ル テアトル銀座『アマデウス』 マチネ S席前方センター
7年前に初見して今回で2度目です。やっぱりこの芝居、戯曲がまず面白いです。「才能」という普遍性のあるものを扱っており、そこに「人対人」「凡人対天才」「俗対聖」「人対神」の二対立での人の苦悩を描き出している。「わかる」不幸と幸福。「わからない」不幸と幸福。芸術にたずさわる者のみならず人が生きるうえで誰しもが何かしら考えてしまうテーマかと思います。
観た直後は7年前と比べて演出がだいぶ変わった印象を受けたのですがじっくり思い出してみましたら舞台面の演出に大きな変化はないようです。幸四郎さんの演じ方(解釈は別として)も大きくは変化はない。印象が違ったのはアンサンブルの違い、そしてモーツァルトとコンスタンツェの違いが大きかったのかなと。今回はサリエリの「語り」のなかの物語という二重性が前回より活きていたような気がします。サリエリの愛憎のこもった語りに「人生」への愛おしさが加わったいうか。たぶん、今回のほうがモーツァルトとコンスタンツェ夫婦の愛情や、モーツァルトの父への思慕の部分が鮮明だったからかも。
サリエーリ@幸四郎さん、相変わらず鮮かです。舞台をすべてコントロールしきってる。オーケストラにたとえると指揮者ですね。そして台詞の緩急、芝居の間合い、立ち振る舞い、どれもこれもそれが正解としか言えないような芝居。幸四郎@サリエーリは嫉妬心にまみれた人としての滑稽さのなかに絶えず愛らしいユーモア感があるのが魅力。そこにすべてをひっくるめた人間賛歌が見え隠れする。悲劇的なれどパワーを感じさせる舞台になっているのはそのせいか。
しかしながら7年前を比べると身体性の衰えは否めない。キレ味が少しばかり鈍ってきたかなと。身体性の部分の芸の鮮やかを見せるにはギリギリなところかなと。ただ精神性のほうは深くなっていたような気がします。今回はモーツァルトへの嫉妬心より「神」との対話が深くなっていたように私には思えました。その分、サリエーリの俗の部分が少々薄れてたかな。自分の企みに酔っているような俗悪さは削られていた。反対に求めてやまないものを得ることのできない苦悩の深さ、また求めるものがそこに「ある」ことを認めざるおえない哀しさ、手の届くことの無い孤独感が深まっていた。才能を知る才能、求めるがゆえの不幸。ラストの「凡庸たる名もなき人々を許す」解釈は色々だと思う。前回、サリエーリの自虐的なそういう自分を許す言葉なのかと思ったのだけど、今回は神は許しを与えない、人は人だからこそ許せるという意味合いのところまで含まれてたのかなって思ったりも。神学的問題の部分は難しいなあ。
モーツァルトの武田真治とコンスタンツェの内山理名のバランスがとても良かった。二人とも舞台で観るのは初めてだったけど想像以上に上手い。発声もしっかりしてるし、舞台人としても色々やっていけそう。今回の二人は夫婦としてお互いのことを強く思ってる感がしっかりあって、この夫婦のありようをきちんと見せてきたのが良い。
モーツァルト@武田真治さん、子供がそのまま大人になってしまった純真さ、世間知らずさがあった。下品な言葉も子供がその語感に単純に喜んでいるようで卑猥になりきらない幼さがあり、その「子供ぶり」が後半の父への思いに繋がっていた。動きにもう少し工夫があるといいかも。どこか子供じみた軽やかさがほしいかな。キャラの捉え方はとても良かった。
コンスタンツェ@内山理名さん、芯の強さがモーツァルトへの愛情に繋がっているのがとてもよかった。女としてのしたたかさのなかに一途な愛情を秘めている。このコンスタンツェ、好きだな~。
風の二人を含めアンサンブルのレベルが非常に高かった。今回はいわゆる有名どころはいないんだけどそれぞれが高度にしっかりと演じてる。しかもまとまりも良い、誰一人漏れがない。これはほんとにお見事でした。
余談:
前回の染五郎モーツァルトはどこか品が良すぎて子供じみたところが少なく、また佇まいが知的すぎて頭が良すぎるゆえ感覚がどこかイッちゃった言動のようだった。可愛いかったけどニンじゃないなあって思って観てましたし今でもニンではないとは思っていますが、彼の良さだった部分もちょっと今回改めて思う部分も。染五郎モーツァルトの良さ、それは台詞と動き。とにかくころころと踊るように動き回り、その姿が音楽的な優美さに溢れ、また放つ言葉もすべて音楽的。卑猥な言葉すら音楽のように扱い言葉遊びとしての側面をみせていた。そうすることで「音楽」に愛されているモーツァルトを表現していた。ただやはり大人だった。『アマデウス』という戯曲のなかのモーツァルトにある幼児性、俗性の部分がほとんどなかった。染五郎モーツァルトは神の声を聞いてる自覚があり、それゆえ「音楽」だけに没入し音楽だけを愛するがゆえに不幸に落ちた孤独な青年だった。なんとなく染五郎さんでサリエリを観てみたいなと思いました。
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ル テアトル銀座『アマデウス』
作:ピーター・シェファー
演出:松本幸四郎
出演:
サリエーリ:松本幸四郎
モーツァルト:武田真治
コンスタンツェ:内山理名
【ものがたり】
1823年、晩秋のウィーン。街中で「モーツァルトの死はサリエーリの暗殺によるもの」という信じがたい噂が囁かれて いた。しかもその噂の出処は、サリエーリ自身であるという。既にモーツァルトの死後32年が経過していた。70歳に達するサリエーリは衝撃的な告白を始める…。
1781年。皇帝の寵愛を受ける宮廷作曲家、サリエーリ。この若き成功者には唯一気にかかることがあった。それは、弱冠25歳のモーツァルトの驚くべき評判の高さである。モーツァルトがウィーンにやって来ると聞いたサリエーリは警戒しながらもその演奏会場へ出かける。
しかし、彼が出会ったモーツァルトは、フィアンセのコンスタンツェと卑猥な言葉を口走る、行儀の悪い、軽薄な、子供っぽい青年だった。驚くサリエーリ。だがその夜、彼が耳にしたセレナーデ、その素晴らしさは、さらに彼を震撼させた。
浪費家で喧嘩好きなモーツァルトは、やがて仕事にあぶれ生活にも困るようになるのだが、その才能は尽きることがない。天衣無縫をそのまま具象化したような彼の楽譜の中にサリエーリは、“絶対の美”─“神の声”を見出すのだった。
幼い頃、神に一生を捧げると誓ったサリエーリ。ところがその神の仕打ちとは…。サリエーリは慄然とし、“アマデウス”を通じて神に命がけの戦いを挑むのだった。
7年前に初見して今回で2度目です。やっぱりこの芝居、戯曲がまず面白いです。「才能」という普遍性のあるものを扱っており、そこに「人対人」「凡人対天才」「俗対聖」「人対神」の二対立での人の苦悩を描き出している。「わかる」不幸と幸福。「わからない」不幸と幸福。芸術にたずさわる者のみならず人が生きるうえで誰しもが何かしら考えてしまうテーマかと思います。
観た直後は7年前と比べて演出がだいぶ変わった印象を受けたのですがじっくり思い出してみましたら舞台面の演出に大きな変化はないようです。幸四郎さんの演じ方(解釈は別として)も大きくは変化はない。印象が違ったのはアンサンブルの違い、そしてモーツァルトとコンスタンツェの違いが大きかったのかなと。今回はサリエリの「語り」のなかの物語という二重性が前回より活きていたような気がします。サリエリの愛憎のこもった語りに「人生」への愛おしさが加わったいうか。たぶん、今回のほうがモーツァルトとコンスタンツェ夫婦の愛情や、モーツァルトの父への思慕の部分が鮮明だったからかも。
サリエーリ@幸四郎さん、相変わらず鮮かです。舞台をすべてコントロールしきってる。オーケストラにたとえると指揮者ですね。そして台詞の緩急、芝居の間合い、立ち振る舞い、どれもこれもそれが正解としか言えないような芝居。幸四郎@サリエーリは嫉妬心にまみれた人としての滑稽さのなかに絶えず愛らしいユーモア感があるのが魅力。そこにすべてをひっくるめた人間賛歌が見え隠れする。悲劇的なれどパワーを感じさせる舞台になっているのはそのせいか。
しかしながら7年前を比べると身体性の衰えは否めない。キレ味が少しばかり鈍ってきたかなと。身体性の部分の芸の鮮やかを見せるにはギリギリなところかなと。ただ精神性のほうは深くなっていたような気がします。今回はモーツァルトへの嫉妬心より「神」との対話が深くなっていたように私には思えました。その分、サリエーリの俗の部分が少々薄れてたかな。自分の企みに酔っているような俗悪さは削られていた。反対に求めてやまないものを得ることのできない苦悩の深さ、また求めるものがそこに「ある」ことを認めざるおえない哀しさ、手の届くことの無い孤独感が深まっていた。才能を知る才能、求めるがゆえの不幸。ラストの「凡庸たる名もなき人々を許す」解釈は色々だと思う。前回、サリエーリの自虐的なそういう自分を許す言葉なのかと思ったのだけど、今回は神は許しを与えない、人は人だからこそ許せるという意味合いのところまで含まれてたのかなって思ったりも。神学的問題の部分は難しいなあ。
モーツァルトの武田真治とコンスタンツェの内山理名のバランスがとても良かった。二人とも舞台で観るのは初めてだったけど想像以上に上手い。発声もしっかりしてるし、舞台人としても色々やっていけそう。今回の二人は夫婦としてお互いのことを強く思ってる感がしっかりあって、この夫婦のありようをきちんと見せてきたのが良い。
モーツァルト@武田真治さん、子供がそのまま大人になってしまった純真さ、世間知らずさがあった。下品な言葉も子供がその語感に単純に喜んでいるようで卑猥になりきらない幼さがあり、その「子供ぶり」が後半の父への思いに繋がっていた。動きにもう少し工夫があるといいかも。どこか子供じみた軽やかさがほしいかな。キャラの捉え方はとても良かった。
コンスタンツェ@内山理名さん、芯の強さがモーツァルトへの愛情に繋がっているのがとてもよかった。女としてのしたたかさのなかに一途な愛情を秘めている。このコンスタンツェ、好きだな~。
風の二人を含めアンサンブルのレベルが非常に高かった。今回はいわゆる有名どころはいないんだけどそれぞれが高度にしっかりと演じてる。しかもまとまりも良い、誰一人漏れがない。これはほんとにお見事でした。
余談:
前回の染五郎モーツァルトはどこか品が良すぎて子供じみたところが少なく、また佇まいが知的すぎて頭が良すぎるゆえ感覚がどこかイッちゃった言動のようだった。可愛いかったけどニンじゃないなあって思って観てましたし今でもニンではないとは思っていますが、彼の良さだった部分もちょっと今回改めて思う部分も。染五郎モーツァルトの良さ、それは台詞と動き。とにかくころころと踊るように動き回り、その姿が音楽的な優美さに溢れ、また放つ言葉もすべて音楽的。卑猥な言葉すら音楽のように扱い言葉遊びとしての側面をみせていた。そうすることで「音楽」に愛されているモーツァルトを表現していた。ただやはり大人だった。『アマデウス』という戯曲のなかのモーツァルトにある幼児性、俗性の部分がほとんどなかった。染五郎モーツァルトは神の声を聞いてる自覚があり、それゆえ「音楽」だけに没入し音楽だけを愛するがゆえに不幸に落ちた孤独な青年だった。なんとなく染五郎さんでサリエリを観てみたいなと思いました。
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ル テアトル銀座『アマデウス』
作:ピーター・シェファー
演出:松本幸四郎
出演:
サリエーリ:松本幸四郎
モーツァルト:武田真治
コンスタンツェ:内山理名
【ものがたり】
1823年、晩秋のウィーン。街中で「モーツァルトの死はサリエーリの暗殺によるもの」という信じがたい噂が囁かれて いた。しかもその噂の出処は、サリエーリ自身であるという。既にモーツァルトの死後32年が経過していた。70歳に達するサリエーリは衝撃的な告白を始める…。
1781年。皇帝の寵愛を受ける宮廷作曲家、サリエーリ。この若き成功者には唯一気にかかることがあった。それは、弱冠25歳のモーツァルトの驚くべき評判の高さである。モーツァルトがウィーンにやって来ると聞いたサリエーリは警戒しながらもその演奏会場へ出かける。
しかし、彼が出会ったモーツァルトは、フィアンセのコンスタンツェと卑猥な言葉を口走る、行儀の悪い、軽薄な、子供っぽい青年だった。驚くサリエーリ。だがその夜、彼が耳にしたセレナーデ、その素晴らしさは、さらに彼を震撼させた。
浪費家で喧嘩好きなモーツァルトは、やがて仕事にあぶれ生活にも困るようになるのだが、その才能は尽きることがない。天衣無縫をそのまま具象化したような彼の楽譜の中にサリエーリは、“絶対の美”─“神の声”を見出すのだった。
幼い頃、神に一生を捧げると誓ったサリエーリ。ところがその神の仕打ちとは…。サリエーリは慄然とし、“アマデウス”を通じて神に命がけの戦いを挑むのだった。