ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 豊下楢彦・古関彰一著  「集団的自衛権と安全保障」(岩波新書)

2015年07月05日 | 書評
集団的自衛権の憲法解釈変更の閣議決定は日本の安全につながるのか  第7回

第1部 「集団的自衛権」症候群 (豊下楢彦)
第1章 今 「集団的自衛権」とは (その1)


 「集団的自衛権」とは国連憲章に明確に書かれており、国連が正式の安全保障行動をとる前に、危険が迫っている場合個別的自衛権と集団的自衛権の行使する権利がある。しかし権利があるのと行使するということはイコールではなく、国内憲法や法規に照らし合わせて行使しないということは国際法規上の常識である。1972年以来の日本政府(自民党政権)の見解は、憲法9条の明記する「武力を行使しない」ということから、専守防衛の個別的自衛権は行使するが集団的自衛権は海外派兵の危険性があるのでこれを行使しないという見解を取り続けてきた。その政府見解を安倍内閣は42年経った今日憲法解釈を変更しようというのである。そして密接な関係にある外国に対して武力攻撃が行われた時、我国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があること、その国による明示的な要請があるとき、必要最小限の実力を行使してその攻撃の排除参加することを狙っている。「必要最小限」なら不合理でも許されるわけではないし、悪事を弁解できるわけでもない。これは言葉の綾であって、「必要最大限」に使用されることは軍隊の性格上火を見るより明らかである。「我国がこうした集団的自衛権を行使できるということは、抑止力が高まり紛争が回避できる」という副次的な理由づけがなされるが、これは集団的自衛権の本質を覆い隠すものである。集団的自衛権を行使すれば間違いなく多国間戦争に巻き込まれ、日本は戦争当事者になり、日本が攻撃されても相手が不正だということにはならない。権利の行使の構えを持っているだけで相手を抑制できるというのは核の抑止力に通じる論理で、脅威の増幅になるのである。集団的自衛権はこれを行使しないという従来の政府見解を遵守するなら、相手国の信頼を得られ我国への攻撃はあり得ない。もし海外で集団的自衛権を行使するなら、現法体制では「宣戦布告」を行う開戦規定も交戦規定もない、軍法会議もない自衛隊では戦争に巻き込まれることできない。まして憲法改正もなされていない。文体を持つなら憲法改正が必要であるが、集団的自衛権の行使については現憲法下でも可能であるという阿部首相の支離滅裂な結論が出てくる。「虎の威を借りた狐」で相手国へ威を張るだけで済むわけはなく、もし海外で戦争に巻き込まれて日本が相手国から攻撃されれば、攻撃を排除する行動をとるための体制が全くないのである。前書きでいつも言われる「安全保障環境の悪化」とは何だろうか。これこそまさに机上の空論で、統幕本部ならともかく、内閣情報部や外務省が現状の戦略的認識を欠いた情勢分析である。北朝鮮のミサイル問題とと中国の急速な軍備拡張があげられているのみである。米中関係の急進展については口を閉ざしている。2014年3月オランダのハーグで開かれた核安全保障サミットにおいて、オバマ大統領は「米中関係は世界でも最も重要な2国間関係」と述べた。4月の日米共同声明では「中国は重要な役割を果たしうることを認識し、中国との間で生産的・建設的な関係をきづくことへの日米の関心を再確認する」と明記された。ともかく米国は中国を大国として捉え国際的枠組の中に取り込む基本方針に立っている。オバマ大統領は日本の集団的自衛権の取り組みを評価したうえで、日米同盟の枠内で、近隣諸国との対話促進を日本に要請した。ところが安倍首相は韓国の朴政権の関係構築よりは、2013年4月麻生副総理の靖国参拝問題、同年末自身の靖国参拝、さらに「村山談話」、「河野談話」の見直し方針の表明が日韓中関係を冷却させ、米国さえ失望し、朴大統領の安倍首相批判が続いた。朴大統領は「親米和中」を基軸として中国へ急接近している。もはや韓国は中国を単純に「敵」とは見ていないのである。安全保障環境の悪化という決まり文句がいうところの硬直した構図は崩れつつあり、中国が日米韓の共同の敵ではなくなっている。経済面では中国を中心に回転する東アジアで中国を敵とした国際関係はあり得ない。政治と経済は2枚舌ではごまかせないのである。ブッシュジュニア大統領でさえ2007年8月に北朝鮮をテロ支援国家の指定から解除している。梯子を外された安倍第1次内閣はこれを機に崩壊したのである。安倍は世の中は複雑怪奇と政権を投げ出したのである。アメリカの政権は民主党であれ共和党であれ、中国や北朝鮮の脅威を煽って日本を米国の軍事的指揮下において、現実には日米同盟の枠を超えたレベルから自らの国益を模索しているのである。

(つづく)