ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

山口育子著 「賢い患者」 岩波新書(2018年6月)

2019年08月24日 | 書評
ペチュニア

患者本人の意思を尊重し、患者・医療者の賢明なコミュニケーションを目指す活動 第10回

7章) 患者を支え抜くー辻本好子のキーパーソンとして (その1)

COMLの活動の初期には患者と医療、もしくは国(厚労省)との対立軸がないなどの批判があったが、21世紀に入るとCOML活動の趣旨を理解する人が増え、「対立していないから被害者の視点がなくても活動できる」とか「患者の視点から医療現場を変えたいので手伝ってほしい」という医療機関からの支援要請が増えてきたという。2002年4月NPO法人(特定認定非営利活動法人)になったことで活動が大きな転機を迎えた。1995年の阪神淡路大震災の後1998年NPO法が施行されたことによります。ボランティア団体や市民グループに法人格を与えることにより活動の継続性や信用性をもたらし活動の推進力になった。しかし役所に毎年事業報告書提出の手間が増えるだけだという意見もあったが、この書類作成は筆者の分担だっただけに当初は気が重かったと言います。銀行口座も個人名であったので、法人名に書き換える必要があった。この組織上の大転換期に創始者辻本好子氏の身に試練が待っていた。1月に「乳がん」と診断され、4月8日に診断が確定し手術日が決まった。さらにCOMLの初代理事長だった井上平三氏が4月13日に亡くなった。大腸がんの肺転移となり手術したものの進行は止められず不帰の人となった57歳であった。COMLのNOP法人化に後押しをしてくれた人であったので、COMLの法人化が暗礁に乗り上げたとの感が隠せなかった。辻本好子氏の手術は乳房温存法であったが、生検によって腋下リンパ節への転移が見つかりリンパ節の郭清も行われた。手術後の放射線治療は変更され抗がん剤治療を受けることになった。辻本氏は強い意志を持ち関係者との良い関係を築く才能を持つ人であった。強い側面と病気になってマイナスの面も現れ、人間らしい感情の揺れを筆者山口氏にぶつけながら最後の最後まで生きる希望を抱いていました。同じがん患者だとしても二人の性格はこうも違う者かと実感するとともに、辻本氏を支え抜く決意を固めたそうです。辻本氏は離婚されていましたが二人の息子さんがいましたが他県に居られるので、山口氏がキーパーソン(患者関係者の中で意思決定や問題解決に大きく関与する人間)として、二人で医師との話し合いに臨み、辻本氏の身の周りのお世話もしたという。抗がん剤治療の前はかなり神経質になっておられたが、すべてを受け止めて支えることが山口氏の決意でした。2002年6月初回の抗がん剤治療を受けて帰宅した翌日のことでした。山口氏が抗がん剤治療を受けた1992年頃では投与後1週間はベットの上で嘔吐を繰り返す酷な治療でしたが、21世紀に入ると強力な「制吐剤」ができたおかげで外来で点滴の投与が終ったあとは帰宅できるようになった。「時代は変わった、夢のようだ」と山口氏は思ったという。しかし辻本氏は翌日名古屋大学薬学部の講義に行くといって、朝早く大阪から新幹線に乗ったそうです。サポート役の山口氏があさ電話を入れると呂律の回らない返事があったのでおかしいと思ったら、夜明け頃まで寝られず睡眠導入剤を飲んだということでした。出張取り止めを要求したのですが本人が行くというので認めたそうです。ところが新幹線でまた寝てしまい気が付いたら東京駅まできてそこから山口氏の携帯に電話があった。山口氏は辻本氏が大学に講義に出られない旨電話を入れ、東京駅へ辻本氏保護のために新幹線に乗った。東京駅の救護所で辻本氏を預かり、帰りの新幹線の中でようやく睡眠薬の効果は切れ、呂律は戻ったがその間のことは何も憶えていないらしい。抗がん剤を分解するため肝臓はフル回転で睡眠薬の分解まで手が回らず長時間薬の影響が持続したようだ。

(つづく)