ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 豊下楢彦著 「集団的自衛権とは何か」(岩波新書)

2015年07月25日 | 書評
集団的自衛権という日米安全保障体制の強化はさらに日本を危険な道に誘い込む 第9回

第5章 「脅威の再生産」の構造
米国は当面の国益から、「敵の敵は友」という短絡的な戦略・戦術を採用することによって、同盟国を振り回すだけでなく、結果的に新たな脅威を生み出すという悪循環を起してきた。その「脅威の再生産」の構造をイラク、アルカイダ、パキスタンの3つの事例で検証しよう。

1) イラク
レーガン政権が誕生した1981年には、イランイラク戦争が勃発していた。イランのホメイニ革命に対抗するためイラクを支持すべきという主張が優勢になった。ところが1979年にカーター政権は同国をテロ支援国家に指定し、両国への武器売却を禁止していた。カーター政権は1982年2月、イラクをテロ支援国家のリストから外し、イラクへの融資保証の道を開いた。12月国防長官ラムズフェルドは大統領親書を携えサダム・フセインとのトップ会談を行った。ラムズフェルドは「イランとシリアの拡張を阻止することは米国とイラクの共通の利益である」と定義し、イランへの兵器供給の封じ込めと石油パイプラインの建設を約した。ところが米国はイラクが化学兵器製造能力をもとかつ戦争で使用していることを知りながら、これを黙認する。1984年11月米国とイランの正式な外交関係が樹立されたことで融資保証や信用供与でイランは大量の兵器調達ができるようになった。そしてフセインは1988年「アルファ作戦」でクルド人自治区を襲い18万人以上を殺戮した。化学兵器で5千人以上を殺害した。こうしてレーガン政権はイラクがイランに対してばかりでなく、同国人のクルド人殺害に化学兵器を使用していることを掴んでいたが、国連安保理でイラクに対する化学兵器使用非難決議が採択されが、米国はイラク制裁には反対した。1988年8月イラク・イラン戦争は停戦し、翌年ブッシュ(親)政権が発足した。ブッシュ政権はレーガン政権のイラク支援政策を踏襲し、国務長官ベーカーは新しい米国―イラク・ガイドラインをまとめた。イラクが巨大な軍事的政治的パワーに成長し、ソ連から離れつつあること、莫大な石油埋蔵量という点からイラク支持を続けるというものであった。1989年8月にイラクはBNLアトランタ支店を通じて米国から巨額の不正融資保証を受け、西欧諸国に複雑な兵器調達ネットワークをつくりあげているということがFBIの強制調査によって暴露された。「サダム・フセインの戦争マシーンへのベーカーの裏口融資」と非難されたが、ブッシュ政権はフセインのクウェート侵攻までイラン支持を続けた。これらのレーガン政権とブッシュ政権のイラク援助政策は「イラク・ゲート事件」と呼ばれた。イラクの大量破壊兵器問題の起源は、米国を始め西欧諸国の軍需産業がイラクを巨大な市場と見て、最新の軍事テクノロジーや資材を大量に売り込んだことによる。その信用保証をアメリカがしたのである。このように「敵の敵は友」という短絡的視野からなされたフセインへの援助政策が、ついに制御不能のモンスターを生み出し、湾岸戦争からイラク戦争を引き起こした。

2) アルカイダ
レーガン政権はその「敵の敵は友」戦略によって、フセインとは別の重大なモンスターを作り出していた。レーガン政権は1981年1月末に発足したばかりに「国際テロリズムとの戦い」を掲げた。当時テロ組織とは、ソ連、リビア、イラン、シリア、北朝鮮、キューバ、ニカラグア、レバノンの過激派、パレスチナ解放機構PLOなどであって、なかでも焦眉の課題は1979年12月にアフガニスタンに侵攻したソ連との対決である。ソ連の言い分は1978年に締結したアフガニスタン・ソ連友好条約に基づき政府の要請を受けて集団的自衛権を行使するというものであった。このアフガン侵攻は10年にも及ぶ泥沼の戦いとなった。米国はアフガニスタンのムジャヒディン(イスラム聖戦士)に援助を与えることでソ連を攪乱することであった。1985年レーガン大統領はムジャヒディン援助をエスカレートさせ兵器を大量に供与した。これを受けてケーシーCIA長官は3つの措置を実行した。1つはムジャヒディンにスティンガー対空ミサイルを供与し兵士を訓練した。2つはパキスタンの情報部ISIとCIAが協力して、ソ連の補給路であったタジキスタンとウズベキスタンに対するゲリラ攻撃を強化すること。3つ目の措置は、世界からムスリム急進派をパキスタンに結集させムジャヒディンとともに戦わせることであった。サウジアラビア情報部の指揮のもとに世界34か国からムスリム急進派が3万5千人集結した。周辺から援助したムスリム急進派は10万人に達したという。サウジアラビアのオサマ・ビン・ラディンがCIAの援助と豊富な資金力を得て急進派を組織していった。ムジャヒディンを支援するセンターとして「アル・カイダ」(基地)を設置した。テロ活動のノーハウを教え込み、武器を与えてアフガニスタンに送り込むという路線にCIAが踏み込んだ。ムスリム急進派の組織化が一気に進み、新たなモンスターが誕生した。オサマ・ビン・ラディンは母国サウジアラビアへの米軍駐留を、異教徒の軍隊によるイスラムの聖地占領として激しく非難し、やがて反米テロの指導者になった。アメリカは飼い犬に手を噛まれることになった。米国が養成したフセイン、アルカイダという脅威はまさにレーガン政権とブッシュ政権が作り出した制御不能の巨大モンスターである。ある容易に対抗するために、米国が手段として利用した主体が、新たなる脅威として登場するという「脅威の再生産」の構造にこそ、アメリカの戦略の本質である。

3) パキスタン
米国外交問題評議会のファーガソンは2006年3月特別報告書をまとめ、テロリストが化学・生物・核兵器などの獲得に懸命に動いていることを指摘し、なかでもテロリストによる核攻撃の脅威が高まっていると警告を発した。核兵器製造は困難なので盗み出すことを狙っているという。米国の核はPALという認証コードを解除しない限り使用できないが、ロシアの戦術核やパキスタンの核兵器を危惧している。そしてファーガソン氏はもしクーデターでパキスタン政府がテロリストの手に落ちた場合が最も懸念されるとしている。なぜならパキスタンにはアルカイダの基地が多くあり、軍にはアルカイダのシンパがいること、核管理システムが未熟であること、ムシャラフ大統領の暗殺未遂事件がおきたこと、カーン博士の核闇市場が存在したことなどが心配する根拠である。インドが1998年5月に核実験を行うやパキスタンは5月に6回の核実験を行った。1999年ムシャラフがクーデターで政権を取ると核は軍事政権の手に移った。米国自体が包括的核実験禁止条約CTBTの批准を拒否したため、パキスタンへの説得は力を持たなかった。2001年の9.11同時多発テロ事件は、ブッシュ(子)政権はアフガニスタンのアルカイダへの戦争を遂行するにあたって、パキスタンを戦略拠点として利用するため、インドとパキスタンへの制裁を解除した。パキスタンの核開発は1980年代にさかのぼるが、レーガン政権はソ連のアフガ二スタン侵攻に対処するため、パキスタンの核開発を見て見ぬふりをしていた。ソ連がアフガニスタンから撤退するとパキスタンの戦力的重要性がなくなり、クリントン政権は一変してパキスタンの核開発に厳しい目を向けた。ブッシュ(子)政権はまた核容認の態度に転じた。パキスタンは米国の戦略に振り回されたが、パキスタンと同様日本の外交政策も米国戦略の変更の度に、米国に歩調を合わせて猫の目のようにパキスタン経済制裁から緊急援助へ変更をしている。パキスタンの核技術が北朝鮮のミサイル技術とバーターされ、ウラン濃縮用遠心分離機が北朝鮮に輸出されている。さらのリビアやイランにも遠心分離機が輸出されている。2004年ムシャラフ大統領がカーン博士を処分したのを受け、2005年3月パウエル国防長官は「パキスタンを非NATOの主要同盟国」に位置づけた。この危険な国を米国の主要同盟国に格上げした。核兵器をもつ最も不安定な国家パキスタンという脅威を事実上放置してきたこのご都合主義の米国戦略こそ世界の不安定の元凶であろう。

(つづく)