ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 豊下楢彦著 「集団的自衛権とは何か」(岩波新書)

2015年07月21日 | 書評
集団的自衛権という日米安全保障体制の強化はさらに日本を危険な道に誘い込む 第5回

第2章 第1次改憲の動きと60年安保改定

 日本国憲法9条問題を軸とした憲法改正の動向は、まず1954年春に憲法調査会が設置され、自由党の憲法改正要綱と日本民主党(鳩山内閣)の憲法改正に対する政策大綱が相次いでまとめられた。そして1955年の自民党結党当時を「第1次改憲」の時代と呼ぶ。現在の安倍首相の改憲の論理が第1次改憲の論理に立脚している。しかしながら日本民主党の「政策大綱」では「自衛軍を整備して、逐次駐留軍の撤退を実現して、自主防衛体制を整備する」、「積極的自主外交を展開し、各国との国交の正常化を図る。平和外交の積極的展開を図る」とされ、改憲の論理として、憲法も安保も米国の押し付けであったという認識から、「自主防衛体制」と「自主外交」という2本の柱があった。つまり「対米一辺倒」という吉田外交からの重大な方向転換を目指した。ところが安倍首相の論理とは、「憲法9条を変えても、安保条約の条文は変える必要がない」というように、吉田内閣の「対米一辺倒外交」の継承に過ぎない。安倍氏と小泉元首相の路線は日米関係の緊密化(日本の安全は米国の軍事力で守られる)であり、基本的に戦後体制の継続路線である。第1次改憲時代の政治指導者の「独立」への模索は、圧倒的な米国の力の前に挫折した。1955年6月鳩山政権の重光外相がダレス国務長官と会談し、日米安保条約の自主対等の改正提案をし、そして安保条約改正後90日以内に米軍の撤退を要求した。対等はあり得ないとダレスに一蹴され、「まず憲法改正を行って、集団的自衛権の行使を可能とする」ことが先決だといわれたという。さらにダレスは日本の再軍備による防衛力に期待はしておらず、「日本が集団的自衛権を行使して米国を守る事より、米国が日本の基地を維持し続ける方が戦略的に重要である」と安保条約の本質をついた発言があった。ダレスの安保条約交渉の本根は「望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐在させる権利」を日本側に認めさせることにあった。重光外相が結果的に玄関払いを食らったことを受けて、1957年3月外務省条約局で作成した「日米安保条約改定案」では、重光の試みた「双務的」条約ではなく、日本についてだけ共同防衛方式を取り、何よりも在日米軍の義務と行動の限界を明確にすることで、一方的軍事同盟(占領状態)から少しでも脱却を図る戦術に転換した。つまり在日米軍の日本防衛義務を定め、日本国政府の事前の同意なしには基地を使用できないとし、同意とは国連による軍事行動に米軍が参加する場合である。そして旧安保条約の「極東条項」の削除である。極東で異変が起きた場合駐留米軍が基地を利用することで自動的に日本が戦争に巻き込まれることを防止するためであった。現状を認めつつ相手の手に縛りをかける巧みな戦術であったが、集団的自衛権については「他国の領域まで防衛することは憲法第9条の趣旨からあまりにも逸脱した解釈である。相互防衛関係はいわば日本と在日米軍との間に成立するもので、一方の側だけに軍隊が駐屯する場合の相互防衛関係としては最も自然である」と位置付けた。

 1957年2月首相に就任した岸信介(安倍のおじいさん)は条約改正に意欲を持っていた。しかし安保条約の根幹に切り込む外務省条約局と、「微調整」で済ませようとする欧米局の間で調整が進まなかった。また当時第5福竜丸水爆被曝事件、基地闘争や相馬ヶ原射爆上での農婦射殺事件で国民の反米感情の高まりの中で安保改定作業は進まなかった。こうした中で安保条約の抜本的な改正に動き出したのはマッカーサー駐日大使であった。1958年2月マッカーサー駐日大使はダレス国務長官に11条からなる新条約草案を送った。この条約案の最大の眼目は第5条の西太平洋(具体的には日本をさす)という「条約区域」の規定である。米国としては新日米安保条約は、東南アジアや西太平洋諸国と結んでいる諸条約と同じ基本形をとることであった。マッカーサーは日本の憲法上、米国領が攻撃された場合米国を援助することは実質不可能であることを認めて、重要な日本の基地を保持し続けることができるなら、双務的集団的自衛権の要求は取り下げてもいいとしたことをダレスに納得させることであった。日本には基地提供義務はあるがアメリカには日本防衛義務はないとする「一方的で片務的」な条約を改め、基地を使用する見返りに米国の日本防衛義務を明確にした「相互的」な安保条約の締結をダレスに迫ったのである。こうして1960年安保条約改定において、「集団的安全保障問題」は棚上げになったが、日本は深くアメリカの防衛体制に組み込まれた。マッカーサーとアイゼンハウアー政権も、日本国民の反米中立主義の世論と大衆運動を恐れ大胆な方向転換を行った。このことは沖縄返還交渉においても、米国政府は沖縄の祖国復帰の世論と基地使用ができなくなるリスクを天秤にかけ、基地継続使用を条件としてパワーポリティクスで対応した。なお新安保条約では沖縄や小笠原は削除され、米軍の占領下に置かれた。結果的には沖縄は改めて本土政府から見捨てられた。こうして「日本国の安全に寄与し、並びに極東における平和と安全に維持に寄与する」ために米軍が日本の基地を使用するという第6条ができた。これは占領条項の性格を引き継いでいる。無目的・無期間で基地を使用できることは、国連憲章第51条の武力攻撃の発生という「縛り」がない。そこで「事前協議制」が1960年1月、岸・アイゼンハワー共同声明で盛り込まれた。一応在日米軍の動きに対して「拒否権」を持つ体裁が整えられた。直接日本の安全にかかわらない台湾問題に関して米軍が出動する場合、拒否権の発動や条約の破棄もありうるという原則的立場はできたが、核艦船の寄港問題や朝鮮半島有事など、事前協議を骨抜きにするさまざまな「密約」が取り交わされていたようだ。集団的自衛権については、1960年2月参議院本会議で岸首相は「他国まで出かけて行ってこれを防衛するという集団的自衛権は、憲法上そういうことはできないことは当然であります」、「海外派兵はいたしません」と述べている。同年5月赤城宗徳防衛庁長官は「日本が集団的自衛権を持つといっても集団的自衛権の行使というものはできないというのが憲法第9条の規定である」と再確認をした。岸政権は「本来の」あるいは「中心的な」集団的自衛権の行使ととらえて、狭義の集団的自衛権については憲法上できないという見解である。しかし基地提供や経済援助などは「広義」の集団的自衛権とみなして容認されるという考えである。「狭義の武力行使」については自衛隊が戦争中のイラクにまで行ってもなお行使できない領域である。自衛隊の武器の所持は認められず、他国の軍隊に守ってもらう形で支援活動にあたることになる。

(つづく)