ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 豊下楢彦著 「集団的自衛権とは何か」(岩波新書)

2015年07月17日 | 書評
集団的自衛権という日米安全保障体制の強化はさらに日本を危険な道に誘い込む 第1回

序(その1)

 今から約80年前に、ドイツの政治学者カール・シュミットは次のように指摘した。「自らの敵がだれなのか、誰に対して戦うのかを、もしも他者の指示を受けるとしたら、それはもはや政治的に自由な国民ではなく、他の政治体制に編入され従属させられているのである」といった。国家主権の本質を「友・敵」関係(同盟関係と仮想敵国)の設定に求めた洞察は今も普遍的な意味を持つと考えられる。そうすると一貫して対米従属外交を戦後約70年近く続ける自民党は米国支配層のエージェンシー(代理人)に過ぎない。安倍首相が言う「アンシャンジーム(戦後体制)からの脱却」とは、対米従属路線を強化し、政治体制を戦後から戦前に戻すという信じられないほどの時代錯誤でなければ、知性の劣化著しい「痴人の夢」である。戦前型支配層の果てしない夢かもしれないが、国民を窮地に追い込むきわめて危険な夢であることは間違いないので、これは丁寧に反論してゆかなければならない。なにしろ彼らはあらゆる権力とメディアを使って、国民をだます術に長けているから。日本の核武装の要である原発再稼働と集団的自衛権は密接に関係していることを明らかにしてゆこう。原発は電力会社のドル箱だけではなく、日本の安全保障上のいわゆる「隠れた核抑止力」であり、同時に恰好のミサイル攻撃目標となるからである。ここで本書の原点となる集団的自衛権を定める国連憲章を見よう。憲章2条4項で、 「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を慎まなければならない。」と武力行使禁止原則を謳っているが、次の3つの場合のみ武力行使が認められている。①「安全保障理事会の決定に基づいて取られる軍事的措置」 国連の名において実施される集団安全保障、②③加盟国に対する武力攻撃が発生し、安保理が必要な措置を取るまでの間に認められる、個別的自衛権と集団的自衛権の行使である。集団的自衛権とは通説では「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止すること」といわれる。これは軍事同盟にあてはまり、国連安保理の管轄下で実施される「集団的安全保障」と、軍事同盟の「集団的自衛権」とは根本的に異なっている。そして日本国憲法第9条は「国際紛争を解決する手段としての武力行使を放棄し、国の交戦権を否認する」とあるため、「集団的自衛権」の行使は認められないということが1970年来政府の一貫した解釈となっている。これに対して自民党は(政府担当政党だった)憲法改正を訴えてきたが国民の賛成を得られず憲法改正はできなかった。それを安倍政権は憲法改正と集団的自衛権を俎上に載せようとしている。アメリカの仮想敵国はこれまで幾度も変わってきたが、日本政府は無条件にこれを支持してきた。日米の仮想敵国とは現在は、超大国を目指す中国と核ミサイルを急ぐ北朝鮮のことであろう。アメリカは日本に対して、北朝鮮が発射したアメリカに向かう弾道ミサイルを、日本が迎撃できる「法的・軍事的体制」の整備を強く求めてきた。この「法的体制整備」が集団的自衛権の問題なのである。2003年12月に小泉政権がミサイル防衛システムの導入を決定した際の「専守防衛に徹し第3国の防衛のためには使用しない」という大前提さえ破るものである。

(つづく)