ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 豊下楢彦著 「集団的自衛権とは何か」(岩波新書)

2015年07月22日 | 書評
集団的自衛権という日米安全保障体制の強化はさらに日本を危険な道に誘い込む  第6回

第3章 政府解釈の形成と限界

 安保闘争によって岸政権が退任し、池田隼人が首相に就くと「在任中は改憲はしない」と表明し、日本はひたすら経済成長の時代に入り、1960-1980年代は改憲無風時代となった。1969年11月佐藤首相とニクソン大統領は沖縄の「核抜き本土なみ返還」が合意されたが、「韓国・台湾条項」が確認された。韓国・台湾有事の際に米軍が日本の基地を使用するにあたって速やかに対応することを約束したのである。1972年5月参議院において、有事の際に集団的自衛権まで踏み込むのではないかという危惧に対して、佐藤首相はきっぱりこれを否定した。そして1972年10月14日集団的自衛権に関する「政府資料」が提出された。1970年代はニクソンショックに象徴される「緊張緩和デタント」の時代であったが、1979年ソ連がアフガニスタンに侵攻して「新冷戦」の時代に入った。レーガン、サッチャーの新保守主義の時代となった。1983年日本では中曽根首相とレーガン大統領の共同声明以来日米同盟関係が進展した。中曽根首相は予算員会で「日本が攻撃を受けた場合、公海上で自衛艦が来援する米軍艦の護衛にあたることは憲法に違反しない」、「日本への物資を輸送している第3国の船舶が攻撃を受けた場合、その攻撃を排除することは、個別的自衛権の範囲である」と答弁した。中曽根内閣は1981年の政府答弁書を踏まえ「集団的自衛権の行使は元より憲法上許されない」という見解を取りながら、日本有事という条件を付けながら様々な事態を個別的自衛権の解釈の範囲を拡大しようとした。1990年代に入って「冷戦の終焉」とともに発生した「湾岸戦争」で事態は一気に進んだ。日本有事・極東有事という条件を揺り動かし、「国際貢献」の名において自衛隊を中東まで派遣する「海外派兵」の是非が議論されることになった。1990年10月海部首相は集団的自衛権は行使しない前提に立って、「後方支援」する国連平和協力法を提出したが、第3国の武力行使と一体化する後方支援は許されないとする世論によって廃案となった。1994年の北朝鮮の核危機、1996年の中台危機を背景に、1996年4月橋本首相とクリントン大統領の会談で日米共同宣言が出された。これが「安保再定義」であり、安保条約の対象が「極東」から「アジア太平洋地域」の平和と安全に一挙に拡大された。そして1997年「ガイドライン」の見直しが行われ、新ガイドラインでは日本の任務として、周辺事態において補給、警備、民間空港・港湾の米軍使用など40項目が追加された。これを受けて1998年4月周辺事態法案が提出され成立した。橋本政権は集団的自衛権に関する政府解釈を変更しないことを確認し、後方支援において武力行使と一体化しないことを前提として実施されることとした。1999年小渕首相は、誰が周辺事態を宣言するかという質問に関して、米国が周辺事態と認定すれば、日本政府は無条件で協力するという立場を公然と打ち出した。「安保再定義」の契機となったのは、1994年細川内閣が「多角的安全保障保障協力の促進」を打ち出したからであり、米国はこれを日本が日米同盟から離れつつあると危機感を強めた。そこで国防次官補のジョセフ・ナイが「安保再定義」の戦略をまとめ、1996年日米共同宣言、1997年新ガイドラインと進み、日本を米国に引きつけ締め付けを強化したのである。スタンフォード大学のホフマン教授は「日本が引き続きアメリカ外交政策の従順な道具となり、独自の対中国政策を持つことなく、アメリカの信頼できるジュニア・パートナーであり続けることを期待する」と述べた。

 2000年10月アーミテージやナイをはじめとする米国の「知日派グループ」は、特別報告を発表し「日本が集団的自衛権を禁じていることが両国の同盟関係を制限している。この制約が取り除かれならさらに効果的な安保協力が可能となる」といった、内政干渉的要請を発した。2001年9月11日に起きた同時多発テロ事件は日米関係に重大な影響を与えた。小泉政権は10月に「テロ対策特別措置法」を提出し、イージス艦のインド洋派遣を根拠づけた。「武力行使はしない、戦闘行為には参加しない、戦場となっていないところで支援活動を行う」といった論理でテロ戦争に大きく踏み込んでいった。さらに2002年4月「武力攻撃予測事態法」案をまとめた。具体的な「日本有事」から「武力攻撃予測事態法」は予想される事態を想定して、総理大臣は自衛隊の出動を命じることができ、さらに地方自治体や民間には協力することを義務とするという内容である。アフガニスタン戦争でアルカイダ壊滅ができない状態で、ブッシュ政権は2003年3月からイラク戦争を始めた。小泉政権は直ちに協力を約し、「イラク特別措置法」を提出した。自衛隊の活動は非戦闘地域に限るが、米軍の養成があれば外国へ踏み込むことができるのである。こうして自衛隊は2004年1月から非戦闘地域とされるサマワに派遣された。イラク特別措置法はあくまで復興支援の活動が目的であって、武力行使と一体化しない措置が前提となっているので、州っ男的自衛権の中核には踏み込んでいない。イラク戦争は世界的な規模で「海外駐在米軍の再編」と密接に関係している。日本の米軍基地と自衛隊司令部との一体化が図られた。自衛隊は米軍基地の統括下に入った模様である。「軍事的一体化」は「国家戦略それ自体の一体化」につながっている。日本は完全に米軍の命令下に組み込まれているのである。2005年2月日米両国の外交・防衛責任者によって共同声明が発せられた。「共通の戦略目標を追求するため緊密に協力する必要性」が確認され、「共通戦略目標」が設定された。これに基づき「部隊戦術レベルから国家戦略レベルに至るまで情報共有および情報協力をあらゆる範囲で向上させる」とされた。米軍再編成は2004年になって本格化したが、自衛隊の軍事的約賄強化を求める米国に対して、福田官房長官は難色を示し、細田官房長官と川口外相と石破防衛庁長官の3人は「申し入れ書」をまとめて米国に提出した。米国の国家戦略に巻き込まれる危険性と米軍再編成が国民の理解が得られない場合もあることを懸念したものである。2004年12月には防衛計画大綱が閣議決定された。それを乗り越えた形で2005年2月には日米の共同声明に至った。こうして米国の世界戦略に巻き込まれる危険性を孕みながら、日米軍事関係の再編成が進行しつつある。アーミテージは「憲法9条が日米同盟関係の妨げになっている」と言明した。とんだ内政干渉だが、集団的自衛権の課題は国家戦略の一体化のなかで実現一歩手前まできている。そのアーミテージの代理人となっているのが安倍首相である。

(つづく)