The Last ward from Southen Cross to my future

目の前にある林檎は本当に林檎なんだろうか。その林檎は腐っているから林檎だって気づかないだけかもしれない。

8月15日 終戦記念日ではなく、正しくは敗戦記念日

2008-08-15 22:56:40 | Weblog
連合軍に負けたから敗戦記念日というのではなく、開戦時代が無謀で負けるとわかっていての戦争だから、敗戦記念日だ。連合軍側では勝利記念日だ。
米国の軍で働く人に「お前は中国人か韓国人か」と聞かれた。胸はって「日本人だ。」と答えたときに彼はすごく気まずい顔をした。それは今日は勝利記念日でみんな酒で騒いでいるからだ。自分は一言「戦争は過去のことだから今の自分には関係ない。」とはっきり言った。まさに、50年以上も前のことを今更ああだのこうだの言ったところで、何が変わるっていうのか? いいかげんにして欲しい、というのが本音だ。何故ならそもそも開戦したことがどれだけ無茶だったのかって事実を誰も論じないままだからだ。

数日前のニュースで東條氏の手記が出たと発表があった。今更、それを発表したからって何が変わる? あの当時であれば彼が考えていることは正統だと思う。
なにせ、国民すべてが玉砕しても聖戦に勝つっていってた時代だからだ。それを現代に当てはめて評価すること事態が馬鹿馬鹿しい。もし、日本が勝っていたなら、彼は英雄だったんだろうなぁ。戦争ってもんは勝利側で歴史が記録される。
だから、勝利すればどんなことも許されるというか、原爆でさえ正当化される。

米国人が自分に言ったもうひとつの言葉は「日本に行ったことあるんだが、小さい国だよね。あの国が米国だけじゃなくて連合軍相手によく戦争したもんだ。今の日本を見ると信じられない。」。確かに連合軍相手に国民総数だって今より少ない状態でよくもまあ勝てると思ったもんだ。彼に自分がいった言葉は「その時代、米国だって黒人差別があったんだろう。今の米国からは信じられないのと同じさ。」。
それだけ60年という年月は文化も習慣も変わったんだ。だが、この変化を受け入れられない人もまだたくさんいる。日本だけじゃない。いつまでもこの亡霊に取り付かれたままでいる寂しい人たち。

戦争は悲惨で、みじめなもんだろう。しかし、それでも自分たちの独立や自由のために選択する人たちもいる。日本人には理解できないのかもしれない。何故なら戦争に負けたにもかかわらず、一部の島だけが外国領土になっただけで本土はそのまま日本国の統治ですんでいるからだ。韓国が何故あれだけ外国に対して声を大きく上げるのかといえば、日本の領土だった時代があるからだ、と韓国人は言う。
台湾も中国も同じだ。また中国、韓国および日本はこれまた誇りをなによりも重要と考える民族だからなおさら面倒だ。自分からすれば誇りやプライドだけで飯食えるならそりゃ貴族が横行した時代だけで現代では金があるかどうかだろう、と思うんだがなぁ。それでも誇りらしい。建国がわずか数百年の米国、カナダや豪州でさえ、○○家とか自慢げに話す。どちらの国も元はEUからの移民でできているから家柄ってのがそれなりに大事という家庭もある。まるで犬猫や馬の血統書みたいで、家柄とか祖先が何とかの話は、自分は嫌いだ。すべてはイブと呼ばれるアフリカから人類は生まれたそうだ。ずっと遠い先祖はみな同じってことなんだが、それでも人種、宗教で今だにあれこれ争う人類って本当に学習能力がないとしか思えない?

まあ、それだけ人間って飯よりも大事な自由だとか誇りのようだが、自分は飯だ。
いつぞやの法務大臣が「日本人は潔い死を尊ぶ」とのたまわってたが、それは年寄りだけの話じゃないのか? 自分は尊い死より醜い生を選ぶ。誰だって自分が死ぬことを望むなんてことはありえない。自殺だって四面楚歌で未来も同じに苦しむのが嫌で逃げるだけであり、尊ぶから死ぬのではない。死を美化する法務大臣なんてさっさと辞めてもらいたいぐらいだ。
戦争だって同じだろうと思う。いくら家族や国を守るためといっても、喜んで死ぬなんてのは当事者じゃない誰かが作った嘘としか思えない。それこそ洗脳されているとしか思えない。人間として自然なら誰もがなんとかしても生き延びたいと望むものなんじゃないのか? 戦争で死んだ人たちの死を美化することだけは自分は大変不快に感じる。絶対に死は美ではなく、ただの死体という物体になることだ。
たった一人で世界を変えるとか、国を救えるなんてのは、映画やアニメの話で現実では在り得ない。だからこそ、戦争は最期の最後まで避ける努力をしない政府の方が問題なんだ。最悪戦争になったら自分は卑怯者と言われてもさっさと逃げ出すつもりだ。家族が入れば家族を連れて逃げる。国を捨てることをなんとも思わないのかと言われてもなんとも思わない。何故なら国民も守れない国といっしょに死ぬのは嫌だからだ。自分の友人が戦争で亡くなった。彼は新婚で妻の腹には子供がいた。彼の戦死を聞いた妻は「国のためじゃなくて私と子供のために生きて欲しかった。」と泣いて言った言葉を周囲は非難したが自分は彼女の言葉は本音だと思ってずっと手を握っているだけだった。当事者以外には他人事なんだよ。

戦争による犠牲を払っても国が得る利益が大きいというんだろうか?
国民の命より大切なのが自由とか民族の誇りなんだろうか?
親友の子供は軍人にはならなかったというか、母親が大反対した。人殺しを職業にするなら絶縁すると言ったそうだ。彼女は今だに反戦活動をがんばっている。
その彼女からの今年の言葉は「人類の子供はすべての民族の子孫だと思わない?」という意味。まあ、そうかもしれないんだが、まだまだ差別はあるんだけどなぁ。

戦争は反対だが、自衛ための軍備は必要という考えは変わらない。戦争に負けるってことも美化して欲しくない。沖縄で何があったのか忘れてはいけない。無抵抗だから殺されないって保証はない。ならせめても生き残る可能性として抵抗できるだけの軍備は必要なんじゃないのか?

なんでもかんでも美化すればいいってもんじゃない。道徳は生きるためのルールかもしれないが、自己犠牲をなによりも美化しすぎるのも問題だろう。それが戦前どうだったのか、決して忘れてはいけない。誰もが生きたいし、平和で過ごしたいからこそ、無謀な進入に備えて家に鍵をかける。鍵がなくても安全だというのは、もはやファンタジーの話だってことをしっかり認識する必要があるとだけ言いたい。
国のために戦った多くの人々には、敬意を持って感謝の意と共に今ある平和を維持するために最大の努力をすることを誓う。だが、それは国民全てが国のために死を選択することを美化する理論と同じではない。国以前に国民である人々が生きられる状態を選択することこそが本当に国民のリーダーだと思う。国民がなくては国は存在する意味を持たない。平和が本当に国民に取って利益があるなら、軍備を持たないではなく、平和を維持するためにはどの手段が一番有効か、という点から憲法改正や自国防衛の軍備を論じるべきだ、と言いたいだけだ。


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