とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」736 I Girasoli (ひまわり/Sunflower) - Love theme from 'Sunflower'

2022-06-25 02:35:21 | 日記
今だからこそもう一度見たい。あのひまわり畑はどこにあるのか。今はどうなっているのか。

I Girasoli (ひまわり/Sunflower) - Love theme from 'Sunflower'



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


『ひまわり』(原題(イタリア語): I Girasoli )は、1970年のイタリア・フランス・ソビエト連邦・アメリカ合衆国のドラマ映画。監督はヴィットリオ・デ・シーカ、出演はマルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンなど。

冷戦期にソビエト連邦で初めて撮影された西側諸国の映画である。音楽をヘンリー・マンシーニが担当し、数多くの映画音楽を手がけたマンシーニの作品中でも特に評価は高く、主題曲は世界中でヒットした。戦争によって引き裂かれた夫婦の行く末を悲哀たっぷりに描いた作品で、地平線にまで及ぶ画面一面のひまわり畑が評判となった。数あるローレン主演の映画の中で最も日本で愛されている作品である。 ロケ地となったひまわり畑はソビエト連邦時代のウクライナの首都キエフから南へ500キロメートルほど行ったヘルソン州にあるとされているが、NHKの現地取材ではポルタヴァ州のチェルニチー・ヤール村(Чернечий Яр)で行われたと特定されている。

日本での初公開は1970年9月30日。2020年には「ひまわり 50周年HDレストア版」として上映。2022年には半世紀前の舞台・ロケ地であるロシアのウクライナ侵攻を受け上映が行われた。



ストーリー

第二次世界大戦終結後のイタリア。出征したきり行方不明の夫の消息を求め、関係省庁へ日参する女性の姿があった。

戦時中、洋裁で生計を立てる陽気なナポリ娘ジョバンナとアフリカ戦線行きを控えた兵士アントニオは海岸で出会い、すぐに恋に落ちる。12日間の結婚休暇を目当てに結婚式を挙げた2人は、幸せな新婚の日々を過ごす[注釈 3]が、休暇の12日間は瞬く間に過ぎてしまう。精神疾患による除隊を目論んだアントニオは首尾よく精神病院に入院するが、あえなく詐病が露見、懲罰のためソ連戦線へと送られることになる。見送るジョバンナに「毛皮がお土産だ」と笑顔を見せるアントニオら大勢の兵士を乗せた汽車は、ミラノ中央駅を出発する。

終戦後、ジョバンナは年老いたアントニオの母親を励ましながら、夫の帰りを何年も待ち続け、ようやく同じ部隊にいたという男を見つける。男の話によると、アントニオは敗走中、極寒の雪原で倒れたという。ジョバンナは愛するアントニオを探しに、ヨシフ・スターリン亡き後のソ連へ行くことを決意する。

当時のソ連は社会主義国家であり、ジョバンナが降り立ったモスクワは別世界だった。かつてイタリア軍が戦闘していたという南部ウクライナの街でアントニオの写真を見せて回るジョバンナだったが、一向に消息が掴めない。ジョバンナの前に、地平線の彼方まで続くひまわり畑が広がる。多くの兵士たちがこのひまわりの下に眠っているという。無数の墓標が並ぶ丘[注釈 4]まで案内した役人の男性はジョバンナに「諦めたほうが良いのでは」と言うが、彼女はきっぱりと「夫はここにいない」と言って拒絶する。かすかな情報を頼りにモスクワに戻ったジョバンナは、とある駅の雑踏の中で、戦後も祖国へは戻らずにロシア人として生活しているイタリア人男性と出会う。しかし彼は多くを語らず、また、アントニオのことも知らないと言う。ジョバンナはもしやアントニオもと、微かな不安を抱く。

言葉も通じない異国で、なおも諦めずにアントニオを探し続けるジョバンナは、郊外の村で写真を見せた3人の中高年の女性たちから、身振りを交えてついて来るように言われ、一軒の慎ましい家に案内される。そこには、若妻風のロシア人女性マーシャと幼い女の子カチューシャが暮らしていた。言葉は通じずともジョバンナとマーシャは互いに事情を察する。マーシャはジョバンナを家に招き入れる。室内には枕が2つ置かれた夫婦のベッドがあった。マーシャは片言のイタリア語で、アントニオと出会った過去を話し始める。雪原で凍死しかけていた彼をマーシャが救ったのだが、その時アントニオは、自分の名さえ思い出せないほど記憶を無くしていたという。

やがて汽笛が聴こえ、マーシャはジョバンナを駅に連れて行く。汽車から次々と降り立つ労働者たちの中に、アントニオの姿があった。駆け寄ったマーシャをアントニオは抱き寄せようとするが、マーシャは彼をとどめてジョバンナの方を指さす。驚くアントニオが見たのはやつれ果てたジョバンナの姿だった。かつての夫と妻は距離をおいたまま、身じろぎもせず互いを見つめ合う[注釈 5]。ジョバンナの表情が悲しみで歪み、アントニオが何か言おうと一歩踏み出した途端、ジョバンナは背を向け、既に動き出していた汽車に乗せてくれと叫び、飛び乗る。そして、座席に倒れ込むように座ると、見知らぬロシアの人々が奇異の目で見る中、声を上げてむせび泣く。

ミラノに帰ったジョバンナは、壁に飾ってあったアントニオの写真を外し、泣きながら踏みつけ、そして男たちと遊ぶ荒れた生活を始める。そんな中で訪ねてきたアントニオの母親は、ジョバンナの不実を咎めるが、ジョバンナはソ連で再会したアントニオのことを母親に対して「死んでいたほうがましだった」とぶちまける。

その後、アントニオとマーシャ夫婦は新築の高層アパートに引っ越すが、新しい生活のスタートであるはずのその日の晩も、アントニオは物思いに沈んでほとんど口を利かない。そんなアントニオを見てマーシャは「もう私を愛してないの?」と涙を浮かべる。

マーシャの許しを得たアントニオは、約束していた毛皮をモスクワで買い求め、ミラノへ向かう。嵐で停電したアパートの暗闇の中、再会したアントニオとジョバンナだったが、感情がすれ違う。アントニオはもう一度2人でやり直そうと訴えるが、その時、隣の部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。赤ん坊を見て名前を訊く彼に、ジョバンナは赤ん坊の名はアントニオだと言う。ジョバンナもまた別の人生を歩んでいることを知ったアントニオは毛皮を渡し、ソ連に帰ることを決心する。

翌日のミラノ中央駅。モスクワ行きの汽車に乗るアントニオをジョバンナが見送りに来る。二度と会うことはないと2人はわかっている。アントニオは動き始めた汽車の窓辺に立ったままジョバンナを見詰める。遠ざかり消えてゆく彼の姿に、ジョバンナは抑えきれず涙を流し、ホームにひとり立ち尽くす。彼を乗せた汽車が去っていったこのホームは、以前戦場へ行く若き夫を見送った、その同じホームだった。

キャスト

※括弧内は日本語吹替(テレビ版・初回放送1976年11月8日『月曜ロードショー』)

アントニオ・ガルビアーティ - マルチェロ・マストロヤンニ(羽佐間道夫)
ジョバンナ - ソフィア・ローレン(此島愛子)
マーシャ - リュドミラ・サベーリエワ(北島マヤ)
駅の切符売り - ピッポ・スタルナッツァ(イタリア語版)
ヴァレンティナ - ガリーナ・アンドレーワ
アントニオの母 - アンナ・カレーナ(イタリア語版)
ロシアの農民女性 - ナディア・セレドニチェンコ(ロシア語版)
エットーレ - ジェルマーノ・ロンゴ(イタリア語版)
イル - グラウコ・オノラート(イタリア語版)
ジョバンナの赤ん坊 - カルロ・ポンティ・ジュニア(イタリア語版)
イタリア人労働者 - シルヴァーノ・トランクィリ(イタリア語版)
駅の女性 - マリーザ・トラヴェルシ(イタリア語版)
ロシアの役人 - ギュナーズ・カリンスキー(ロシア語版)
その他吹替:桑原たけし、筈見純、松尾佳子、藤夏子、高村章子、加藤修、田中秀幸、湯浅実

スタッフ

監督 - ヴィットリオ・デ・シーカ
製作総指揮 - ジョセフ・E・レヴィーン
製作 - アーサー・コーン、カルロ・ポンティ
脚本 - チェーザレ・ザヴァッティーニ、アントニオ・グエラ、ゲオルギ・ムディバニ(ロシア語版)
音楽 - ヘンリー・マンシーニ
撮影 - ジュゼッペ・ロトゥンノ

あちこち「SYOWA」(番外) 天空の城 ラピュタ 『君をのせて』 ナターシャ・グジー 

2022-06-09 17:47:33 | 日記
近く、この方のライブに出かけます。ウクライナ支援のために。批判する人もいます。私はこの活動を素直に応援したいです。しかし、侵略の戦いは不条理極まりない。多大な犠牲を払ってどうして戦わねばならないのか。早期の停戦を!!!!!

天空の城 ラピュタ 『君をのせて』 ナターシャ・グジー / "Carrying You" from "Castle in the Sky" by Nataliya GUDZIY


ナターシャ・グジー(Nataliya Gudziy[注釈 1]、1980年2月4日 - )は、ウクライナ出身で日本で活動している歌手、バンドゥーラ演奏家(バンドゥリースト)である。

概要

ウクライナのドニエプロペトロフスク州(現ドニプロペトロウシク州)の村に生まれ、チェルノブイリ原子力発電所から3.5kmのプリピャチへ転居した。1986年4月26日のチェルノブイリ原子力発電所爆発事故によって被曝した後、避難生活で各地を転々としてキエフ市へ移住する。

ウクライナの民族楽器バンドゥーラの音色に魅せられ、8歳から音楽学校で学ぶ。チェルノブイリ原発事故で被災した少年少女を中心に結成された民族音楽団「チェルボナ・カリーナ」(チェルノブイリの赤いカリーナの実)のメンバーとして、1996年と1998年に来日し、全国で救援コンサートを行う。2000年からは日本語を学びながら日本での本格的な活動を開始。その透明で美しい水晶の歌声とバンドゥーラの可憐な響きは、多くの聴衆の心を惹きつけている。2005年7月のウクライナ大統領ヴィクトル・ユシチェンコ来日の際には、首相官邸での小泉純一郎首相主催の夕食会に招かれ、演奏を披露。チェルノブイリ救援コンサートのほか、テレビ、ラジオ、音楽教室や学校での国際理解教室など多方面で活躍している。2016年には、音楽を通じた日本とウクライナの相互理解の促進に対する功績が認められ、日本国外務省から外務大臣表彰を受けた。

2022年に発生したロシアのウクライナ侵攻を受けて、収益の一部をウクライナ支援に寄付するチャリティーコンサートを東京を中心に行った。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』