ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 豊下楢彦著 「集団的自衛権とは何か」(岩波新書)

2015年07月26日 | 書評
集団的自衛権という日米安全保障体制の強化はさらに日本を危険な道に誘い込む 第10回

第6章 日本外交のオルタナティブ(第3の選択肢)を求めて(その1)

国民に対する嘘とごまかしでなければ、おぼっちゃまのきれいごとに過ぎない安倍政権の集団自衛権問題を巡る日米関係の「双務性、対等性」についてはこれまでで明らかになったが、本章では対米従属でない日本外交の新しい選択肢を模索する。まず日本外交の国際貢献について考えてゆこう。発展途上国という概念が存在したが、東京大学国際政治学の田中明彦氏は安全保障からこれを「混沌圏」と呼び、世界の脅威はここから生み出されるという。田中氏は世界の不安定性から先進国を守るための制度としての安保条約の存在意義を確認する。しかし本当に先進国はその役割を果たしているのだろうかを、旧ユーゴ紛争で検証することにしよう。旧ユーゴ紛争は東欧共産圏の崩壊によって、チトー大統領のまとめた独自の社会主義国が分解される過程で生まれた。この紛争の主たる原因が「大セルビア主義」を掲げることによって各民族の民族主義をあおりたてたセルビア共和国の指導者ミロシェビッチ氏にあるとされている。しかし問題は先進国たるEC欧州共同体の対処法であった。処置を誤るとバルカン戦争の事態になりかねない。1991年スロヴェニアとクロアチアが独立を宣言すると、ECは元イギリス外相キャリントンを議長とするユーゴ和平会議を発足させ和平の仲介に乗り出した。独立の認定基準として「少数民族の法的保護体制」の確立を決めたが、ドイツはクロアチアの独立を承認する方が戦争拡大を防止できるとした。ECはドイツに引きずられる形で、クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナの独立を承認した。そして民族間のボスニア内戦となり泥沼の紛争に発展した。ECではドイツの責任を糾弾したが、紛争の調停にあたる先進諸国が紛争に油を注ぐ愚を犯したのであった。1995年国連事務総長であったガリは紛争「予防外交」を唱え、緊張を緩和させることや紛争拡大を阻止する外交であるとしたが、旧ユーゴ紛争ではECの外交は「紛争拡大外交」になってしまった。そしてNATOによる空爆という事態では完全に紛争当事者になった。これは「介入」と言われる。大国の介入で暗躍するのが武器輸出業者である。国連常任理事国にドイツを加えた6か国だけで兵器輸出の81%を占め、米国だけで46%と圧倒している。火に油を注ぐ軍産複合体と言われる戦争拡大政策によって利益を得る団体が世界の最も不安定要因となるのである。武器輸出3原則によって、公的には兵器輸出を行ってこなかった唯一の国である日本の立場こそが、紛争地域への兵器輸出禁止条約の国際的な枠組み形成を主導する役割を担えるのである。

(つづく)

読書ノート 豊下楢彦著 「集団的自衛権とは何か」(岩波新書)

2015年07月25日 | 書評
集団的自衛権という日米安全保障体制の強化はさらに日本を危険な道に誘い込む 第9回

第5章 「脅威の再生産」の構造
米国は当面の国益から、「敵の敵は友」という短絡的な戦略・戦術を採用することによって、同盟国を振り回すだけでなく、結果的に新たな脅威を生み出すという悪循環を起してきた。その「脅威の再生産」の構造をイラク、アルカイダ、パキスタンの3つの事例で検証しよう。

1) イラク
レーガン政権が誕生した1981年には、イランイラク戦争が勃発していた。イランのホメイニ革命に対抗するためイラクを支持すべきという主張が優勢になった。ところが1979年にカーター政権は同国をテロ支援国家に指定し、両国への武器売却を禁止していた。カーター政権は1982年2月、イラクをテロ支援国家のリストから外し、イラクへの融資保証の道を開いた。12月国防長官ラムズフェルドは大統領親書を携えサダム・フセインとのトップ会談を行った。ラムズフェルドは「イランとシリアの拡張を阻止することは米国とイラクの共通の利益である」と定義し、イランへの兵器供給の封じ込めと石油パイプラインの建設を約した。ところが米国はイラクが化学兵器製造能力をもとかつ戦争で使用していることを知りながら、これを黙認する。1984年11月米国とイランの正式な外交関係が樹立されたことで融資保証や信用供与でイランは大量の兵器調達ができるようになった。そしてフセインは1988年「アルファ作戦」でクルド人自治区を襲い18万人以上を殺戮した。化学兵器で5千人以上を殺害した。こうしてレーガン政権はイラクがイランに対してばかりでなく、同国人のクルド人殺害に化学兵器を使用していることを掴んでいたが、国連安保理でイラクに対する化学兵器使用非難決議が採択されが、米国はイラク制裁には反対した。1988年8月イラク・イラン戦争は停戦し、翌年ブッシュ(親)政権が発足した。ブッシュ政権はレーガン政権のイラク支援政策を踏襲し、国務長官ベーカーは新しい米国―イラク・ガイドラインをまとめた。イラクが巨大な軍事的政治的パワーに成長し、ソ連から離れつつあること、莫大な石油埋蔵量という点からイラク支持を続けるというものであった。1989年8月にイラクはBNLアトランタ支店を通じて米国から巨額の不正融資保証を受け、西欧諸国に複雑な兵器調達ネットワークをつくりあげているということがFBIの強制調査によって暴露された。「サダム・フセインの戦争マシーンへのベーカーの裏口融資」と非難されたが、ブッシュ政権はフセインのクウェート侵攻までイラン支持を続けた。これらのレーガン政権とブッシュ政権のイラク援助政策は「イラク・ゲート事件」と呼ばれた。イラクの大量破壊兵器問題の起源は、米国を始め西欧諸国の軍需産業がイラクを巨大な市場と見て、最新の軍事テクノロジーや資材を大量に売り込んだことによる。その信用保証をアメリカがしたのである。このように「敵の敵は友」という短絡的視野からなされたフセインへの援助政策が、ついに制御不能のモンスターを生み出し、湾岸戦争からイラク戦争を引き起こした。

2) アルカイダ
レーガン政権はその「敵の敵は友」戦略によって、フセインとは別の重大なモンスターを作り出していた。レーガン政権は1981年1月末に発足したばかりに「国際テロリズムとの戦い」を掲げた。当時テロ組織とは、ソ連、リビア、イラン、シリア、北朝鮮、キューバ、ニカラグア、レバノンの過激派、パレスチナ解放機構PLOなどであって、なかでも焦眉の課題は1979年12月にアフガニスタンに侵攻したソ連との対決である。ソ連の言い分は1978年に締結したアフガニスタン・ソ連友好条約に基づき政府の要請を受けて集団的自衛権を行使するというものであった。このアフガン侵攻は10年にも及ぶ泥沼の戦いとなった。米国はアフガニスタンのムジャヒディン(イスラム聖戦士)に援助を与えることでソ連を攪乱することであった。1985年レーガン大統領はムジャヒディン援助をエスカレートさせ兵器を大量に供与した。これを受けてケーシーCIA長官は3つの措置を実行した。1つはムジャヒディンにスティンガー対空ミサイルを供与し兵士を訓練した。2つはパキスタンの情報部ISIとCIAが協力して、ソ連の補給路であったタジキスタンとウズベキスタンに対するゲリラ攻撃を強化すること。3つ目の措置は、世界からムスリム急進派をパキスタンに結集させムジャヒディンとともに戦わせることであった。サウジアラビア情報部の指揮のもとに世界34か国からムスリム急進派が3万5千人集結した。周辺から援助したムスリム急進派は10万人に達したという。サウジアラビアのオサマ・ビン・ラディンがCIAの援助と豊富な資金力を得て急進派を組織していった。ムジャヒディンを支援するセンターとして「アル・カイダ」(基地)を設置した。テロ活動のノーハウを教え込み、武器を与えてアフガニスタンに送り込むという路線にCIAが踏み込んだ。ムスリム急進派の組織化が一気に進み、新たなモンスターが誕生した。オサマ・ビン・ラディンは母国サウジアラビアへの米軍駐留を、異教徒の軍隊によるイスラムの聖地占領として激しく非難し、やがて反米テロの指導者になった。アメリカは飼い犬に手を噛まれることになった。米国が養成したフセイン、アルカイダという脅威はまさにレーガン政権とブッシュ政権が作り出した制御不能の巨大モンスターである。ある容易に対抗するために、米国が手段として利用した主体が、新たなる脅威として登場するという「脅威の再生産」の構造にこそ、アメリカの戦略の本質である。

3) パキスタン
米国外交問題評議会のファーガソンは2006年3月特別報告書をまとめ、テロリストが化学・生物・核兵器などの獲得に懸命に動いていることを指摘し、なかでもテロリストによる核攻撃の脅威が高まっていると警告を発した。核兵器製造は困難なので盗み出すことを狙っているという。米国の核はPALという認証コードを解除しない限り使用できないが、ロシアの戦術核やパキスタンの核兵器を危惧している。そしてファーガソン氏はもしクーデターでパキスタン政府がテロリストの手に落ちた場合が最も懸念されるとしている。なぜならパキスタンにはアルカイダの基地が多くあり、軍にはアルカイダのシンパがいること、核管理システムが未熟であること、ムシャラフ大統領の暗殺未遂事件がおきたこと、カーン博士の核闇市場が存在したことなどが心配する根拠である。インドが1998年5月に核実験を行うやパキスタンは5月に6回の核実験を行った。1999年ムシャラフがクーデターで政権を取ると核は軍事政権の手に移った。米国自体が包括的核実験禁止条約CTBTの批准を拒否したため、パキスタンへの説得は力を持たなかった。2001年の9.11同時多発テロ事件は、ブッシュ(子)政権はアフガニスタンのアルカイダへの戦争を遂行するにあたって、パキスタンを戦略拠点として利用するため、インドとパキスタンへの制裁を解除した。パキスタンの核開発は1980年代にさかのぼるが、レーガン政権はソ連のアフガ二スタン侵攻に対処するため、パキスタンの核開発を見て見ぬふりをしていた。ソ連がアフガニスタンから撤退するとパキスタンの戦力的重要性がなくなり、クリントン政権は一変してパキスタンの核開発に厳しい目を向けた。ブッシュ(子)政権はまた核容認の態度に転じた。パキスタンは米国の戦略に振り回されたが、パキスタンと同様日本の外交政策も米国戦略の変更の度に、米国に歩調を合わせて猫の目のようにパキスタン経済制裁から緊急援助へ変更をしている。パキスタンの核技術が北朝鮮のミサイル技術とバーターされ、ウラン濃縮用遠心分離機が北朝鮮に輸出されている。さらのリビアやイランにも遠心分離機が輸出されている。2004年ムシャラフ大統領がカーン博士を処分したのを受け、2005年3月パウエル国防長官は「パキスタンを非NATOの主要同盟国」に位置づけた。この危険な国を米国の主要同盟国に格上げした。核兵器をもつ最も不安定な国家パキスタンという脅威を事実上放置してきたこのご都合主義の米国戦略こそ世界の不安定の元凶であろう。

(つづく)

読書ノート 豊下楢彦著 「集団的自衛権とは何か」(岩波新書)

2015年07月24日 | 書評
集団的自衛権という日米安全保障体制の強化はさらに日本を危険な道に誘い込む  第8回

第4章 「自立幻想」と日本の防衛(その2)

安倍氏がいう圧倒的な軍事力をもつアメリカと「対等な安全保障上のパートナー」を結べる国が世界中にあるのだろうか。安保条約は日本側の基地を提供した見返りとしての「ただ乗り」、「片務性」によって規定された同盟関係に過ぎない。軍事評論家の江畑謙介氏は安保条約をこう評価している(2005年 「米軍再編」)。「日本はイギリスと並んで、米軍の全世界的展開を支える最も重要な戦略拠点と位置付けられる」、「それは政治的に安定し、高い技術力と経済力を持ち、米軍基地というインフラが存在するという意味で、三沢、横田、横須賀、相模、横浜、岩国、佐世保、沖縄の重要性は増大している」、「冷戦時代の日本防衛という役割はほとんどなくなり、日本はそれほど差し迫った形で米軍の軍事力の助けを必要としていない」という。つまり在日米軍とその基地は、日本の防衛のためにあるのではなく、世界の半分をカバーする米軍の戦略展開のための最大拠点であり、むしろ自衛隊が米軍基地の防衛にあたっているのである。劣等感の裏返しの安倍氏の「双務性、対等性」は、冷戦時代の日米関係を未だに引きずっているといえる。軍事戦略上の問題は弾道ミサイルによる攻撃についてはアメリカの「核の傘」とかミサイル防衛システムに頼らざるを得ない。ここで中国や北朝鮮を仮想敵国として、そこからアメリカに向けて発射された(核搭載)弾道ミサイル防衛での協力が、集団的自衛権を認める最優先的課題となる。米国は日本に対して、ミサイル防衛と「核の傘」という2つの防衛システムという両面戦略が必要であるとされる。ミサイル防衛の論理は「核の傘」の論理が効かなくなった場合に備えるシステムである。核の傘の論理は「懲罰的抑止」に基づくが、共倒れを防ぐためには核は使用できないという論理である。それにたいしてミサイル防衛システムは、ミサイルを撃ったとしても撃ち落されるという「拒否的抑止」に基づく。迎撃ミサイルが技術的に可能かどうかは別にして、ミサイル防衛の論理は「核抑止」が機能しない、失敗する場合(正常な判断力を持たない「ならず者国家指導者」、あるいは「テロ集団」が核のスイッチを押すことを前提として)を想定したシステムである。もう一つの戦略上の選択肢として、ミサイル基地をたたくという「先制攻撃」が考えられる。しかしそれは報復を招くので完璧な選択ではない。問題はこのミサイル防衛システムははたして技術的に機能するのだろうかという疑問である。発射された鉄砲玉を鉄砲で撃ち落とせるのかという例え話がよく語られる。今日の計画ではイージス艦搭載の迎撃ミサイルSM-3と、地上発射のPAC-3による迎撃システムが整備されようとしている。SM-3は大気圏外の「ミッドコース段階」で撃ち落とし、PAC-3はミサイルが落下する「ターミナル段階」で撃ち落とす。極東より米国をねらう弾道ミサイルの高度は700KM以上であるので日本にミサイル防衛では撃ち落とせない。発射直後の上昇ブースト段階で撃ち落とすことができたとしても、日本の上空で散乱される放射性物質で日本は惨憺たる状況となる。ところが2006年12月米国のローレス国防次官は「ミサイルが米国に向かうことが明らかであるのに、法的に日本がそれを撃ち落とせないはクレージーだ、それは日米同盟ではない」と叫んで、改憲を強く求めたという。しかし米国へ向かう弾道ミサイル以上の最悪シナリオは日本海側の原発施設を狙ったミサイル攻撃である。現在の原発施設を地下深く設置しない限り、現時点ではミサイル攻撃に耐える原子炉は存在しない。核を搭載しなくてもミサイルが原子炉を破壊したら結果的に核攻撃と同じになる。

全く無防備な原発をミサイル攻撃から守る対策のほうが日本として最重要課題になるのだが、全国のPAC-3配備には30兆円をはるかに超え、アーミテージ報告は日本に1兆円の特別予算を勧告している。2004年の新防衛大綱は、ミサイル防衛が日本の防衛政策の根幹に据えられた。ところがラムズフェルド国防長官は相次ぐミサイル迎撃実験の失敗から、運用にはいたらない「試用の段階」であると言明した。ミサイル防衛こそ「現代版の大艦巨砲」の悪夢でないだろうか。ソ連邦が消滅したのもこの「大艦巨砲の悪夢の連鎖」に耐えられなかったためである。膨大な税金を必要とするミサイルシステム開発を合理化するために、宇宙戦争の動画まがいの恐怖をあおり、かつ迎撃の可能性も演出しなければならないので、この最悪シナリオを突き詰めてゆくと、国民の安全を守るうえで滑稽なほどリアリティを欠いた無用の長物を生み出してゆくのである。バーチャルリアリティといった仮想空間の呪縛に陥っていないだろうか。際限なき軍拡競争はソ連をつぶしたが、クリントン元大統領は2004年に「ミサイル防衛システムを配備すれば、世界をさらに大きな危険にさらすことになるだろう」といった。1960年代の中国の脅威は今の北朝鮮の比ではなかった。1964年に原爆実験を行い、1966年にアジア全体を射程におく核ミサイル実験を成功させ、翌年には水爆実験を成功させた。1970年には人工衛星を打ち上げ、大陸間弾道弾の開発に着手した。また文化革命において好戦的な言辞がもてはやされ、「攻撃的な核保有国」が出現した。しかし当時の「中国の脅威」は1971年のニクソン訪中による「米中和解」がなって、中国を国際社会に参加させることが脅威を取り除いたのである。いまや中国が攻めてくると恐怖をあおる人は、右翼以外にはいない状況である。北朝鮮に対してもそのような外交方針で臨めばいいのである。21世紀になって国際情勢を混乱させているのは、むしろブッシュ大統領の好戦的なイデオロギー戦略ではないだろうか。2002年漫画的な「悪の枢軸」論がそれである。北朝鮮、イラク、イラン、アルカイダを挙げるが、国家組織を持つ「主権国家」は自爆テロを敢行するテロ組織とは根本的に異なる原理で動いているのである。そしてブッシュ(子)は、テロにおいても地域の「土着パルチザン」と「革命的パルチザン」の区別もできない。「土着パルチザン」は政治目標の達成を目的とし、テロは手段に過ぎない。幕末の日本でも薩長勢力は盛んにテロ攻撃を行って幕府を揺さぶったのである。薩長が権力を握れば文明開化と維新国家建設に邁進した。「革命的パルチザン」には革命の輸出が目的で、政治目標がない点で大きく異なるのである。

(つづく)

読書ノート 豊下楢彦著 「集団的自衛権とは何か」(岩波新書)

2015年07月23日 | 書評
集団的自衛権という日米安全保障体制の強化はさらに日本を危険な道に誘い込む 第7回

第4章 「自立幻想」と日本の防衛(その1)

 日本が集団的自衛権を行使するという課題は、米国にとって日本を名実ともにその軍事戦略に組み込むための不可欠の課題として長年要求し続けてきたが、奇妙なことに日本の指導者は「対等性」とか「双務性」と言った文脈で位置づけている。安倍氏は「日米安保条約の双務性を向上させる責任がある。双務性とは集団的自衛権の行使のことである」、「集団的自衛権を行使できれば日本は対等になる。対等になればもっと日本はアメリカに対して主張できるようになる」と述べています。あきれるぐらいさかさまの論理ではないだろうか。日本がアメリカに対して優等生になれば、アメリカは日本を大事にしてくれるといった甘えた考えである。韓国はベトナムでもイランでも兵隊を送ったが、今や北朝鮮の核の恐怖にさらされ、アメリカは韓国の頭越しに北と2国間協議をしているのである。アメリカは同盟国を信義で守るわけではなく、パワーポリティクスで処理している。安倍氏の論理は甘いというか、それも嘘だとすれば国民をだましてアメリカの従順な代理人に堕しているといわなければならない。イラク戦争においてアメリカブッシュ大統領のイエスマンの代表が英国ブレア首相であった。にもかかわらず、2003年3月11日ラムズフェルド国防長官はイギリス抜きでも行動すると告げた。英米共同作戦行動が計画されていたが、このことはブレアの面目を地に落とした。「アメリカにも見捨てられたブレア」と新聞は書きたてた。史上最大の軍事力を誇る米軍にとって同盟国の軍事的貢献はさほど意に介していないようだ。まして自衛隊の武力なぞにはこれぽっちも期待していないだろう。安倍氏はそれを知ってか知らずか、協力したら対等になるとノー天気に信じておられるようである。それは「幻想」以外の何物でもない。英国のブレアにあたるのが日本では小泉首相であった。小泉氏は米国に対してイエスという日本を作ってきた。安倍氏は「集団的自衛権について憲法解釈の変更や改憲でできたとしても行使するかどうかは政策的判断です」というが、しかし現実の日米関係は日本に主体的判断を許すだろうか。米国を代表する保守系誌である「ナショナル・レビュー」編集長のロウリーは露骨な表現であるが「同盟における目上のパートナーとして、米国は日本が周辺地域を安心させる役割を果たすべきである」、「日本は米国がアジアで必要とするような同盟国になる」という。安倍氏が「対等」とか「双務性」とかいうのに対して、ロウリー氏は米国は目上のパートナーとして日本をそのコントロール下において軍事的貢献を求めるという態度である。国務副長官だったアーミテージは2001年9.11テロ事件のとき、日本の駐米大使に対して「ショー・ザ・フラッグ」と迫り、日本の政策決定に重大な影響を及ぼした。2002年10月日米安保審議官級会合においてローレンス国防総省次官補が「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」(地上部隊の派遣)を求めたという。これがイラク特別措置法上程につながった。米国の意向を象徴する言葉として日本の政界を威嚇し政策決定を促がしたといえる。安倍氏が言う「政策的判断でイエスもあればノーもある」という建前的発言がウソみたいに聞こえる。事前協議制が一度も発動されることなく、小渕首相が公言した「無条件に協力する」ことが日米同盟関係の実態である。もし日本が「ノー」と言えばただちに日本切り捨てとなる。今や米軍再編において国家戦略のレベルまで日米一体化が進められようとしている。2007年2月の「第2次アーミテージ報告」では、憲法が日米協力への制約となっていることを指摘し、「集団的自衛権に関する新たな決定を待つことなくより高いレベルの自衛隊派遣が可能とする、日本が成熟したパートナーとなる」ように求めている。これは法的手続き(改憲)をとらずに政府の解釈次第で海外派遣ができるようにしろと言っているのである。その要求にそって安倍氏は独特の柔和な日本語(双務性、対等性)に翻訳しているのである。これは命令である。立場を逆転させた竹下首相の「思いやり予算」も、基地費用負担を要求されたことへの言いかえ表現に過ぎない。

(つづく)

読書ノート 豊下楢彦著 「集団的自衛権とは何か」(岩波新書)

2015年07月22日 | 書評
集団的自衛権という日米安全保障体制の強化はさらに日本を危険な道に誘い込む  第6回

第3章 政府解釈の形成と限界

 安保闘争によって岸政権が退任し、池田隼人が首相に就くと「在任中は改憲はしない」と表明し、日本はひたすら経済成長の時代に入り、1960-1980年代は改憲無風時代となった。1969年11月佐藤首相とニクソン大統領は沖縄の「核抜き本土なみ返還」が合意されたが、「韓国・台湾条項」が確認された。韓国・台湾有事の際に米軍が日本の基地を使用するにあたって速やかに対応することを約束したのである。1972年5月参議院において、有事の際に集団的自衛権まで踏み込むのではないかという危惧に対して、佐藤首相はきっぱりこれを否定した。そして1972年10月14日集団的自衛権に関する「政府資料」が提出された。1970年代はニクソンショックに象徴される「緊張緩和デタント」の時代であったが、1979年ソ連がアフガニスタンに侵攻して「新冷戦」の時代に入った。レーガン、サッチャーの新保守主義の時代となった。1983年日本では中曽根首相とレーガン大統領の共同声明以来日米同盟関係が進展した。中曽根首相は予算員会で「日本が攻撃を受けた場合、公海上で自衛艦が来援する米軍艦の護衛にあたることは憲法に違反しない」、「日本への物資を輸送している第3国の船舶が攻撃を受けた場合、その攻撃を排除することは、個別的自衛権の範囲である」と答弁した。中曽根内閣は1981年の政府答弁書を踏まえ「集団的自衛権の行使は元より憲法上許されない」という見解を取りながら、日本有事という条件を付けながら様々な事態を個別的自衛権の解釈の範囲を拡大しようとした。1990年代に入って「冷戦の終焉」とともに発生した「湾岸戦争」で事態は一気に進んだ。日本有事・極東有事という条件を揺り動かし、「国際貢献」の名において自衛隊を中東まで派遣する「海外派兵」の是非が議論されることになった。1990年10月海部首相は集団的自衛権は行使しない前提に立って、「後方支援」する国連平和協力法を提出したが、第3国の武力行使と一体化する後方支援は許されないとする世論によって廃案となった。1994年の北朝鮮の核危機、1996年の中台危機を背景に、1996年4月橋本首相とクリントン大統領の会談で日米共同宣言が出された。これが「安保再定義」であり、安保条約の対象が「極東」から「アジア太平洋地域」の平和と安全に一挙に拡大された。そして1997年「ガイドライン」の見直しが行われ、新ガイドラインでは日本の任務として、周辺事態において補給、警備、民間空港・港湾の米軍使用など40項目が追加された。これを受けて1998年4月周辺事態法案が提出され成立した。橋本政権は集団的自衛権に関する政府解釈を変更しないことを確認し、後方支援において武力行使と一体化しないことを前提として実施されることとした。1999年小渕首相は、誰が周辺事態を宣言するかという質問に関して、米国が周辺事態と認定すれば、日本政府は無条件で協力するという立場を公然と打ち出した。「安保再定義」の契機となったのは、1994年細川内閣が「多角的安全保障保障協力の促進」を打ち出したからであり、米国はこれを日本が日米同盟から離れつつあると危機感を強めた。そこで国防次官補のジョセフ・ナイが「安保再定義」の戦略をまとめ、1996年日米共同宣言、1997年新ガイドラインと進み、日本を米国に引きつけ締め付けを強化したのである。スタンフォード大学のホフマン教授は「日本が引き続きアメリカ外交政策の従順な道具となり、独自の対中国政策を持つことなく、アメリカの信頼できるジュニア・パートナーであり続けることを期待する」と述べた。

 2000年10月アーミテージやナイをはじめとする米国の「知日派グループ」は、特別報告を発表し「日本が集団的自衛権を禁じていることが両国の同盟関係を制限している。この制約が取り除かれならさらに効果的な安保協力が可能となる」といった、内政干渉的要請を発した。2001年9月11日に起きた同時多発テロ事件は日米関係に重大な影響を与えた。小泉政権は10月に「テロ対策特別措置法」を提出し、イージス艦のインド洋派遣を根拠づけた。「武力行使はしない、戦闘行為には参加しない、戦場となっていないところで支援活動を行う」といった論理でテロ戦争に大きく踏み込んでいった。さらに2002年4月「武力攻撃予測事態法」案をまとめた。具体的な「日本有事」から「武力攻撃予測事態法」は予想される事態を想定して、総理大臣は自衛隊の出動を命じることができ、さらに地方自治体や民間には協力することを義務とするという内容である。アフガニスタン戦争でアルカイダ壊滅ができない状態で、ブッシュ政権は2003年3月からイラク戦争を始めた。小泉政権は直ちに協力を約し、「イラク特別措置法」を提出した。自衛隊の活動は非戦闘地域に限るが、米軍の養成があれば外国へ踏み込むことができるのである。こうして自衛隊は2004年1月から非戦闘地域とされるサマワに派遣された。イラク特別措置法はあくまで復興支援の活動が目的であって、武力行使と一体化しない措置が前提となっているので、州っ男的自衛権の中核には踏み込んでいない。イラク戦争は世界的な規模で「海外駐在米軍の再編」と密接に関係している。日本の米軍基地と自衛隊司令部との一体化が図られた。自衛隊は米軍基地の統括下に入った模様である。「軍事的一体化」は「国家戦略それ自体の一体化」につながっている。日本は完全に米軍の命令下に組み込まれているのである。2005年2月日米両国の外交・防衛責任者によって共同声明が発せられた。「共通の戦略目標を追求するため緊密に協力する必要性」が確認され、「共通戦略目標」が設定された。これに基づき「部隊戦術レベルから国家戦略レベルに至るまで情報共有および情報協力をあらゆる範囲で向上させる」とされた。米軍再編成は2004年になって本格化したが、自衛隊の軍事的約賄強化を求める米国に対して、福田官房長官は難色を示し、細田官房長官と川口外相と石破防衛庁長官の3人は「申し入れ書」をまとめて米国に提出した。米国の国家戦略に巻き込まれる危険性と米軍再編成が国民の理解が得られない場合もあることを懸念したものである。2004年12月には防衛計画大綱が閣議決定された。それを乗り越えた形で2005年2月には日米の共同声明に至った。こうして米国の世界戦略に巻き込まれる危険性を孕みながら、日米軍事関係の再編成が進行しつつある。アーミテージは「憲法9条が日米同盟関係の妨げになっている」と言明した。とんだ内政干渉だが、集団的自衛権の課題は国家戦略の一体化のなかで実現一歩手前まできている。そのアーミテージの代理人となっているのが安倍首相である。

(つづく)