ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 軽部謙介著 「官僚たちのアベノミクスー異形の経済政策」 岩波新書(2018年2月)

2019年08月07日 | 書評
お盆用の菊

アベノミクスはどのように政策として形成されたか、官僚たちの流儀 第4回

第1部) 2012年11月―2012年12月 政権移行 (その2)

1-2) 政策ブレインの形成
アベノミクスの形成プロセスを見ると、特に安倍政権に強い影響力を持った人々は、世に「リフレ派」と称する金融緩和政策を主張する人々であった。彼らがどのようにして政権中枢に入り政策を実現したかの検証が重要である。安倍は解散が決まった次の日11月15日、都内の講演会で「インフレターゲット」導入を打ち上げた。その目標達成のため無制限に緩和してゆくものであった。白川日銀総裁は「国債などの資産買い上げ基金は91兆円」と決めていたが、これを上限を決めず無制限とするという。この安倍の話に金融市場は強く反応した。一気に円安、株高が進んだ。マイナス金利をはじめ、無制限の金融緩和策は本田悦郎静岡大学教授(大蔵省銀行局出身)のアドバイスであった。マイナス金利の副作用はあえて伏せたうえで安倍は無制限の金融緩和に言及した。本田がリフレ政策にのめり込んでゆくのは2000年以降のことである。リフレ派の権化と言われる本田は、「デフレは貨幣的現象」と確信し、2011年6月には安倍にデフレ脱却策をアドバイスするようになった。金融緩和→円安→株高→企業利益増加→賃金増加→物価上昇という連鎖反応を説明すると安倍は異常な興味を示したという。日銀は速水総裁、福井総裁のときに金融緩和を止めている。日銀に対する不満は本田も安倍も同じで、インフレターゲットを国際標準である2%に設定し、そこに到達するまで金融緩和策を続けるという案を本田は安倍に何回も説いていた。もう一人のリフレ派の重鎮は浜田宏一エール大学教授で、安部が副官房長官であった2001年に出会い意見を交わして以来の付き合いである。安倍の経済学理論の理解は浜田氏を師とし、安倍自民党が圧勝したとき内閣官房参与としてご意見番についた。安倍は「デフレ、円高を阻止するには、大胆な金融緩和が必要で、日銀法の改正も視野に入れた政策展望が必要だ」と語った。安倍の経済政策に影響を与えた人物には、本田や浜田の他に、高橋洋一氏(財務省出身)がいた。小泉政権では内閣参事官で竹中平蔵大臣の補佐官であった。高橋氏は「米国では雇用は労働省で扱うのではなく、中央銀行であるFRBが責任を持つ。中央銀行の独立性は目標設定にあるのではなく手段御独立性である。」という意見の持ち主であった。金融政策を重視すべきだという論者が安倍のまわりに集まってきた。その中で財界から中原伸之氏(元日銀審議委員)がいた。「金融政策はマネタリーベースと名目GDPの関係を重視する」意見を持っていた。政治の世界で安倍を反日銀の頭に据えたのは、自民党の山本幸三氏である。東日本大震災後の2011年5月「増税に寄らない復興財源を求める会」の会長に就任し、復興財源を20兆円規模での日銀の国債引き受けを主張した。この会にはリフレ派の理論的指導者と言われる学習院大学の岩田規久男氏や浜田らが講師に招かれて金融政策の重要性や日銀法の改正を議論した。政界で強まる中央銀行批判と日銀法改正の圧力は日銀幹部を追い詰めた。自民党圧勝後は白川総裁、山口副総裁、門間金融担当理事、内田企画局長らは一層厳しい局面に追い詰められた。

1-3) 選挙公約の作成
アベノミクスと呼ばれる経済政策は2012年12月の総選挙で自民党が示した公約の中に謳われている。しかもそれは日銀の金融政策を前面に押し出した異例のものであった。それは伝統的な自民党の発想法では考えられない、安部とその周辺の意向を強く反映した斬新な公約であった。自民党は11月16日の解散当日、日本再生本部が中間とりまとめを発表した。「縮小均衡の分配政策から成長による富の創出への転換」という基本方針に則った政策が打ち出された。①成長目標は名目3%以上を目指す、②成長モデルは産業投資国と貿易立国、③日本経済再生本部に産業競争力会議を設置し、成長産業育成に目標をもって進める、④金融政策はデフレ・円高脱却を最優先で取り組む。政府日銀の連携強化の仕組みを作り大胆な金融緩和を行うというものであった。この段階では甘利氏ら自民党有力政治家はまず物価上昇率は1%を実現し、つぎに2%を目指すという2段階論であったが、安倍らは圧倒的な金を流通させデフレマインドからインフレマインドに心理を切り替えることが目標で最初から2%目標を設定するという主張だったが、統一見解には達していなかった。11月16日衆議院解散が決まった時から、選挙運動が始まった。選挙公約は政調会が作成する。政調副会長の宮沢洋一は選挙後の準備を任された。11月21日自民党の公約が発表された。日本経済再生本部のまとめをそのまま公約にしたようなものであった。公約の中で財務省は、外資ファンドは円を売ってドルを買う行為で外国から非難されるのは目に見えているから絶対できないと考え、日銀法改正についても否定的であった。白川日銀総裁は、目指すべき物価上昇率をあらかじめセットするインフレターゲットの導入に消極的であった。財務省には白川日銀総裁に不信感を持つ者もいた。安倍と米倉経団連会長の関係もいいとは言えなかった。金融緩和について経団連はもともと過度の期待は持っていなかった。安倍を支える財界人としては、歴代の経団連会長が加わった「晋福会」、キッコーマン名誉会長の茂木氏、日銀理事の中原伸之氏らの「晋如会」などが安倍のお友達であった。投票前日の12月15日宮沢政調副会長は財務省幹部とあった。財務省は自民党圧勝を前提として「予算編成方針」の明示を求め、甘利政調会長に強く迫った。12月16日選挙結果は自民党が3年3か月ぶりに政権を挽回した。後に官房副長官に就任する加藤自民党総裁特別補佐(もと大蔵官僚)が政権準備の中心となって、政権の中枢を担った。

(つづく)