ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 豊下楢彦著 「集団的自衛権とは何か」(岩波新書)

2015年07月23日 | 書評
集団的自衛権という日米安全保障体制の強化はさらに日本を危険な道に誘い込む 第7回

第4章 「自立幻想」と日本の防衛(その1)

 日本が集団的自衛権を行使するという課題は、米国にとって日本を名実ともにその軍事戦略に組み込むための不可欠の課題として長年要求し続けてきたが、奇妙なことに日本の指導者は「対等性」とか「双務性」と言った文脈で位置づけている。安倍氏は「日米安保条約の双務性を向上させる責任がある。双務性とは集団的自衛権の行使のことである」、「集団的自衛権を行使できれば日本は対等になる。対等になればもっと日本はアメリカに対して主張できるようになる」と述べています。あきれるぐらいさかさまの論理ではないだろうか。日本がアメリカに対して優等生になれば、アメリカは日本を大事にしてくれるといった甘えた考えである。韓国はベトナムでもイランでも兵隊を送ったが、今や北朝鮮の核の恐怖にさらされ、アメリカは韓国の頭越しに北と2国間協議をしているのである。アメリカは同盟国を信義で守るわけではなく、パワーポリティクスで処理している。安倍氏の論理は甘いというか、それも嘘だとすれば国民をだましてアメリカの従順な代理人に堕しているといわなければならない。イラク戦争においてアメリカブッシュ大統領のイエスマンの代表が英国ブレア首相であった。にもかかわらず、2003年3月11日ラムズフェルド国防長官はイギリス抜きでも行動すると告げた。英米共同作戦行動が計画されていたが、このことはブレアの面目を地に落とした。「アメリカにも見捨てられたブレア」と新聞は書きたてた。史上最大の軍事力を誇る米軍にとって同盟国の軍事的貢献はさほど意に介していないようだ。まして自衛隊の武力なぞにはこれぽっちも期待していないだろう。安倍氏はそれを知ってか知らずか、協力したら対等になるとノー天気に信じておられるようである。それは「幻想」以外の何物でもない。英国のブレアにあたるのが日本では小泉首相であった。小泉氏は米国に対してイエスという日本を作ってきた。安倍氏は「集団的自衛権について憲法解釈の変更や改憲でできたとしても行使するかどうかは政策的判断です」というが、しかし現実の日米関係は日本に主体的判断を許すだろうか。米国を代表する保守系誌である「ナショナル・レビュー」編集長のロウリーは露骨な表現であるが「同盟における目上のパートナーとして、米国は日本が周辺地域を安心させる役割を果たすべきである」、「日本は米国がアジアで必要とするような同盟国になる」という。安倍氏が「対等」とか「双務性」とかいうのに対して、ロウリー氏は米国は目上のパートナーとして日本をそのコントロール下において軍事的貢献を求めるという態度である。国務副長官だったアーミテージは2001年9.11テロ事件のとき、日本の駐米大使に対して「ショー・ザ・フラッグ」と迫り、日本の政策決定に重大な影響を及ぼした。2002年10月日米安保審議官級会合においてローレンス国防総省次官補が「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」(地上部隊の派遣)を求めたという。これがイラク特別措置法上程につながった。米国の意向を象徴する言葉として日本の政界を威嚇し政策決定を促がしたといえる。安倍氏が言う「政策的判断でイエスもあればノーもある」という建前的発言がウソみたいに聞こえる。事前協議制が一度も発動されることなく、小渕首相が公言した「無条件に協力する」ことが日米同盟関係の実態である。もし日本が「ノー」と言えばただちに日本切り捨てとなる。今や米軍再編において国家戦略のレベルまで日米一体化が進められようとしている。2007年2月の「第2次アーミテージ報告」では、憲法が日米協力への制約となっていることを指摘し、「集団的自衛権に関する新たな決定を待つことなくより高いレベルの自衛隊派遣が可能とする、日本が成熟したパートナーとなる」ように求めている。これは法的手続き(改憲)をとらずに政府の解釈次第で海外派遣ができるようにしろと言っているのである。その要求にそって安倍氏は独特の柔和な日本語(双務性、対等性)に翻訳しているのである。これは命令である。立場を逆転させた竹下首相の「思いやり予算」も、基地費用負担を要求されたことへの言いかえ表現に過ぎない。

(つづく)