The Last ward from Southen Cross to my future

目の前にある林檎は本当に林檎なんだろうか。その林檎は腐っているから林檎だって気づかないだけかもしれない。

威風堂々と毅然とすることこそ日本を正しく理解してもらえる

2014-03-06 08:18:47 | Weblog
昨今、ディスカウントジャパンという言葉を耳にする。円安による日本製品のディスカウントセールを世界に繰り広げるのか、と思ったところ、日本国すべてにおいて卑下する活動らしい。こんなことが現実に効果があるとは考えにくいのだが、現実に日本の過去にまつわる歴史的事項ですらねつ造されて、国連やらで繰り広げているようだ。

過去にいつまでも拘る姿勢は、温故知新とは違う。つまり現在や未来を想定できない人たちだからこそ可能な発想だ。特に人種差別的な思想があるからこそ、こういった過去に拘る事項を引き出して、あれこれ文句を言わざる得ない。逆に言えば、現在において非難できる部分がないからこそ、過去を引き出すことしかできない、とも言える。こういった姿勢は創造的な未来という価値観が存在しない人たちだからなんだろう。これに日本人はうろたえる必要はない。そもそも国というのは、特定のルールに基づく条件で集まった人が作り上げるだけで、人種の違いは現代の世界事情では価値があまりない。一国で同一民族のみで構成されている国は世界でもほぼないからだ。つまり、それぞれが持つ過去の歴史は人種や文化が違う限り、相容れない場合もある。だからこそ、グローバル化時代は組織や企業は拘っていては成功できない。

日本が成功したのは、過去に拘らず、未来のためにどうするのか、という土台として過去の負の実績を含めて反省した結果が、戦後の日本が歩んだ道。これは日本人として誇りに思えるほど、厳しいものだ。何故、日本人は戦後の日本を誇りに思えないんだろうか。こういった歪んだ構造が今の強いパットリズムに現れているゆえに、近隣諸国への対応がストレートに明確になっただけだ。決して、突然、変わった訳ではない。思想や社会の習慣がそう簡単に変わるはずもない。だから、米国への嫌悪にしても突然出てきた訳ではなく、戦後の日本人がみな心の奥にとどめていた感情でしかない。

国家や政府は嫌いだが、人間同士は別。この思考こそ日本が戦後成功した原因だろう。島国の日本は古来から多種多様な文化圏の外国人がやってきた。ビジネスも宗教もだ。反発する政府もあった。しかし、受け入れる人もいた。こういった構造は正常な社会であり、すべてを拒否するような集団こそ、まさにカルト集団と相違ないとも言える。1919年人種差別撤廃をうったえた日本を日本人は忘れては行けない。ナチスによるユダヤ人狩りに対して、戦犯と呼ばれる人たちでさえ、人道的配慮をした事実もある。しかし、この点は無視して、東京裁判における犯罪者としか後世に伝えないのは、正しい歴史なのか、と疑問がある。責任を担うから刑に服した彼らを日本人は卑下することはできない。彼らが刑を受けれなければ、当時の日本がどうなったのか、と最近の米国や連合軍の対応を見ていると、想像するのは難しくない。日本人側からすれば、自分たち後世の日本人のために犠牲になった兵士と同じという認識があって、当然のことだ。これに対して、例え同盟国であろうが、思想の強要をするのなら、日本人として拒否せざる得ない。勿論、括弧たる証拠がなく、本人の証言だけによる事象も矛盾が多く、ねつ造と想像するのは容易い。これを堂々と正論とする近隣諸国の姿勢は、受け入れがたい。

反論は必要だが、それ意外の対処は不要だと自分は思う。すべては実績。真実は変わらない。日本人は暴力を避け、平和的解決の努力を優先するという事実を自分たちは忘れては行けない。これこそが、最大の防御であり、武器である。もし、武力にて侵略されるのなら、勿論、堂々と対処するという姿勢を示すことも、無駄な争いを避けるひとつの手段でもある。自分たちの尊厳を捨ててまで、守るべき誇りは存在しない。
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