とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

城の見える町

2010-08-31 22:43:43 | 日記
城の見える町



 先日、なんじゃもんじゃの花を見に松江城山に出かけた。この花見は、五月中旬の私の恒例の行事となった。しかし、何回見ても白い綿毛というか粉雪というか、そういう白い花ですっぽり覆われた樹の風情は心を癒してくれる。帰りに天守閣をそば近くで久しぶりに見た。これもいつ見てもいい顔で迎えてくれる。
 松江城天守閣はどの方角からも見える。遠望するその姿はいつも穏やかである。近代的な高いビルが建ち始めたが、特に見えない方角はないようだ。観光客には松江は静かな落ち着いたいい町だという評価が定着している。これもお城が醸し出す城下町の雰囲気に負うところが大きい。
 あるホームページで全国の城郭の写真を見た。鉄筋コンクリートづくりで復元した姿、木造のままの姿などさまざまだが、城にも独特の個性があることに改めて気づいた。お城はその土地の風土と歴史が生んだ大いなる遺産である。しかし、その価値は周囲の景観に左右される。
 二十一日のある新聞を見ると、北九州市の小倉城の夜景が出ていた。小倉で学生時代を過ごした私はその写真を見て唖然(あぜん)とした。ライトアップした赤色、黄色などの極彩色のビルが城の背景に高く浮かびあがっていたのである。そのビル塗装の仕方に耐久性があり、これからこういう色に塗られた建物が全国的に増えるそうである。
 私は町が発展するということの意味を考えた。情緒ある住みよい豊かな町として発展するのはいい。しかし、町の歴史的景観をすっかり変えるまで変貌させていいものか? お城や寺社などの歴史的建造物がビルの谷間に沈む状況を私は憂慮している。  (2006年投稿)

上代文庫

2010-08-31 22:37:26 | 日記
上代文庫



 元日本女子大学長の上代タノ(じょうだい たの)氏の顕彰碑が出身地雲南市大東町に出来たことが先日本紙で報じられていた。私はその記事を読んでいて、懐かしい思いがした。私は昭和五十五年から六十三年まで大東高校に勤務していた。校務分掌が図書部だったので、図書館の一角を占めていた「上代文庫」のことは強く記憶に残っている。上代氏晩年の写真が壁に飾ってあって、略歴を記した額がその下に掛けてあった。
「上代文庫」は上代氏から昭和四十六年に寄付された多額のお金を基金にして運営されていた。私は創立六十周年記念誌の編集委員も兼務していたので、その執筆の仕事を通して、上代タノという偉大な女性教育者の人物像を私の心に曲がりなりにも造型することができた。
私の心を捉えた言葉は、『図書館報』(昭和四十八年)に記してあった「死んだら一物も残らないようにしたい」という上代氏の言葉である。具体的には次の二点にまとめられる。①書物は出さない方針であること。その代わり出来るだけたくさんの人に直接会って、考えや生きる姿勢を伝える努力をすること。②財産のすべてを、寄付したり、書物に代えて寄贈したりして母校や故郷の図書館充実のために使うこと。「上代文庫」は特に後者の方針を具体化したものである。
また、青春期の読書の必要性を心を込めて説いておられる。その熱情にも私は打たれた。
 「この頃のように、めまぐるしく激動する社会や世界においては、私達が日頃、充分な注意を払わなかったり、研究を怠ったりした方面の問題が、急に重要性を帯びて浮かび上がることが少なくありません。」
 私は、今、島根が誇る偉大なる先覚者の生涯を改めて振り返り、遺されたメッセージを噛み締めている。(2006年投稿)
 

消したい夢

2010-08-31 10:12:19 | 日記
消したい夢



 「蹴りたい背中」という作品が芥川賞を受賞したとき、面白いタイトルだと思った。「○○したい△△」。こりゃ、いくつも面白いタイトルができるな。私はそう遊びごころで思いながら、いくつか作ってみた。ところが、「消したい夢」という言葉がふと口を衝いて出たときには思わずぞっとした。
 勤めを止めてからも、遅刻して教頭から油を絞られる夢を見るよ、と先輩教員が言っていたことを最近よく思い出す。しかし、私の夢は手が込んでいる。学校で何かの仕事に夢中になっていて、始業のチャイムを忘れてしまい、はっと気づいて教室に行こうとするが、どこのクラスで授業をしなければならないか分からなくなる。時間割の表も見つからないのである。教務係に聞いても分からないという。しかたがないので、近くの教室に恐る恐る入ると、「先生、もう何週間も授業してないよ」と生徒が言う。えっ、そういうはずは……と言いかけるが、声が出ない。ごめん、ごめん、と必死で言うが言葉にならない。しかたがないので、黒板に字を書こうとするが、手が動かない。大体そういうパターンの夢を今まで何回となく見ている。
 何週間も授業していないこと。手が動かないこと。夢の中のこの二つの事柄の深層には私の三十八年間の辛苦がこびり付いていている。前者は歳をとるとともに授業を展開することが困難になった学校の現実がある。これは私の指導力の減退ということに起因しているのかもしれない。後者は一時書痙(しょけい)で苦しんだ体験が投影している。
 私はこの夢から終生逃れることができないかもしれない。何でも消せる夢の消しゴムがどこかにないものか。                     (2006年投稿)

住所録

2010-08-31 10:09:20 | 日記
住所録



 年賀状は直筆に限ると長年がんばってきた。B6カード式の住所録に出した年を記しているが、数えてみると二十一の数字が並んでいる。年末になると、書かねば! という自分を鼓舞する気持ちが湧き上がる。在職中は大掃除と賀状書きを並行して行なっていた。二百枚近い数はおおげさだが苦行という趣だった。
 それから解放されたい。そういう気持ちに最近なってきた。毎年いただく賀状はほとんどが葉書ソフトによるもので、裏面の絵柄・レイアウトもバラエティーに富んでいる。こういう時代になったんだ。乗り遅れてる。私は一方でしきりに焦りを感じた。そこで一念発起、某社のソフトを購入し、住所の入力を始めた。
 四百枚くらいあるカードを繰ってみると、記載者にまつわる様々な思い出がよみがえり、懐かしい気持ち、思わず謝りたい気持ちなどで心はその都度さまざまな色模様になった。また、亡くなったお方の数が随分多いことに改めて気づいた。会葬していないお方もある。不義理この上ない。支えるより、支えられてきた今までの人生なので、私はいたたまれない気持ちになったのである。
 しかしすべて登録するわけにはいかない。この際百人くらいに絞りたい。誰をはずすか?私はこの人選の壁にぶつかった。四百という数は、私を支えていただいた中のごくわずかの人数である。しかもそれを百に絞り込む。至難の業である。しかし私は苦しみながらも新住所録を作り上げた。作り上げながら、心の網の目がぼろぼろになっていくのを感じた。退職と老いは、心の網の目をほどいて小さく修復することを強要する。これは実感である。今年の賀状はその修復した心の回路を表し得ているだろうか? (2006年投稿)

樹木の内部

2010-08-31 10:08:03 | 日記
樹木の内部



 昨年の夏、名前と花の姿に引かれて、酔芙蓉の苗木を買って植えた。気の短い主の気持ちを汲んでくれて、勢いよく生長し、健気にもたくさんの花を私に見せてくれた。
 ただ、日照不足のため、うどん粉病が発生し、葉が日増しに痛んできた。そのためか、膨らみかけた蕾のまま花弁をまだらのピンク色に染め、ポトンと落ちてしまった花が多かった。落ちた花を拾って、ありがとうと私は声をかけた。
 剪定した方が花のつきがいいと聞いていたので、先日三本の幹を地面から一尺だけ残して、すべて切り落とした。――ほんとに新しい枝が出るだろうか、と不安に思ってよくよく見ると、例年にない厳寒と降雪が続く今年の冬にもかかわらず、もう幹の新芽が動き出していた。先のとがったか細い芽だが、確かに徐々に大きくなっている。
 冬至を過ぎると、藁(わら)の節ほど日が長くなるという。その日照時間の僅かばかりの変化が新芽の生長に影響を与えていると私は思っている。いずれ他の樹木も芽が動き出す。バラなども幹をほとんど切り落としても、気温の上昇につれて、目に見えるほどの速さで新芽が伸びてくる。花芽が新芽の硬い皮膜の中ですでに作られている樹木もある。冬でも木々の内部では力強い営みが続けられているのである。
 染色家志村ふくみさんは、桜の樹皮で草木染めをするとき、花が咲く前に採取した樹皮を使うと桜色がよく出てくると言っている。冬の間花や葉の姿を見せない落葉樹は、その間内部で着々と春を迎える準備をしているのである。樹木に学びたいと私はいつも思うのだか……。                           (2006年投稿)