ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 豊下楢彦著 「集団的自衛権とは何か」(岩波新書)

2015年07月24日 | 書評
集団的自衛権という日米安全保障体制の強化はさらに日本を危険な道に誘い込む  第8回

第4章 「自立幻想」と日本の防衛(その2)

安倍氏がいう圧倒的な軍事力をもつアメリカと「対等な安全保障上のパートナー」を結べる国が世界中にあるのだろうか。安保条約は日本側の基地を提供した見返りとしての「ただ乗り」、「片務性」によって規定された同盟関係に過ぎない。軍事評論家の江畑謙介氏は安保条約をこう評価している(2005年 「米軍再編」)。「日本はイギリスと並んで、米軍の全世界的展開を支える最も重要な戦略拠点と位置付けられる」、「それは政治的に安定し、高い技術力と経済力を持ち、米軍基地というインフラが存在するという意味で、三沢、横田、横須賀、相模、横浜、岩国、佐世保、沖縄の重要性は増大している」、「冷戦時代の日本防衛という役割はほとんどなくなり、日本はそれほど差し迫った形で米軍の軍事力の助けを必要としていない」という。つまり在日米軍とその基地は、日本の防衛のためにあるのではなく、世界の半分をカバーする米軍の戦略展開のための最大拠点であり、むしろ自衛隊が米軍基地の防衛にあたっているのである。劣等感の裏返しの安倍氏の「双務性、対等性」は、冷戦時代の日米関係を未だに引きずっているといえる。軍事戦略上の問題は弾道ミサイルによる攻撃についてはアメリカの「核の傘」とかミサイル防衛システムに頼らざるを得ない。ここで中国や北朝鮮を仮想敵国として、そこからアメリカに向けて発射された(核搭載)弾道ミサイル防衛での協力が、集団的自衛権を認める最優先的課題となる。米国は日本に対して、ミサイル防衛と「核の傘」という2つの防衛システムという両面戦略が必要であるとされる。ミサイル防衛の論理は「核の傘」の論理が効かなくなった場合に備えるシステムである。核の傘の論理は「懲罰的抑止」に基づくが、共倒れを防ぐためには核は使用できないという論理である。それにたいしてミサイル防衛システムは、ミサイルを撃ったとしても撃ち落されるという「拒否的抑止」に基づく。迎撃ミサイルが技術的に可能かどうかは別にして、ミサイル防衛の論理は「核抑止」が機能しない、失敗する場合(正常な判断力を持たない「ならず者国家指導者」、あるいは「テロ集団」が核のスイッチを押すことを前提として)を想定したシステムである。もう一つの戦略上の選択肢として、ミサイル基地をたたくという「先制攻撃」が考えられる。しかしそれは報復を招くので完璧な選択ではない。問題はこのミサイル防衛システムははたして技術的に機能するのだろうかという疑問である。発射された鉄砲玉を鉄砲で撃ち落とせるのかという例え話がよく語られる。今日の計画ではイージス艦搭載の迎撃ミサイルSM-3と、地上発射のPAC-3による迎撃システムが整備されようとしている。SM-3は大気圏外の「ミッドコース段階」で撃ち落とし、PAC-3はミサイルが落下する「ターミナル段階」で撃ち落とす。極東より米国をねらう弾道ミサイルの高度は700KM以上であるので日本にミサイル防衛では撃ち落とせない。発射直後の上昇ブースト段階で撃ち落とすことができたとしても、日本の上空で散乱される放射性物質で日本は惨憺たる状況となる。ところが2006年12月米国のローレス国防次官は「ミサイルが米国に向かうことが明らかであるのに、法的に日本がそれを撃ち落とせないはクレージーだ、それは日米同盟ではない」と叫んで、改憲を強く求めたという。しかし米国へ向かう弾道ミサイル以上の最悪シナリオは日本海側の原発施設を狙ったミサイル攻撃である。現在の原発施設を地下深く設置しない限り、現時点ではミサイル攻撃に耐える原子炉は存在しない。核を搭載しなくてもミサイルが原子炉を破壊したら結果的に核攻撃と同じになる。

全く無防備な原発をミサイル攻撃から守る対策のほうが日本として最重要課題になるのだが、全国のPAC-3配備には30兆円をはるかに超え、アーミテージ報告は日本に1兆円の特別予算を勧告している。2004年の新防衛大綱は、ミサイル防衛が日本の防衛政策の根幹に据えられた。ところがラムズフェルド国防長官は相次ぐミサイル迎撃実験の失敗から、運用にはいたらない「試用の段階」であると言明した。ミサイル防衛こそ「現代版の大艦巨砲」の悪夢でないだろうか。ソ連邦が消滅したのもこの「大艦巨砲の悪夢の連鎖」に耐えられなかったためである。膨大な税金を必要とするミサイルシステム開発を合理化するために、宇宙戦争の動画まがいの恐怖をあおり、かつ迎撃の可能性も演出しなければならないので、この最悪シナリオを突き詰めてゆくと、国民の安全を守るうえで滑稽なほどリアリティを欠いた無用の長物を生み出してゆくのである。バーチャルリアリティといった仮想空間の呪縛に陥っていないだろうか。際限なき軍拡競争はソ連をつぶしたが、クリントン元大統領は2004年に「ミサイル防衛システムを配備すれば、世界をさらに大きな危険にさらすことになるだろう」といった。1960年代の中国の脅威は今の北朝鮮の比ではなかった。1964年に原爆実験を行い、1966年にアジア全体を射程におく核ミサイル実験を成功させ、翌年には水爆実験を成功させた。1970年には人工衛星を打ち上げ、大陸間弾道弾の開発に着手した。また文化革命において好戦的な言辞がもてはやされ、「攻撃的な核保有国」が出現した。しかし当時の「中国の脅威」は1971年のニクソン訪中による「米中和解」がなって、中国を国際社会に参加させることが脅威を取り除いたのである。いまや中国が攻めてくると恐怖をあおる人は、右翼以外にはいない状況である。北朝鮮に対してもそのような外交方針で臨めばいいのである。21世紀になって国際情勢を混乱させているのは、むしろブッシュ大統領の好戦的なイデオロギー戦略ではないだろうか。2002年漫画的な「悪の枢軸」論がそれである。北朝鮮、イラク、イラン、アルカイダを挙げるが、国家組織を持つ「主権国家」は自爆テロを敢行するテロ組織とは根本的に異なる原理で動いているのである。そしてブッシュ(子)は、テロにおいても地域の「土着パルチザン」と「革命的パルチザン」の区別もできない。「土着パルチザン」は政治目標の達成を目的とし、テロは手段に過ぎない。幕末の日本でも薩長勢力は盛んにテロ攻撃を行って幕府を揺さぶったのである。薩長が権力を握れば文明開化と維新国家建設に邁進した。「革命的パルチザン」には革命の輸出が目的で、政治目標がない点で大きく異なるのである。

(つづく)