とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」800「最後の日本兵」小野田寛郎さん 戦いを終えメディアの前に

2024-04-29 18:31:52 | 日記
この人を忘れていませんか。横井庄一さんとともに忘れてはいけません。

戦争が続いていると信じ29年潜伏を続けた「最後の日本兵」小野田寛郎さん 戦いを終えメディアの前に(1974年)


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小野田おのだ 寛郎ひろお

所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1942年12月 - 1945年8月15日
(ただし 1974年3月9日まで作戦を継続)
最終階級 陸軍少尉
除隊後 小野田牧場 経営者
小野田自然塾 主宰

小野田 寛郎(おのだ ひろお、1922年〈大正11年〉3月19日 - 2014年〈平成26年〉1月16日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は予備陸軍少尉。旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。和歌山県出身。

情報将校とし第二次世界大戦に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、第二次世界大戦終結から29年を経て、フィリピン・ルバング島から日本へ帰還した。その後は、メディアにつきまとわれた事もあり、戦後の日本への適応は困難であった。

爪楊枝

2024-04-22 01:41:41 | 創作
     爪 楊 枝

                             瀬本あきら
     爪楊枝職人に新助という人がいた。
     
     この人が作る手作りの楊枝は、鋭くて、また、柔らかくて、そして、何より折

    れなくて、沢山の客がつくほど重宝がられていた。

     しかし、何しろ一本いっぽん作るのだから、たまったものではない。注文が多

    いときには、徹夜することも稀ではなかった。

     材質選びにも至極神経を使っていた。杉。こりゃだめだね。檜。こりゃ臭くて

    いけないね。欅。とんでもない。やっぱり黒文字だね。全国どこでも生えている

    し、香りがこたえられない。春に、山でこの木の黄色の花を見つけると、もう、

    天国だね。秋には黒い実がなる。庭木になんぞしているやつがいるが、どやして

    やりたいね。山のものは、山が一番だ。だから、いつも山登り。この歳になって

    も、若いもんにゃ任せられない。木には素性というものがあって、人間と同じで、

    根性が悪いのがいる。こいつに掴まっちゃおしまいだね。若いもんは、そこのと

    ころが分からない。息子に任せるときは、俺が山で死ぬときじゃ。それまで、息

    子に教えておきたいことがたくさんある・・・・・・。

     新助じいさんが話し出すと、際限がなかった。

     じいさんは、一日中仕事机に向かって、小刀で楊枝づくりをしていた。

     ときどき、若い、と言っても、三十台半ばくらいの女が出入りして、お茶を淹

    れていた。

     新助じいさんは、そのときだけ、ちらとその女を見て、微笑んだ。

     「ああ、ありがと。母さん」

     そして、そういう言葉でお礼を述べた。

    じいさんにとって、その女は、孫でもないし、まして、息子の嫁でもなかった。

    ただ、じいさんは、そう呼ぶことにしていた。そして、ゆっくりとお茶を飲み、

    その女の顔をしばらく見つめて、また、仕事を始めた。深夜になり体が疲れると、

    眼鏡をはずし、手を合わせて、「母さん」、と祈った。手先が小刻みに震えるよ

    うになり、仕事の能率は低下する一方だった。

     
     ある日の朝、木の皮剥ぎをしているときだった。その女が、また、お茶を淹れ

    にやってきた。

     「じいさん、今日限りにしていただきます」

     そう言った。

     すると、じいさんは、持っていた小刀を、ぽとりと落とし、口をもごもごさせ

    たが、言葉にならなかった。顔が次第に青ざめてきた。

     「再婚することになりました」

    女は、そう呟くように言った。

     じいさんは、一層青ざめて、今度は、わなわな震えだした。

     「・・・私は、あなたの母さんじゃありませんから」

     「・・・・・・」
     
     「近所にいて、貴方の仕事ぶりを見ていて、男所帯じゃ大変だろうと、そう思
    
    って、今までやってきました。もう五年になります。最初、突然、母さんと呼ば

    れて、正直びっくりしました。でも、不思議なもので、そのうち本当の母みたい

    な気持ちになりました」

     じいさんは、青ざめた皺だらけの顔で、目だけぎょろつかせ、女の言うことに

    耳を傾けていた。

     「でもね。ときどき、隣の町から来てあげますからね。いい仕事してください

    ね。」そう言うと、女の方も落ち着かなくなってきた。

     「章さんに、一度だけ、結婚してくれ、と言われました。でも、若い男が怖く

    なっていましたから、素っ気無く断りました」

     「章が、そんな・・・・・・」やっとのことで、じいさんがそう言うと、「え

    え、もう強引でしたので・・・・・・」と、女は、最後の言葉を呑み込んだ。

     「じいさんが、もっと若ければ、もしかして・・・・・・」

     そう言って、女は、大声で笑った。そして、立ち上がると、玄関に向かって出

    ていった。

     それきり、女は、長らく姿を見せなくなった。


     ところが、ある日、突然また仕事部屋に現れた。

     「長いあいだ、ありがとうございました。明日が結婚式です」

     両手をついて、丁寧に頭を下げた。

     「あれから、仕事が手につかなくて・・・・・・」

     新助じいさんは、すっかり元気を無くしていた。

     「また、来ますからね。元気出して仕事してくださいね」

     じいさんは、ごそごそと、紙に何かを包みこんでいた。

     「じゃ、失礼します」

     「母さん、ちょっと待ってくれ」

     じいさんは、紙包みを差し出した。
    
     「何ですか」

     「何にも、あげるものがないから、これ、爪楊枝じゃ。旦那にあげてください

    な」

     「これは、じいさんの形見。使いませんよ。自分で大切にしまっておきます」

     そう言って、女は、新助じいさんの体を力を込めて抱きしめた。


     仕事場で、ものを投げつける大きな音がしたので、息子が駆けつけて、覗いて

    みると、部屋中に爪楊枝が飛び散っていた。
  
     その部屋の真中で、新助じいさんが、蹲って泣いていた。

     息子は、どうすることもできなかった。              (了)



桜 

2024-04-20 16:41:10 | 創作
桜                        瀬本あきら

 じいさんの腰は、直角に曲がっている。
 今年で数えの九十歳になる。
 しかし、ばあさんとの二人暮しなので、毎日の山行きが唯一の収入源である。
 その日も水平になった背中に、少々の薪を背負い込んで帰り道を急いでいた。ただ、急
ぐといっても、気持ちだけの早足であった。藜(あかざ)の杖をついている。
 「この薪を、酒屋の伸介じいに売って、魚と野菜を買い込んで、ばあさんに渡さねば・
・・・・・」
 ばあさんの喜ぶ顔が、じいさんの生きがいであった。
 ぐいぐいと背中の荷が、胸と腹を締め付ける。
 「・・・・・・こんなことでへこたれたら、二人とも飢え死にだ」
 じいさんは、地面にへたりこみそうになる自分の体をかろうじて支えていた。
 「○○じい、手伝ってあげようか」
 通りかかった子どもが声をかけた。じいさんは涙がでそうになった。しかし、断った。
 「いい大人になるぞ、坊は」
 きょとんとして子どもは立っていた。
 「いいから、いいから。母さん待ってるぞ。早くお帰り」
 子どもは、その言葉で諦めて、わき道の方へ駆けて行った。
 捨てる神あれば、拾う神ありか。そうじいさんは呟いた。そして、また家路を急いだ。
 後ろから車の音がした。あっという間にじいさんの脇を通り過ぎた。風圧でじいさんは
少しよろめいた。
 捨てる神あれば、拾う神ありか。じいさんはまた呟いた。そして、アスファルトの道の
表面を見つめた。
 「あれ、桜だ」
 本当に、白い花びらのようなものがちらちらと舞っていた。じいさんは、上目遣いで山
を見上げた。
 「まさか、桜の時期はとっくに過ぎている。葉っぱだらけの山だ」
 じいさんは、自分の目を疑った。もうろくしてからに・・・・・・。
 しかし、確かにちらちらと白いものが舞っている。じいさんはそのちらちらに近づいて、
じっと見つめた。
 「なんだ、やっぱりちがう。紙切れだ。しょうもない」
 気がつくと、すたすたとまた歩き出した。
 
 家が近づいてきた。腰には魚の藁苞(わらづと)がぶら下がっていた。
 すると、何故かまた目の前をちらちらと舞い上がるものが見えた。じいさんは、また思
い返した。紙切れだ。紙切れだ。
 「……しかし、待てよ。もうろくしたから、あれは本当の桜だったかもしれん。遅咲き
の」
 もう、じいさんは、どちらとも区別がつかなくなっていた。ただ、ちらちらと、ちらち
らと白い花弁が頭の中を舞っているだけだった。

赤い繭  阿部公房

2024-04-17 18:27:57 | 創作
赤い繭

安部公房


日が暮れかかる。人はねぐらに急ぐ時だが、おれには帰る家がない。おれは家と家との間の狭い割れ目をゆっくり歩きつづける。街じゅうこんなにたくさんの家が並んでいるのに、おれの家が一軒もないのはなぜだろう? …..と、何万遍かの疑問を、また繰り返しながら。

電柱にもたれて小便をすると、そこには時折縄の切れ端なんかが落ちていて、おれは首をくくりたくなった。縄は横目でおれの首をにらみながら、兄弟、休もうよ。全くおれも休みたい。だが休めないんだ。おれは縄の兄弟じゃないし、それにまだなぜおれの家がないのか納得のゆく理由がつかめないんだ。

夜は毎日やってくる。夜がくれば休まなければならない。休むために家がいる。そんならおれの家がないわけがないじゃないか。

ふと思いつく。もしかするとおれは何か重大な思いちがいをしているのかもしれない。家がないのではなく、単に忘れてしまっただけなのかもしれない。そうだ、ありうることだ。例えば…..と、偶然通りかかった一軒の前に足をとめ、これがおれの家かもしれないのではないか。むろん他の家とくらべて、特にそういう可能性をにおわせる特徴があるわけではないが、それはどの家についても同じように言えることだし、またそれはおれの家であることを否定するなんの証拠にもなりえない。勇気をふるって、さあ、ドアを叩こう。

運よく半開きの窓からのぞいた親切そうな女の笑顔。希望の風が心臓の近くに吹き込み、それでおれの心臓は平たくひろがり旗になってひるがえる。おれも笑って紳士のように会釈した。
「ちょっとうかがいたいのですが、ここは私の家ではなかったでしょうか?」
女の顔が急にこわばる。「あら、どなたでしょう?」

おれは説明しようとして、はたと行き詰まる。なんと説明すべきかわからなくなる。おれが誰であるのか、そんなことはこの際問題ではないのだということを、彼女にどうやって納得させたらいいだろう?おれは少しやけ気味になって、
「ともかく、こちらが私の家でないとお考えなら、それを証明していただきたいのです。」
「まあ…..。」と女の顔がおびえる。それがおれの癪にさわる。
「証拠がないなら、私の家だと考えてもいいわけですね。」
「でも、ここは私の家ですわ。」
「それがなんだっていうんです?あなたの家だからって、私に家でないとはかぎらない。そうでしょう。」

返事の代わりに、女の顔が壁に変わって、窓をふさいだ。ああ、これが女の笑顔というやつの正体である。誰かのものであるということが、おれのものではない理由だという、訳の分からぬ論理を正体づけるのが、いつものこの変貌である。

だが、なぜ……なぜすべてのものが誰かのものであり、おれのものではないのだろうか?いや、おれのものではないまでも、せめて誰のものでもないものが一つくらいあってもいいではないか。時たまおれは錯覚した。工事場や材料置き場のヒューム管がおれの家だと。しかしそれらはすでに誰かのものになりつつあるものであり、やがて誰かのものになるために、おれの意志や関心とは無関係にそこから消えてしまった。あるいは、明らかにおれの家ではないものに変形してしまった。

では、公園のベンチはどうだ。むろんけっこう。もしそれが本当におれの家であれば、棍棒をもった彼が来て追いたてさえしなければ….. たしかにここはみんなのものであり、誰のものでもない。だが彼は言う。

「こら、起きろ。ここはみんなのもので、誰のものでもない。ましてやおまえのものであろうはずがない。さあ、とっとと歩くんだ。それが嫌なら法律の門から地下室に来てもらおう。それ以外のところで足をとめれば、それがどこであろうとそれだけでおまえは罪を犯したことになるのだ。」

さまよえるユダヤ人とは、すると、おれのことであったのか?

日が暮れかかる。おれは歩きつづける。

家….. 消えうせもせず、変形もせず、地面に立って動かない家々。その間のどれ一つとして定まった顔をもたぬ変わりつづける割れ目….道。雨の日には刷毛のようにけば立ち、雪の日には車のわだちの幅だけになり、風の日にはベルトのように流れる道。おれは歩きつづける。おれの家がない理由が吞み込めないので、首もつれない。

おや、誰だ、おれの足にまつわりつくのは?首つりの縄なら、そうあわてるなよ、そうせかすなよ、いや、そうじゃない。これはねばりけのある絹糸だ。つまんで、引っ張ると、その端は靴の割れ目の中にあって、いくらでもずるずるのびてくる。こいつは妙だ。と好奇心にかられてたぐりつづけると、更に妙なことが起こった。しだいに体が傾き、地面と直角に体を支えていられなくなった。地軸が傾き、引力の方向が変わったのであろうか?

コトンと靴が、足から離れて地面に落ち、おれは事態を理解した。地軸がゆがんだのではなく、おれの片足が短くなっているのだった。糸をたぐるにつれて、おれの足がどんどん短くなっていった。すり切れたジャケツの肘がほころびるように、おれの足がほぐれているのだった。その糸は、糸瓜のせんいのように分解したおれの足であったのだ。

もうこれ以上、一歩も歩けない。途方にくれて立ちつくすと、同じく途方にくれた手の中で、絹糸に変形した足が独りでに動きはじめていた。するすると這い出し、それから先は全くおれの手をかりずに、自分でほぐれて蛇のように身に巻きつきはじめた。左足が全部ほぐれてしまうと、糸は自然に右足に移った。糸はやがておれの全身を袋のように包み込んだが、それでもほぐれるのをやめず、胴から胸へ、胸から肩へと次々にほどけ、ほどけては袋を内側から固めた。そして、ついにおれは消滅した。

後に大きな空っぽの繭が残った。

ああ、これでやっと休めるのだ。夕陽が赤々と繭を染めていた。これだけは確実に誰からも妨げられないおれの家だ。だが、家が出来ても、今度は帰ってゆくおれがいない。

繭の中で時がとだえた。外は暗くなったが、繭の中はいつまでも夕暮れで、内側から照らす夕焼けの色に赤く光っていた。この目立つ特徴が、彼の眼にとまらぬはずがなかった。彼は繭になったおれを、汽車の踏切とレールの間で見つけた。最初腹をたてたが、すぐに珍しい拾いものをしたと思いなおして、ポケットに入れた。しばらくその中をごろごろした後で、彼の息子の玩具箱に移された。
(http://language-assistant.org/cgi-bin/reading.cgi「LA READINGS」より転載。)

あちこち「SYOWA」(番外)【公式】中森明菜/I MISSED "THE SHOCK" Live atよみうりランドEAST, 1989.4.29 & 30)

2024-04-16 17:38:40 | 日記
明菜日本公演実現。見に行きたい。明菜は神のような存在。私はそう信じています。どこまでもついて行きたい。そんな感じですね。ステージパフォーマンス、声、曲調、ルックス。最高ですね。永遠の神です。・・・・・消されないことを祈っています。消されないうちにしっかり視聴してください。

㉒【公式】中森明菜/I MISSED "THE SHOCK" (イースト・ライヴ インデックス23 Live atよみうりランドEAST, 1989.4.29 & 30) AKINA NAKAMORI


来歴
1965年 - 1981年(デビュー前)
1965年(昭和40年)7月13日(火曜日)、東京都大田区に、6人兄弟・姉妹(2男4女)の5番目、兄二人と姉二人と妹を持つ三女として生まれる[4]。6人兄弟姉妹たちは、父の名前にちなんで全員が「明」の付く名前であり、中森自身も同様の命名を受けた[14]。「明るくにぎやかな家庭であってほしい」という母の願いからであった[15][注 1]。なお、妹の中森明穂(四女で末子、2019年5月27日死去[17][18])も後に芸能界入りしたが、短期間で引退している。

父親は精肉店を営んでいた[19]。

出生後、東京都清瀬市に移り住み幼少期を過ごす[4]。4歳から14歳までの10年間、練馬区のバレエ教室「横山昭子モダンバレエスタジオ」に通っていた[20][21]。中森を教えていたバレエ教師は「14歳まで休むことなく通い続け、本当に真面目な子だった。フラメンコやタンゴのリズムに乗ると生きいきと踊り、将来はダンサーになるのではないかと思っていた。また、幼い頃から衣装にとてもこだわりを持っていた」と語っている[21]。

美空ひばりが好きだった母は、若い頃は歌手志望で「ひばりちゃんのような歌手になりたい」と言い[21][22]、中森が幼い頃から美空ひばりの歌を聞かせ、歌い方の手ほどきをしていた[23]。やがて中森は母の影響で歌手の夢を抱くようになり[23][24]、日本テレビ系のオーディション番組『スター誕生!』に幾度となく挑戦する[24]。

1981年、『スター誕生!』本選3度目の挑戦となった8月2日の放送(7月11日収録)で、中森は山口百恵の「夢先案内人」を歌い、同番組の史上最高得点となる392点で合格する[25][26]。合格後、スカウトを受ける場となる決戦大会までのおよそ1か月間、日本テレビ音楽学院でボーカルとダンスレッスンを受ける[27]。11月29日放送(11月11日収録)の決戦大会前の事前審査にあたる下見会を経て、12月6日放送(11月18日収録)の決戦大会で再び「夢先案内人」を歌唱[27]。合計11社のレコード会社や芸能プロダクションから獲得の意向を示すプラカードが上がった[26][27]。これを機に中森は、研音所属とワーナー・パイオニアとのレコード契約を決める[28]。その後、1982年2月に行われる初レコーディングに向け、自身での発声練習に加えて、ボーカル・トレーナーの大本恭敬のもと、週に1度、2度ほどレッスンを積んだ[28]。

1982年 - 1984年
1982年、5月1日にシングル「スローモーション」でデビュー[7][29]。当初は「森アスナ」という芸名でのデビューも検討されていたが、中森本人が本名でのデビューを希望して芸名を拒否した[30][31]。1980年代のアイドルにはキャッチフレーズが付けられ、中森のキャッチフレーズは「ちょっとエッチな美新人娘ミルキーっこ」であった[32]。

デビュー前に中森が歌ったデモテープには、岩崎宏美「ロマンス」、高田みづえ「硝子坂」、山口百恵「ひと夏の経験」「いい日旅立ち」の4曲が収められていた[33]。来生たかおがこれを聴き、来生たかお作曲・来生えつこ作詞のコンビによる「スローモーション」「あなたのポートレート」「咲きほこる花に…」の3曲が完成[33]。デビュー曲の候補として「スローモーション」「あなたのポートレート」「Tシャツ・サンセット」「銀河伝説」の4曲が挙げられた中、「スローモーション」が選ばれた[33]。この曲は中森も気に入っていたという[34]。

実はそれ以外に、デビュー曲として用意されていたが結局使われなかった「幻のデビュー曲」が存在した[30][33]。加藤和彦作曲・安井かずみ作詞のコンビで、演奏は高橋幸宏と細野晴臣であったが、曲調が虚無的で退廃的すぎるということでお蔵入りとなり、音源は残されていない[30]。

同年7月、ファースト・アルバム『プロローグ〈序幕〉』を発売[35]。同作はオリコン週間アルバムランキングの10月4日付で最高位5位を記録[36]。続く第2弾シングル「少女A」が、オリコン週間シングルランキングの10月18日付で最高位5位を記録し、同曲でブレイクする[36][37]。10月には、2枚目のスタジオ・アルバム『バリエーション〈変奏曲〉』を発売し、11月8日付の同社チャートで初の週間1位を獲得、74万枚を超えるセールスを記録する[35][36][38]。続いて11月に発売した3枚目のシングル「セカンド・ラブ」は、11月29日付の同チャートで初の週間1位を獲得し、1983年の同社年間シングルチャートで8位を記録、約77万枚を売り上げる[29][9]。中森はデビュー初期の段階より、衣装・メイク・振り付けに自身がかかわり、楽曲制作においても積極的に意見を取り入れていく[39]。

1983年、2月より自身初の全国コンサート・ツアーAkina Milkyway '83 春の風を感じてを開催[40]。3月と8月には、『ファンタジー〈幻想曲〉』、『NEW AKINA エトランゼ』と通算3作目、4作目のスタジオ・アルバムを発売する[35][41][42]。『NEW AKINA エトランゼ』は第25回日本レコード大賞の'83アルバムベスト10を獲得した[43]。12月には初のベスト・アルバム『BEST AKINA メモワール』を発売し、オリコンで5週連続首位を獲得した[35][44][38]。歌手としての人気を着実に獲得するとともに、1983年のブロマイド売上実績の女性部門で中森は首位にもなった[45]。

1984年、5月にデビュー3周年目を記念した5枚目のスタジオ・アルバム『ANNIVERSARY』を発売する[46][47]。同アルバムに収録され、中森の提案によりタイトル名が決定された通算7枚目のシングル「北ウイング」は、1984年のオリコン年間チャートで9位を記録した[47][48]。10月にも6枚目となるスタジオ・アルバム『POSSIBILITY』を発売し、このアルバムからのシングルの「サザン・ウインド」と「十戒 (1984)」も、この年の同社年間チャートでトップテン入りし、それぞれ年間で10位と6位を記録した[47]。11月には井上陽水から楽曲提供を受けた10枚目のシングル「飾りじゃないのよ涙は」をリリース[39][29]。アイドルからシンガー、ミュージシャンへの転機となったこの楽曲は、1985年の同社年間チャートで6位を記録した[39][49]。

1985年 - 1989年
1985年、1月公開の映画『愛・旅立ち』で近藤真彦と共に主演を務める[9][50]。3月、11枚目のシングル「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」を発売[29]。この楽曲は、同年末に行われた第27回日本レコード大賞にて日本レコード大賞を受賞し、この年のオリコン年間チャートで2位を記録した[51]。4月には7枚目のスタジオ・アルバム『BITTER AND SWEET』を発売する[35][52]。6月発売の12枚目のシングル「SAND BEIGE -砂漠へ-」では、新人の作家によるデビュー作を起用するなど[53][54]、作家のジャンルや有名無名にとらわれない楽曲提供を受ける。この楽曲は同年の同社年間チャートで7位を獲得した[48]。8月には『D404ME』が8枚目のスタジオ・アルバムとしてリリース[35][55]。同作は第27回日本レコード大賞の優秀アルバム賞を獲得した[51]。

1986年、2月に14枚目のシングル「DESIRE -情熱-」をリリース[54]。この楽曲は1986年のオリコン年間チャートで2位を記録し、第28回日本レコード大賞で前年に続き日本レコード大賞を受賞した[56][57]。これにより中森は、女性ソロ歌手として史上初の2年連続となる日本レコード大賞受賞を果たした[58]。4月にはデビュー曲「スローモーション」から「SOLITUDE」までのシングル曲を収めたベスト・アルバム『BEST』をリリース[59][60]。このアルバムは、第1回日本ゴールドディスク大賞のThe Grand Prix Album of the Yearを受賞した[61]。5月に発売した15枚目のシングル「ジプシー・クイーン」は同年の同社年間チャートで7位を記録[54][56]。8月に発売した9枚目となるスタジオ・アルバム『不思議』では、アルバムのプロデュースを自身で担当する[59][62]。以降、楽曲やアルバムのセルフプロデュース作品を発表し、アーティスト性を発揮していく。12月には10枚目のスタジオ・アルバム『CRIMSON』を発売し、第29回日本レコード大賞の優秀アルバム賞を獲得した[63][64]。

【公式】中森明菜/飾りじゃないのよ涙は (Live in '87・A HUNDRED days at 東京厚生年金会館, 1987.10.17) AKINA NAKAMORI






1987年、3月に行われた1986年度第1回日本ゴールドディスク大賞でアーティスト・オブ・ザ・イヤーを受賞する[61]。4月、TBS系列ドラマ『ベスト・フレンド』でテレビドラマ初主演を務めた[65][66]。8月発売の11枚目のスタジオ・アルバム『Cross My Palm』では、全曲英語詞の楽曲に取り組む[59][67]。同年末には、日本有線大賞の最多リクエスト歌手賞を1983年以来5年連続で受賞する[68]。さらに、この年発売したシングルの「TANGO NOIR」、「BLONDE」、「難破船」の3曲は、この年のオリコン年間シングルチャートでトップテン入りを果たし、それぞれ年間で2位、7位、6位を記録[54][56]。オリコンの年間アーティスト・トータル・セールスには、歴代最多の4度目(1983年、1985年、1986年、1987年)となる首位を獲得した[69]。

1988年、3月にシングル候補曲として制作されていた楽曲を集めた12枚目のスタジオ・アルバム『Stock』をリリースする[47]。5月には21枚目のシングル「TATTOO」をリリースし、オリコン週間ランキングで1位を獲得、これにより同チャートでの連続1位記録が15曲となった[56]。また、TBS系の音楽番組『ザ・ベストテン』でも1位を獲得し、同番組で1位週数69週を記録、番組史上最多回数となった[70]。加えて、この番組での最多1位獲得曲数も17曲の歴代1位で、「ベストテンの女王」の異名を持っている[70][71]。8月にはジョン・リンド、ピーター・フランプトンら海外アーティストを起用した13枚目のスタジオ・アルバム『Femme Fatale』を発売[72]。12月には、「DESIRE -情熱-」から「I MISSED "THE SHOCK"」までのシングル曲を収録したベスト・アルバム『BEST II』を発売し、売上枚数は80万枚を突破した[73][38]。こうした歌手としての記録や受賞を重ねるだけにとどまらず、アイドルの枠を超えてセルフ・プロデュースを手掛け[74]、衣装や踊りの振り付けもすべて自分で決めていた[75]中森のファッション性への評価も次第に高まり、同世代の女性達からの支持も得た[76][39]。

1989年、4月にシングル曲のみで構成されたデビュー8周年を記念したスペシャル・ライブAKINA INDEX-XXIII The 8th Anniversaryを開催[77]。7月11日、当時交際をしていた近藤真彦[78]が住むマンションにて命を絶とうとしたが助かり[79][80]、芸能活動を約1年間休止する[81]。この間、7月25日には14枚目となるスタジオ・アルバム『CRUISE』をリリースし、このアルバムはオリコンで3週連続1位を記録[38]。中森は、1982年からこの1989年の8年連続で同チャートでアルバム首位を獲得した[38]。11月にはAKINA INDEX-XXIII The 8th Anniversaryのライブ・アルバムとライブビデオとなる『AKINA EAST LIVE INDEX-XXIII』がそれぞれリリースされた[36][77]。このライブビデオは、'89ビデオ・オブ・ザ・イヤーで最優秀ミュージックビデオ賞を獲得する[36]。その後中森は、12月28日に新事務所「コレクション」設立を発表[80]、デビュー以来所属していた芸能プロダクション研音から独立[80]。12月31日には「元気な姿を見せたい」と近藤も同席して記者会見を行った[81][82][83]。

1990年 - 1992年
1990年7月、1年3か月ぶりに24枚目のシングル「Dear Friend」をリリースし、ファンクラブ(Milky HouseからTwo Callへ)を新たに構えることも伝えられた[84][85][86][81]。この楽曲は、オリコン週間シングルランキングの同年7月30日と8月13日付の通算2週で1位を獲得、同社年間チャートで6位を記録した[56][65]。これによって、自身が持つ同社年間チャートの10位内の曲数が通算13曲となり、ソロ歌手として歴代最多記録となった。さらに、次作「水に挿した花」も同年11月19日付の同社チャートで週間1位を記録し、同チャートにおいて通算21曲の1位を獲得、女性アーティストでは歴代6位の記録となっている[56][87]。

デビュー10周年目を迎えた1991年、3月に26枚目のシングル「二人静 -「天河伝説殺人事件」より」をリリース後、7月にスペシャル・ライブ夢 '91 Akina Nakamori Special Liveを開催した[88][89]。この年は、8月放送のフジテレビ系ドラマ『悪女A・B』の他、4本のテレビドラマに主演した[90]。また、同年には新事務所「コンティニュー」に移籍した[82][91]。

1992年、4月より自身初の連続テレビドラマ『素顔のままで』(フジテレビ系、月9)に安田成美と共にダブル主演し、中森はダンサーの卵である月島カンナ役を演じる[65][92][93]。このドラマは最終回で、最高視聴率31.9%を記録した[94]。その後、新たにファンクラブ(QUATRE BAISER)を移すが、再び所属事務所のトラブルにより事務所と共に運営が行き詰まる[82][91][95]。また、音楽制作上の意見の相違によりデビュー以来所属していたワーナーミュージック・ジャパンを離れたが、この移籍トラブルをはじめ、写真週刊誌『FOCUS』で日出郎との密会がスクープされるなどスキャンダル報道も相次ぎ、不遇な時期を過ごす[96][91][82]。こうした中、この夏より新作の制作が行われていたものの、実際に中森のもとに届くことなく翌年まで持ち越される[96][97]。この年は新譜リリース実現に至らなかったが、歌手活動と並行し、7月に公開された映画『走れメロス』で声優として出演するなど女優としても活動した[98][99]。

1993年 - 1999年
1993年、MCAビクター(現在:ユニバーサル ミュージック ジャパン)に所属レコード会社を移籍し、MCAがマネジメントの実質的な業務窓口も担う[100][82]。また、個人事務所NAPCを設け、5月には2年ぶり27枚目となるシングル「Everlasting Love ・ NOT CRAZY TO ME」を発売し、9月には、昨年来制作していた15枚目のスタジオ・アルバム『UNBALANCE+BALANCE』を4年ぶりにリリースした[100][97][101]。このアルバムの楽曲である「愛撫」は有線チャートで最高順位3位を記録し、翌年にはシングルカットされた[102][103][101][104]。

また、1994年3月24日には自身初のカバー・アルバム『歌姫』も発売する[105][106]。同作は批評家から肯定的評価を受け、歌手としての新境地を開拓する[107][108]。その後同作はシリーズ制作される。12月にはPARCO劇場にて、同カバー・アルバムを中心としたスペシャル・ライブツアー歌姫 パルコ劇場ライブを開催した[109]。かねてより大ホールではない小規模でのステージを希望していた中森の意向がこのライブで実現された[110]。

1995年、7月に16枚目のスタジオ・アルバム『la alteración』をリリース[111]。セルフプロデュースで制作を開始して以来、同作は、楽曲制作からボーカル録音直前までの制作作業のほとんどをスタッフに委ねる試みとなった[111]。11月には、ブライアン・セッツァープロデュースによる32枚目のシングル「Tokyo Rose」をAKINA名義でリリースした[1]。

1996年、30歳を機にディナーショー開催の意向をファンに語っていた中森は、5月に自身初となるディナーショー・ツアーを開催する[112]。8月には小室哲哉フル・プロデュースを受けた33枚目のシングル「MOONLIGHT SHADOW-月に吠えろ」をリリース[113]。12月にもディナーショー・ツアーを開催し、この年以降、年末ディナーショーを開催していく。さらにこの時期には、ファンクラブ (Alteracion)の再開も伝えられた[114][115]。

1997年、3月に17枚目のスタジオ・アルバム『SHAKER』を発売し、新たな歌唱法に挑んだというこのアルバムを携え、全国コンサート・ツアーFelicidadを5月より開催した[116][117][118]。このコンサート・ツアーは1988年に行われたFemme Fataleツアー以来9年ぶりであった[119][7]。

1998年、MCAビクターからガウスエンタテインメント(現在:徳間ジャパンコミュニケーションズ)へ所属レコード会社を移籍[120]。1月には日本テレビ系列の連続テレビドラマ『冷たい月』永作博美と共にW主演。2月には同ドラマのテーマソングで移籍第1弾となった35枚目のシングル「帰省 〜Never Forget〜」をリリース[121]。6月には18枚目のスタジオ・アルバム『SPOON』の発売と同作を引っ提げた同名のツアーSPOONを開催した[122][123]。

1999年1月、前年に続き、日本テレビ系列の連続テレビドラマ『ボーダー 犯罪心理捜査ファイル』で主演を務め、同ドラマのテーマを歌った38枚目のシングル「オフェリア」を発売する[65][124]。12月には19枚目のスタジオ・アルバム『will』を発売した[125]。この発売の後、中森はガウスエンタテインメントを離籍した。

2000年 - 2004年
2000年、音楽プロダクション楽工房と契約し、現在:個人事務所FAITH、現在:公式ファンクラブFAITHWAYを発足[126][127][128]。前年に見舞われたトラブルを整理した末、マネジメントを一新。芸能活動の基盤を整える。前年末から虚実ないまぜのゴシップが流れ、所属レコード会社との契約が決定していない状況にあったが、中森は「曲でもコンサートでもいいものを届けたい気持ちが先に立っちゃうんです。それには、スタッフと色々悩みながら作り上げていく過程が大切。そうすれば結果がどうであれ、一緒に作ったという土台は残るでしょ」とコメント[129]。こうして心機一転を図り、5月には2年ぶりに、自身初となるバラードコンサート・ツアー「中森明菜2000 〜21世紀への旅立ち〜」を開催した[7][129]。2000年代には演歌やムード歌謡、フォークソングなどのカバーアルバムを次々と発売し、歌い手としての力量を見せつけた[130]。

デビュー20周年目を迎えた2001年、5月にMusic@nifty内のインディーズレーベル@easeにて、40枚目のシングル「It's brand new day」を音楽配信で先行リリースする[131]。6月からは20周年記念ツアーの第1弾としてALL ABOUT AKINA 20th Anniversary IT'S BRAND NEW DAYを開催した[131]。

2002年、デビュー満20周年となったこの年、契約していた楽工房から現在:所属事務所FAITHにマネジメント業務を移し、現所属レコード会社のユニバーサル ミュージック ジャパンに移籍する[132][7]。同年3月20日、移籍第1弾カバー・アルバム『-ZEROalbum- 歌姫2』を発売[7]。山口百恵の「秋桜」や、松田聖子の「瑠璃色の地球」などをカバーした同作は、4月8日付のオリコン週間アルバムランキングで『la alteración』以来7年ぶりにトップテン入りしヒットした[133][134][135]。以降、複数のカバー・アルバム企画を発表していく。5月には移籍後初の41枚目となるシングル「The Heat 〜musica fiesta〜」と20枚目のスタジオ・アルバム『Resonancia』の発売に、このアルバムを引っ提げた20周年記念ツアーの第2弾として「MUSICA FIESTA TOUR 2002」を開催した[7][136]。その後12月31日に行われた『第53回NHK紅白歌合戦』に出場し、同月に発売したベスト・アルバム『Akina Nakamori〜歌姫ダブル・ディケイド』バージョンの「飾りじゃないのよ涙は」を披露、14年ぶりの紅白出場であった[137][138][139]。

2003年、バラード集となった21枚目となるスタジオ・アルバム『I hope so』を5月にリリース。中森が4曲作詞している[140]。8月2日には、台湾の音楽祭である第14回金曲奨にプレゼンターとして出演、デビュー以来初訪台となった[7][141]。12月にはカバー・アルバム歌姫シリーズの3部作の最後となった『歌姫3 〜終幕』をリリース[142]。この歌姫シリーズは最終的に累計で100万枚を記録したと発表された[143][144]。

2004年、5月にユニバーサル ミュージック ジャパン内の私設レコードレーベル歌姫レコーズを設立し、同レーベルより43枚目のシングル「赤い花」を発売する[7][145]。

2005年 - 2009年
2005年、7月より品川のclub eX(450席)にてスペシャル・ライブツアーAkina Nakamori Special Live 2005 Empress at CLUB eXを開催[7][146]。カバー・アルバム歌姫シリーズである『歌姫』、『-ZEROalbum- 歌姫2』、『歌姫3 〜終幕』の3作を中心に構成され、同シリーズを締め括るライブとなった[146]。

2006年、デビュー25周年目。4月より日本テレビ系列の連続テレビドラマ『プリマダム』に出演[65][147]。自身にとって7年ぶりの連続テレビドラマ出演となる[148]。また、同ドラマのテーマ曲として46枚目のシングル「花よ踊れ」を5月にリリースした[149]。6月には、3年ぶりとなった22枚目のスタジオ・アルバム『DESTINATION』を発売し、同作を携えたツアーAKINA NAKAMORI LIVE TOUR 2006 〜The Last destination〜も開催した[150][151][147]。さらに同月には、パチンコメーカー大一商会から自身をモチーフとしたパチンコ台『CR中森明菜・歌姫伝説』が導入され、ヒット機となる[152][153]。

2007年、デビュー満25周年。1月にカバー・アルバム歌姫シリーズのベスト・アルバム『歌姫ベスト 〜25th Anniversary Selection〜』をリリース[144]。同作は、1月29日付のオリコン週間アルバムランキングで『Akina Nakamori〜歌姫ダブル・ディケイド』以来4年ぶりにトップテン入りする[144]。6月には、自身初となる演歌楽曲をカバーしたアルバム『艶華 -Enka-』をリリースし、こちらも同チャートでトップテン入り、第49回日本レコード大賞で企画賞を受賞した[154][155][156]。12月31日には、初のファンクラブ限定カウントダウン・ディナーショーAKINA NAKAMORI 25th ANNIVERSARY COUNT DOWN DINNER SHOW 2007-2008を開催した[157]。

2008年、MCAビクター、ガウスエンタテインメントに所属していた1990年代に発表した楽曲を総括したベスト・アルバム『歌姫伝説 〜90's BEST〜』を2月にリリースする[158][159]。3月には、2007年度第22回日本ゴールドディスク大賞でザ・ベスト・演歌/歌謡曲・アーティストを受賞した[160]。

2009年、カバー・アルバム『ムード歌謡 〜歌姫昭和名曲集』、『フォーク・ソング2 〜歌姫哀翔歌』、3年ぶり通算23枚目のスタジオ・アルバム『DIVA』と6月から8月にかけて3か月連続でアルバムをリリースする[161]。また、8月より、3年ぶりのスペシャル・ライブツアーAKINA NAKAMORI Special Live 2009 “Empress at Yokohama”を行った[162][161]。このライブは、カバー・アルバムフォーク・ソングシリーズの『フォーク・ソング〜歌姫抒情歌』、『フォーク・ソング2 〜歌姫哀翔歌』の2作を中心に構成され、2005年に行われたEmpressライブに続く第2弾として開催された[161][163]。NHK・SONGS(第102回・第103回)に2009年8月12日、8月19日の2週連続で出演[164]。9月には3年ぶり47枚目となるシングル「DIVA Single Version」を発売した[165]。

2010年 - 2013年・芸能活動休止
2010年、7月13日にパチンコ台の第2弾となる『CR中森明菜・歌姫伝説〜恋も二度目なら〜』(大一商会)の9月導入が発表された[166][167]。加えて、この『CR中森明菜 歌姫伝説〜恋も二度目なら〜』のために書き下ろされた楽曲「Crazy Love」が、48枚目のシングルとして自身初の配信限定でリリースされた[168]。同年10月28日、体調不良により当面芸能活動の無期限休止を発表した[169][170]。この発表直後の2010年12月22日には、フジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』に中森が出演した際の映像をまとめた『中森明菜 IN 夜のヒットスタジオ』が6枚組のDVD-BOXで発売された[169][171]。

2011年12月15日、TBS系列で放送された音楽番組『ザ・ベストテン』の出演映像を収録した5枚組DVD-BOX『ザ・ベストテン 中森明菜 プレミアムBOX』が、デビュー満30周年を記念し翌年に発売されることを発表、2012年3月28日に発売された[172][173]。また、この発表にあたり活動休止中にある中森直筆によるメッセージも公開された[174][172]。

2014年 - 2017年・活動一時再開
2014年、8月6日にワーナーとユニバーサル時代の曲が収録された2種類のオールタイム・ベストアルバム『オールタイム・ベスト -オリジナル-』と『オールタイム・ベスト -歌姫(カヴァー)-』が同時発売される。新曲「SWEET RAIN」はオリジナルに、「恋の奴隷」と「男と女のお話」はカヴァーの方にそれぞれ収録されている。11月15日、NHK『SONGS』第320回で「〜歌姫伝説〜」と題して放送された[175]。12月31日には第65回NHK紅白歌合戦にサプライズゲストとして登場し、accessの浅倉大介が作曲した新曲「Rojo -Tierra-」を披露。4年2か月ぶりに歌手活動を再開した。

2015年、先行配信されていた楽曲「Rojo -Tierra-」を1月21日にDVD付き・通常盤の2形態でリリース[176]。「月華」以来20年4か月ぶりにオリコン週間シングルトップテン入りする[177]。曲名「ロホ・ティエラ」はスペイン語で「赤い大地」という意味。1月28日には、カバーアルバム『歌姫』シリーズの最新作『歌姫4 -My Eggs Benedict-』をリリース[176]。オリコン週間ランキング5位を記録した。第29回日本ゴールドディスク大賞では(ザ・ベスト・演歌/歌謡曲・アーティスト)を受賞。9月30日、シングル「unfixable」(初回限定盤DVD付と通常盤)をユニバーサルから発売。「unfixable」は全編英語詞のシングル。カップリング曲「雨月」は日本語詞。同日、4枚組DVDボックス『中森明菜 PREMIUM BOX LOCUS 〜NHK紅白歌合戦 & レッツゴーヤング etc.』もユニバーサルから発売。デビュー以来、NHKの音楽番組『レッツゴーヤング』『ヤングスタジオ101』に出演した映像や、これまで8回出演したNHK紅白歌合戦の映像が収録されている。12月30日、アルバム『FIXER』(初回限定盤DVD付と通常盤)をユニバーサルから発売。2014年夏から1年かけて制作された6年ぶりのオリジナルアルバム。今年リリースされた4曲のほか新曲「FIXER -WHILE THE WOMEN ARE SLEEPING-」、「kodou」、「Re-birth」など11曲と、ボーナストラック2曲が収録。EDM、ラテン、バラードなど、この30年で培った実績と技の集大成であり、復帰後の自由で新しい創作方向を示す内容になっている。

2016年、2月24日にシングル「FIXER -WHILE THE WOMEN ARE SLEEPING-」をユニバーサルから発売。昨年末リリースされたアルバム『FIXER』に収録されている同名曲のシングルバージョン。この楽曲は2月27日公開の映画『女が眠る時』のイメージソングとして採用されたため、ニューアレンジされての先行リリースとなった。また、カップリング曲「ひらり-SAKURA-」は、アルバム『SHAKER』(1997年)収録の「桜(びやく)」以来、2度目の桜ソングである。宗本康兵が作曲、ポルノグラフィティの新藤晴一が作詞を担当した。5月4日、5月1日のデビュー34周年記念日に合わせて7枚組DVDボックス『1994-2009 THE LIVE DVD COMPLETE BOX』がユニバーサルから発売。1994年から2009年までに行われたライブ映像が収録されている。また、これに先行して4月23日から4月30日まで角川シネマ新宿で上映会も行われた。7月13日、51歳の誕生日に合わせて全世界1,000セット限定 中森明菜アナログセットが歌姫レコーズから発売。Amadana Musicの中森明菜バージョンプレーヤーと、歌姫レコーズ既出のシングル18タイトルをアナログ化したレコードがセットになっている。シリアルナンバーNo.1は中森明菜に贈呈された。11月30日、カバーアルバム『Belie』(初回限定盤DVD付と通常盤)をユニバーサルからリリース。山口百恵「謝肉祭」(1980年)、薬師丸ひろ子「ステキな恋の忘れ方」(1985年)、ポルノグラフィティ「サウダージ」(2000年)、小田和正「たしかなこと」(2005年)などポップス・ロックナンバー10曲が収録。DVDは全曲歌唱映像で構成されている。12月21日、カバーアルバム『Belie + Vampire』(UHQCD+アナログレコード)を発売。11月30日のCD音源を高音質化したものと、アナログ専用に録音したものをセットにして限定生産された。アナログレコードの収録曲はCDとは別で、山本リンダ「どうにもとまらない」(1972年)、Char「気絶するほど悩ましい」(1977年)、アン・ルイス「あゝ無情」(1986年)など6曲が収録されている。また、2016年には7年ぶりにディナーショーを開催。12月4日(ファンクラブ会員限定)を皮切りに、12月29日まで全国7都市10会場にわたって行われた。当初は7日間の予定であったが、ファンの熱望に応えて3日間追加公演された。

2017年、5月1日にデビュー35周年を迎える[178][179]。前年に続きディナーショーを開催。AKINA NAKAMORI DINNERSHOW 2017 CLUB NIGHTと題し[180]、11月13日・11月14日のハイアットリージェンシー大阪を皮切りに、12月24日・12月25日のグランドニッコー東京台場でのクリスマス・ディナーまで全国を回った[178][180]。会場は7都市を追加して全国14都市18会場に増え、前年は公演がなかった九州(福岡・鹿児島)、四国(徳島・高知)、神戸、金沢、宇都宮でも開催[178][180]。2017年はファンクラブ会員限定公演はなく、全会場で一般販売となった[178]。

2018年 - ・活動再休止・新ファンクラブ開設
2年連続でディナーショーを開催した翌2018年以降、芸能活動は再び休止することになる[181][182]。

2021年、5月1日にデビュー40周年を迎え、これを記念してワーナーミュージックから特設サイトが公開された[183]。また、6月9日にアナログBOX『ANNIVERSARY COMPLETE ANALOG SINGLE COLLECTION 1982-1991【30枚組】』を発売する[184]。

2022年4月、NHK BSプレミアムにて1989年までに行われたヒット曲を集めたコンサートを収録し、それを最新技術を使いリマスターリングした「伝説のコンサート〜中森明菜」が放送され、視聴者からの反響の意見も多数寄せられた。これを受け、地上波のNHK総合テレビジョンに於いても同年6月19日に放送されることになったが、同日15時過ぎに能登半島で起きた地震の影響で急遽放送差し替えとなり休止となった(代替7月9日)。また、2009年の横浜BLITZでの邦楽のカバー曲のコンサートを収録した「中森明菜スペシャルライブ〜2009・横浜」も新たにBSプレミアムで7月に放送されることが発表された[185]。

2022年8月に新たに個人事務所(HZ VILLAGE)を設立。同年12月27日、新しいファンクラブ『ALDEAアルデア』を開設し入会手続きを開始した[186]。

2023年11月8日発売の『林哲司50周年記念トリビュートアルバム サウダージ』に中森自身がセルフカバーした新録曲「北ウイング-CLASSIC-」が収録された。発売日に先駆け、同年10月30日にニッポン放送の番組内で初オンエアされ話題となった[187][188]。

2023年12月17日、ニッポン放送で特別番組『中森明菜 オールタイムリクエスト』が放送され、中森は番組に肉声によるメッセージを寄せた[189]。中森がメディア出演するのはおよそ9年ぶりである[190][191][192]。中森のファンと公言するミッツ・マングローブとフリーアナウンサーの垣花正がパーソナリティーを務めた。事前に番組に寄せられたリクエストに加え、4時間10分に亘る生放送中にも電リクを駆使して更にリクエストを募った。                   (Wikipedia)