ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 軽部謙介著 「官僚たちのアベノミクスー異形の経済政策」 岩波新書(2018年2月)

2019年08月06日 | 書評
茨城産の梨 「幸水」

アベノミクスはどのように政策として形成されたか、官僚たちの流儀 第3回

第1部) 2012年11月―2012年12月 政権移行 (その1)

1-1) 解散

2012年11月14日、民主党の野田首相は国会党首討論会に臨んで、消費税引き上げで党内が分裂した民主党内閣は窮地に追い込まれ解散総選挙の時期をめぐって決意を迫られた。野田首相は特例国債法案が国会を通過する展望が開け、尖閣諸島国有化に端を発した中国の反日運動が沈静化したのを契機に、16日解散を表明した。直ちに内閣府事務次官の松本崇は「引継ぎに抜かりないように」と指示したという。世間では野田内閣は来年春の予算案国会通過をもって辞職するとみていたが、意外な幕開けとなった。11月16日解散、12月16日投票という日程が決まった。官僚機構は自民党が大勝するだろうという予測をもとに、準備を加速させた。時に目立った活動を開始したのは、経産省の製造産業局長だった菅原郁郎氏らの幹部であった。産業の空洞化が進み、輸出は毎年21兆円宇上の減少(2007-2011年)で、民主党内閣に分配政策はあっても成長戦略は無いとみた幹部らは経産省の無力感を味わったという。幹部らは9月に安倍が自民党総裁になった時点から自民党本部に足繁く通うようになった。安倍が総裁選挙の公約に掲げた「デフレ脱却と成長力の底上げ」の具体化が急がれた。10月24日には「日本経済再生本部」が党内に設置され、政調会長の甘利明が本部長代理、茂木利充が事務局長に任命された。経済官僚らはこの再生本部に参集して政策を提言した。この組織は2001年小泉純一郎政権で生まれた「経済財政諮問会議」に似ていた。諮問会議が実質的には財務省のコントロール下にあると見た経産官僚たちは諮問会議よりは政策提言の場である再生本部が使いやすいと考えた。財務省の特徴は省をあげての情報の共通化であり、経産省の特徴は個人プレーにあった。再生会議の方が機敏で動きやすいと考えたのは当然であった。経産省の菅原らは金融、財政、競争政策という三分野で打ち上げることであった。のちに「三本の矢」という安倍のネーミングで打ち出された政策バッテリーである。「安部は財務省嫌い」だと見た財務省の幹部たちは10月2日に安倍にブリーフィングを行った。基礎的財政収支の黒字化の道筋、特例国債法案の複数年度化などであった。11月12日に特例国債法案修正案(5年間の発行を認める)が解散直前に国会を通過した。さすが情報通の財務省のことだと妙に感心されたという。

(続く)