新橋演舞場『阿弖流為 昼の部』 3等A席前方センター
27日(月)千穐楽
新橋演舞場『阿弖流為』千穐楽です。おめでとうございます。
「わひとを ひとり 百(もも)な人、人は云へども抵抗(たむかひ)もせず」の阿弖流為@染五郎さんの声が耳について離れない。染五郎さの声は美声じゃないけどドラマチックな声だと思うのです。そして「我が名は悪路王阿弖流為、北天の戦神なり!」での阿弖流為@染五郎さんの運命を呑み込んで突き進む強さと哀しさ、そこにある爆発力が凄かった。鬼神になった後の阿弖流為@染五郎さんの場面は頭にある色々を忘れさせるというか、ひたすら口あけて観る感じになる。それで一瞬、「物語の今までの粗などどーでもいい、これが観れたから」とか思うわけ。役者の力技としかいいようがない。
阿弖流為は最期まで人としては救われないまま蝦夷とアラハバキの想い全てを呑み込んで戦神として消えていきました。ラストの二人は田村麻呂のあの二人の魂は救われていて欲しいとの夢かな。阿弖流為と鈴鹿は人として一緒にはいられないという呪いからは解放されずに終わったと思う。アラハバキは鈴鹿の魂はすでに喰らっていたんじゃないかと。谷にいたのは喰らいきれなかった人の心の残り香。そういう意味では阿弖流為と鈴鹿は傍にいるとも言えなくはないかな?
今回の阿弖流為は私は途中からは半分人で半分神の領域に入り込んだ存在だったと思う。人と神、その部分で魂は引き裂かれていたと私は解釈中。最終的に阿弖流為はやはりアラハバキの元に行ったと思うなあ。魂はあなたのもとへゆくと誓ってるわけだし。だからあの最後の阿弖流為と鈴鹿はやっぱり田村麻呂の夢だろうなあ。
私は今回の阿弖流為だったらいっそのこと最後まで鬼神として昇華してくれたほうが良かった。隈を完全に描いちゃってそのままで。歌舞伎らしいよ? 鬼神になったままでもそこに「人の魂」を見せても問題ないと思う。一騎打ちから鬼としての力を使わないでわざと打たれる流れは変える必要ないし。ラスト人としての魂の欠片(刀に鈴鹿との思い出の品を付けてるとか)を田村麻呂に最後に預けて「頼んだぞ」の流れで。
しつこいようだけど今回の『阿弖流為』の改悪部分は許しません。阿弖流為という人物を13年前の設定の若造のままのみならず、矮小化させたのはやっぱり納得いかない。それとやはり今回、蝦夷の里や民がみえてこなかったのも納得いかない。蝦夷の民たちの生活やそこの根ざしたキャラクターもいなかったし(巫女とトリックスターだけだもんね)。今回、阿弖流為は自ら蝦夷を捨てた人間になってしまっているので、故郷への想いも強く描かれないし戻る理由も薄くなってるし…。『アテルイ』にあった、まつろわぬ民への共感やその運命への抗いが薄れたのはなんでだろうなあ。
でも今回の脚本の粗の部分含めて出来うる限りの部分で役者たちは膨らませて演じているし、出来うる限り演出を考えてくれているというのは複数回観て十二分に伝わってきたので、大阪では何も考えず観ようと思いました。染五郎さんの阿弖流為は見納めかなと思うし。
中島さんが描きたい阿弖流為が若造でなければいけなのであれば、そこを変えていけないのであれば染五郎さんが演じるには今回で超ギリでした。いや、遅かったに足を掛けているくらい。個人的には今の染五郎さんに合う阿弖流為像に変えて欲しかった。あとは15年後の金太郎ちゃん阿弖流為に期待。でも、今回の脚本を底本にするのであれば再演の折には絶対に故郷を捨てようとした理由づけ部分を強固なものにしてください。できれば13年前の『アテルイ』の脚本を底本にしていただきたいくらいです。『阿弖流為』の田村麻呂は年上のほうが内容的にしっくりくる。
なんだかんだ書きましたがあのハードな舞台が大きなトラブルなく無事に盛況に終わって良かったです。基本的にはとても楽しみました。楽しい芝居をありがとうございました。今日は皆のアイドル、くま子ちゃんがカテコに出てきてくれてとても嬉しかったです。
カテコで染五郎さんは「歌舞伎NEXTがこれから続くといいなと思っています」とご挨拶。そして「『阿弖流為』は大阪へ乗り込みます」と。あまり間をおかずに歌舞伎NEXTという形の歌舞伎上演が回数を重ねていけることをファンの一人として祈ります。歌舞伎NEXTとしての第一弾として『阿弖流為』は成功だと個人的は思っているけどそれほど間をおかずに次が必要だと感じる。次は「いのうえ演出×中島かずき脚本」でなくてもいいと思う。ただし、新感線の先行作品の歌舞伎化ではない「いのうえ演出×中島かずき脚本」での完全新作歌舞伎も絶対必要。
つらつらと雑感。
今回の『阿弖流為』は女形の可能性を広げたと思う。立烏帽子、御霊御前、阿毛斗のキャラは今までの女形の範囲からみると逸脱しているけど成立させた。女形は発散する役が少なく身体的にも辛いので最近女形一本でやろうとする人が少なくなってるけど、こういう役もできるとなればまた変わるかも。
アラハバキという存在は古来存在した人間くさいけど人智を超えた道理の持ち主の畏怖する対象の神様だと思うなあ。すべて受け入れて生きてきた時代から人が中心に変化していく時代に消えかかっている神ともいうね。うん、やっぱ、阿弖流為を殺したのは「人」ですかね。神と同じように人も残酷。
立烏帽子がアラハバキの一部でなぜあるはずくま子をなぜ嫌うのか?という話になり、くま子が人間の領域に近づきすぎて自然の掟を破った存在だかということ結論に。ちなみにくま子ははぐれ熊だと思われます。
黒御簾での生演奏がとても素敵だったんだけど、音と言えば一人で頑張ってた附け打ちの山崎さんがやっぱ凄かったとしか。かなり腕に負担があったのでは?と思うけど、ドラムとのセッションは超かっこよかったし、千秋楽のくま子とのやりとりにほっこりした。
今回、誰かが足りない感をずっと感じていましたが、それはいつも染五郎さんの新しい試みをそばで見守ってくれている錦吾さんが今回、いらっしゃらなかったということでした。友人と阿弖流為の父ということで補完しようということになりました。
京屋好きとしては今回、『阿弖流為』で京三郎さんを注目してくださった方が少なからずいるようで嬉しい。ラストの幕外からハネトとしてしなやかに舞台から花道、仮花道までかなり移動しながら踊っていた女形さんがそうです。
阿弖流為が巻いてるショールと鈴鹿が髪に巻いている布地ってお揃いだよね?あの柄の手拭いが欲しい。
27日(月)千穐楽
新橋演舞場『阿弖流為』千穐楽です。おめでとうございます。
「わひとを ひとり 百(もも)な人、人は云へども抵抗(たむかひ)もせず」の阿弖流為@染五郎さんの声が耳について離れない。染五郎さの声は美声じゃないけどドラマチックな声だと思うのです。そして「我が名は悪路王阿弖流為、北天の戦神なり!」での阿弖流為@染五郎さんの運命を呑み込んで突き進む強さと哀しさ、そこにある爆発力が凄かった。鬼神になった後の阿弖流為@染五郎さんの場面は頭にある色々を忘れさせるというか、ひたすら口あけて観る感じになる。それで一瞬、「物語の今までの粗などどーでもいい、これが観れたから」とか思うわけ。役者の力技としかいいようがない。
阿弖流為は最期まで人としては救われないまま蝦夷とアラハバキの想い全てを呑み込んで戦神として消えていきました。ラストの二人は田村麻呂のあの二人の魂は救われていて欲しいとの夢かな。阿弖流為と鈴鹿は人として一緒にはいられないという呪いからは解放されずに終わったと思う。アラハバキは鈴鹿の魂はすでに喰らっていたんじゃないかと。谷にいたのは喰らいきれなかった人の心の残り香。そういう意味では阿弖流為と鈴鹿は傍にいるとも言えなくはないかな?
今回の阿弖流為は私は途中からは半分人で半分神の領域に入り込んだ存在だったと思う。人と神、その部分で魂は引き裂かれていたと私は解釈中。最終的に阿弖流為はやはりアラハバキの元に行ったと思うなあ。魂はあなたのもとへゆくと誓ってるわけだし。だからあの最後の阿弖流為と鈴鹿はやっぱり田村麻呂の夢だろうなあ。
私は今回の阿弖流為だったらいっそのこと最後まで鬼神として昇華してくれたほうが良かった。隈を完全に描いちゃってそのままで。歌舞伎らしいよ? 鬼神になったままでもそこに「人の魂」を見せても問題ないと思う。一騎打ちから鬼としての力を使わないでわざと打たれる流れは変える必要ないし。ラスト人としての魂の欠片(刀に鈴鹿との思い出の品を付けてるとか)を田村麻呂に最後に預けて「頼んだぞ」の流れで。
しつこいようだけど今回の『阿弖流為』の改悪部分は許しません。阿弖流為という人物を13年前の設定の若造のままのみならず、矮小化させたのはやっぱり納得いかない。それとやはり今回、蝦夷の里や民がみえてこなかったのも納得いかない。蝦夷の民たちの生活やそこの根ざしたキャラクターもいなかったし(巫女とトリックスターだけだもんね)。今回、阿弖流為は自ら蝦夷を捨てた人間になってしまっているので、故郷への想いも強く描かれないし戻る理由も薄くなってるし…。『アテルイ』にあった、まつろわぬ民への共感やその運命への抗いが薄れたのはなんでだろうなあ。
でも今回の脚本の粗の部分含めて出来うる限りの部分で役者たちは膨らませて演じているし、出来うる限り演出を考えてくれているというのは複数回観て十二分に伝わってきたので、大阪では何も考えず観ようと思いました。染五郎さんの阿弖流為は見納めかなと思うし。
中島さんが描きたい阿弖流為が若造でなければいけなのであれば、そこを変えていけないのであれば染五郎さんが演じるには今回で超ギリでした。いや、遅かったに足を掛けているくらい。個人的には今の染五郎さんに合う阿弖流為像に変えて欲しかった。あとは15年後の金太郎ちゃん阿弖流為に期待。でも、今回の脚本を底本にするのであれば再演の折には絶対に故郷を捨てようとした理由づけ部分を強固なものにしてください。できれば13年前の『アテルイ』の脚本を底本にしていただきたいくらいです。『阿弖流為』の田村麻呂は年上のほうが内容的にしっくりくる。
なんだかんだ書きましたがあのハードな舞台が大きなトラブルなく無事に盛況に終わって良かったです。基本的にはとても楽しみました。楽しい芝居をありがとうございました。今日は皆のアイドル、くま子ちゃんがカテコに出てきてくれてとても嬉しかったです。
カテコで染五郎さんは「歌舞伎NEXTがこれから続くといいなと思っています」とご挨拶。そして「『阿弖流為』は大阪へ乗り込みます」と。あまり間をおかずに歌舞伎NEXTという形の歌舞伎上演が回数を重ねていけることをファンの一人として祈ります。歌舞伎NEXTとしての第一弾として『阿弖流為』は成功だと個人的は思っているけどそれほど間をおかずに次が必要だと感じる。次は「いのうえ演出×中島かずき脚本」でなくてもいいと思う。ただし、新感線の先行作品の歌舞伎化ではない「いのうえ演出×中島かずき脚本」での完全新作歌舞伎も絶対必要。
つらつらと雑感。
今回の『阿弖流為』は女形の可能性を広げたと思う。立烏帽子、御霊御前、阿毛斗のキャラは今までの女形の範囲からみると逸脱しているけど成立させた。女形は発散する役が少なく身体的にも辛いので最近女形一本でやろうとする人が少なくなってるけど、こういう役もできるとなればまた変わるかも。
アラハバキという存在は古来存在した人間くさいけど人智を超えた道理の持ち主の畏怖する対象の神様だと思うなあ。すべて受け入れて生きてきた時代から人が中心に変化していく時代に消えかかっている神ともいうね。うん、やっぱ、阿弖流為を殺したのは「人」ですかね。神と同じように人も残酷。
立烏帽子がアラハバキの一部でなぜあるはずくま子をなぜ嫌うのか?という話になり、くま子が人間の領域に近づきすぎて自然の掟を破った存在だかということ結論に。ちなみにくま子ははぐれ熊だと思われます。
黒御簾での生演奏がとても素敵だったんだけど、音と言えば一人で頑張ってた附け打ちの山崎さんがやっぱ凄かったとしか。かなり腕に負担があったのでは?と思うけど、ドラムとのセッションは超かっこよかったし、千秋楽のくま子とのやりとりにほっこりした。
今回、誰かが足りない感をずっと感じていましたが、それはいつも染五郎さんの新しい試みをそばで見守ってくれている錦吾さんが今回、いらっしゃらなかったということでした。友人と阿弖流為の父ということで補完しようということになりました。
京屋好きとしては今回、『阿弖流為』で京三郎さんを注目してくださった方が少なからずいるようで嬉しい。ラストの幕外からハネトとしてしなやかに舞台から花道、仮花道までかなり移動しながら踊っていた女形さんがそうです。
阿弖流為が巻いてるショールと鈴鹿が髪に巻いている布地ってお揃いだよね?あの柄の手拭いが欲しい。