Snowtree わたしの頭蓋骨の下 *鑑賞記録*

舞台は生もの、賞賛も不満もその日の出来次第、観客側のその日の気分次第。感想というものは単なる個人の私感でしかありません。

雑感:『伽羅先代萩』の『刃傷の場』のこと

2015年09月24日 | Memo
『伽羅先代萩』の『刃傷の場』のこと。

気になるのでちょっと書く。

時代の感覚の問題になりますが『対決・刃傷』の最後の勝元と外記左衛門の場。勝元の対応ですがあそこは外記がすでに助からないのがわかっているうえで薬湯(痛み止め程度だと思われる)を与え、武士としての面子を立たせるために門出の謡を舞わせる。わざわざ屋敷内に駕籠を入れるのもそういうこと。屋敷内に駕籠を入れるということは生きてその駕籠に乗ることはないことを示唆しています。すべて温情からです。その時代感覚をわかったうえで、現代の感覚で非道だの鬼畜だという感想はいいと思うんです。私も「勝元、鬼畜だわ」とか現代感覚だとそうなるよね~な半分冗談入って書いてるのですが…。その部分、本気で書いてると思われたり、あの場面を観て本気で「あれは勝元ひどい」と思う人もいるようで。

時代の前提なしで観るのは仕方ないですし、素直な感想でそうなるのもありだとは思うんですけど、頭の片隅でいいので「時代背景は」という感覚は持っているほうがいいかなと。勿論、知識としては知っていたほうがよりベストでしょうが。時代劇が作れなくなるのも無理ないなあとちょっと思いました。

今月、わざわざ外記に落ち入り(息絶えるさま)させてるのは、最近の観客にその前提を知らない人が増えてるという演者側の感覚もあるのだろうな。歌六さんだとまだ元気そうにみえるし。錦吾さんあたりだと「ああ、もうだめなんだな…」と感覚的に見せられるけど。

私も普通に捌き役に対していけずだわ~とか鬼畜が似合うとか書いたりしていますがそれは皆わかってるよね前提だったんですよね。でも最近はその前提を知らない方が増えてきたようなので感想を書くときに気を付けようと思います…。わかってる側がこういう場面で実際はこうだけど、今の感覚でこう思ちゃうよね~と補足を入れたり工夫が必要かなと。

劇場の灯を消してはいけない

2011年03月17日 | Memo
野田秀樹さんの「劇場の灯を消してはいけない」を紹介させていただきます。

「劇場の灯を消してはいけない」
~この東北関東大震災の事態に上演続行を決定した理由~

15日より『南へ』公演の上演再開にあたり、野田秀樹が劇場にてご挨拶させて頂きました全文を掲載致します。

全文はこちらへ:http://blog.goo.ne.jp/admin/newentry/


お芝居が好きな方々はぜひ読んでみてください。

私は被災していない人々はなるべく日常を取り戻すことが必要だと思います。その日常は今までと違うかもしれません。それでも被災地の方々を応援するためにも復興を早くできるよう支援するためにも、社会をまわしていかなければ。停滞させるべきではありません。

もし公演が中止になったり、こんな時期だからとの心情だけで行けなかった人は払い戻されたチケット代を東北地方太平洋沖地震の救援募金の寄付しませんか?

日本赤十字社の義援金の専用口座も開設されたようです。
東北関東大震災 専用口座について → http://www.jrc.or.jp/

義援金・救援金募集
東北関東大震災義援金を受け付けます

11/03/14

 日本赤十字社では、今回の震災の被害が甚大かつ広範囲に及んでいることから、被災県組織に代わり、皆さまからの義援金を受け付けております。

※この義援金は寄付金控除の対象となります。
※個人については、所得税法第78条第2項第1号、法人については、法人税法第37条第3項第1号の規定に基づく寄附金並びに、地方税法第37条の2第1項第1号及び第314条の7第1項第1号に規定する寄附金に該当します。
※法人については、全額損金扱いとなります。



義援金窓口1 
■ 郵便振替(郵便局)
口座記号番号   00140-8-507
口座加入者名   日本赤十字社 東北関東大震災義援金
取扱期間     平成23年3月14日(月)~平成23年9月30日(金)

※郵便局窓口での取り扱いの場合、振替手数料は免除されます。
※郵便窓口でお受取りいただきました半券(受領証)は、免税証明としてご利用いただけますので、大切に保管してください。
※通信欄にお名前、ご住所、お電話番号を記載してください。



義援金窓口2
■ 銀行振込
三井住友銀行:銀座支店 (普)8047670
三菱東京UFJ銀行:東京公務部 (普)0028706
口座名義 日本赤十字社(ニホンセキジュウジシャ)

ゆうちょ銀行:〇一九店(ゼロイチキュウ店) (当)0000507
金融機関コード 9900
店番 019

受領証が必要な方は、こちらから事前登録をお願いいたします。

※同一行内(本支店間)での振込の場合、振込手数料は免除されます。
※ゆうちょ銀行への送金については、振込手数料がかかります。


義援金窓口3
■ クレジットカード・コンビニエンスストア・Pay-easyによるご協力
詳しくは、こちらをご覧ください。

※「寄付目的」の選択項目で、義援金名(東北関東大震災義援金)を指定してください。
※寄付金額は、2,000円以上から受け付けています。



[担当窓口]日本赤十字社 東北関東大震災義援金担当
Tel: 03-3437-7081  E-mail: info@jrc.or.jp

国立劇場2月文楽公演解説書に特別付録!

2010年02月12日 | Memo
今月の国立劇場2月文楽公演のプログラムに『曾根崎心中』のお初の記念絵はがきがついているそうです。美しい。残念ながら今月は第三部は拝見する予定はないのですがプログラムは買いですね。

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国立劇場2月文楽公演解説書に特別付録!

 国立劇場2月文楽公演では、解説書(プログラム)に、吉田簑助文化功労者顕彰記念として今回特別に撮りおろした『曾根崎心中』のお初の記念絵はがきをお付けしました。価格はいつもと同じ600円、公演期間中の国立劇場売店でお求めいただけます。ご観劇の記念にぜひご利用ください。
 お問合せ=国立劇場売店(株式会社文化堂) 電話03-3239-2417(直)
http://www.ntj.jac.go.jp/topics/news100204.html
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『盟三五大切』 源五兵衛の解釈のそれぞれ

2009年11月29日 | Memo
『盟三五大切』源五兵衛の解釈のそれぞれ

ちょっと自分のなかで整理したくなったのでメモ。

『盟三五大切』は近年になって復活されて上演回数も少ないので、役者によってかなり印象が変わる作品。それをちょっと自分のなかで整理してみました。(言うまでもなく私が観て感じた解釈です。観た人それぞれ印象も変化すると思います)

男としてのタイプ。狂気と正気のあり方。赤穂浪士としての心持あたりが解釈の分かれ道でしょうか。

●幸四郎さん
無骨でお人よしな武士として存在。小万に入れあげていることで自分と周りがまったく見えてない。デレデレしている様は傍からみているとかなり格好悪い状況。叔父に対しても八右衛門に対しても完全に上の空。自分を見失っている。騙されたことにより精神の均衡を失い始める。感情を失い、ひたすら騙した三五郎と小万に執着しはじめ、付け狙う。本当の意味での狂気に入り込み、そのまま狂った世界の住人となったまま周囲のお膳立てで義士へと加わる。源五兵衛なかで小万はたぶん死んでない。自分のものとして仲良く膳を囲む仲になったと信じている。またそのなかで三五郎の忠義も当然として受け入れる。自分の望むものが当然としてそこにある。

●染五郎さん
世間知らずで疑うことを知らない単純で弱い男。田舎ではそれなりに秋波も送られたが遊びは知らず女との付き合い方を知らない。小万に惚れてもらっていると信じ、自分が彼女に入れあげている自覚がない。仇討ちへの思いが心の底にしっかりありつつも、現実に目を背け絶えず気持ちが揺れている。小万と忠義の重さが同等にあり、そこのせめぎあい。そのなかでその場、その場で流される弱い人間。三五郎、小万夫婦に騙されたことで現実の重さに耐え切れず歪んでいく。狂気と正気の境に立ち、自身の覚悟の弱さを暴いた夫婦への怒り、そしてその弱い自身の怒りに負の感情が肥大していく。自分ではどうすることもできない弱さゆえに狂気の世界の深みへ自ら進んでいく。小万夫婦を殺すことで解放されようとする。赤子は三五郎の代替として機能。小万は自身の想いの確かなものの象徴であり、本来望んでいたはずのものとは違う掛け違った運命の象徴のなかでの愛憎の反転としてある。図らずも三五郎に「正気」の世界へ戻してもらう。殺しへの充足感のなさは染五郎さんだけが表現していました。ラスト、三五郎と小万に対しての申し訳なさと感謝が底にある。

●吉右衛門さん
それなりに田舎では遊んでいたものの、所詮洗練されていない田舎武士。手馴れた江戸者の手管に騙されている。遊んでいるつもりが、小万に嵌っていってしまった風情。叔父やも八右衛門の忠告には耳が痛く、自分の立場、状況の自覚はできている。が、三五郎、小万夫婦に騙されたことを知りプライドを傷つけられ逆上。そのプライドの代価として小万に執着し狂気と正気の狭間で揺れ動く。ふと我に返る瞬間を覗かせながらも憤怒の気持ちを抑えられない。小万と三五郎の身代わりの赤子を殺すことで鬱憤を晴らし自己満足。その後、モヤが晴れていくように自分の立場を理解していく。ラストは三五郎、小万に対しては後ろ冷たさを感じている雰囲気。

●勘三郎さん
単純でお人よし。武士の道をちょっと忘れかけている。小万のおかげで町人としての生活が楽しい。叔父、八右衛門の忠告は耳にきちんと入れたものの、小万の様子を目にすると、彼女と一緒にいることが自分の道ではないかと単純に思い込む。その場の状況の流れやすい。騙されたことを知った後は自分の単純さに付け込まれたことへ怒り、田舎ものとバカにされたコンプレックスからくる怒りに我を失う。歪んだ狂気ではなく度を失うほどの真っ直ぐな怒り。三五郎への怒りのほうが強い。小万は三五郎のもの、として怒りを向ける。怒りの果ての殺人の果てに小心者の根がのぞき、自分の立場を理解していく。(この頃は狂気の表現より純粋な怒りの素直な目が印象的でしたが、今の勘三郎さんが演じたらもっと狂気の色合いが出そうな気もしています)

●仁左衛門さん
二枚目然とした色男の武士。女にモテて遊びなれてはいるが本気の恋をしたことがない。浪士としての自覚を芯に持ちつつも小万に本気で惚れこみあえて武士の道に目をそむけている。そこまで惚れこんだ小万に裏切られ、だまされた悔しさに突っ走る。三五郎は眼中に無し。あくまで小万に執着。正気のままただひたすら小万を追う。自覚的な殺し。小万を手中にしたことの満足感とともに義士へと加わる。基本、義士へ加わることは蛇足でしかない。三五郎の忠義もほぼ眼中にない。小万を手に入れたことの満足で終っている。だからこそ「これがのうてはかなうまい」の台詞がないのだろう。


こう書いてみると役者の資質がよくみえますね。私のなかでは幸四郎さん、染五郎さんは狂気をそのまま精神の歪みとして提示する部分でやはり親子だなと思います。が、染五郎さんの不破数右衛門としての在り様は吉右衛門さんに似てる。また吉右衛門さんと勘三郎さんは役者としての資質は違うものの目指す方向が似てるなと思います。仁左衛門さんは二枚目を自覚して色悪として演じてきたなと。いつか三津五郎さんと團十郎さんのも観て見たいですね。特に三津五郎さんは町人から見た「武士」の象徴として演じていたと知り合いから伺っています。これは非常に観て見たい。

追記:
南北が意図した『盟三五大切』の物語構造が気になり始める。

南北がわざわざ『五大力』に『忠臣蔵』を絡めたことで単純な町人と武士の対立構造が相互構造になっている。町人⇔武士。『盟三五大切』ではほとんどの人物が町人と武士の二重性を抱えている。富森助右衛門と八右衛門、三五郎の取り巻き連中は「単」。他は主役三人(薩摩源五兵衛 実は不破数右衛門/芸者の小万 実は神谷召使お六/ 笹野屋三五郎 実は徳右衛門倅千太郎)のみならず、長屋でも家主弥助 実は神谷下郎土手平であり、また長屋の住人たちも実は浪士。ほとんどが町人としての存在と武家の人間の二重性を帯びている。「情」の町人の世界から「忠義」の武士の世界への転換。この構造をみると、大詰は『忠臣蔵』のなかの「本来あるべき姿」へ戻ることが必然。「これがのうてはかなうまい」はすごく重要な言葉だ。源五兵衛がこの言葉を言うのは「三五郎の「義」の姿が「本来」なのだ、と「義」こそが「仇討ちを成功」させるものだ」と感じ入る言葉なんだ。通り一遍に愛憎ものとしてみると三五郎が死んでいく時に冷たい言葉と捉えがち。でも、違うと思う。

やっぱ南北さんは凄いね。「義」がどれほどのものかという視点がありつつ「義」に返す。四谷怪談と一対な作品というのもよくわかる。歌舞伎の作劇方法論に忠実なのに近代的な感覚がある。

歌舞伎座 COME ON!

2009年11月27日 | Memo
歌舞伎座 COME ON!


楽しいものを見つけました。期間限定で貼り付けます。某CMと比べるともっと楽しいです。

あら?埋め込み不可なんですね。URLを貼り付けておきます。
http://www.youtube.com/user/gigamaku#p/a/u/1/ZcL_xY3oWC4

http://www.youtube.com/user/gigamaku#p/a/u/0/KCkTgPjjq0o

出演者:
片岡松次郎/ 尾上みどり/中村京純/尾上辰巳/中村福太郎

暗闇を知らぬ人たち…『貞操花鳥羽恋塚』の闇と『息子』の闇

2005年11月04日 | Memo
暗闇を知らぬ人たち… 『貞操花鳥羽恋塚』の闇と『息子』の闇

そのまま目に入ったもの聞いたものの表面的な部分、直裁的にわかりやすい部分だけで芝居を観たり、本を読んだりする人が増えたように思う。芝居を観ての反応、読書の感想等を目にして、最近、感覚的にわからない部分を切り捨てがちな人が多くなってきているような気がする。「知識」として無いということだけで間や行間を観たり読んだりして想像を働かせるのは出来ないのでしょうか?また、知識として必要だからと、その部分をわざわざ見せたり書いたりしないと評価されなくなっている時代なのでしょうか。与えられるものだけで「満足」するのって少々寂しい気がします。

そんなことを考えたのは10月国立歌舞伎の『貞操花鳥羽恋塚』の闇と11月歌舞伎座『息子』の闇がどの程度のものかが抜けてしまった意見を目にしたから。そして評論家の渡辺保氏ですら、「理解不能」なものとして取り扱ってることに愕然としたせい。


崇徳院が暗闇のなかのたった一夜とはいえ、子まで出来た女が顔を合わせてもわからぬというのは現代では理解不可能。原作もそうはなっているが、ハラの薄い現代の若手にはムリ。ここらが現代の補綴者が筆を入れるべきところである。
http://homepage1.nifty.com/tamotu/review/2005.10-2.htm


平安時代、江戸時代の暗闇はいかほどのものであったか?そこに想いを馳せることができたら。それだけでいいのに…。今、それほどまでに「暗闇」が無いのですね…。顔をハッキリと判別することができない、そんなことは想像すら出来ない、そういう時代。でもその暗闇を暗闇として認識できないからとその部分をわざわざ説明して判らせる必要はあるのでしょうか?行間を読む、想像力を働かせる、その面白さは消えてなくなるでしょう。

平安時代の貴族の恋愛がどんなものであったか、江戸時代の明かりがどの程度であったか、もうまるで理解不能なものなのでしょうか?古典が好きな人以外にはわからない。だから説明すべき、それで終わりですか?ああ、でもそうですね、私がわかる範囲で書いてみましょう。

平安時代、顔を見合わせることなく闇のなかで恋愛は行なわれました。だからこその「歌」の取り交わしなのです。歌を詠む、その駆け引きで恋愛の機微を感じ、また相手の知性を求めたのです。ついでに書けば匂いも重要なポイントです。姿をハッキリ見せられないため香を焚いて自己主張したのです。それぞれに自分の香りがあり、それもまたアピールのひとつだったに違いありません。現在においても恋愛に「匂い」はわりと大きなポイントだとは思いますが、姿をお互いハッキリ見ることの出来ない時代はより一層記憶に残るものとしてあったことでしょう。

姿を見交わすことが出来たのは朝方までいられる情況の時のみです。正式に夫婦として取り交わし、女性の家に居ることができた時なのです。夫婦以前の恋人同士の睦みごとは「朝まで」はほぼ有り得ません。勿論、月明かりでかろうじて体の線や顔を見交わすことはあったでしょうけど、部屋のなかにいて、隙間から洩れ入ってくる月明かりがどの程度のものか、想像してみてください。崇徳院と待宵の侍従の恋愛はそういう時代の恋愛です。顔を合わせてわからないのは当然なのです。


江戸時代、この時代も明かりは非常に貴重なもの。そして明かりがあったとしてもかなり暗いものであったでしょう。特に田舎では夜明かりをつけていることなどあまりなかったはずです。『息子』での火番小屋では「火」だけが明かりでした。お互い顔をハッキリ見合わせることができる「明るさ」ではなかったはずなのです。だから、最初はわからなくて当然なのです。

でも、九年会わなくても、わかるはず。そうです、親子がお互いの顔や声を忘れるはずはありません。息子のほうは「親」だと早い段階で気が付いていたでしょう。いや、わかっていてあの小屋に入ったのかもしれない。そこの含みは十分あったと思います。そして親のほうですが、「息子」は体裁も雰囲気も、たぶん声も酒やけで変わっていたかもしれません。しかも「成功している息子」のイメージしか持ち合わせていない父です。最初のうちはわからない、それもありです。わかろうとしなかった、それもありです。それでも話しているうちにそれとなく気が付いたでしょう。でもお互い名乗らない、名乗らせない。それは暗闇のなかの「心の闇」でもあったように思います。

これ以上は私の解釈を載せないでおきましょう。父の心の闇、息子の心の闇がどんなものであったか。この二重性が生きている芝居だからこそ余韻があるのです。それをわかりやく見せることも出来るでしょう。でも見てる側の幅がなくなり、ふくらみがなくなってしまいませんか?

芝居は演じる側のものだけではありません。観ている側の解釈、感受性でいくらでもふくらませられるものでもあります。あまりに直裁的にわかりやすいものだけだと寂しいですね。

仮面での吹き替え

2005年08月03日 | Memo
7月歌舞伎座『十二夜』で主膳之助と琵琶姫を同時に並ばせる時、吹き替えの役者に菊之助さんの顔の型を取った仮面をかぶせておりました。角度によって仮面のふちがハッキリわかるのと、表情が無いということで仮面だと気が付かれた人も多かったと思います。一人何役かこなす時に仮面での吹き替えをしたのは私が覚えている限りでは歌舞伎座で玉三郎さんが演じた『於染久松色読販 新版お染の七役』の時からだったような気がします?もっと前からやっていたことがあるのでしょうか?

(踊りで立場を変化させるために隈取の仮面をかぶっての取替えはあったような記憶はありますが、これはいわゆる吹き替えということではありせんし、使い方の意味合いが違うと思うので、こういう場合を抜かして。)

さて、この仮面での吹き替えは私はいまのところ効果をあげるどころか反対に早替わりの効果を半減させていると思うので賛成できません。しかも、仮面という無機質なものを見せられると違和感が残ります。言い方が悪いかもしれませんが不気味。今まで歌舞伎では吹き替えを仮面を使わず効果的に使ってきたと思います。あまり似て無くても、同じ人だと認識さえさせれば人間の脳は簡単に「似てる」と判断してくれるものです。ちなみに玉三郎さんの時の仮面での吹き替えは不評だったと思うのですが…少なくても私の周囲および、Web上の感想では大半がそうだったように思います。


今回の『十二夜』でいえば2回ほど並ぶシーンがありましたが吹き替えは2回とも主膳之助のほうでした。私はすぐに仮面と知れて、あーあ、仮面かとがっくりきました。なので、仮面の表情のなさへの違和感のみが残りました。ただ私の感想は別として、仮面と気が付かなかった方もいらっしゃいます。気が付かなかった方は吹き替えの役者さんが菊之助さんに非常によく似ていると思われたようですが、ここにも実は弊害がありました。

ここは主膳之助→琵琶姫への早替わりを見せる場でもあったはずですが、残念ながら早替わりの効果を見せることは出来ていませんでした。この一端は仮面での吹き替え。一瞬、どちらがどちらか判らないのでは、早替わりの意味が無いのですよね。最初から二人並べてても今回、場の見せ場としてそれほど変わらなかったと思います。せっかく、菊ちゃんが頑張って着替えてるにっ、と思ったのは私だけではないはず。まあ、これは仮面のせいだけではなく、どちらかというと早替わりを見せる演出方法が悪かった部分が大きいとも思います。それは別の機会に。