Snowtree わたしの頭蓋骨の下 *鑑賞記録*

舞台は生もの、賞賛も不満もその日の出来次第、観客側のその日の気分次第。感想というものは単なる個人の私感でしかありません。

ル テアトル銀座『アマデウス』 マチネ S席前方センター

2011年11月19日 | 演劇
ル テアトル銀座『アマデウス』 マチネ S席前方センター

7年前に初見して今回で2度目です。やっぱりこの芝居、戯曲がまず面白いです。「才能」という普遍性のあるものを扱っており、そこに「人対人」「凡人対天才」「俗対聖」「人対神」の二対立での人の苦悩を描き出している。「わかる」不幸と幸福。「わからない」不幸と幸福。芸術にたずさわる者のみならず人が生きるうえで誰しもが何かしら考えてしまうテーマかと思います。

観た直後は7年前と比べて演出がだいぶ変わった印象を受けたのですがじっくり思い出してみましたら舞台面の演出に大きな変化はないようです。幸四郎さんの演じ方(解釈は別として)も大きくは変化はない。印象が違ったのはアンサンブルの違い、そしてモーツァルトとコンスタンツェの違いが大きかったのかなと。今回はサリエリの「語り」のなかの物語という二重性が前回より活きていたような気がします。サリエリの愛憎のこもった語りに「人生」への愛おしさが加わったいうか。たぶん、今回のほうがモーツァルトとコンスタンツェ夫婦の愛情や、モーツァルトの父への思慕の部分が鮮明だったからかも。

サリエーリ@幸四郎さん、相変わらず鮮かです。舞台をすべてコントロールしきってる。オーケストラにたとえると指揮者ですね。そして台詞の緩急、芝居の間合い、立ち振る舞い、どれもこれもそれが正解としか言えないような芝居。幸四郎@サリエーリは嫉妬心にまみれた人としての滑稽さのなかに絶えず愛らしいユーモア感があるのが魅力。そこにすべてをひっくるめた人間賛歌が見え隠れする。悲劇的なれどパワーを感じさせる舞台になっているのはそのせいか。

しかしながら7年前を比べると身体性の衰えは否めない。キレ味が少しばかり鈍ってきたかなと。身体性の部分の芸の鮮やかを見せるにはギリギリなところかなと。ただ精神性のほうは深くなっていたような気がします。今回はモーツァルトへの嫉妬心より「神」との対話が深くなっていたように私には思えました。その分、サリエーリの俗の部分が少々薄れてたかな。自分の企みに酔っているような俗悪さは削られていた。反対に求めてやまないものを得ることのできない苦悩の深さ、また求めるものがそこに「ある」ことを認めざるおえない哀しさ、手の届くことの無い孤独感が深まっていた。才能を知る才能、求めるがゆえの不幸。ラストの「凡庸たる名もなき人々を許す」解釈は色々だと思う。前回、サリエーリの自虐的なそういう自分を許す言葉なのかと思ったのだけど、今回は神は許しを与えない、人は人だからこそ許せるという意味合いのところまで含まれてたのかなって思ったりも。神学的問題の部分は難しいなあ。

モーツァルトの武田真治とコンスタンツェの内山理名のバランスがとても良かった。二人とも舞台で観るのは初めてだったけど想像以上に上手い。発声もしっかりしてるし、舞台人としても色々やっていけそう。今回の二人は夫婦としてお互いのことを強く思ってる感がしっかりあって、この夫婦のありようをきちんと見せてきたのが良い。

モーツァルト@武田真治さん、子供がそのまま大人になってしまった純真さ、世間知らずさがあった。下品な言葉も子供がその語感に単純に喜んでいるようで卑猥になりきらない幼さがあり、その「子供ぶり」が後半の父への思いに繋がっていた。動きにもう少し工夫があるといいかも。どこか子供じみた軽やかさがほしいかな。キャラの捉え方はとても良かった。

コンスタンツェ@内山理名さん、芯の強さがモーツァルトへの愛情に繋がっているのがとてもよかった。女としてのしたたかさのなかに一途な愛情を秘めている。このコンスタンツェ、好きだな~。

風の二人を含めアンサンブルのレベルが非常に高かった。今回はいわゆる有名どころはいないんだけどそれぞれが高度にしっかりと演じてる。しかもまとまりも良い、誰一人漏れがない。これはほんとにお見事でした。

余談:
前回の染五郎モーツァルトはどこか品が良すぎて子供じみたところが少なく、また佇まいが知的すぎて頭が良すぎるゆえ感覚がどこかイッちゃった言動のようだった。可愛いかったけどニンじゃないなあって思って観てましたし今でもニンではないとは思っていますが、彼の良さだった部分もちょっと今回改めて思う部分も。染五郎モーツァルトの良さ、それは台詞と動き。とにかくころころと踊るように動き回り、その姿が音楽的な優美さに溢れ、また放つ言葉もすべて音楽的。卑猥な言葉すら音楽のように扱い言葉遊びとしての側面をみせていた。そうすることで「音楽」に愛されているモーツァルトを表現していた。ただやはり大人だった。『アマデウス』という戯曲のなかのモーツァルトにある幼児性、俗性の部分がほとんどなかった。染五郎モーツァルトは神の声を聞いてる自覚があり、それゆえ「音楽」だけに没入し音楽だけを愛するがゆえに不幸に落ちた孤独な青年だった。なんとなく染五郎さんでサリエリを観てみたいなと思いました。

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ル テアトル銀座『アマデウス』
作:ピーター・シェファー
演出:松本幸四郎
出演:
サリエーリ:松本幸四郎
モーツァルト:武田真治
コンスタンツェ:内山理名

【ものがたり】
1823年、晩秋のウィーン。街中で「モーツァルトの死はサリエーリの暗殺によるもの」という信じがたい噂が囁かれて いた。しかもその噂の出処は、サリエーリ自身であるという。既にモーツァルトの死後32年が経過していた。70歳に達するサリエーリは衝撃的な告白を始める…。

1781年。皇帝の寵愛を受ける宮廷作曲家、サリエーリ。この若き成功者には唯一気にかかることがあった。それは、弱冠25歳のモーツァルトの驚くべき評判の高さである。モーツァルトがウィーンにやって来ると聞いたサリエーリは警戒しながらもその演奏会場へ出かける。

しかし、彼が出会ったモーツァルトは、フィアンセのコンスタンツェと卑猥な言葉を口走る、行儀の悪い、軽薄な、子供っぽい青年だった。驚くサリエーリ。だがその夜、彼が耳にしたセレナーデ、その素晴らしさは、さらに彼を震撼させた。

浪費家で喧嘩好きなモーツァルトは、やがて仕事にあぶれ生活にも困るようになるのだが、その才能は尽きることがない。天衣無縫をそのまま具象化したような彼の楽譜の中にサリエーリは、“絶対の美”─“神の声”を見出すのだった。

幼い頃、神に一生を捧げると誓ったサリエーリ。ところがその神の仕打ちとは…。サリエーリは慄然とし、“アマデウス”を通じて神に命がけの戦いを挑むのだった。

五反田ゆうぽうと『エオンナガタ』 C席2階後方

2011年11月18日 | 演劇
五反田ゆうぽうと『エオンナガタ』 C席2階後方

『エオンナガタ』はコンテンポラリーダンスの範疇でいいのかな。私、コンテンポラリーダンスが好きなんだわ~って今回も思いました。作り手がテーマをどう抽象化し形作っているのかって部分を受け止める作業がまず楽しいのです。『エオンナガタ』はダンスというよりは演劇要素のほうが強かったのでかなりわかりやすかったです。

両性具有として生きたエオン(シュバリエ・デオン)を主人公に歴史やジェンダー、アイディンティティーを神話や寓話のようにイメージの連なりで描いていった作品。三人が絶えず二極を表現していく。そのなかで人間の生(性)を切実に描き出した。生きることの切なさと滑稽さと。

かなりストレートにジェンダーを扱っていましたが、コンテンポラリーダンスをいくつかを観てきて思うのは、ジェンダーを扱う表現物としてダンスが一番相性がいいなあということ。ジェンダーの問題って身体性の問題と直結しているから身体を使って表現するダンスだと感覚的な部分で直接伝わってくるからなのかもしれません。

それにしても出演者のギエム、マリファント、ルパージュそれぞれが魅力的で彼らを観てるだけでわくわくしました。

全体的にはまずはルパージュの演出が目を惹きました。照明の使い方、衣装を含めた道具の使い方が美しくとてもスタイリッシュ。題名に「オンナガタ(女形)」の言葉を入れ込んだということで日本趣味がかなり入り込んでいるのだけどそのサジ加減がいい。どちらかというと歌舞伎より文楽のイメージのほうが強い。日本趣味のエッセンスは「文化」の深い部分を捉えてという感じではなかったが使い方はうまいと思った。特に「人形の頭+着物」の使い方が私は面白かった。無機質なものが生を放つ瞬間を捉えてたと思う。歌舞伎の女形という部分のエッセンスは私には見つけられず。

演劇要素が強いもののやはり基本は踊り。身体性の豊かさがあるからこその表現の連なり。そこに挟まれる台詞、歌に奇妙な味わい。演出家のルパージュが「役者」としての表現が一番豊かだったかも。ダンスの部分もそれほど見劣りしてないのが凄い。ダンス出身者じゃないて聞いて驚愕。

舞踊全体の表現は振り付けのマリファントがやはり一番身に沿っていた。体の使い方にまったく無理がなく自然。流れるように踊る。コンテンポラリーダンスは振り付け師のものだと思うのだけど、やはりそうなんだなと思う。何を表現すべきか、表現したいかがそこにその動きとして現れる。

ギエムは『エオンナガタ』という表現を包み込むミューズ、または奉仕たるものとしての捧げ物としてそこにいた。ただ立っているだけであの存在感。身体能力の高さと捉える空間の大きさが素晴らしい。その身体能力の高さゆえの表現力の緻密さ。それゆえにそこにその体があるというだけで「その場が表出」する。とはいえギエムのダンスを求めていった人には肩透かしだったかも。ギエムの身体能力の凄さは十分に伝わってきましたけど、それほど踊らせてはいなかったので。ギエムはきちんとバレエで観てみたいです。

日本の殺陣をイメージした振りが初っ端あるのだけど、ここの部分だけは西洋の身体性とは相容れないのかどこか無理感が…ちょっと残念って思ったかな。

『エオンナガタ』を観て、杉本文楽は絶対フランスで受けるに違いないって思った。「文楽」の汲み取り方が似てるもの。無機質と有機質の境界線を性愛の部分で捉えてみせるというところで。そこから人形エロスってのはなんなんだろねって思ったりもした。勉強不足なので捉えきれないのだけど。

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『エオンナガタ(EONNAGATA)』
演出:ロベール・ルパージュ
照明:マイケル・ハルズ
衣裳:アレキサンダー・マックイーン
音楽:ジャン=セバスティアン・コテ
作・出演者:シルヴィ・ギエム、ロベール・ルパージュ、ラッセル・マリファント

横浜みなとみらいホール『サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団』 C席3Fセンター

2011年11月06日 | 音楽
横浜みなとみらいホール『サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団』 C席3Fセンター

指揮/ユーリー・テミルカーノフ
ピアニスト/ルーステム・サイトクーロフ(「ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番」)

やっぱりこのオーケストラは凄い。音の波に圧倒させられる。ボリュームのある音というだけでなくひとつひとつ音が美しくアンサンブルが見事。ユーリー・テミルカーノフの指揮もほんとにお見事としか言いようがない。これだけのオケを最大限に使えてるんだもの。とてもダイナミックな音作りで音色が非常に豊か、それでいて緻密。

ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番 ハ短調』
オーケストラが鳴った途端、うわあああと唸ってしまいました。本当に厚みのある豊かな音色。緩急が効き朗々と叙情性溢れたこれぞラフマニノフって思ってしまう演奏でした。ピアノ協奏曲ですがオーケストラがあまりにドラマチックでオーケストラ中心の演奏といった趣。いやはや、ほんとに素晴らしい演奏でした。

ピアノのルーステム・サイトクーロフ氏、初めて聴きました。日本ではあまり知られていない方ですよね。ちょっと荒いとこもあったけど全体的にわりとゆったりしっかりとした演奏。繊細さのある硬質な綺麗な音色。若干、オケに負けていやというか突出したものはあまりありませんでしたがよくこのボリュームのあるオケと渡り合っていたなという印象。もう少し音色が多彩だといいな。

チャイコフスキー『交響曲第5番』
ただひたすら浸りきっておりました。なんとも深くて豊かな音色。これぞロシア音楽だという曲に対する説得力が半端じゃない感じ。弦の滑らかで深い音色と管の朗々たる音色のアンサンブルがほんと見事でした。


【プログラム】
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番 Op.18 (ピアノ:ルーステム・サイトクーロフ)
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チャイコフスキー:交響曲第5番 Op.64 

【アンコール】
ショパン:マズルカ イ短調
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エルガー:愛の挨拶
チャイコフスキー:『白鳥の湖』から4羽の白鳥の踊り