」』

昨年に引き続き、全生庵で行なわれた掛け合い噺第三弾『掛け合い噺 すずめ二人會 -夏の巻-』に行ってきました。怪談噺を全生庵で、という企画が良いですよね。また、アットホームな雰囲気でなごやかな会なのも素敵。今年のお題は『怪談牡丹燈籠』です。噺で聞くと筋がわかりやすいですねえ。昨年10月歌舞伎座での仁左衛門さん、玉三郎さんでの『怪談牡丹燈籠』の記憶も新しくその違いを比べつつ拝聴するのも楽しかったです。

林家彦丸『高砂や』
彦丸さんの噺は聞きやすいです。とてもストレートなので噺の内容が判りやすい。もう少し緩急があってもいいかなとは思うものの一生懸命演じてくださるので聞いていて、とても爽やかな気持ちになります。昨年に比べ、ご隠居の語りが巧くなっていたかも。

『鼎談』
住職さん、正雀さん、芝雀さん、三人の語り。一日三公演のなかの三回目となるとなんとなく疲れ気味でしょうか(笑)

圓朝師匠の若いときのエピソードが面白かったです。23歳くらいですでに『怪談牡丹燈籠』を創作したとか、やっぱ天才だったのでしょうね。

芝雀さんとの掛け合い噺は、相手を受る間が必要となるので大変だけど勉強にもなるとは正雀さん。

素顔で掛け合いをするのは抵抗があるか?と聞かれた芝雀さんは気にしていたら歌舞伎役者はやれない。いつも男同士、見つめ合ったりしてるんですから。歌舞伎もお稽古の時は素顔だし。舞台稽古でも衣装着ても顔は素顔だったりする。冷静に考えたら気持ち悪いこと平気でやってるとか(笑)

林家正雀 『怪談牡丹燈籠 -お露新三郎-』
お露と新三郎の出会いのところの噺。歌舞伎ではここのエピソードは省いていたので、きちんと聞けて楽しかったです。お互い一目ぼれで、というエピソードがあるので夜中に尋ねてくるお露を疑わずにいる新三郎の気持ちがわかるし。カランコロンの音が妙に気になるような語りでした。侍女のお米さんはやっぱり吉之丞さんがイメージに出てきてしまいます(笑)

中村芝雀・林家正雀『掛け合い噺 怪談牡丹燈籠 -お札はがし~栗橋宿-』
正雀さん新三郎・伴蔵・久蔵など男性陣を芝雀さんがお米とおみねの女性陣(人相見のみお互いに分担)とそれぞれに分担。お互い、熱演です。最初のうちなんとなく微妙に噛みあわないところがあったりしたのですが、どんどん息が合ってきます。そういう意味でなんとなく息が合いきれてない「お札はがし」のところより息が合ってきた「栗橋宿」のところのほうが面白かったです。男と女のまさしくバトル。いやあ、そうかあ~、今回、伴蔵がおみねを殺す動機がしっかり見えました。今回の伴蔵とおみねは気持ちが完全にすれ違ってしまった夫婦でした。

芝雀さんは役に入るとやっぱり「女」になるんですよね。素の時は「女」の気配をまったく見せない方なんですよね。それが役に入った途端、素顔でも「女」で見えてくる。「お札はがし」のところはあまり考えずに思いつきで行動するちゃっかりしているおみねだったかな、でもインパクトはあまり無かったですね。ごく普通の女房で、フと魔が差したように強欲になる、とかそういう部分があまりなかった。そこからくる面白みがあまり感じられず、あともう一つ何か欲しかった感じ。後半の「栗橋宿」おみねは良かったです。久蔵から真相を聞き出そうとするおみねのしたたかさ、そして夫婦喧嘩の時の怒りをお腹に溜めている様子、それが爆発してしまう様子。女の強さ、醜さ、切なさが見事に混在しているおみねでした。「栗橋宿」のおみねは凄かった…芝雀さん、こういうお役も出来るんですね。

正雀さんは前半、後半とも良かったです。等身大のそこに生きてる庶民。久蔵では気の良さとか酔っ払った様子がいかにもリアルで愛らしい男がそこにいました。また伴蔵の男の論理で押す弱さや開き直りの強さがやはり納得させる雰囲気。いかにもなキャラクターだからこそ、夫婦喧嘩が真に迫っていました。

ラストの殺しの部分は芝居仕立て。舞台上に二人とも立ち上がって演じていました。私は芝居仕立てにしなくてもいいんじゃないかと思ったんですが、友人に普通の落語でも一人で立ち回ってやる演出だよと聞いて、へえ、そうなんだと思った次第。確かに殺しの部分を語りだけでやるのはかえって難しいのかも。でも脅かすためだけに出てきた幽霊さん(正雀さんのお弟子さんらしい)はいらなかったかな。

打ち出し『かっぽれ』
怖い噺のあとは明るく踊りで打ち出し。これ、楽しくていいですねえ。

<出し物>
一、林家彦丸『高砂や』
二、鼎談:平井正修(住職さん)・中村芝雀・林家正雀
三、林家正雀 『怪談牡丹燈籠 -お露新三郎-』
四、仲入り
五、中村芝雀・林家正雀『掛け合い噺 怪談牡丹燈籠 -お札はがし~栗橋宿-』
六、打ち出し『かっぽれ』