ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 豊下楢彦著 「集団的自衛権とは何か」(岩波新書)

2015年07月18日 | 書評
集団的自衛権という日米安全保障体制の強化はさらに日本を危険な道に誘い込む 第2回

序(その2)
 瞬時に廃墟にされる危険を冒して何のために北朝鮮がアメリカを攻撃するのかという初歩的な政治レベルの問題さえ考慮されていない。気違いが発射ボタンを押すという前提であるようだ。こうした恐怖の無限増殖は正常な人間のなすことではない。このような発想しかできない自民党戦後体制の本質と、安部政権の「集団的自衛権」行使問題の裏にはどのようなメカニズム(政治力学)が働いているのだろう。おじいさんの岸政権ができなかった「日本の軍事的貢献度を高める」ことで米国にたいする「対等性」を確保したいという願望は見果てぬ夢であろう。アメリカから見ると従順な犬に過ぎない日本をいつでも都合によって見捨てる可能性は極て大きいのである。1960年の安保改定に際して、マッカーサー駐日大使は、日本が戦前の軍事的侵略という歴史問題によってアジアから反発を受け孤立しており、地域的な集団安全保障に入ることができず、結局日本にとって唯一可能なアプローチは米国との提携以外にはないという見通しを示していた。以降半世紀を経過して、このマッカーサー駐日大使の見通しが的確であったと認めざるを得ない。小泉政権は靖国神社参拝問題を契機に北東アジア諸国と緊張した関係になる一方、米軍再編によって日米関係は強化され、そして今や集団的自衛権の問題が焦点となってきた。2006年9月15日のワシントンポストの社説は「日本は歴史に誠実でなければならない。もし日本が過去の誤りを誠実に認めるならば、責任ある民主主義国家として認められるであろう。南京における少なくとも10万人の中国人虐殺を含む自らの過去を認めないならば周辺諸国との緊張関係が高まり、集団的安全保障はできそうにない」と主張した。アメリカが自らのベトナム戦争の誤りにどれだけ誠実であったかという問題はあるが、この主張は発足間もない「1周遅れのネオコン」安倍第1次政権に重大な衝撃を与えた。米国の保守主流派が日本保守派の歴史的認識問題を改めるよう要求してきたのである。従軍慰安婦問題で安倍首相はブッシュ大統領に謝罪するという珍事態となった。謝罪するのはアジアに向けなければならないのに、なんと米国大統領に謝罪しているのであった。安倍首相はドイツナチスは侵略であったが、日本は侵略ではなかったというみょうちきりんな信念をお持ちのようである。歴史問題は「後世の歴史家に任せるべき」と言った無責任な態度を取り続けるならば、間違いなく東アジア諸国からつまはじきされるのである。このように異様な屁理屈を言う自民党政治の状況で、自衛隊の武力行使の領域が飛躍的に拡大されるであろう「集団的自衛権の行使」を憲法改正をせずに解釈変更だけで行うとするとすれば、周辺諸国が重大な警戒をいだくのは当然である。強いアメリカの虎の威を借りた狐が、身近な国を尻目にして強がっている構図である。合従連衡という政治力学からしても極めて危険な処世法である。村山談話、河野談話の線に沿って、近隣諸国との集団的安全保障に努力するのが正常化への第1歩である。米国の犬になって近隣諸国からつまはじきされ嫌われることは日本の生きる道ではない。

(つづく)