とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」786 ブルージーンと皮ジャンパー/アダモ

2024-03-27 16:06:18 | 日記
学生時代友人のN君が「すごい唄だぜ、レコードかけようか」と興奮した面持ちで私に言いました。そりゃぜひ聞きたい。即座に私は応えました。うっ、こりゃ女か? 私は中性的な声質に驚いてそう言いました。しかし、今まで聞いたことのない悲しげなハスキーボイスにうっとりしていました。アダモだよ。アダモ? 私はその名前を聞き、名前の響きにも引き付けられました。題名も変わってて面白い。私はそれ以来虜になりました。日本にも来て「雪が降る」を日本語で唄っていました。大変な親日家。

En blue jeans et blouson d´cuir (Remastered)


サルヴァトール・アダモ(Salvatore Adamo、1943年11月1日 - )は、イタリアのシチリアで生まれたベルギーの作曲家、歌手。イタリア語読みでサルヴァトーレ・アダーモ。単に「アダモ」と呼ばれることもある。

概要
シチリアのコーミゾ生まれ。幼少期の1947年、ベルギーの鉱山に働きに行く父について家族とともに移る。

パリを離れ、1963年に「サン・トワ・マミー」(原題:Sans toi ma mie)が最初のヒット曲になった。続いて「雪が降る」(原題:Tombe la Neige)(1963年)、「Vous Permettez Monsieur」(1964年)、「Les Filles du Bord de Mer」と「夢の中に君がいる」(原題:Mes Mains sur Tes Hanches)(1965年)、「インシャラー」(原題:Inch'Allah)(1967年)がヒットした。

ジャック・ブレルは「アダモは『愛の植木職人』」と言い、レイモン・デヴォは「アダモは歌であり、詩であり、心を揺らすもの」であると語っている。アダモの曲は、世界各地でヒットし、様々な言語で自分の歌を歌った(イタリア語、スペイン語、ドイツ語、オランダ語、日本語、ポルトガル語、トルコ語)。


1980年代は心臓病で一時休養することになるが、1990年代の郷愁に満ちた流れで、特にアルバム「Zanzibar」で歌手のアルノー(フランス語版、英語版)との共演という最高の計画で復帰することになる。2004年、健康上の理由から多くのコンサート、特にヴィエイユ・シャリュー祭(英語版)のコンサートが中止された。

1993年からアダモはベルギーのUNICEF大使を務めている。

2001年7月4日の勅令でベルギー国王アルベール2世はベルギー王冠勲章(英語版)5等に列した。2016年、旭日小綬章を受章。

公演
フランス
1965年、1967年、1969年、1971年、1977年にフランス音楽界の殿堂、オランピア劇場で公演を行なった。

日本
日本で大きくヒットし、彼の曲は大きな反響をよんだ。来日公演も数多く行っている。

1975年

11月24日,25日,26日 中野サンプラザ、27日 岩手県民会館、28日 宮城県民会館、29日 山形県民会館、30日 福島市民会館、12月1日 郡山市民会館、2日 千葉県文化会館、3日,4日,5日 中野サンプラザ、6日 神奈川県立県民ホール、7日 名古屋市民会館、8日 神戸国際会館、9日 京都会館、10日 大阪厚生年金会館、12日 小倉市民会館、13日 宮崎市民会館、14日 熊本市民会館、15日 佐賀県民会館、16日 福岡市民会館、17日 大阪厚生年金会館、12月22日 NHKホール
1977年

11月18日,19日 東京厚生年金会館、21日 中野サンプラザ、22日 岩手県民会館、23日 秋田県民会館、24日 長岡市立劇場、26日 帯広市民会館、27日 北見市民会館、29日 千葉県文化会館、12月1日 神奈川県立県民ホール、3日 中野サンプラザ、4日 静岡駿府会館、5日 大阪厚生年金会館、6日,7日 北海道厚生年金会館、8日 福井市民会館、9日,10日 名古屋市公会堂、14日 長崎市公会堂、15日 京都会館、16日 大阪厚生年金会館、18日 ホテルオークラ
1979年

3月6日 渋谷公会堂、7日 川崎市産業文化会館、8日 中野サンプラザ、9日 虎ノ門ホール、10日 中野サンプラザ、11日 東京厚生年金会館、13日 福岡市民会館、14日 鹿児島県立体育館、16日,19日 大阪厚生年金会館、20日,21日 東京厚生年金会館、24日 下館市民会館、26日 松山市民会館、27日 高知県民体育館、28日 名古屋市公会堂、31日 神奈川県立県民ホール
1984年

11月15日 昭和女子大学人見記念講堂、19日 北海道厚生年金会館、22日 山梨県民会館、25日 大阪厚生年金会館、26日 東京厚生年金会館
2006年

3月5日 大阪フェスティバルホール、7日 愛知県芸術劇場大ホール、11日,12日 Bunkamuraオーチャードホール、14日 北海道厚生年金会館
2010年

10月16日,17日 Bunkamuraオーチャードホール、19日 ニトリ文化ホール、22日 中京大学文化市民会館オーロラホール、24日 NHK大阪ホール
2020年 最後の日本公演

1月25日 東京文化会館大ホール、27日 神戸国際会館こくさいホール
日本との関わり
1967年に初来日以来、30回以上の来日公演を行っており、海外アーティストの中でも特に親日家として知られている。直近の来日は2010年。

1978年には森進一「甘ったれ」を作曲する。
1997年には日本テレビのあの人は今!?に出演し、ベルギーの自宅から中継で雪が降るを歌唱した。
「ヘイ・ジュテーム(Mon Cinema)」を沢田研二、西城秀樹 、和田アキ子、杏真理子がカバーしている。
当然、日本にも数多くのファンが存在し、特にタレント・演出家のテリー伊藤は来日公演は欠かさず行っていると公言している。
ディスコグラフィ
CD復刻年は制作年とは一致しない。

1998年 : Regards
2001年 : Par les temps qui courent
2002年 : Les mots de l'âme (compilation)
2003年 : Zanzibar
2004年 : Un soir au Zanzibar (compilation Live) + DVD du même nom
2007年 : La part de l'ange
2008年 : Le bal des gens bien - Duet
2010年 : De Toi à Moi
2012年 : La grande roue
2014年 : Adamo chante Bécaud (Wikipediaより)

あちこち「SYOWA」785 バナナボート★浜村美智子(1957)

2024-03-22 16:06:43 | 日記
この唄は衝撃的でした。カリプソ、それ何? 「カンミソタリマンタリミバナナ」とも聞こえる歌詞。浜村美智子。その名前はその瞬間に頭に刻み込まれました。しかし、彼女は幅広い分野で活躍していたのです。下記のWikiのまとめを見て、驚きました。このシリーズの前でも紹介したのではと思い返しますが、改めて振り返ってみました。

バナナボート★浜村美智子(1957)



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
浜村 美智子

1957年
基本情報
出生名 浜村 美知子
生誕 1937年10月3日(86歳)
出身地 鹿児島県鹿児島市
ジャンル ポップス歌謡、ラテン、シャンソン
職業 歌手
活動期間 1957年 - 現在
レーベル ビクターエンタテインメント
事務所 ミュージック・オフィス合田
公式サイト jvcmusic.co.jp
浜村 美智子(はまむら みちこ 1937年10月3日 - )は日本の歌手。鹿児島市出身。

来歴・人物

大阪市玉造育ち。実家は町工場を経営していた。中学校卒業後、上京。高校生モデルとして活動していた時、ビクターエンタテインメントがハリー・ベラフォンテの楽曲『バナナ・ボート』をカバーさせるタレント「カリプソの娘」として抜擢される。浜村は歌手経験はなかったが「雰囲気が楽曲にあう」という理由で選ばれ、いわゆるキャンペーンガールのはしりであった。1957年、同曲でレコードデビュー。同曲は江利チエミらも競作として発売していたが、浜村盤は大きくリードする形で発売1ヶ月余りで18万枚を売り上げ、最終的に30万枚、現在までのトータルセールスではミリオンセラーを記録したとされる。

ヒットに伴い浜村はメディアに引っ張りだこになるが、インタビューで「カリプソはあまり好きでなく、自分はジャズが好みだ」などと放言を連発、浜村の傍若無人、逸脱的なキャラクターがさらけ出される。しかし、カリプソはカリブ諸国の民謡であったことから、浜村の「いいかげんさ」が逆にマッチしていると解釈され、結果的に江利らを抑えてヒットしたと思われる。同年の第8回NHK紅白歌合戦にも出場している。

その後も『バナナ・ボート』に続き『カリプソ娘』などを発表した。また、当時の日本の歌手としては異例だったアメリカでの録音も行っていた。1960年7月10日に、ハリー・ベラフォンテがアジアツアーの一環で初来日した際、空港には多くのメディアと共に浜村も駆けつけた。

デビュー直後はあまりの人気ぶりに、美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの三人娘の後継と評されていたが、あまりにもキャラクターと楽曲の印象が強すぎたため、カリプソブームが去ると浜村の人気も途絶えてしまった。

1963年、プロボクシング東洋ライト級チャンピオンだった小坂照男との結婚をきっかけに引退したが、1965年にTVドラマ『忍者部隊月光』(フジテレビ系)に悪の組織の女幹部役で出演し、女優活動を再開する。1972年にNHKの『思い出のメロディー』で歌手として復帰。それがきっかけで出した『黄色いシャツ』が久しぶりに注目を集め、オリコンシングルチャートにも登場し、同年だけで30万枚を売り上げるヒットとなった。この歌は韓国人歌手の孫夕友(朝鮮語版)の歌『黄色いシャツの男』(노란 샤쓰의 사나이)のカヴァー(1961年に韓明淑(朝鮮語版)が歌いヒットした)だったことから、韓国の大韓放送協会に招かれ、同国で初めて生放送番組に出演した外国人となった。

現在もラテン・シャンソンを中心にダンスパーティー、ディナーショー等のステージに出演している。

音楽

自己名義
シングル (SP)
バナナ・ボート/恋のヴェネズエラ(1957年3月。日本ビクター A-5219。コーラスはブライト・リズム・ボーイズ)
ダーク・ムーン/カリプソ娘(1957年7月。日本ビクター A-5221。コーラスはブライト・リズム・ボーイズ)
島の女/ママはブーブー(1957年7月。日本ビクター A-5222。B面のコーラスはブライト・リズム・ボーイズ)
パラダイス/これが恋かしら(1957年10月。日本ビクター S-320。アメリカ録音)
ジングル・ベル(1957年11月。日本ビクター A-5225)(B面は雪村いづみ「ブルー・クリスマス」)
監獄ロック/悲しみよこんにちは(1958年2月。日本ビクター A-5226。バックはグラマシィ・ファイブ)
素肌の女/明日は女の風が吹く(1958年5月。日本ビクター V-41805)
東京の隅っこ/アリゾナ色の靴下(1958年8月。日本ビクター V-41826)
トンテンカン・ロック/駐車場の女(1958年11月。日本ビクター V-41875)
三人吉三(1959年1月。日本ビクター V-41898。三浦洸一・フランク永井との共演。B面は野村雪子・神楽坂浮子「お若けえのお待ちなせえ」)

シングル (7インチ)
バナナ・ボート(作詞:L.Burgess・W,Attaway・井田誠一、作曲:L.Burgess・W,Attaway)/恋のヴェネズエラ(1957年3月。日本ビクター AS-6007。コーラスはブライト・リズム・ボーイズ)
ダーク・ムーン/カリプソ娘(1957年7月。日本ビクター AS-6008。コーラスはブライト・リズム・ボーイズ)
島の女/ママはブーブー(1957年7月。日本ビクター AS-6009。コーラスはブライト・リズム・ボーイズ)
ジングル・ベル(1957年11月。日本ビクター AS-6010。コーラスはブライト・リズム・ボーイズ。B面は雪村いづみの「ブルー・クリスマス」)
監獄ロック/悲しみよこんにちは(1958年2月。日本ビクター AS-6011。バックはグラマシィ・ファイブ)
パラダイス/これが恋かしら(1958年。日本ビクター SS-1044。アメリカ録音)
東京の隅っこ/アリゾナ色の靴下(1958年8月。日本ビクター VS-120)
トンテンカン・ロック/駐車場の女(1958年11月。日本ビクター VS-154)
三人吉三(1959年1月。日本ビクター VS-164。三浦洸一・フランク永井との共演。B面は野村雪子・神楽坂浮子「お若けえのお待ちなせえ」)
恋しいスーちゃん/一、三リッター、四リッター(1959年10月。日本ビクター VS-257)
恋の鳥(1959年11月。日本ビクター VS-265。B面は朝倉ユリ「恋の終り」)
死ぬほど愛して(1960年10月。日本ビクター VS-404。B面は藤田功「テキサス平原児」)
アフリカの星のボレロ(1961年1月。日本ビクター VS-434。A面は朝比奈愛子「君へのブルース」)
黄色いシャツ/スキャンダル(1972年3月。日本ビクター E-1048)
男のためなら/たいくつなのさ~トランペットの子守唄(1972年10月。日本ビクター GAM-4)
バナナ・ボート/酒(1973年6月。日本ビクター SV-2342)*「バナナ・ボート」の再録

EP
ジャパンズ・ティーン・クイン(1957年10月。日本ビクター EP-1262。アメリカ録音。バックはデヴィッド・テリー楽団。パラダイス/ザッツ・ラヴ/これが恋かしら/ハッピネス)
Japan's Teen Queen(1957年。RCA Victor EPA-4095。Banana Boat Song~Calypso Joe~Dark Moon~Venezuela)
Japan's Teen Queen with a Beat(1958年。RCA Victor EPA-4190。アメリカ録音。Paradise~That's Love~What is This Thing Called Love~Happiness)
アルバム
Waray Waray(1958年?。香港Diamond LPS-1002)
夜のラテン(1961年1月。日本ビクター LV-169)
バナナボート(1973年6月。日本ビクター SJX-128)
帰って来た想い出/バナナボート(1974年7月。日本ビクター SJX-177)

オムニバス
アルバム
V.A. / 宮城秀雄作品集(1960年5月。日本ビクター LV-127)*「真っ赤な花」
V.A. / 花のステージ第6集(1960年7月。日本ビクター LV-141)*「東京タウン」
V.A. / 花のステージ第9集(1961年5月。日本ビクター LV-188)*「破れかぶれ」
V.A. / 魅惑のオールスターズ第7集(1963年1月。日本ビクター LV-302)*「サヨナラの口笛」
V.A. / 花のステージ第18集(1963年2月。日本ビクター LV-293)*「カーナバルの夜」
V.A. / 花のステージ第23集(1963年12月。日本ビクター LV-360)*「東京夜曲」
NHK紅白歌合戦出場歴
年度/放送回 曲目 対戦相手
1957年(昭和32年)/第8回 監獄ロック 小坂一也
ラジオ中継の音声と歌唱している様子を撮影した写真が現存する。

主な出演
映画
ジャズ娘に栄光あれ(1958年1月29日、東宝)
大当り狸御殿(1958年2月26日、東宝) - ※DVD発売  
明日は明日の風が吹く(1958年4月29日、日活) - 石原裕次郎共演、※DVD発売
七人若衆大いに売り出す(1958年12月21日、松竹)  
嵐を呼ぶ友情(1959年1月3日、日活) - 葵エミ子 役
太陽を抱け(1960年6月15日、東宝)

テレビ
歌番組
ミナロン・ドリームサロン(大阪テレビ放送(現・朝日放送テレビ)、1957年)
思い出のメロディー(NHK総合)
NHK歌謡コンサート(NHK総合)
夏祭りにっぽんの歌(テレビ東京)
歌の楽園(テレビ東京、2010年10月31日)
木曜8時のコンサート〜名曲!にっぽんの歌〜(テレビ東京、2012年4月19日)
名曲ベストヒット歌謡(テレビ東京、2013年3月28日)
第46回年忘れにっぽんの歌(テレビ東京、2013年12月31日)
歌え!昭和のベストテン(BS日テレ、2017年3月11日)
ドラマ
忍者部隊月光 第56 - 104話(1965年、フジテレビ) - マキューラ幹部・M三号
荒野の用心棒 第35話「赤い殺意は死の谷に燃えて…」(1973年、NET(現・テレビ朝日))
バラエティー
スター千一夜(フジテレビ)
徹子の部屋(テレビ朝日、2016年10月26日)
その他
秋の歌謡フェスティバル(ゆうぽうと、2012年10月10日)


あちこち「SYOWA」784 いつでも夢を

2024-03-19 18:13:34 | 日記
これは不滅の歌謡曲ですね。昭和ですね。吉永、橋、浜田の競演も当時としては画期的。何よりさわやかで明るいメロディーが私たちを勇気づけてくれました。サユリストとして最高の喜びでした。この画像が消えないことを祈っています。

いつでも夢を


吉永小百合/橋幸雄 いつでも夢を


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曖昧さ回避 この項目では、楽曲について説明しています。本曲を元にした映画については「いつでも夢を (映画)」を、その他の用法については「いつでも夢を (曖昧さ回避)」をご覧ください。

「いつでも夢を」(いつでもゆめを)は、1962年(昭和37年)に発表された橋幸夫と吉永小百合のデュエット曲。橋の27枚目、吉永の3枚目のシングル。第4回日本レコード大賞受賞曲。

翌1963年(昭和38年)には、橋と吉永の主演による同名のドラマ映画『いつでも夢を』が製作・公開され、ヒット曲映画化作品となった(本曲が映画の主題歌として作られたのではなく、先に楽曲があって、それをもとに映画が製作されたという順である)。本曲は同映画で主題歌として使用されている。

通販CD-BOX『魅惑のムード歌謡デラックス』など、多くのコンピレーションアルバムに収録されている。

収録曲
オリジナル盤
ビクター VS-807
規格:7インチシングルレコード
発売当時の価格は290円。
A. いつでも夢を(作詞:佐伯孝夫、作曲・編曲:吉田正)
B. あすの花嫁(作詞:佐伯孝夫、作曲・編曲:吉田正)
再発盤(1984年)
ビクター SV-8527
規格:7インチシングルレコード
A. いつでも夢を
B. 若い東京の屋根の下(作詞:佐伯孝夫、作曲・編曲:吉田正)
制作

吉永小百合と橋幸夫
橋のデビューに関わり、吉永の担当でもあった日本ビクター音楽事業部(のちのJVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)ディレクター・武田京子の企画で、両者の師であった佐伯孝夫(作詞)、吉田正(作曲)に提案し実現した。武田は「これは、考えに考え抜いた企画というではなく、ごく自然に私の頭の中に浮かんできたこと」と述懐している。

佐伯の詞ができると吉田の手により作曲されたが、作曲にあたって吉田は、吉永が歌いやすいよう吉永に「少し比重を置いた」という。当時は両者とも多忙な日々を送っていたためスケジュールが合わず、別々にレコーディングした音源を一つにミキシングして発売したという。なお吉永の歌がオーケストラと合わず、やむなくピッチを上げてオーケストラと合わせた。

歌詞に登場する「あの子」については、橋は当初は吉永を連想して歌っていたが、吉永も共に歌唱していることに気付き、上にいる妖精のような存在を連想して歌うようになったという。

ヒット・受賞と影響
若き王者歌手(「御三家」の舟木一夫・西郷輝彦はデビュー前である)と人気若手女優の初デュエット曲という顔合わせや、その特徴的な歌詞が発売当初より話題となり、発売から「1ヶ月で30万枚という驚異的な記録をたて……半年すぎた翌年5月には100万枚を突破した」。累計売上は260万枚を記録している。

1962年末、第4回日本レコード大賞を受賞。

発表翌年の1963年1月11日には、同名の映画(日活作品、監督:野村孝)が封切られ、同作品についても橋と吉永が揃って出演した(浜田光夫、松原智恵子、野呂圭介、信欣三、内藤武敏らが共演)。この曲は同映画の主題歌として使用され、劇中ではこの他に吉永の「寒い朝」、橋の「潮来笠」が歌唱される。

楽曲・映画両方のヒットを受け、同1963年春に開催された第35回選抜高等学校野球大会の入場行進曲に採用された。

2005年に日本放送協会(NHK)が行った「スキウタ〜紅白みんなでアンケート〜」では、本曲が紅組22位にランクインした。

2007年には「日本の歌百選」に選出された。

各媒体での使用
映画・テレビ番組での歌唱
橋が美空ひばりと共演した映画『ひばり・橋の花と喧嘩』(1970年松竹製作、監督:野村芳太郎)では本曲を橋とひばりが歌唱している(CD化されていない模様[独自研究?])。
『NHK紅白歌合戦』では、いずれも橋のソロで、1962年の第13回、1970年の第21回、1990年の『第41回、1998年の第49回の合計4回歌唱された。
橋と吉永が音楽番組で一緒に歌唱している映像は、1968年12月27日にTBS系列で放送された『日本レコード大賞10周年特番』(カラーのビデオ映像)のものが現存する。
2013年3月31日放送のNHK総合テレビ『今夜も生でさだまさし』でサブタイトルに使用され、橋とさだまさしが歌唱した(また、吉永もVTR出演)。
コマーシャルソング
2017年に、吉永小百合が出演するソフトバンクモバイルのテレビCMでCMソングとして使用された。このほか、橋・吉永本人の歌唱ではないもの(カバー)のCM使用については後述。

『あまちゃん』での使用
2013年上期のNHK連続テレビ小説『あまちゃん』では、主人公の天野アキ(能年玲奈)をはじめとする海女たちがこの歌を歌いながら海女漁に出るなど、劇中で様々な人物によって歌唱されている。天野夏が20代であった1960年代のヒット曲であることと、脚本担当の宮藤官九郎が「本曲がドラマの世界観を表している」と判断したことからこの曲が採用された。

第116話(同年8月13日放送)では橋が本人役で出演し、天野夏(宮本信子)とのデュエットでこの曲を歌った。このバージョンは、同2013年8月28日にビクターエンタテインメントから発売された『あまちゃん 歌のアルバム』に収録されている。

橋は朝が苦手なため、朝の連続テレビ小説はこれまでほぼ視聴したことはなく、『あまちゃん』も最初は視聴していなかったが、息子である橋龍吾より『あまちゃん』を1度観るよう促され、途中から視聴しはまっていったという。そのため、出演オファーがあると思っていなかった。

駅発車メロディ
作曲者の吉田正の故郷が日立市であることにちなみ、同市内の常磐線の大甕駅・常陸多賀駅・日立駅・小木津駅・十王駅において、上りホームの発車メロディとして使用されている。

2020年2月14日からは、同名映画の撮影が行われた日活調布撮影所の最寄り駅である京王線の布田駅において、接近メロディとして採用された。なお、これは京王電鉄と調布市の地域活性化事業「映画のまち調布」とのタイアップによるもので、同日より同じ調布市内にある京王相模原線の京王多摩川駅でも、接近メロディに映画主題歌(シャル・ウィ・ダンス?)が採用されている。

カバー
多数の歌手によりカバーされている。

ペギー・マーチ - シングル「霧の中の少女」B面。英題は「ITSUDEMO YUME O」。作詞・作曲のクレジットは「T.Saheki、Angelis、T.Yoshida」。英語詞(サビの一部分は日本語)でカバー(1964年)。
佐良直美 - アルバム『鈴懸の径 -佐伯孝夫 優しい詩集-』に収録(1972年)。
梅暁洲・姜小青「いつでも夢を 中国語バージョン」 - シングル発売。またサントリー烏龍茶のCMに用いられ、同商品の景品CD(1992年)などに収録。
原由子・桑田佳祐 - 2000年12月「液晶アクオス」テレビCMソングとして制作。原のソロアルバム『東京タムレ』(2002年)に収録。
吉田拓郎 - アルバム『こんにちわ』に収録。(2001年)。
天童よしみ - アルバム『花飾り〜天童よしみオリジナルベスト・アルバム〜』に収録(2001年)。
桑島法子 - アルバム『Flores〜死者への花束』に収録(2001年)。また、ベストアルバム『HouKo ChroniCle』(2015年)にも収録。
五木ひろし - アルバム『哀愁の吉田メロディを歌う』(2004年)に収録。
遊佐未森・檀れい - アルバム『淡雪』(2012年)に収録。
徳永ゆうき・近藤春菜 - アルバム『ゆうきのうた-故郷編-』(2014年、UPCH-20368)に収録。
ダ・カーポ - アルバム『45周年記念 日本のうたファンタジー』(2017年)に収録。
はやぶさ - シングル『未来はジョー! ジョー!』(2017年)に収録。
海上自衛隊東京音楽隊、三宅由佳莉 - アルバム『シング・ジャパン―心の歌―』(2017年)に収録。
コマーシャルにおけるオリジナルカバー
第一製薬「センロック」 - 替え歌。星野仙一が出演[10]。
サントリー「烏龍茶」 - Chai 中国語カバー。

あちこち「SYOWA」783「あゝひめゆりの塔」日活映画

2024-03-16 16:16:42 | 日記
サユリストとして伝えておきたいのは、彼女が出演したのは青春恋愛ものばかりではないということです。
沖縄戦のことはよくご存知のことと思います。硫黄島とともに多数の戦死者を出した戦いでした。今もその影を負いながら沖縄はあり続けるのです。


日活映画「あゝひめゆりの塔」最後に小百合さんと自決するチャコを演じました😢



ひめゆり学徒隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

真和志村に併設された沖縄県立女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の正門。

沖縄県立第一高等女学校と沖縄県女子師範学校の学生による勤労作業。
ひめゆり学徒隊(ひめゆりがくとたい)とは、1944年12月に沖縄県で日本軍が中心となって行った看護訓練によって動員された女子学徒隊のうち、沖縄県立女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の生徒で構成された女子学徒隊。

由来
沖縄県女子師範学校は1910年の沖縄県師範学校女子部をもととし、1915年に師範学校に併設する形で沖縄県女子師範学校として創設される。 翌年の1916年には真和志村大道の沖縄県立第一高等女学校の校地に移転し、沖縄県立第一高等女学校と併設され、実質的には、校長や一部の教師は両校を兼任していた(西岡一義師範学校女子部長は一高校長)。正門にも両校の名称が記され、そのため、校名は異なるものの、実質的には一つの学校に近いものであったという。

名前の「ひめゆり」とは花の「ひめゆり」ではなく、沖縄県立第一高等女学校(一高女)の学校広報誌の名前「乙姫」と沖縄師範学校女子部の学校広報誌の名前「白百合」を併せて「姫百合」という名称が由来である。学徒隊の名称は「ひめゆり学徒隊」である。

元々は安里川にかかる粗末な橋から転落死した一高女生徒を悼み、昭和初期に安全な橋に掛け替えられた橋に「姫百合橋」と名付けたことが起源で、1940年代には女師および一高女の学舎が「ひめゆり学舎」と呼ばれるなど、両校の通称として「姫百合」の名が定着していたようである。

経緯
ひめゆりの塔(2018年)
米軍の沖縄上陸を目前に控えた1945年3月23日、両校の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる学徒隊は、沖縄陸軍病院(通称・南風原陸軍病院)に看護要員として動員された。沖縄陸軍病院は沖縄守備軍(第32軍)の直轄で、本部、内科、外科、伝染病科に分かれており、40近くの横穴壕の土壁に2段ベッドを備え付けて患者を収容した。米軍が上陸して前線の負傷兵が増加するのに伴い、内科は第二外科に、伝染病科は第三外科に変更され、那覇近郊の一日橋、識名、知念半島近くの糸数に分室がおかれた。学徒隊は全員が分散配置された。

しかし、敗色濃厚となった6月18日に突然解散命令が出され、翌日の6月19日をはじめとする約1週間の間に多数の犠牲を出した(死亡者のうち実に80%がこの間に集中している)。最終的には教師・学徒240人のうち136人が死亡。そのうちの10人(教師の平良松四郎と9名の生徒)は荒崎海岸で集団自決(強制集団死)している(自決の強制性については論争あり。当該項目を参照)。また隣の洞窟でも米軍の銃乱射で3名が死亡、3名が重傷を負った。

戦後、最大の犠牲を出した伊原第三外科壕跡に慰霊塔である「ひめゆりの塔」が建立された。これは、ひめゆり学徒隊を祀り、平和を願うものである。

なお、敷地の入口近くに建つ「ひめゆりの塔の記」では、動員数を297名、合祀した戦没者を224名としている。一方、ひめゆり平和祈念資料館が刊行している資料ではひめゆり学徒隊の動員数を240名、うち戦没者を136名としている(それ以外の戦没者が90名・戦没者の合計は226名)。この相違は、「ひめゆりの塔の記」では学徒隊以外の戦没者数を含んでいることによる。また、以前に戦没者の合計が219名とされていた時期もあったが、これは2003年7月の調査で判明した7名を含んでいないため。なお、「その他の戦没者」には沖縄戦開始以前の死者[4]が含まれているが、これはいずれも「原因が戦争に関連している」との判断によるものだという。なお靖国神社に、彼女たちの御霊が合祀されている。

犠牲者の詳細
2022年現在、沖縄戦で亡くなった女師・一高女の人数の内訳は以下のとおりとされている。なお、<その他>は沖縄戦開始後に陸軍病院動員以外で亡くなった人(他の部隊に協力中、学徒隊への参加途上、家族と共に避難中など)を指す。

理由  人数 累計
沖縄陸軍病院動員 136 136
対馬丸事件 1 137
弾薬輸送列車で爆死 2 139
その他 80 219
対馬丸事件 1 220
その他 6 226

ひめゆり学徒隊をテーマとした作品
文学
『鉄の暴風』沖縄タイムス社編集・発行。1950年初版。第4章および第5章がひめゆり学徒隊に関する記述。
『ひめゆりの塔』 - 石野径一郎の小説及びそれを基にした戯曲。雑誌連載は1949年に開始。
漫画
『COCOON』 - 今日マチ子
『水筒〜ひめゆり学徒隊戦記〜』 - 作画・新里堅進、ほるぷ平和漫画シリーズ(ほるぷ出版)、新潮社、ゲン・クリエイティブ他
映画
『ひめゆりの塔』 - 東映・1953年作品。今井正監督。原作は石野径一郎の上記小説。
『太平洋戦争と姫ゆり部隊』 - 大蔵・1962年作品。小森白監督。
『あゝひめゆりの塔』 - 日活・1968年作品。舛田利雄監督。原作は石野径一郎の上記小説。
『ひめゆりの塔』 - 芸苑社/東宝・1982年作品。今井正監督。1953年作品のリメイク。
『ひめゆりの塔』 - 東宝・1995年作品。神山征二郎監督。原作は仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』。
『ひめゆり』 - プロダクション・エイシア・2007年作品。柴田昌平監督。ひめゆり学徒隊生存者の証言を集めたドキュメンタリー映画。

ドラマ
『ひめゆり隊と同じ戦火を生きた少女の記録 最後のナイチンゲール』 - 日本テレビ系「ドラマ・コンプレックス」枠内放送・2006年作品。ひめゆり学徒隊と行動を共にした上原婦長をモデルにしたものと思われている。

舞台
『ひめゆりの塔』 - 上記、石野径一郎の小説を原作とする舞台。初演は1951年。都立白鷗高等学校演劇部によるもので宮沢千鶴脚本。また同年、作者石野径一郎の脚色で石井みどり舞踊団が演じている。
『ひめゆりの塔』 - 宝塚歌劇団雪組で1953年に公演された舞台。菊田一夫作・演出。主な出演者は明石照子・新珠三千代。
ミュージカル『ひめゆり』 - ミュージカル座で1996年から毎年夏に公演されている舞台。

音楽
合唱曲『ひめゆりの塔』 - 山本和夫作詞、岩河三郎作曲。
『島唄』- THE BOOMの楽曲。宮沢和史作詞、作曲。
民謡『ひめゆりの唄』(沖縄本島民謡) - 小宗三郎作詞、大場吉信編曲  (Wikipediaより)


あちこち「SYOWA」782 吉永小百合映画初出演 

2024-03-08 17:25:43 | 日記
おい、すごい美人が出てるぞ。だれだ。吉永なんとかという・・・・。あの赤木圭一郎の日活映画。見たい。おれも見たい。・・・・そういう会話を小倉の学生仲間と交わしたことをよく覚えています。映画館で実際に見ると実に綺麗な日本的な美人でした。ただ、喫茶店のウエイトレス役で、ほんの一分程度?の出演。それでもその時の興奮は冷めることはありませんでした。ラジオドラマ「赤胴鈴之助」の娘役の声優が彼女だったことは後で知りました。サユリストはここから始まりました。

吉永小百合 赤木圭一郎 宍戸錠 日活映画 拳銃無頼帖シリーズ 



1957 ラジオ東京 赤胴鈴之助 主題歌