とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」768「祈り」長渕剛(夏目雅子)

2023-11-27 01:11:21 | 日記
長渕さんの唄のすばらしさはここでは略させていただきます。私はふとというか突然夏目雅子という若くして亡くなった女優さんのことを思い出したのです。「瀬戸内少年野球団」がリメイクされることとも関連性があります。もし、もし夏目雅子という女優さんが生きていたら日本の映画界はもっと違う方向に進んでいたのではとも思うようになりました。明るさの内に悲しみを感じさせる。自然と滲み出て出てくる深い表情。黙っていても引き込む力。そんな魅力にあふれていました。今大きく私の前に映し出されてきます。

「祈り」長渕剛(夏目雅子)


夏目 雅子(なつめ まさこ、1957年(昭和32年)12月17日 - 1985年(昭和60年)9月11日)は、日本の女優。

本名は西山 雅子(にしやま まさこ)。旧姓は小達(おだて)。神奈川県横浜市中区出身。

夫は作家の伊集院静。弟にプロゴルファーの小達敏昭がいる。其田事務所などに所属していた。

来歴

生い立ち
東京都渋谷区宮代町の日本赤十字社中央病院にて、六本木2丁目の輸入雑貨店・亀甲屋の子として生まれる[3]。亀甲屋とは、荒物、金物、石鹸、亀の子たわしなどを扱う日用品雑貨の店だが、芸能界デビュー後は貿易会社社長の娘などのプロフィールが作られた。父は東京オリンピックのための道路拡張後に店をビルにし、貸しビル業などで成功した。

その後は高輪、横浜市山手のモービル石油日本支社長宅などに転居し、千葉県館山市には別荘があったという。

小学3年のとき、テレビドラマ「チャコちゃんハーイ!」を見て女優を志したが、子役願望は母親に猛反対されかなわず、17歳のときにヴィットリオ・デ・シーカ監督の映画「ひまわり」を見て衝撃を受け、ソフィア・ローレンに憧れ本格的に女優を目指すようになった。

東京女学館小学校、東京女学館中学校・高等学校を卒業。学生時代のあだ名は「ダテピン」。あけっぴろげでテストで悪い点数をとったときに限って「見て、見て」と答案を見せたがるからとのこと。

1976年、東京女学館短期大学に進学し、フランス語を専攻した。入学直後に父の友人の伝手で、タオルメーカーの内野のコマーシャルに出演した。学校が芸能活動に厳しく、短大は中退することになった。

芸能デビュー
同年、日本テレビ・愛のサスペンス劇場『愛が見えますか…』のオーディションで、486人の応募者の中から盲目のヒロイン役に選ばれ、本名名義で女優デビューした。この時の演技は57回連続NGを出され、「お嬢さん芸」と言われたほど拙いものであった。

1977年から8年間、山口銀行の広告として起用された。同年にカネボウ化粧品のキャンペーンガールとなり、「クッキーフェイス」のCMで注目を集め、芸名を夏目雅子へと改名する。「夏目」の芸名は、クッキーフェイスのCMが夏をイメージするものだったことによる。また、ティナ・チャールズ(英語版)が歌う同CMの使用楽曲「Oh!クッキーフェイス」を自ら日本語でカバーし、CBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)よりシングルレコードをリリースし、歌手としてデビューした。このときのCMディレクターが、後の夫となる伊集院静だった。

TBSの『すぐやる一家青春記』で連続ドラマに出演したほか、映画『トラック野郎・男一匹桃次郎』のマドンナ・小早川雅子役に抜擢され、映画に初出演した。これは監督の鈴木則文の判断によるもので、同シリーズは初々しい女優や歌手をマドンナに起用するのが基本だった(カネボウのポスターを見たのがきっかけだった)。鈴木は「彼女はカチンコのことも知らなかった」と述懐している。

西遊記の三蔵法師役に
1978年、『西遊記』(全27話)において、旅の一行のまとめ役である「三蔵法師」役を演じ、同作品は大きな人気を得る。本来は「男性」である三蔵法師であったが、女性の夏目が演じることで、高貴で中性的な三蔵法師像を演出した。同作は社会的な大ヒット作となり、翌年の1979年には続編の『西遊記II』(全26話)も放送され、夏目の知名度を大きくアップさせた。

同じく1978年には、毎日放送の横溝正史シリーズ『悪魔の手毬唄』で準主役。ドラマが好評で夏目の人気が高まり、バラエティー番組などのタレントとしての出演が増えていたが、「本格的に女優を目指したい」と本人が直訴して、P&M事務所 から、文学座とつながりの深い其田事務所に移籍した。以降は女優業が中心となる。

1979年、父がスキルス性胃癌に倒れ、摘出手術を受けた。夏目は「気絶してしまうからやめなさい」という医師の指示を聞き入れず、父の手術の一部始終をその目で見た。なお父は翌年に47歳で死去した。

1980年、ドラマ『サンキュー先生』(テレビ朝日系列)の1話で、いじめられっ子の姉役に特別出演した。同年、プロデューサーの久世光彦に推され、ドラマ『虹子の冒険』(テレビ朝日系列)のヒロインに抜擢される。これが初主演作品となった。ついで、NHKの演出家だった和田勉によって『ザ・商社』(全4話)のヒロインとして抜擢された。このドラマはNHKの制作だが、上半身裸のヌードシーンがあった。これらのドラマで女優としての評価を高め、「お嬢さん女優」のイメージを覆すことに成功した。さらにこの年は映画『二百三高地』に出演している。

1981年、バセドウ病の手術を行った。

1982年、『鬼龍院花子の生涯』の台詞「なめたらいかんぜよ!」が流行語となる。この映画では、当初彼女のヌードシーンはスタントを立てる予定であったが、「他の出演者の女優さんが何人か脱いでいるのに、自分だけ脱がないのはおかしい。私も脱いで演技します」と本人が希望した。ブルーリボン賞を受賞したが、授賞式では「これからもお嬢さん芸でがんばりたいと思います」とスピーチした。

不倫関係からの結婚
1984年、作家の伊集院静と結婚した。妻子のある伊集院とは長い不倫関係だった。伊集院の正式離婚後、一時期疎遠になるが、桃井かおりの登場から始まる三角関係が、夏目に結婚に踏み切らせたのだろうと母スエは回想している。

結婚前、伊集院との間の子を、夏目は複数回堕胎していた。このことは長く秘密にされてきたが、伊集院が二人の関係をモデルに描いた小説「乳房」で暴露して以後、小達スエの「ふたりの雅子」などにも書かれるようになった。

結婚後は神奈川県鎌倉市由比ガ浜に在住した。媒酌は行きつけの鎌倉長谷寺近くにある寿司店主夫妻で、結婚式もこの寿司店で、内輪だけで行われた。

白血病との闘い
夏目は舞台『愚かな女』(1985年2月3日 - 2月24日、PARCO西武劇場)のヒロイン役に抜擢され、福田陽一郎の演出の下、稽古に積極的に取り組んだ。この頃より10円玉大の口内炎ができたり、激しい頭痛が起きたりするなど身体に異変が現れ始めた。共演の宝田明や付き人の銭神信子らに体調不良を訴えつつも、公にしないまま舞台の開幕を迎えた。しかし、その演技は普段の夏目に比べて明らかに精彩を欠くものだったと津川雅彦が述懐している。公演日程を折り返した2月14日にはついに体調不良を隠せなくなり、公演続行を望む夏目を福田と共演の西岡徳馬が説得し、翌2月15日に慶應義塾大学病院へ入院した。

入院後の検査の結果、急性骨髄性白血病と診断されたが、夏目本人には「極度の貧血」とだけ告げ、本当の病名を伏せていた。夏目の入院とともに夫の伊集院は、仕事を中断し、亡くなるまで母親らとともに看病にあたった。『愚かな女』は福田の意向で代役は立てられず、千秋楽まで10日ほど残したところで公演が打ち切られた。

肺炎により死去
約7ヶ月にわたる闘病生活を送りながら順調に回復し、退院間近とされる報道がされていたが、8月下旬から抗がん剤の副作用が原因とみられる肺炎を併発した。高熱が続き、9月8日に熱が一時的に引き、この時に夏目本人は退院できるのではないかというほど回復傾向になったと思われたが、翌9日から再び高熱を発し、9月11日午前10時16分に死去した。27歳没。年齢が若いこともあって病の進行も早かった。臨終の言葉は「は・や・く・・・沼田に帰りたい」だった。

戒名は「芳蓮院妙優日雅大姉」と「雅月院梨園妙薫大姉」。前者は小達家菩提寺から、後者は夫の西山家の菩提寺からのものである。菩提寺は、山口県防府市防府駅近くの大楽寺、多磨霊園の小達家の墓にも分骨されている。

遺作は『北の螢』であった。

没後
没後10年にあたる1995年、キヤノンのコピー機のCMに夏目雅子の写真が起用され、限定百組で写真集をプレゼントする企画が行われ、全国から23万人もの応募があった。

13回忌を控えた1997年に母が、娘との日々を綴った『ふたりの「雅子」』が講談社で刊行した。23回忌を控えた2006年に、小達家の秘蔵写真を追加収載して『ふたりの「雅子」 母だから語れる夏目雅子の27年』に改題し文庫化し、翌2007年には『ひまわり〜夏目雅子27年の生涯と母の愛〜』としてテレビドラマ化された。

2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の7位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター女優」では第10位になった。2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本女優8位となっている。

2003年度に公共広告機構(現:ACジャパン)の骨髄バンクドナー登録を呼びかけるCM「夏目雅子編」に過去の映像を使用して出演。CMではナレーションが「あの頃もし日本に、骨髄バンクがあり、あなたのドナー登録があったなら、きっと僕らは、46歳の夏目雅子さんに会えたに違いない」と述べた。

日本郵便が2006年10月10日に発行した特殊切手「日本映画II」(現代の名作)(1980年 - 2000年代公開)は、代表的な日本映画10作品を選定しているが、その1本に夏目主演の映画『瀬戸内少年野球団』が選ばれた。                   (Wikipediaより)

あちこち「SYOWA」767 高原の駅よさようなら

2023-11-12 18:40:07 | 日記
若いころ、少し年上の美しい女優さんがいるなあと憧れていました。この物語、悲しすぎる感じで、どうにも複雑な思いがして、香川京子という女優さんが可哀そうになりました。(画像を追加しました。)


高原の駅よさようなら



高原の駅よさようなら 森昌子 Mori Masako  aa


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

かがわ きょうこ
香川 京子

来歴・人物

1949年
生まれてすぐに父親の仕事の都合で兵庫県の芦屋へ移る。

小学校に入る1年前に東京に戻るも、女学校に上がった1944年に空襲を避けるため、茨城県の下館に疎開。間もなく母親が麻生町に疎開したため、自らも麻生町に戻る。

女学校時代は勤労奉仕ばかりで、勉強することはあまりなかった。

1945年に東京に移り住む。

1949年に東京都立第十高等女学校を卒業。東京新聞主催の「ニューフェイス・ノミネーション」に合格し、新東宝へ入社する。女学校卒業時に漠然と将来を考えた際に、当初は英語の勉強をしたいと考えていたが家庭の事情で断念。『白鳥の湖』を観賞してバレリーナになりたいと考えるも、専門家から、目指すには遅すぎると指摘され、どうしようか考えあぐねている時に新聞のニューフェイス募集記事が目に止まって応募したという。一般会社の入社試験も同時進行で受けており、最終面接とニューフェイスのカメラテストでの最終試験が重なってしまうが、母の助言もあり、女優の道に進むことになる。

同年、映画『帰国』でデビュー。

芸名は映画会社で用意されていたものがしっくり来ず、家族と自身で考えたもの。本名の「香」と言う文字はどうしても用いたく、「きょうこ」という音も用いられるために決定したという。


1954年

『サンケイグラフ』1954年9月5日号より
大手映画会社間の五社協定ができる前の1953年にフリーになったおかげで、各映画会社の黄金期の多くの巨匠たちの作品に出演するという幸運に恵まれている。本人は「個性のない普通の雰囲気が使いやすかったのだと思う」と謙遜して答えている。

『ひめゆりの塔』への出演が転機になったようで、女優としての意義を意識するようになった。監督の今井正からは役作りのために役になりきってひめゆり学徒隊に志願した理由を書く作文を書かされ、とても勉強になったと述べている。

続いて成瀬巳喜男監督の作品に次々に出演し、さわやかな演技で人気女優となる。

溝口健二監督の『近松物語』ではヒロインを演じ、初の人妻を演じる。当時は未婚であったため、溝口監督独特の演技指導しない演出も重なって、既婚者の動作が中々演じられなかったという。本人の思い出に残る作品であり、監督に「芝居は相手の言葉や動きに反射してでてくる。反射して下さい」と言われ、「できるまでやらされ死ぬほどつらかったが、芝居の基本を教えてもらいありがたかった」と振り返っている。

黒澤明監督の作品にも多く出演し、黒澤作品の看板役者であった三船敏郎の恋人役や妻役を演じることが多かった。黒澤作品において、三船とは9回の共演回数を誇る。特に思い出深い作品は『悪い奴ほどよく眠る』であるという。

『モスラ』(1961年)で共演した小泉博は、香川について明るく知的で、お嬢さん役として素晴らしいという定評であったと証言している。東宝の照明技師であった高島利雄は、現場で一緒に撮った写真をわざわざ送ってくれるなど、気さくな人物であったと述懐している。

1963年に結婚。

1965年、『赤ひげ』に出演して以降、出産を経験。新聞記者であった夫の海外赴任先であるニューヨークへ同行し、映画の世界を3年ほど離れることになる。ニューヨーク在住時には1965年北アメリカ大停電を経験している。

1968年に帰国。テレビドラマ・舞台へ主軸を移す。

テレビドラマでは石井ふく子・橋田寿賀子両者の作品に多く出演した。

映画撮影時の記念アルバムなどの資料は東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈され、展示室で公開されている。そうした映画保存活動への貢献が評価され、2011年10月24日に第24回東京国際映画祭の会場で日本人・アジアの映画女優として初となるFIAF賞(国際フィルム・アーカイヴ連盟賞)が授与された。FIAF賞受賞記念として、映画祭で、「香川京子と巨匠たち」として9作品特集上映され、また、東京国立近代美術館フィルムセンターで、「映画女優 香川京子」として45作品特集上映され、企画展示室にて「映画女優 香川京子」展として特別展示された。

あちこち「SYOWA」766 岡村孝子 - 夢をあきらめないで(88' + 87' Live)

2023-11-11 00:10:50 | 日記
美しい応援ソング。がんばるぞと思わせる。歌の力は素直で優しい。

岡村孝子 - 夢をあきらめないで(88' + 87' Live)


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岡村 孝子
出生名 岡村 孝子
生誕 1962年1月29日(61歳)
出身地 愛知県岡崎市
学歴 椙山女学園大学中退
ジャンル J-POP
職業 シンガーソングライター
活動期間 1985年 -(ソロデビュー)
レーベル ファンハウス
(1985年 - 1994年)
east west japan→ワーナーミュージック・ジャパン
(1995年 - 2001年)
BMG JAPAN
(2002年 - 2008年)
ヤマハミュージックコミュニケーションズ
(2011年 - )
事務所 Cotton
共同作業者 萩田光雄、Ebako Jr
公式サイト www.okamuratakako.com
岡村 孝子(おかむら たかこ、1962年1月29日 - )は、日本のシンガーソングライター。あみんのメンバー。愛知県岡崎市出身。アルバムのセールス枚数は、総計600万枚を超える。

来歴
生い立ち
父親の岡村秀夫は三重県伊勢市に生まれ、高校卒業後、愛知県岡崎市に移住。1961年、同じ三重県出身の千代と結婚[1]、岡崎市西本郷町に家を構えた。1962年、孝子が二人の間に生まれる。労働運動家として知られた父親は、1967年に岡崎市議会議員に転身。

孝子は弟が一人おり、母方の傍系尊属(高祖母の弟)に七代目松本幸四郎がいる。

岡崎市立矢作西小学校、岡崎市立矢作中学校卒業。1980年、愛知県立岡崎北高等学校卒業。

あみんとしての活動

詳細は「あみん#来歴」を参照
一浪後の1981年、椙山女学園大学に入学。同大学星ヶ丘キャンパス在学中、同級生の加藤晴子とデュオの「あみん」を結成。

1982年春、ヤマハポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)に出場。「待つわ」を歌い、グランプリを受賞。同曲は1982年のオリコン年間売上1位となるヒットを記録した。1983年「あみん」の活動を休止。

2007年、あみんとして活動を再開。同年12月31日に『第58回NHK紅白歌合戦』紅組で出場、デビュー曲「待つわ」を披露している。

あみんとして2008年に発表したアルバム『未来へのたすき』歌詞カードには、あみん活動再開後も岡村のソロ活動は並行して続いている(休止していない)ことが明記されている。

ソロ活動
椙山女学園大学を中退後、花嫁修業などをしていた時もソロ活動を求める声があり、再度上京。ソロとして1985年にファンハウス(現:Ariola Japan)より岡村孝子としてソロデビューする。

1986年、来生たかおの「はぐれそうな天使」のカバーを歌ったところ、ホンダ・トゥデイのコマーシャルに起用、一気に人気度が高まる。当楽曲は現時点で詞・曲ともに自作でない唯一の楽曲。

1987年、「夢をあきらめないで」を発表。応援歌的な内容が幅広い層から支持を集め、岡村の代表作となった。当初は武蔵予備校のCMソングのタイアップがあった。 後年、中学校の音楽教科書「中学音楽 音楽のおくりもの 2・3 上」(教育出版刊)に採用されている。

「夢をあきらめないで」は、2005年公開の映画『逆境ナイン』の主題歌(原作者・監督の強いリクエスト)として起用された。リリースから18年たった2005年、デジタルリマスタリングを施し「夢をあきらめないで 『逆境ナイン』リマスタリング・バージョン」として再発売。当曲は、乙葉、金月真美など様々な歌手によりカバーされる。

OLが多い同世代の感性を表現した岡村の歌詞と楽曲が、若い女性を中心に支持を集め、90年代初頭に「OLの教祖」と称された。

1995年、所属レーベルをeast west japanに移籍。

2003年、BMGファンハウス(現・BMG JAPAN)へ復帰。

2005年、NHK『夢・音楽館』で、あみん結成の頃から岡村の憧れであったさだまさしと初共演した。ソロ時代は一切音楽番組の出演を断っていたが、さだとの共演ということで出演。NHK BSプレミアムで「岡村孝子コンサート」を放送直後、視聴者からDVD発売や再放送等の反響が大きくなった。先述の共演が縁となり、2006年、さだとのコラボレーションによるシングル「銀色の少女」を発表。コーラスとして参加した加藤との再共演も実現。

2011年、所属レーベルをヤマハミュージックコミュニケーションズへ移籍。同年9月、約5年振りのソロ・デビュー25周年記念アルバム『勇気』をリリース。

2015年、ソロデビュー30周年を迎える。

2016年、ソロデビュー30周年を記念して、9月には2002年発売『DO MY BEST』以来となるオールタイム・ベストアルバム『DO MY BEST II』とEncore IからVIまでのシリーズを中心に選曲したライブ・セレクション映像集『encore memories』を相次ぎリリース。

同年4月、「LOVEあいちサポーターズ あいち音楽大使」に就任。7月に岡崎市民栄誉賞を受賞[6]。

2017年、第70回全国植樹祭(2019年6月2日開催。会場は愛知県尾張旭市)のテーマソングを手がけることが決定。同年4月26日、愛知県庁で大村秀章愛知県知事の下、制作委嘱式が行われた。

あちこち「SYOWA」(番外) 春の声 / 森麻季

2023-11-03 18:43:13 | 日記
長年の念願が叶い、島根のコンサートに出かけました。肉声を初めて聞き、ソプラノの澄んだ歌声に魅了されました。
ビジュアル、舞台マナー、トーク。すべて完璧。いい思い出になりました。

春の声 / 森麻季


動画が消されないことを祈っています。

森 麻季(もり まき、1970年8月19日 - )は日本の音楽家(声楽家)で、主にクラシック音楽・歌曲の歌唱を職業とする歌手(ソプラノ)。古典から現代まで幅広いレパートリーでオペラ歌手として知られている。

来歴・人物
東京都生まれ。幼い頃よりピアノを習っていたこともあり、国立音楽大学附属小学校に入学。国立音楽大学附属中学校、国立音楽大学附属高等学校卒業。東京藝術大学音楽学部声楽科を経て、同大学院独唱専攻を修了。在学中に安宅賞受賞。

文化庁オペラ研修所修了後、五島記念文化財団オペラ新人賞[1]を受賞し、文化庁派遣芸術家在学研修員としてミラノのヴェルディ国立音楽院(Conservatorio di musica Giuseppe Verdi)に留学。また、ミュンヘン国立音楽大学大学院(Hochschule für Musik)を修了した。(Wikipedia)