とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 30 日本航空123便墜落事故 上野村消防団

2016-07-28 16:00:54 | 日記
日航123便墜落翌日の放送ーー“少年”の生存者を目撃


 あの忌まわしい衝撃的な事故の陰に、この何と勇ましい、頼もしい団員たちがいた !!! Aは初めて知り、改めて涙をながしなから視ました。・・・Aは当時、この中のある生存者と後に対面することになるとは全く予想していませんでした。


上野村消防団の法被を掛けて貰っている生存者。その姿を見て、Aはこれ以上書き進めることが出来ないと思いました。Aがある生存者と対面することなどちっぽけなことだと思えてきたのです。



 ・・・・・・・・・・・・でも、やっぱり一言。



 Aは四十代に精神的な極度のスランプに陥っていました。このニュースはそういう地獄のような苦悩からAを救ってくれたのです。私でも生きられる。いや、生き続けなければならない。Aは正直そう思いました。

 そして、奇遇ですが、ある学校でAはkさんとその兄さんと教員対生徒として対面することとなりました。過去のことを決して語らない二人でしたが、Aにとって二人の姿を見ているだけで少しずつ元気になりました。・・・ありがとうございました。


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あちこち「SYOWA」 29 誰か故郷を想わざる 

2016-07-22 00:50:03 | 日記
誰か故郷を想わざる 霧島昇


 昭和15年(1940年)に発表されたこの曲。作詞:西条八十 作曲:古賀政男の「誰(たれ)か故郷を想わざる」。昭和19年生まれのAが初めて完全に誇らしく歌った初めての曲です。3つか4つの頃と思われます。すると、戦後の昭和22~23年です。長らくヒットしていたことにAは驚いています。確か母の里だったと思います。

 ♪ ・・・たれか故郷をおもざわる・・・。

 得意げに歌っていると、Aの母親が「おもざわる」じゃなくて「おもわざるだよ」といつも訂正しました。それにしても不思議な言葉だと思っていました。誰が故郷を想わないことがあろうか、いや、誰も想う。という反語表現になっていることを知ったのは大分後のことです。

 ♪ひとりの姉が嫁ぐ夜に・・・。

 ここの部分を歌うときは、姉がいたら、姉が欲しいと真剣に思い、ジンとして涙が零れてきました。一人の年上の女性に憧れる気持ちは日増しに膨らんできました。母の実家にはまだ嫁いでいなかった母の妹がいました。随分Aと年が離れていましたが、憧れというか、密かな恋心を抱いていました。
 ある日、二人で縁側に座って、Aは庭で採った青梅を食べていました。すると、欠片が気管に詰まって急に息苦しくなりました。もがいていた私は咄嗟にその叔母の背中を強く叩きました。びっくりした叔母は私の背中をドンドンと平手で叩きました。その拍子に欠片が食道の方に入ってAはやっと息が出来るようになりました。

「危ないところだったね。ごめん、ごめん、早く気付かなくて」

 叔母はそう言いました。・・・憧れの叔母に命を助けて貰った。Aはその思い出を噛みしめながら今でも歌っています。


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あちこち「SYOWA」 28 黒澤明「一番美しく」

2016-07-16 07:32:55 | 日記
一番美しく (The Most Beautiful) Trailer


太平洋戦争も末期に近い昭和十九年、若い女性達は挺身隊の名で軍需工場で働いていた。精密兵器のレンズ工場では渡辺ツルら数十人の女性が寝食を共にして頑張っていた。成績は着実に伸びていったが、次第に疲労の色を隠せなくなっていった。同時に些細な事からいさかいも起こるようになり和は乱れていく・・・・・・。黒澤作品には珍しい若い女性の集団劇。監督自身、「私の一番可愛い作品」と述べている。撮影にあたっては、女優達から化粧や気取り、芝居っ気などを取り去る為、劇中で描かれている通りの集団生活を経験させた。またスタッフも工場の寮に住み込み撮影を行い、ドキュメンタリー・タッチのリアリティー溢れる作品となった。(C)1944 TOHO CO., LTD. ALL RIGHTS RESERVED.

 主演の矢口 陽子(やぐち ようこ、1921年8月27日 - 1985年2月1日)の夫は映画監督の黒澤明。

 昭和高等女学校(現・昭和女子大学附属昭和高等学校)中退。1937年に若園照美の芸名で松竹少女歌劇団入団。1940年東宝映画に移籍。1944年に黒澤の2本目の監督作品『一番美しく』に主演する。1945年に黒澤と結婚(挙式は明治神宮。媒酌人は山本嘉次郎夫妻。)して女優を引退した。引退後は家庭に入り、黒澤が気持ちよく映画を撮れるように、内助の功を発揮した。女優から嫁に来ているが、料理が出来ないと監督の嫁は務まらないと思い料理を勉強し、宴会の準備、黒澤だけでなくスタッフの弁当作りまでやっていたという。周りからはゴッドマザーの愛称で呼ばれ、娘の和子によると、唯一黒澤が頭が上がらなかった人だと言う。(Wikiより)


日本には黒澤明というすごい映画監督がいるということを強く認識した作品で、戦争の渦中女性たちがお国のために身を挺して働いている姿にAは感動しました。作中唱歌「若葉」という唄が歌われることも意外でした。


 黒澤明(脚本・監督)の『一番美しく』というモノクロ映画のビデオを借りて来て観た。幾度となく観ている。この映画はいわゆる国威発揚、戦意高揚のために制作されたものである。作られたのは敗戦色濃い昭和十九年。私が生まれた年である。
 女子挺身隊として平塚の精密機械の軍需工場に徴用された若い女性たちが、献身的にお国のために働く姿をドキュメンタリータッチで描いている。挺身隊が担当していたのは兵器のレンズを作る作業である。主人公渡辺つるはその隊長として信頼されている責任感の強い女性である。その主役は矢口陽子さんが演じている。のち、彼女は黒澤明氏と結婚する。
 ある日、隊長は、隊員の報告により、一枚の未点検のレンズがあることを知る。その日他の隊員と一緒に点検したレンズは夥しい枚数である。責任感を感じた隊長は工場の者が止めるのも聞き入れず、一人で再検査を始める。疲労困憊する体に鞭打って、徹夜してその一枚を探そうとするのである。
 「美しい」のは集団に支えられた一途な責任感である。一枚でも焦点の狂ったレンズが戦闘機や兵器に取り付けられれば、大切な戦闘手段を失うことになるし、兵士の命を奪うことにもなる。その一枚を探すことがお国のためになる。だから、時間との闘いだし、我が女の命を燃やし尽くす覚悟を生む。そうした熱情が観ている者の胸を打つ。
次の場面では「若葉」という唱歌を夜宿舎の前で隊員たちが斉唱する。「あざやかなみどりよ、あかるいみどりよ、鳥居をつつみ、わら屋をかくし、かおる、かおる、若葉がかおる」。我々の世代には懐かしい歌詞の歌である。
 もしかして、黒澤明氏は豊かで平和な国土への回帰の願いをこの歌に密かに託していたかもしれない。しかし、それは戦争を知らない世代に属する私の憶測にすぎない。いい作品はいつ観てもいい。(2005年投稿・再掲)

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あちこち「SYOWA」27 東洋の魔女 日本 VS ソ連(64`東京五輪)

2016-07-09 00:51:35 | 日記
東洋の魔女 日本 VS ソ連  女子バレー (64`東京五輪)


Aは、この試合を見て、初めて日本人としての誇りを持つことができました。

挑戦ー1964年カンヌ映画祭短編部門グランプリ作品


学生時代、Aはある寂しい集落で間借りしていました。襖一つ隔てて別の夜学生がいました。息がつまるような雰囲気でした。しかし、家賃が安いのでそれも我慢していました。

 「2階のAさん、バレーやってるよ、女子バレー !!」

 おおっ、待ってましたとばかりAは階段を走りおりました。学生はテレビを持っていない時代だったので、私は喜々として下りて大家の家族と観戦しました。苦しい戦いでした。たしかルイシカルとかいうアタッカーがさんざん日本チームを苦しめていました。得点は抜きつ抜かれつでAはこりゃやられると一時諦めてもいました。イケー、そこだ !! 内心そう叫びながら観ていました。
 おおっ、勝った、勝った !!
 あの大国ソ連を僅差で下しました。Aは大家さんの家族と手を叩いて喜び合いました。日本人として堂々といばっていいのだ、そう正直思いました。
 後日談です。
 大学祭のとき、文藝研究会にAは属していましたので、体育会の仮装行列で何か出してほしいという自治会からの要請を部内で相談しました。いろいろ意見がでましたが、Aは突然手を挙げて「東京オリンピック、そうです、女子バレーをやりませんか」と言いました。男が多いけどどうするの、とか、どう演技するの、扮装はとうするの、とかやや否定的な意見が出ました。
 「私が河西選手をやります。回転レシーブを私自身がやって外の方は普通のレシーブで・・・。衣装は私が準備します。かつらも私が作ります」
 部員がこそこそ話し始めましたが、会長が「それではA君に任せて、協力しましょう」と言ってくれましたので、実行されることになりました。
 「アタックもう一本ください !!」
当日、演技が始まりました。最初の回転レシーブを成功させると、Aは続けて数回回転レシーブを決めました。見ていた学生からおーっ、という声が聞こえてきました。
 前向きになったAは、学生生活が楽しくなりました。

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