ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 豊下楢彦・古関彰一著  「集団的自衛権と安全保障」(岩波新書)

2015年07月12日 | 書評
集団的自衛権の憲法解釈変更の閣議決定は日本の安全につながるのか 第14回

第2部 憲法改正と安全保障 (古関彰一)
第3章 「国家安全保障」


 そもそも安全保障という概念を言い出したのは17世紀末のイギリスの功利主義者ベンサムであったといわれる。ベンサムは安全保障を今の意味ではなく、人権という意味で「国家の目的は、生存・富・安全保障を最大限にすること」と述べている。ベンサムの意味ではそれは「社会安全保障」という社会保障である。生存権を憲法で規定している場合は国家が安全保障の主体となったのである。20世紀という戦争の世紀となって、戦争の脅威から軍事力によって国家が主体となる安全保障という概念が生まれた。中でも冷戦の産物以外の何物でもないのである。1951年に日米安全保障条約が締結された。米国では1947年に国家安全保障法を制定し国家安全保障会議NSCが発足した。そして60年遅れて安倍政権は「国家安全保障会議」を設立し、国家安全保障体制が本格的に始まった。戦争が常態化した第2次世界大戦後の時代に合致した冷戦向きの政治体制である。そのためには集権的な政治体制と強力な指導力を発揮できる大統領が必要であった。アメリカは州自治の伝統が強く国家嫌いで知られる国民性を安全保障国家の強い中央集権制でバランスを取る格好の指示課題であった。戦前から東洋特有の人権意識が弱く、政治感覚は冷戦時代そのものである日本で安全保障国家となると人権が喪失される可能性が強い。現在のアメリカ民主主義は行政面では内閣の中心よりは、大統領が自由に決められる安全保障を中心に、総合性と統合性を併せ持つNSC国家安全保障国家(戦時体制)になったといえる。そのために、国家安全保障会議NSC、中央情報局、国家安全保障資源庁、軍事組織も陸海空のうえに国家軍政機構(国防省ペンタゴン)が設けられた。2004年には国家諜報長官DNIが新設され、CIA、FBI、DIA、NGA、NRO、DHSなどを含む一大組織となった。合衆国憲法は連邦議会に「戦争を宣言する」権限を、大統領に「陸海空の最高司令官」の権限を与えている。日本では自衛隊が発足した2年後1956年に国防会議が発足した。防衛力整備計画作成が最大の任務である。1986年安全保障会議が発足し、1990年の湾岸戦争を経て1992年PKO協力法が作られた。2001年9.11同時テロ、2003年イラン戦争を経て、アメリカから60年遅れて国家安全保障会議へ改組された。日本版NSCが発足した2013年12月「国家安全保障戦略」が決定され、閣議決定された。国家安全保障会議決定・閣議決定という文書に見る様に、まず国家安全保障会議決定が先に在り、閣議決定は追認に過ぎない。まさに米国同様、閣議は2の次の寡頭政治になった。ここで「積極的平和主義」が多用されている。この積極的平和主義とは軍事力を第1とする安全保障のことである。積極的軍事主義のことを言っている。日本がアメリカの番頭をできるかどうかは別にして、世界の警察官を引き受けようということである。軍事力のバランスであって平和とは何の関係もない言葉である。この「戦略」文章には「国家安全保障の最終的な担保となるのは防衛力」と言い切っている。元防衛官僚の柳沢氏は著書「亡国の安保政策」で「安倍首相の言う積極的平和主義は、実は国民受けしやすい具体的事例を挙げるだけで、その概念の説明も、戦略的視点も、何をどう変えるかという歴史的視点も欠いている}と批判する。古関彰一氏はこの国家安全保障戦略をして、戦前の軍部クーデターの首謀者北一輝の「国家改造法案」に似ていると警戒を強めている。いまや1930年代の混沌とした困難期に向かっているのだろうか。岸信介は北一輝の「国家改造法案」に共鳴したという。「戦いなき平和は天国の道非ず」として戦争犯罪人の道を選んだ。その孫安倍首相も岸のトラウマを受け継ぎ、ひたすら戦争の道を選ぼうとしている。アメリカは「日本の米国への軍事協力」を強く要請し、1996年に安保共同宣言で新日米同盟を謳い上げた。そして宣言は1997年日米防衛協力の指針(ガイドライン)の改定も定めた。そして1999年に「周辺事態法」を制定した。アーミテージを中心とした冷戦後の対日安全保障政策は2000年度に報告書を発表し、日本の進むべき道を指示した。ほとんど政策は指示通りに実行されてきた。これが独立国日本の姿であろうか。そして憲法9条解釈変更による集団的自衛権の行使容認だけが焦眉の課題となったのである。

(つづく)