とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」35 19930609皇太子明仁親王殿下の御成婚

2016-08-29 23:49:05 | 日記
19930609皇太子明仁親王殿下の御成婚


マスメディアは「昭和のシンデレラ」あるいは「世紀のご成婚」と銘打ち、美智子の生い立ちや、皇太子との交際などを詳報、週刊誌は1956年(昭和31年)の『週刊新潮』創刊をきっかけに、1957年(昭和32年)創刊の『週刊女性』(主婦と生活社)、1958年(昭和33年)の『週刊女性自身』(光文社)、『週刊明星』(集英社)、『週刊大衆』(双葉社)、『週刊実話』などの創刊が相次ぐ「週刊誌ブーム」が起きており、週刊誌・女性週刊誌の報道競争が過熱していた。「ご成婚」は週刊誌メディアにとって格好の題材・素材となって週刊誌の売り上げが伸び、さらに週刊誌記事を通じて皇室情報が一般人に浸透することとなった。
これら社会現象は婚約発表のその年に、美智子の愛称「ミッチー」に由来して「ミッチー・ブーム」と名付けられ、以後、この呼称が社会的に定着。同年12月1日に日本銀行が一万円券(いわゆる一万円札)を発行、股上が極端に短い新作パンティー「スキャンティー」を発表するなど女性下着ブームの火つけ役となって女性下着の歴史に画期をなしたファッションデザイナー鴨居羊子が『下着ぶんか論 解放された下着とその下着観』を上梓、インスタントラーメンの元祖チキンラーメンが発売され、またロカビリーブームが起こるなど、この年に多くの人々が景気の上昇を実感する時代を迎え、本格的な大量消費社会の入口にさしかかっていたことが、経済的にミッチー・ブームを支える背景となっていた。また首都圏広域の電波送信を可能にする東京タワーが12月23日に完成、マスメディアの領域ではテレビ放送時代の幕開けの準備が整う。このような時代背景の中で、ミッチーブームは明るい話題として取り上げられた。(Wikiより)


 Aも近くの電気店で白黒テレビを見ていました。ご成婚パレードの様子を見ながら自分とは縁のないことだとは思いながらも正田美智子さんの美しさに見とれていました。・・・この時はまさかこの幸せなご夫婦にお目にかかることが出来るとは夢にも思いませんでした。
 昭和五十年代のある年、勤務校の女生徒が「青少年読書感想文全国コンクール」で入賞しました。新聞社から連絡があり、取材に来ました。それからまもなく表彰式の案内状が届きました。かくしてAとその女生徒は新幹線に乗って東京に出発しました。
 授賞式は皇居の前の東京会館。受賞作の本の著者、全国学校図書館協議会のスタッフ、マスコミ、生徒と引率者、来賓。そういう人々がごった返す中でリハが行われ、続いて授賞式。Aはただただあっけにとられながら見守っていました。その後レセプションとなり、飲み物食べ物がたくさん並べてある部屋に二人は入りました。生徒が読んだ本は灰谷健次郎の「我利馬の船出」。おっ、灰谷さんだ !!! Aは生徒を連れて挨拶にいきました。灰谷さんに生徒を紹介すると「いや、あんなに難しい本をよく読んでくれました」と表情一つ変えずに仰いました。
 宮崎みどりさんが入ってこられたのでカメラを構えると、一瞬静止してポーズをとっていただきました。さすが有名人だ。礼儀正しい。Aは感心しました。
 「皇太子ご夫妻のご到着ですので、生徒さんは入り口に整列してください」とアナウンスがありました。
 おおっ、そうだった。隔年参加ということで今年はお目にかかれる年だった。Aは入り口を注視しました。ご夫妻はまぶしいほどに輝いていました。生徒一人ひとりに声をかけて中に入ってこられました。Aは、じっとその二人の声に耳を傾けていました。

あちこち「SYOWA」 34 南海大地震と父

2016-08-14 01:55:43 | 日記
南海大地震の記録(高知県)


Aは昭和1944年の生まれ。南海地震は1946年。ということは2歳。・・・ところがかすかにAは記憶しているのです。
 山陰の出雲地歩でも震度5はあったといいます。Aは父に毛布を頭からすっぽり被せられ、抱かれて2階から下りて行ったのです。その時父の手から滑り落ちそうになったかすかな記憶が不思議と残っているのです。嘘だろう。それは違う地震だよ。そういう声が聞こえてくるような気がします。いや、そうではないとAは思っています。父母の慌てようといったら尋常でありませんでした。必死に抱きかかえて守ってくれたような気がしているのです。その時の父母の恐怖が記憶の底にしみついているのだと思っています。
 この映像はそのときの両親の恐怖、子どもを必死で守ろうという覚悟、そういうものを裏付けているとAは信じています。
 




・・・・・・天災は忘れたころにやってくる。 


 


 Aはこの言葉は後で父から聞いたのです。父親はAに諭したのです。ですからきっと南海地震だったに違いありません。


 実は、Aはこのことに関連して、父親とともに歩んだ日々を、肩と手の触れ合う感覚を述べたかったのでした。
 全盲のAの父は仕事も健常者以上にこなしましたし、人のお世話もネットワークを生かしてし続けました。親戚のお世話、就職のお世話、縁談の仲介等々際限がありませんでした。
 出かけるときはバスや汽車がほとんどで、障害者手帳を見せると無料で乗せていただきました。しかし、歩く時は私の右肩に左手をかけて歩きました。Aはできるだけゆっくり、手が離れないように気を付けながら歩きました。Aは肩に触れる父親の手の感触を今でも忘れることはありません。
 ある有力者の年始会に行くと、「ああっ、よく来てくださった。さ、ここへ、ここへ」と言って歓迎され、一番の上座に座らせていただきました。Aはその隣り。Aは顔を赤くしながら座り、全く落ち着きませんでした。


・・・・・・天災は忘れたころにやってくる。


 天災ではなかったのですが、満50歳のときに肝硬変症で突然父親は亡くなりました。Aが23歳のときでした。莫大な借金を残して・・・。
 


あちこち「SYOWA」 33 禁じられた遊び Hideo Ito & Antonio Koga

2016-08-09 23:50:50 | 日記
Romance de Amor(禁じられた遊び.Flamenco Guitar) Hideo Ito & Antonio Koga



1940年6月、ドイツ軍から逃げるため街道を進む群衆の中に、幼い少女ポーレットがいる。そこに戦闘機による機銃掃射があり、ポーレットは一緒にいた両親と愛犬を失ってしまう。ポーレットは愛犬の死体を抱きながら川沿いの道を彷徨い、そこで牛追いをしていた農家の少年ミシェルと出会う。ミシェルの家庭は貧しかったが、ポーレットが両親を亡くしていることを知り、彼女を温かく迎え入れる。ミシェルはポーレットに親近感を持ち、無垢なポーレットもミシェルを頼るようになる・・・。


結末は・・・。


警官がミシェルの家を訪ねてくる。父は、警官が来たのはミシェルが十字架を盗んだからだと思い込み、ミシェルを見つけ出して十字架を隠した場所を聞き出そうとする。ところが、警官がやってきた本当の理由は、戦災孤児として申告していたポーレットを孤児院に入れる為だった。それまで口を割らなかったミシェルは慌てだし、十字架の場所を言うからポーレットを家に置いてくれと父に頼んで、十字架のありかを白状する。しかし、父は約束を破り、ポーレットの身請けの書類にサインをしてしまう。怒ったミシェルは家を飛び出して水車小屋へ走り、腹いせに十字架を次々に引き抜いて川に投げ捨てる。すべてを捨てたあと、ミシェルは車のエンジン音を耳にする。それはポーレットが連れて行かれる車の音だった。

ポーレットは多くの人であふれる駅に連れてこられる。修道女によって首から名札を下げられたポーレットは、この場所から動かずに待っているように言われて、その場に残される。ポーレットが一人きりになると、人ごみの中から「ミシェル!」と呼ぶ声が聞こえてくる。その声にハッとしたポーレットは涙して、ミシェルの名を叫びながら探しに行く。しかし人違いで、ミシェルはいない。ポーレットはママとミシェルの名を泣き叫びながら走り出し、雑踏の中へと姿を消していく。(Wikiより)

 


・・・Aは何度もこの映画を見ました。最後、雑踏の中で「ミシェル!」と呼ぶ声をポーレットは聞きつけ、そこの方角へ走っていく。しかし彼はいない。いつしか「ミシェル!」と呼ぶ悲痛な声は「ママ、ママ !」と呼ぶ声に変っていく。このシーンで何度も何度もAは泣きました。ギター曲が哀しみとともに心に絡みついてきました。

あちこち「SYOWA」 32 ウルトラセブン

2016-08-06 05:27:05 | 日記
特撮と言えばこれ。ウルトラセブン。Aの永遠のヒーローです。


       Ⓒ円谷プロ

ウルトラセブンのすべて part1


次の大合唱を聞いているとAは自然と勇気が湧いてきます。Aの頭の中には時々このメロディーが流れだします。主題歌としても大変優れています。とくに ♪ セブン セブン セブン・・・ という旋律がAをうるうるさせます。モロボンダン。森次浩司(康嗣)。『ウルトラアイ』の「諸星弾」。ウルトラアイを手に「デュア!」という掛け声とともに変身。異星人と戦う姿はかっこよかった。

ULTRA SEVEN Song : Live version ウルトラセブンの歌 冬木透指揮 東京交響楽団


子どもたちの生き生きとした姿が素晴らしく爽やかです。森次浩司(康嗣)の姿も見えます。

あちこち「SYOWA」 31 ゴジラ

2016-08-03 16:07:59 | 日記
ゴジラ


 Aの子どもの頃の恐怖と言えば真っ先に「ゴジラ」(昭和29年制作)を挙げます。当時映画館が地元になかったころなので、小学校の講堂で見ました。こういう恐ろしい怪獣が本当に地球のどこかに隠れているのではないかと思いました。


『ゴジラ 60周年記念デジタルリマスター版』の一場面 (c)TOHO CO.,LTD


1954年11月3日、特撮映画製作を熱望していたスタッフが、当時社会問題となっていたビキニ環礁の核実験に着想を得て製作した、第1作“水爆大怪獣映画”『ゴジラ』が公開される。身長50メートルの怪獣ゴジラは人間にとっての恐怖の対象であると同時に、煽り文句などで「核の落とし子」「人間が生み出した恐怖の象徴」として描かれた。また核兵器という人間が生み出したものによって現れた怪獣が、人間の手で葬られるという人間の身勝手さを表現した作品となった。映画評論家の樋口尚文は、本作の監督である本多猪四郎への取材において「戦後の暗い社会を尽く破壊、無秩序に陥らせる和製キングコングを作りたかった」という旨の言質を取っている。水爆実験で蘇った怪獣がニューヨークの街を破壊していくというレイ・ハリーハウゼン特撮の怪獣映画『原子怪獣現わる』(1953年)に大きな影響を受けている。観客動員数は961万人を記録。この成功を受けて直ちに続編が準備され、翌年の1955年に公開された第2作『ゴジラの逆襲』で描かれた「怪獣同士の対決」は以後のゴジラ映画のフォーマットとなった。(Wikiより)


CGではなく特撮という手法でこまでリアルな怪獣を作り上げた日本の映画制作に関わる情熱、技術には後でAは驚嘆しました。今はもっとリアルなCG画像が次々と生まれ出ていていますが、天上や地の底から湧き上がるような恐怖感、臨場感はこの映画に勝るものはないとAは思っています。