ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

山口育子著 「賢い患者」 岩波新書(2018年6月)

2019年08月15日 | 書評
  小山市高橋神社 楼門 左守護

患者本人の意思を尊重し、患者・医療者の賢明なコミュニケーションを目指す活動 第2回

序章) 著者山口氏の患者体験

山口育子氏が医療と深くかかわる契機となったのは、1990年9月、25歳で「卵巣がん」と診断されたことに始まる。同じ年の3月虫垂炎で腹痛があり入院したとき超音波検査(エコー)を見ながら医師たちが「何かある」といって議論していた。結果は大丈夫だろうということで1週間で退院になった。半年後の9月再び腹痛が起こり同じ病院の産婦人科を受診した。約10cmに腫れた左卵巣があることがエコー検査で分かり、血液検査で炎症反応が強く出て腫瘍マーカーも異常値を示していた。病名も知らされないまま即日入院となり種々の検査が進められた。注腸検査(肛門からバリウムを入れレントゲン撮影)を行った後翌朝7時、卵巣が破裂したという。手術スタッフが揃うまで7時間待って緊急手術が行われた。胃洗浄後全身麻酔がかけられて回復手術となったが、破裂してからの時間が長かったのでがん細胞がばら撒かれてしまった。左卵巣を摘出し腹腔内に抗がん剤が直接注入された。お腹には4本のドレーン(排出管)が挿入され、翌朝目が覚めて時には猛烈な嘔吐が続いた。医師・看護婦・両親までどんな病気かについて触れようとも説明しようともしなかった。患者本人はただならぬ状態に置かれ、悪い病気、ガンだと感じていたという。主治医は両親に「3年生存率は20%以下です。覚悟してください。本人の精神上病名は伝えません」とかん口令を敷いていた。山口氏は自分の身の上に起きていることをそのまま知る事が大事で、自分命をどう生きるかは自分が決めたいと思う人でした。めっぽう自立心の強いタイプです。日本では自己主張の強い人は嫌われがちです。大学への進学は授業料の安い国立大学と決め、親の世話にならず経済的な自立を目指すため高校時代からバイトに精を出したそうです。病名、病状、検査結果等は自分の情報であるのに、本人にはアプローチする道が閉ざされていることは、1990年代の医療界が信じられないくらい閉鎖的な世界であったのです。ガンのステージがⅠcなので、子宮と左右の卵巣と卵管をすべて摘出すべきだったのですが、右卵巣が破裂して7,8時間経ってから癒着を剥がした卵巣を片方取るだけで精いっぱいだったようだ。残された子宮、右卵巣・卵管を摘出するため10日目に再手術を予定していたのですが、腹腔内に入れた抗がん剤のせいで白血球が減少し手術は見送られた。患者には何の説明もなく手術後3週間後に第1回目の抗がん剤治療が開始された。本人には「癒着止めの点滴」という説明でした。当時の化学療法では入院して3種の抗がん剤を一度に入れ、1か月休みます。それを3クール行い、3か月で退院し休薬期間を設け3回繰り返す予定でした。腎臓へのダメージを予防するため抗がん財注入前後に生理食塩水の点滴を行う。当時は強力な制吐剤(吐き気止め)がなかったため過酷な試練でした。嘔吐と脱毛が化学療法の副作用でした。しかし主治医からのきちんとした病状と治療方針の説明は一度もありません。看護婦や主治医に訴え、別の医師が参考意見を述べるという形で(セカンドオピニオン)患者の質問に答えてくれました。インターネットが普及する前でしたのでそれから専門書を買って卵巣がんの勉強を始めたそうです。そして医者とは喧嘩別れをしないため、少しづつ有益な会話に努め必要な情報を積み重ねることが大切だとコミニュケ―ションのやり方を替えたそうです。発病から8か月後残った右卵巣に再発が見られた。説明もなく主治医はさっそく再手術の予定と検査のオーダーを入れてゆきます。検査のため別の科に行き自分のカルテを見ると卵巣がん再発と書いてありました。そこで主治医に糺すと主事の顔色が変わりさらに手術は中止し化学療法を継続する方針変更を伝えられた。予想していた以上に早い時期の再発を目の前の事実として、25歳の筆者は「死が訪れるまでは生きている。だとすれば今どう生きるかが大事だ」と考え「私にできる何かがあるはず。生きている限り自分のエネルギーを注ぎこもう」と覚悟したという。この病気にならなければ経験できなかったこと、知り得なかったこともある。抗がん剤治療を受けるため1年半にわたって入退院を繰り返し、入院日数は300日を超えた。持ち前の体力でこれに耐え治療が終わると元の元気を取り戻した。入院費用を稼ぐため、退院中はバイトに励んだそうで、これは驚異的な行動力と活力です。恵まれた体力をもっておられたのでできたことで誰にでもできることではない。入院生活の1991年秋、朝日新聞でCOMLの山口育子のインタビュー記事を読み「患者と医師の関係はお任せでも対立でもない」の関心をもったという。そして11月の自分の病気の経過、受け止め方や考え、医療について思うことを手紙にまとめ辻本氏に送った。さっそく電話が来て「こんな明るい患者さんを見たことがない。是非お話がしたいので患者塾セミナーにいらっしゃい」と誘いを受けた。勢いとパワー強い志のある方と実感し、なんらかのオーラを感じたという。1991年12月最後の3クール目の抗がん剤治療を受けるために入院した。その前に辻本氏から治療が一段落したらCOMLのスタッフにならないかというオファーを受けていた。これに二つ返事で引き受けたそうです。COML会誌に「遊病日記」を寄稿し、闘病記・体験談を纏め、辻本氏との人間関係を築いていった。筆者は8クールを終えた時点で血尿が続き腎臓機能が悪化して、嘔吐・悪心、下痢、血圧低下などからこれ以上抗がん剤治療を続けると取り返しのつかない副作用に襲われると感じ始めていた。「今が辞め時」と感じてセカンドオピニオンを求め産婦人科医の意見を伺った。その医師が言うには「患者さんの意見を尊重することは大事です。化学療法が一段落したら私がいる病院へ転院してきたら」と勧められた。そこで今治療している病院の主治医には別の病院で内服抗がん剤治療で経過観察をすること、主治医に対する疑問点や改善点の意見を言って、治療にピリオドを打った。そして1992年2月よりCOMLスタッフとして歩み始めたそうです。(なお著者は発病してから今年2018年で27年となります。)

(つづく)