ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 軽部謙介著 「官僚たちのアベノミクスー異形の経済政策」 岩波新書(2018年2月)

2019年08月04日 | 書評
トラショスペルマン(初雪葛)

安倍内閣のアベノミクスはどのように政策として形成されたか、官僚たちの流儀 第1回

序(その1)

岩波書店「図書」3月号の巻末にある「著者からのメッセージ」に、軽部謙介氏は読者からの意見を紹介している。つまり著者の立ち位置が不明で、本書がアベノミクス賛歌なのか、アベノミクス批判なのかわからないという意見が多かったそうである。その意見に対して軽部氏はジャーナリストとして、あくまでファクト(事実)だけを書いたと主張されている。私が思うに「事実」とは、ある思想傾向にそってある立場に都合のいいことだけを集めたに過ぎない。絶対の「事実」はあり得ない。政局べったりのジャーナリストには政局だけが世界であり、市民感覚はなくなり、市民の思う「事実」とは合致しない場合が多い。そして「事実」と「事実」の間を、当事者の意思や心境を独白のセリフで述べるという(つまり事実でないことを空想で補っている)ことで、文筆の腕としてストーリを面白くしていることは否めない。本書もそういう意味で決してファクトだけで成り立っているのではない。経済政策に関する国家意思を決定する政官財の世界なかんずく官僚の物語というべき書である。主役は官僚であって、残念ながら市民というもう一つの経済のステーキホルダーの動きは全く見えてこない。本書は今から6年前の2012年12月前後の政界の出来事を書いている。著者は「異形」というとんがった経済背策を売り物として再登場した第2次安倍政権を支える官僚群の政策提言を是と思って書いているのだろうか。しかも2018年の現在、安倍政権は「森友・加計学園スキャンダル」で落日の状況である。このようなときに本書を出版する意図は何だろうか。アベノミクスも財務省文書改竄も政権の意を受けた同じ官僚のやったことである。日本の政官の癒着ぶりは後進国を決して笑っていられない腐敗ぶりである。「森友・加計学園スキャンダル」を知らないで本書をサラッと読んだだけでは、本書は間違いなく安倍政権の翼賛会的な書であり政権賛歌で埋められている。著者 軽部謙介氏について、プロフィールを振り返っておこう。1955年東京生まれ、1979年早稲田大学卒業、時事通信入社、ワシントン特派員、同支局長、ニューヨーク総局長をへて、編集局次長、解説委員を務めている。主な著書には、「検証 バブル失政――エリートたちはなぜ誤ったのか」、「ドキュメント ゼロ金利 ー日銀vs政府 なぜ対立するのかー」など岩波書店からドキュメンタリーものを著した。本書を各動機について著者軽部氏は、この書はアベノミクスへの評価を真正面から議論するのではない、2013年から日本経済政策の基底をなし様々な意味で記録に残るであろうこの政策が、いつ、どこで、誰によって形成されていったのかの原点を記録するためであった。対象とする期間は2012年11月から2013年7月の9か月というアベノミクスが始動する前後に限っている。無論安倍晋三氏は経済学者ではないし、経済機関関係に従事したこともない。しかし彼が首相であった限り、政策決定プロセスは必ず存在するという観点で当時を検証するのである。ザルの目のように粗い選挙公約とか政治家の主張は、官僚機構の作用を経て実際の政策として落とし込まれる。これは国家意思の出現である。現代日本の議院内閣制度というチェック&バランスの効きにくい政治体制下で、為政者の考えが国家意思になる過程を考察することである。権力の抑制機能を官僚機構が果たしているかどうかも問題である。首相が官僚の幹部人事権を持っている現在では官僚機構が内閣に異を唱えることは難しい。さらに政府と日銀(中央銀行)の関係もきわめて機微に属する。「中央銀行の独立性」は法で謳われているが、権力者の意向にどう抵抗するか、その結果どうなったかも本書の検証対象である。 私はアベノミクスの経済学批判書として、アベノミクスの1年半を検証した服部茂幸著 「アベノミクスの終焉」岩波新書(2014年8月)を読んだ。また安倍内閣の右傾化政治批判書として柿崎明二著 「検証 安倍イズム」岩波新書(2015年10月)を読んだ。本書は経済政策としてのアベノミクスについて述べているので、参考までにアベノミクス批判書である服部茂幸著 「アベノミクスの終焉」のまとめを下に記す。

(続く)