ブログ 「ごまめの歯軋り」

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山口育子著 「賢い患者」 岩波新書(2018年6月)

2019年08月26日 | 書評
栃木県下野市 三王山ふれあい公園

患者本人の意思を尊重し、患者・医療者の賢明なコミュニケーションを目指す活動 第12回  最終回

7章) 患者を支え抜くー辻本好子のキーパーソンとして (その3)

2010年11月に入って腹膜に転移していたがんが猛烈に増殖し始めました。一部の転移巣が尿管を圧迫し水腎症となった。26cmのステントという金属管を尿管に入れた。腹膜転移していることを実感した辻本はどこで死ぬかを模索したが、山口氏が看護婦長に相談すると外科病棟で最後まで面倒を見るとの返事をもらった。緩和ケア病棟へ移ることもできたが新しい人間関係を作るエネルギーがもうないことを悟った辻本氏は外科病棟に残った。辻本氏は死後迄治療を希望し、抗がん剤治療を続行することを選択しました。腹水との戦いでもありました。「あの患者は死を受容している」ことにホッとする医療者もいます。辻本氏は私は頑張ると主張しました。2011年3月腹水を抜くために入院し、倦怠感や嘔吐は治まらず、仕事への復帰は諦めた。最後まで自分らしく生きるための模索を始めました。自宅で過ごせるよう総勢12名で病院と在宅医療、介護サービスの合同会議が行われました。その時3月の検診で山口氏の身体にも異変が起きていました。なんと20年前に取り残した右卵巣に原発卵巣がんが発見され、エコーで見つかった白い影からMRI検査となりPET-CTでもがんであると確認されたのです。6月に手術の予定がが入りました。ところが5月連休明けに自宅に戻った辻本氏は、自宅で食事をし、夜中に嘔吐してトイレで倒れてしまった。山口氏が翌朝電話をしても出ないので自宅に駆け付けたところ7時間も放置状態であったので、病院へ担ぎこんだのですが、誤飲性肺炎を起こし数日後には昏睡状態となりました。山口氏は迷った挙句、辻本氏が助からないならCOMLを発展させるために自分が元気になって復帰する必要があるとして6月の手術を行うために入院した。山口氏の手術は卵巣がんがS字結腸と癒着していたので、丁寧にガンを剥がして、薄くなったS字結腸をタック状にして縫合する処置がなされた。卵巣がんは低悪性であったので抗がん剤治療は行わないということで治療は手術だけで済んだ。手術の2日後の朝7時ごろ、山口氏がベットでぼやーとしていると、辻本氏が呼ぶ声が聞こえたので、「もう頑張らなくていいですよ」と答えた。ふと正気に返り辻本氏に付き添っている次男に電話を掛けると、「どうしてわかったのですか、本当にたったいま息を引き取りました。医師の死亡確認を待っています」という返事が返ってきた。「辻本氏が渾身の力を振る絞って私に別れを告げてくれたのだといまでも信じています」と山口氏は締めくくっている。2010年7月4日付の辻本好子の「事前指示書」が残されている。延命治療の拒否やプライベートな指示は省くが、最後にこう締めくくった「これまで出会ったすべての人に心から感謝します。とっても幸せな人生でした。本当にありがとうございました」(享年63歳)

(完)

山口育子著 「賢い患者」 岩波新書(2018年6月)

2019年08月25日 | 書評
翠 菊

患者本人の意思を尊重し、患者・医療者の賢明なコミュニケーションを目指す活動 第11回

7章) 患者を支え抜くー辻本好子のキーパーソンとして (その2)

乳がん治療後8年が経過した2010年5月、COML20周年記念パーティの直後、辻本氏は胃が痛いと不調を訴えた。胃カメラ検診ではかなり深い胃潰瘍で出血の恐れがあるとの連絡が医師より山口氏に入った。その数日後胃カメラで採取した細胞の生検結果より胃がんであると判明したという連絡があった。そしてがん細胞は「印環細胞がん」というスキルスガンよりさらに悪性度の高いがんだと判明した。辻本氏は検査結果を口で言うと曖昧になるので病理診断書報告書を添えて文章でメールするようにとの指示があり、それによって二人の医師の言葉の理解がかなり異なることが分かった。メールまたはファックスで淡々と本人に事実を突きつけることはつらいことですと山口氏はいう。1時間ばかりの手術前説明は、二人で一緒に聞いた。印環細胞がんという未分化がんは増殖速度が速く悪性度が高いのでリンパ節への転移は免れない。術前CT検査では明確な腹膜転移はなかったが、浮遊のがん細胞や結節状の転移はあるかもしれないという。息子さんらに説明するため、この術前説明を文章にまとめ辻本氏に渡すと、本人が受け止めている内容と多少食い違いがあることが分かった。手術後の執刀医の説明は「厳しいな」で始まりました。手術は胃の1/3は残して切除し、NIレベルのリンパ節も切除したが、CTでは見えなかった腹膜への転移、結節状の転移が直腸付近まで連続的に見られた。腸間膜の転移はすぐに影響が出るので切除し、それ以外はそのままにしてある。腸閉塞や直腸近くの腹膜転移は大腸の閉塞となり人工肛門を考えなければということであった。腹水が溜る心配もある。胃の幽門部付近のリンパ節転移が胃に流入するガンもあった。印環細胞がんの一部がスキルス化している疑いもある。腹膜転移があった段階でステージはⅣ(末期)であった。医師(部長)は余命1年と伝えた。手術の翌日朝早く医師(部長)は山口氏同席の上で、辻本に術後の話に入った。辻本は医師にいきなり余命の話を切り出した。うろたえた医師はお茶を濁して出て行った後、辻本氏は山口氏に改めて余命のことを問いただした。出来るだけ正確に口頭で伝えたが、辻本氏は文章にしてほしいと要求する。それはCOML歴20年の山口氏にとって人生を変えた大先輩の病状の事実を正確に伝えることは,生涯で最もつらい文章作成であったといいます。辻本氏には手術中から痛み止めの「硬膜外カテーテル」がしてあり術後5日目に針を抜くと、患部の痛みが出るので午前2時ごろナースセンターから鎮痛剤の頓服を希望したそうです。持ってきた看護婦に辻本氏は「このつらい気持ちを聞いてほしい、10分でいいから時間がほしい」といって、山口氏が作成した説明分を読んでもらった。看護婦は「こんな大事なものを読ませていただいたのに、私にはして差し上げることが何もない」と涙ながらに謝るのであった。辻本氏は「あなたに何かしてほしいわけではない、あなただから聞いてほしいの」と思いのたけを全部吐き出したそうです。何故その看護婦なのかを考えると、心のこもった看護をする人だったから、患者は伝えたい医療者を選択しているのだ。辻本が手術を終えて退院したのは同年の夏である。自宅療養に入ってから辻本氏の気持ちに激しい動揺が生じ始めました。あまりに激しい感情の発言に山口氏も苦しみました。COMLを継承発展させるには山口氏しかいない、自分はまだまだやりたいことがいっぱあるのに、その葛藤に引き裂かれているのでした。「あれだけ人に嫌な面を出さない辻本があそこまでマイナス感情をぶつけてきたのは、とことん私のことを信頼していたからだ」と思えるようになったのは、辻本氏の死後2年たってからのことです。

(続く)






山口育子著 「賢い患者」 岩波新書(2018年6月)

2019年08月24日 | 書評
ペチュニア

患者本人の意思を尊重し、患者・医療者の賢明なコミュニケーションを目指す活動 第10回

7章) 患者を支え抜くー辻本好子のキーパーソンとして (その1)

COMLの活動の初期には患者と医療、もしくは国(厚労省)との対立軸がないなどの批判があったが、21世紀に入るとCOML活動の趣旨を理解する人が増え、「対立していないから被害者の視点がなくても活動できる」とか「患者の視点から医療現場を変えたいので手伝ってほしい」という医療機関からの支援要請が増えてきたという。2002年4月NPO法人(特定認定非営利活動法人)になったことで活動が大きな転機を迎えた。1995年の阪神淡路大震災の後1998年NPO法が施行されたことによります。ボランティア団体や市民グループに法人格を与えることにより活動の継続性や信用性をもたらし活動の推進力になった。しかし役所に毎年事業報告書提出の手間が増えるだけだという意見もあったが、この書類作成は筆者の分担だっただけに当初は気が重かったと言います。銀行口座も個人名であったので、法人名に書き換える必要があった。この組織上の大転換期に創始者辻本好子氏の身に試練が待っていた。1月に「乳がん」と診断され、4月8日に診断が確定し手術日が決まった。さらにCOMLの初代理事長だった井上平三氏が4月13日に亡くなった。大腸がんの肺転移となり手術したものの進行は止められず不帰の人となった57歳であった。COMLのNOP法人化に後押しをしてくれた人であったので、COMLの法人化が暗礁に乗り上げたとの感が隠せなかった。辻本好子氏の手術は乳房温存法であったが、生検によって腋下リンパ節への転移が見つかりリンパ節の郭清も行われた。手術後の放射線治療は変更され抗がん剤治療を受けることになった。辻本氏は強い意志を持ち関係者との良い関係を築く才能を持つ人であった。強い側面と病気になってマイナスの面も現れ、人間らしい感情の揺れを筆者山口氏にぶつけながら最後の最後まで生きる希望を抱いていました。同じがん患者だとしても二人の性格はこうも違う者かと実感するとともに、辻本氏を支え抜く決意を固めたそうです。辻本氏は離婚されていましたが二人の息子さんがいましたが他県に居られるので、山口氏がキーパーソン(患者関係者の中で意思決定や問題解決に大きく関与する人間)として、二人で医師との話し合いに臨み、辻本氏の身の周りのお世話もしたという。抗がん剤治療の前はかなり神経質になっておられたが、すべてを受け止めて支えることが山口氏の決意でした。2002年6月初回の抗がん剤治療を受けて帰宅した翌日のことでした。山口氏が抗がん剤治療を受けた1992年頃では投与後1週間はベットの上で嘔吐を繰り返す酷な治療でしたが、21世紀に入ると強力な「制吐剤」ができたおかげで外来で点滴の投与が終ったあとは帰宅できるようになった。「時代は変わった、夢のようだ」と山口氏は思ったという。しかし辻本氏は翌日名古屋大学薬学部の講義に行くといって、朝早く大阪から新幹線に乗ったそうです。サポート役の山口氏があさ電話を入れると呂律の回らない返事があったのでおかしいと思ったら、夜明け頃まで寝られず睡眠導入剤を飲んだということでした。出張取り止めを要求したのですが本人が行くというので認めたそうです。ところが新幹線でまた寝てしまい気が付いたら東京駅まできてそこから山口氏の携帯に電話があった。山口氏は辻本氏が大学に講義に出られない旨電話を入れ、東京駅へ辻本氏保護のために新幹線に乗った。東京駅の救護所で辻本氏を預かり、帰りの新幹線の中でようやく睡眠薬の効果は切れ、呂律は戻ったがその間のことは何も憶えていないらしい。抗がん剤を分解するため肝臓はフル回転で睡眠薬の分解まで手が回らず長時間薬の影響が持続したようだ。

(つづく)


山口育子著 「賢い患者」 岩波新書(2018年6月)

2019年08月23日 | 書評
花虎の尾

患者本人の意思を尊重し、患者・医療者の賢明なコミュニケーションを目指す活動 第9回

6章) 患者が参加するー医療を支える市民養成講座

COLMの故辻本理事長が厚生労働省をはじめとする審議会や検討会の委員に就任することが多くなった2005年ごろから、患者・利用者の立場で発言する委員に必要性が増え、そのための人材養成が急務となった。しかし当時は「医療不信」がピークに達していたころで、医療理解はとても受け入れられる状況ではなかった。しかし2008年には下火になったので養成の企画が始まった。「医療で活躍するボランティア養成講座」がそれです。当時は審議委員養成講座ではハードルが高すぎると思い、病院ボランティア、模擬患者、病院探検隊、電話相談も含めました。1回3時間、全5回のプログラムで具体的なボランティア活動に入った修了者もいます。2011年に辻本氏が他界して山口氏が理事長に就任すると非常な多忙な毎日となり、年間150回の講演会に加え数多くの委員会活動がメインとなった。2015年「大学附属病院等の医療安全確保に関するタスクフォース」の顧問となって、22の特定機能病院の集中立ち入り検査に同行し、そこから「大学附属病院等のガバナンスに関する検討会」となりました。2017年度より特定機能病院に設置が求められた医療安全監査委員会では8病院で委員を務めいる。監査委員に外部から委員を入れるという条項によります。2015年の「人を対象とする医学系研究に関する倫理指針」倫理審査委員に一般市民の参加が成立条件となった。2018年施行の臨床研究法では認定臨床研究審査委員会にも外部委員が必要です。2015年から始まった地域医療構想、独立行政法人病院は外部評価委員が必要です。委員会に出席したら、やはり一度は発言しなければなりません。いつどのタイミングでどんな内容を話すかで、下手をすると2度と発言できなくなることもあります。つまり患者・利用者を代表して意見を述べる一般委員の役割を理解し、冷静・客観的な意見を述べる訓練が必要です。そこで2017年度よりアドバンスコースとして「医療関係会議の一般委員養成講座」を始めたそうです。「医療で活躍するボランティア養成講座」も改称して「医療を支える市民養成講座」という基礎コースに位置付けた。1年に3回講座を開催し、2017年度は350名が参加した。アドバンスコースは1回3時間全7回の開催です。各種委員会(厚生労働省・文科省)の役割と種類を知り、議事録を読む会、ディベートセミナー、模擬検討会を開催します。模擬検討会には受講生だけでなく大学教授・医師会理事、研修センター理事らが参加し、事務局は厚労省の技官です。模擬検討会での合格者は「COML委員バンク」に登録する資格が与えられます。

(つづく)

山口育子著 「賢い患者」 岩波新書(2018年6月)

2019年08月22日 | 書評
百日紅と柿の木

患者本人の意思を尊重し、患者・医療者の賢明なコミュニケーションを目指す活動 第8回

5章) 患者が病院を変えてゆくー病院探検隊

1995年「日本医療機能評価機構」が設立され、1997年より訪問審査による病院機能評価事業が開始された。病院の利用者である患者の立場の評価者が入っていないことに疑問を抱きCOLMで「病院探検隊」を結成したという。1994年諏訪中央病院より病院探検隊を受け入れてもらい、以来少しづつ他の病院からも実施を依頼され、2002年には16医療機関の依頼を受けた。2003年度からは交通費、宿泊料、派遣料を有料化した。2017年度末までに全国86医療機関で「病院探検隊」を実施しました。中には保険薬局、介護老人保健施設、特別養護老人ホームも含まれます。COLMスタッフ・ボランティア約10名で出向き、午前中は医療機関の主導による「案内見学」、COLMが見たい場所の「自由見学」、病院の依頼による模擬「受診」(受付から支払いまで)からなります。病院食の昼食を実費を支払って食べ、午後より2時間かけて病院幹部とディカッションとフィードバックを行います。後日レポートを纏め1か月以内にCOLM総合フィードバック報告書を送付する仕組みです。チェックポイントはある程度マニュアル化され詳細は省きますが、
①外回り・受付
②外来(トイレを含む)、診察室、検査室、採血室、リハビリ室など)、薬局、廊下・階段
③病棟 ナースステーション、病室、浴室、トイレ、臭い、ディルーム談話室、公衆電話、ベット周り、洗濯室、ゴミ箱、説明用別室 
④患者が利用する場所 売店、医療相談室、カルテ管理室、投書箱、病院食、図書コーナー、待合室
医療スタッフの言葉使い・ホスピタリティ、苦情相談室等も見て回ります。2015年慶應義塾大学病院や2016年千葉大学附属病院が「臨床研究中核病院」に名乗りを上げたが厚生労働省より病院のガバナンス(患者目線欠如)を指摘され、そこでCOLMの病院探検隊を実施し病院改革を行って認可を得たそうです。この病院探検隊は、ある意味で当時流行していたISO8001品質管理、ISO14001環境管理の認証機構と規を一にしているようです。患者目線で病院機能を評価する仕組みです。

(つづく)