とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

爪楊枝

2024-04-22 01:41:41 | 創作
     爪 楊 枝

                             瀬本あきら
     爪楊枝職人に新助という人がいた。
     
     この人が作る手作りの楊枝は、鋭くて、また、柔らかくて、そして、何より折

    れなくて、沢山の客がつくほど重宝がられていた。

     しかし、何しろ一本いっぽん作るのだから、たまったものではない。注文が多

    いときには、徹夜することも稀ではなかった。

     材質選びにも至極神経を使っていた。杉。こりゃだめだね。檜。こりゃ臭くて

    いけないね。欅。とんでもない。やっぱり黒文字だね。全国どこでも生えている

    し、香りがこたえられない。春に、山でこの木の黄色の花を見つけると、もう、

    天国だね。秋には黒い実がなる。庭木になんぞしているやつがいるが、どやして

    やりたいね。山のものは、山が一番だ。だから、いつも山登り。この歳になって

    も、若いもんにゃ任せられない。木には素性というものがあって、人間と同じで、

    根性が悪いのがいる。こいつに掴まっちゃおしまいだね。若いもんは、そこのと

    ころが分からない。息子に任せるときは、俺が山で死ぬときじゃ。それまで、息

    子に教えておきたいことがたくさんある・・・・・・。

     新助じいさんが話し出すと、際限がなかった。

     じいさんは、一日中仕事机に向かって、小刀で楊枝づくりをしていた。

     ときどき、若い、と言っても、三十台半ばくらいの女が出入りして、お茶を淹

    れていた。

     新助じいさんは、そのときだけ、ちらとその女を見て、微笑んだ。

     「ああ、ありがと。母さん」

     そして、そういう言葉でお礼を述べた。

    じいさんにとって、その女は、孫でもないし、まして、息子の嫁でもなかった。

    ただ、じいさんは、そう呼ぶことにしていた。そして、ゆっくりとお茶を飲み、

    その女の顔をしばらく見つめて、また、仕事を始めた。深夜になり体が疲れると、

    眼鏡をはずし、手を合わせて、「母さん」、と祈った。手先が小刻みに震えるよ

    うになり、仕事の能率は低下する一方だった。

     
     ある日の朝、木の皮剥ぎをしているときだった。その女が、また、お茶を淹れ

    にやってきた。

     「じいさん、今日限りにしていただきます」

     そう言った。

     すると、じいさんは、持っていた小刀を、ぽとりと落とし、口をもごもごさせ

    たが、言葉にならなかった。顔が次第に青ざめてきた。

     「再婚することになりました」

    女は、そう呟くように言った。

     じいさんは、一層青ざめて、今度は、わなわな震えだした。

     「・・・私は、あなたの母さんじゃありませんから」

     「・・・・・・」
     
     「近所にいて、貴方の仕事ぶりを見ていて、男所帯じゃ大変だろうと、そう思
    
    って、今までやってきました。もう五年になります。最初、突然、母さんと呼ば

    れて、正直びっくりしました。でも、不思議なもので、そのうち本当の母みたい

    な気持ちになりました」

     じいさんは、青ざめた皺だらけの顔で、目だけぎょろつかせ、女の言うことに

    耳を傾けていた。

     「でもね。ときどき、隣の町から来てあげますからね。いい仕事してください

    ね。」そう言うと、女の方も落ち着かなくなってきた。

     「章さんに、一度だけ、結婚してくれ、と言われました。でも、若い男が怖く

    なっていましたから、素っ気無く断りました」

     「章が、そんな・・・・・・」やっとのことで、じいさんがそう言うと、「え

    え、もう強引でしたので・・・・・・」と、女は、最後の言葉を呑み込んだ。

     「じいさんが、もっと若ければ、もしかして・・・・・・」

     そう言って、女は、大声で笑った。そして、立ち上がると、玄関に向かって出

    ていった。

     それきり、女は、長らく姿を見せなくなった。


     ところが、ある日、突然また仕事部屋に現れた。

     「長いあいだ、ありがとうございました。明日が結婚式です」

     両手をついて、丁寧に頭を下げた。

     「あれから、仕事が手につかなくて・・・・・・」

     新助じいさんは、すっかり元気を無くしていた。

     「また、来ますからね。元気出して仕事してくださいね」

     じいさんは、ごそごそと、紙に何かを包みこんでいた。

     「じゃ、失礼します」

     「母さん、ちょっと待ってくれ」

     じいさんは、紙包みを差し出した。
    
     「何ですか」

     「何にも、あげるものがないから、これ、爪楊枝じゃ。旦那にあげてください

    な」

     「これは、じいさんの形見。使いませんよ。自分で大切にしまっておきます」

     そう言って、女は、新助じいさんの体を力を込めて抱きしめた。


     仕事場で、ものを投げつける大きな音がしたので、息子が駆けつけて、覗いて

    みると、部屋中に爪楊枝が飛び散っていた。
  
     その部屋の真中で、新助じいさんが、蹲って泣いていた。

     息子は、どうすることもできなかった。              (了)



桜 

2024-04-20 16:41:10 | 創作
桜                        瀬本あきら

 じいさんの腰は、直角に曲がっている。
 今年で数えの九十歳になる。
 しかし、ばあさんとの二人暮しなので、毎日の山行きが唯一の収入源である。
 その日も水平になった背中に、少々の薪を背負い込んで帰り道を急いでいた。ただ、急
ぐといっても、気持ちだけの早足であった。藜(あかざ)の杖をついている。
 「この薪を、酒屋の伸介じいに売って、魚と野菜を買い込んで、ばあさんに渡さねば・
・・・・・」
 ばあさんの喜ぶ顔が、じいさんの生きがいであった。
 ぐいぐいと背中の荷が、胸と腹を締め付ける。
 「・・・・・・こんなことでへこたれたら、二人とも飢え死にだ」
 じいさんは、地面にへたりこみそうになる自分の体をかろうじて支えていた。
 「○○じい、手伝ってあげようか」
 通りかかった子どもが声をかけた。じいさんは涙がでそうになった。しかし、断った。
 「いい大人になるぞ、坊は」
 きょとんとして子どもは立っていた。
 「いいから、いいから。母さん待ってるぞ。早くお帰り」
 子どもは、その言葉で諦めて、わき道の方へ駆けて行った。
 捨てる神あれば、拾う神ありか。そうじいさんは呟いた。そして、また家路を急いだ。
 後ろから車の音がした。あっという間にじいさんの脇を通り過ぎた。風圧でじいさんは
少しよろめいた。
 捨てる神あれば、拾う神ありか。じいさんはまた呟いた。そして、アスファルトの道の
表面を見つめた。
 「あれ、桜だ」
 本当に、白い花びらのようなものがちらちらと舞っていた。じいさんは、上目遣いで山
を見上げた。
 「まさか、桜の時期はとっくに過ぎている。葉っぱだらけの山だ」
 じいさんは、自分の目を疑った。もうろくしてからに・・・・・・。
 しかし、確かにちらちらと白いものが舞っている。じいさんはそのちらちらに近づいて、
じっと見つめた。
 「なんだ、やっぱりちがう。紙切れだ。しょうもない」
 気がつくと、すたすたとまた歩き出した。
 
 家が近づいてきた。腰には魚の藁苞(わらづと)がぶら下がっていた。
 すると、何故かまた目の前をちらちらと舞い上がるものが見えた。じいさんは、また思
い返した。紙切れだ。紙切れだ。
 「……しかし、待てよ。もうろくしたから、あれは本当の桜だったかもしれん。遅咲き
の」
 もう、じいさんは、どちらとも区別がつかなくなっていた。ただ、ちらちらと、ちらち
らと白い花弁が頭の中を舞っているだけだった。

赤い繭  阿部公房

2024-04-17 18:27:57 | 創作
赤い繭

安部公房


日が暮れかかる。人はねぐらに急ぐ時だが、おれには帰る家がない。おれは家と家との間の狭い割れ目をゆっくり歩きつづける。街じゅうこんなにたくさんの家が並んでいるのに、おれの家が一軒もないのはなぜだろう? …..と、何万遍かの疑問を、また繰り返しながら。

電柱にもたれて小便をすると、そこには時折縄の切れ端なんかが落ちていて、おれは首をくくりたくなった。縄は横目でおれの首をにらみながら、兄弟、休もうよ。全くおれも休みたい。だが休めないんだ。おれは縄の兄弟じゃないし、それにまだなぜおれの家がないのか納得のゆく理由がつかめないんだ。

夜は毎日やってくる。夜がくれば休まなければならない。休むために家がいる。そんならおれの家がないわけがないじゃないか。

ふと思いつく。もしかするとおれは何か重大な思いちがいをしているのかもしれない。家がないのではなく、単に忘れてしまっただけなのかもしれない。そうだ、ありうることだ。例えば…..と、偶然通りかかった一軒の前に足をとめ、これがおれの家かもしれないのではないか。むろん他の家とくらべて、特にそういう可能性をにおわせる特徴があるわけではないが、それはどの家についても同じように言えることだし、またそれはおれの家であることを否定するなんの証拠にもなりえない。勇気をふるって、さあ、ドアを叩こう。

運よく半開きの窓からのぞいた親切そうな女の笑顔。希望の風が心臓の近くに吹き込み、それでおれの心臓は平たくひろがり旗になってひるがえる。おれも笑って紳士のように会釈した。
「ちょっとうかがいたいのですが、ここは私の家ではなかったでしょうか?」
女の顔が急にこわばる。「あら、どなたでしょう?」

おれは説明しようとして、はたと行き詰まる。なんと説明すべきかわからなくなる。おれが誰であるのか、そんなことはこの際問題ではないのだということを、彼女にどうやって納得させたらいいだろう?おれは少しやけ気味になって、
「ともかく、こちらが私の家でないとお考えなら、それを証明していただきたいのです。」
「まあ…..。」と女の顔がおびえる。それがおれの癪にさわる。
「証拠がないなら、私の家だと考えてもいいわけですね。」
「でも、ここは私の家ですわ。」
「それがなんだっていうんです?あなたの家だからって、私に家でないとはかぎらない。そうでしょう。」

返事の代わりに、女の顔が壁に変わって、窓をふさいだ。ああ、これが女の笑顔というやつの正体である。誰かのものであるということが、おれのものではない理由だという、訳の分からぬ論理を正体づけるのが、いつものこの変貌である。

だが、なぜ……なぜすべてのものが誰かのものであり、おれのものではないのだろうか?いや、おれのものではないまでも、せめて誰のものでもないものが一つくらいあってもいいではないか。時たまおれは錯覚した。工事場や材料置き場のヒューム管がおれの家だと。しかしそれらはすでに誰かのものになりつつあるものであり、やがて誰かのものになるために、おれの意志や関心とは無関係にそこから消えてしまった。あるいは、明らかにおれの家ではないものに変形してしまった。

では、公園のベンチはどうだ。むろんけっこう。もしそれが本当におれの家であれば、棍棒をもった彼が来て追いたてさえしなければ….. たしかにここはみんなのものであり、誰のものでもない。だが彼は言う。

「こら、起きろ。ここはみんなのもので、誰のものでもない。ましてやおまえのものであろうはずがない。さあ、とっとと歩くんだ。それが嫌なら法律の門から地下室に来てもらおう。それ以外のところで足をとめれば、それがどこであろうとそれだけでおまえは罪を犯したことになるのだ。」

さまよえるユダヤ人とは、すると、おれのことであったのか?

日が暮れかかる。おれは歩きつづける。

家….. 消えうせもせず、変形もせず、地面に立って動かない家々。その間のどれ一つとして定まった顔をもたぬ変わりつづける割れ目….道。雨の日には刷毛のようにけば立ち、雪の日には車のわだちの幅だけになり、風の日にはベルトのように流れる道。おれは歩きつづける。おれの家がない理由が吞み込めないので、首もつれない。

おや、誰だ、おれの足にまつわりつくのは?首つりの縄なら、そうあわてるなよ、そうせかすなよ、いや、そうじゃない。これはねばりけのある絹糸だ。つまんで、引っ張ると、その端は靴の割れ目の中にあって、いくらでもずるずるのびてくる。こいつは妙だ。と好奇心にかられてたぐりつづけると、更に妙なことが起こった。しだいに体が傾き、地面と直角に体を支えていられなくなった。地軸が傾き、引力の方向が変わったのであろうか?

コトンと靴が、足から離れて地面に落ち、おれは事態を理解した。地軸がゆがんだのではなく、おれの片足が短くなっているのだった。糸をたぐるにつれて、おれの足がどんどん短くなっていった。すり切れたジャケツの肘がほころびるように、おれの足がほぐれているのだった。その糸は、糸瓜のせんいのように分解したおれの足であったのだ。

もうこれ以上、一歩も歩けない。途方にくれて立ちつくすと、同じく途方にくれた手の中で、絹糸に変形した足が独りでに動きはじめていた。するすると這い出し、それから先は全くおれの手をかりずに、自分でほぐれて蛇のように身に巻きつきはじめた。左足が全部ほぐれてしまうと、糸は自然に右足に移った。糸はやがておれの全身を袋のように包み込んだが、それでもほぐれるのをやめず、胴から胸へ、胸から肩へと次々にほどけ、ほどけては袋を内側から固めた。そして、ついにおれは消滅した。

後に大きな空っぽの繭が残った。

ああ、これでやっと休めるのだ。夕陽が赤々と繭を染めていた。これだけは確実に誰からも妨げられないおれの家だ。だが、家が出来ても、今度は帰ってゆくおれがいない。

繭の中で時がとだえた。外は暗くなったが、繭の中はいつまでも夕暮れで、内側から照らす夕焼けの色に赤く光っていた。この目立つ特徴が、彼の眼にとまらぬはずがなかった。彼は繭になったおれを、汽車の踏切とレールの間で見つけた。最初腹をたてたが、すぐに珍しい拾いものをしたと思いなおして、ポケットに入れた。しばらくその中をごろごろした後で、彼の息子の玩具箱に移された。
(http://language-assistant.org/cgi-bin/reading.cgi「LA READINGS」より転載。)

あちこち「SYOWA」(番外)【公式】中森明菜/I MISSED "THE SHOCK" Live atよみうりランドEAST, 1989.4.29 & 30)

2024-04-16 17:38:40 | 日記
明菜日本公演実現。見に行きたい。明菜は神のような存在。私はそう信じています。どこまでもついて行きたい。そんな感じですね。ステージパフォーマンス、声、曲調、ルックス。最高ですね。永遠の神です。・・・・・消されないことを祈っています。消されないうちにしっかり視聴してください。

㉒【公式】中森明菜/I MISSED "THE SHOCK" (イースト・ライヴ インデックス23 Live atよみうりランドEAST, 1989.4.29 & 30) AKINA NAKAMORI


来歴
1965年 - 1981年(デビュー前)
1965年(昭和40年)7月13日(火曜日)、東京都大田区に、6人兄弟・姉妹(2男4女)の5番目、兄二人と姉二人と妹を持つ三女として生まれる[4]。6人兄弟姉妹たちは、父の名前にちなんで全員が「明」の付く名前であり、中森自身も同様の命名を受けた[14]。「明るくにぎやかな家庭であってほしい」という母の願いからであった[15][注 1]。なお、妹の中森明穂(四女で末子、2019年5月27日死去[17][18])も後に芸能界入りしたが、短期間で引退している。

父親は精肉店を営んでいた[19]。

出生後、東京都清瀬市に移り住み幼少期を過ごす[4]。4歳から14歳までの10年間、練馬区のバレエ教室「横山昭子モダンバレエスタジオ」に通っていた[20][21]。中森を教えていたバレエ教師は「14歳まで休むことなく通い続け、本当に真面目な子だった。フラメンコやタンゴのリズムに乗ると生きいきと踊り、将来はダンサーになるのではないかと思っていた。また、幼い頃から衣装にとてもこだわりを持っていた」と語っている[21]。

美空ひばりが好きだった母は、若い頃は歌手志望で「ひばりちゃんのような歌手になりたい」と言い[21][22]、中森が幼い頃から美空ひばりの歌を聞かせ、歌い方の手ほどきをしていた[23]。やがて中森は母の影響で歌手の夢を抱くようになり[23][24]、日本テレビ系のオーディション番組『スター誕生!』に幾度となく挑戦する[24]。

1981年、『スター誕生!』本選3度目の挑戦となった8月2日の放送(7月11日収録)で、中森は山口百恵の「夢先案内人」を歌い、同番組の史上最高得点となる392点で合格する[25][26]。合格後、スカウトを受ける場となる決戦大会までのおよそ1か月間、日本テレビ音楽学院でボーカルとダンスレッスンを受ける[27]。11月29日放送(11月11日収録)の決戦大会前の事前審査にあたる下見会を経て、12月6日放送(11月18日収録)の決戦大会で再び「夢先案内人」を歌唱[27]。合計11社のレコード会社や芸能プロダクションから獲得の意向を示すプラカードが上がった[26][27]。これを機に中森は、研音所属とワーナー・パイオニアとのレコード契約を決める[28]。その後、1982年2月に行われる初レコーディングに向け、自身での発声練習に加えて、ボーカル・トレーナーの大本恭敬のもと、週に1度、2度ほどレッスンを積んだ[28]。

1982年 - 1984年
1982年、5月1日にシングル「スローモーション」でデビュー[7][29]。当初は「森アスナ」という芸名でのデビューも検討されていたが、中森本人が本名でのデビューを希望して芸名を拒否した[30][31]。1980年代のアイドルにはキャッチフレーズが付けられ、中森のキャッチフレーズは「ちょっとエッチな美新人娘ミルキーっこ」であった[32]。

デビュー前に中森が歌ったデモテープには、岩崎宏美「ロマンス」、高田みづえ「硝子坂」、山口百恵「ひと夏の経験」「いい日旅立ち」の4曲が収められていた[33]。来生たかおがこれを聴き、来生たかお作曲・来生えつこ作詞のコンビによる「スローモーション」「あなたのポートレート」「咲きほこる花に…」の3曲が完成[33]。デビュー曲の候補として「スローモーション」「あなたのポートレート」「Tシャツ・サンセット」「銀河伝説」の4曲が挙げられた中、「スローモーション」が選ばれた[33]。この曲は中森も気に入っていたという[34]。

実はそれ以外に、デビュー曲として用意されていたが結局使われなかった「幻のデビュー曲」が存在した[30][33]。加藤和彦作曲・安井かずみ作詞のコンビで、演奏は高橋幸宏と細野晴臣であったが、曲調が虚無的で退廃的すぎるということでお蔵入りとなり、音源は残されていない[30]。

同年7月、ファースト・アルバム『プロローグ〈序幕〉』を発売[35]。同作はオリコン週間アルバムランキングの10月4日付で最高位5位を記録[36]。続く第2弾シングル「少女A」が、オリコン週間シングルランキングの10月18日付で最高位5位を記録し、同曲でブレイクする[36][37]。10月には、2枚目のスタジオ・アルバム『バリエーション〈変奏曲〉』を発売し、11月8日付の同社チャートで初の週間1位を獲得、74万枚を超えるセールスを記録する[35][36][38]。続いて11月に発売した3枚目のシングル「セカンド・ラブ」は、11月29日付の同チャートで初の週間1位を獲得し、1983年の同社年間シングルチャートで8位を記録、約77万枚を売り上げる[29][9]。中森はデビュー初期の段階より、衣装・メイク・振り付けに自身がかかわり、楽曲制作においても積極的に意見を取り入れていく[39]。

1983年、2月より自身初の全国コンサート・ツアーAkina Milkyway '83 春の風を感じてを開催[40]。3月と8月には、『ファンタジー〈幻想曲〉』、『NEW AKINA エトランゼ』と通算3作目、4作目のスタジオ・アルバムを発売する[35][41][42]。『NEW AKINA エトランゼ』は第25回日本レコード大賞の'83アルバムベスト10を獲得した[43]。12月には初のベスト・アルバム『BEST AKINA メモワール』を発売し、オリコンで5週連続首位を獲得した[35][44][38]。歌手としての人気を着実に獲得するとともに、1983年のブロマイド売上実績の女性部門で中森は首位にもなった[45]。

1984年、5月にデビュー3周年目を記念した5枚目のスタジオ・アルバム『ANNIVERSARY』を発売する[46][47]。同アルバムに収録され、中森の提案によりタイトル名が決定された通算7枚目のシングル「北ウイング」は、1984年のオリコン年間チャートで9位を記録した[47][48]。10月にも6枚目となるスタジオ・アルバム『POSSIBILITY』を発売し、このアルバムからのシングルの「サザン・ウインド」と「十戒 (1984)」も、この年の同社年間チャートでトップテン入りし、それぞれ年間で10位と6位を記録した[47]。11月には井上陽水から楽曲提供を受けた10枚目のシングル「飾りじゃないのよ涙は」をリリース[39][29]。アイドルからシンガー、ミュージシャンへの転機となったこの楽曲は、1985年の同社年間チャートで6位を記録した[39][49]。

1985年 - 1989年
1985年、1月公開の映画『愛・旅立ち』で近藤真彦と共に主演を務める[9][50]。3月、11枚目のシングル「ミ・アモーレ〔Meu amor é・・・〕」を発売[29]。この楽曲は、同年末に行われた第27回日本レコード大賞にて日本レコード大賞を受賞し、この年のオリコン年間チャートで2位を記録した[51]。4月には7枚目のスタジオ・アルバム『BITTER AND SWEET』を発売する[35][52]。6月発売の12枚目のシングル「SAND BEIGE -砂漠へ-」では、新人の作家によるデビュー作を起用するなど[53][54]、作家のジャンルや有名無名にとらわれない楽曲提供を受ける。この楽曲は同年の同社年間チャートで7位を獲得した[48]。8月には『D404ME』が8枚目のスタジオ・アルバムとしてリリース[35][55]。同作は第27回日本レコード大賞の優秀アルバム賞を獲得した[51]。

1986年、2月に14枚目のシングル「DESIRE -情熱-」をリリース[54]。この楽曲は1986年のオリコン年間チャートで2位を記録し、第28回日本レコード大賞で前年に続き日本レコード大賞を受賞した[56][57]。これにより中森は、女性ソロ歌手として史上初の2年連続となる日本レコード大賞受賞を果たした[58]。4月にはデビュー曲「スローモーション」から「SOLITUDE」までのシングル曲を収めたベスト・アルバム『BEST』をリリース[59][60]。このアルバムは、第1回日本ゴールドディスク大賞のThe Grand Prix Album of the Yearを受賞した[61]。5月に発売した15枚目のシングル「ジプシー・クイーン」は同年の同社年間チャートで7位を記録[54][56]。8月に発売した9枚目となるスタジオ・アルバム『不思議』では、アルバムのプロデュースを自身で担当する[59][62]。以降、楽曲やアルバムのセルフプロデュース作品を発表し、アーティスト性を発揮していく。12月には10枚目のスタジオ・アルバム『CRIMSON』を発売し、第29回日本レコード大賞の優秀アルバム賞を獲得した[63][64]。

【公式】中森明菜/飾りじゃないのよ涙は (Live in '87・A HUNDRED days at 東京厚生年金会館, 1987.10.17) AKINA NAKAMORI






1987年、3月に行われた1986年度第1回日本ゴールドディスク大賞でアーティスト・オブ・ザ・イヤーを受賞する[61]。4月、TBS系列ドラマ『ベスト・フレンド』でテレビドラマ初主演を務めた[65][66]。8月発売の11枚目のスタジオ・アルバム『Cross My Palm』では、全曲英語詞の楽曲に取り組む[59][67]。同年末には、日本有線大賞の最多リクエスト歌手賞を1983年以来5年連続で受賞する[68]。さらに、この年発売したシングルの「TANGO NOIR」、「BLONDE」、「難破船」の3曲は、この年のオリコン年間シングルチャートでトップテン入りを果たし、それぞれ年間で2位、7位、6位を記録[54][56]。オリコンの年間アーティスト・トータル・セールスには、歴代最多の4度目(1983年、1985年、1986年、1987年)となる首位を獲得した[69]。

1988年、3月にシングル候補曲として制作されていた楽曲を集めた12枚目のスタジオ・アルバム『Stock』をリリースする[47]。5月には21枚目のシングル「TATTOO」をリリースし、オリコン週間ランキングで1位を獲得、これにより同チャートでの連続1位記録が15曲となった[56]。また、TBS系の音楽番組『ザ・ベストテン』でも1位を獲得し、同番組で1位週数69週を記録、番組史上最多回数となった[70]。加えて、この番組での最多1位獲得曲数も17曲の歴代1位で、「ベストテンの女王」の異名を持っている[70][71]。8月にはジョン・リンド、ピーター・フランプトンら海外アーティストを起用した13枚目のスタジオ・アルバム『Femme Fatale』を発売[72]。12月には、「DESIRE -情熱-」から「I MISSED "THE SHOCK"」までのシングル曲を収録したベスト・アルバム『BEST II』を発売し、売上枚数は80万枚を突破した[73][38]。こうした歌手としての記録や受賞を重ねるだけにとどまらず、アイドルの枠を超えてセルフ・プロデュースを手掛け[74]、衣装や踊りの振り付けもすべて自分で決めていた[75]中森のファッション性への評価も次第に高まり、同世代の女性達からの支持も得た[76][39]。

1989年、4月にシングル曲のみで構成されたデビュー8周年を記念したスペシャル・ライブAKINA INDEX-XXIII The 8th Anniversaryを開催[77]。7月11日、当時交際をしていた近藤真彦[78]が住むマンションにて命を絶とうとしたが助かり[79][80]、芸能活動を約1年間休止する[81]。この間、7月25日には14枚目となるスタジオ・アルバム『CRUISE』をリリースし、このアルバムはオリコンで3週連続1位を記録[38]。中森は、1982年からこの1989年の8年連続で同チャートでアルバム首位を獲得した[38]。11月にはAKINA INDEX-XXIII The 8th Anniversaryのライブ・アルバムとライブビデオとなる『AKINA EAST LIVE INDEX-XXIII』がそれぞれリリースされた[36][77]。このライブビデオは、'89ビデオ・オブ・ザ・イヤーで最優秀ミュージックビデオ賞を獲得する[36]。その後中森は、12月28日に新事務所「コレクション」設立を発表[80]、デビュー以来所属していた芸能プロダクション研音から独立[80]。12月31日には「元気な姿を見せたい」と近藤も同席して記者会見を行った[81][82][83]。

1990年 - 1992年
1990年7月、1年3か月ぶりに24枚目のシングル「Dear Friend」をリリースし、ファンクラブ(Milky HouseからTwo Callへ)を新たに構えることも伝えられた[84][85][86][81]。この楽曲は、オリコン週間シングルランキングの同年7月30日と8月13日付の通算2週で1位を獲得、同社年間チャートで6位を記録した[56][65]。これによって、自身が持つ同社年間チャートの10位内の曲数が通算13曲となり、ソロ歌手として歴代最多記録となった。さらに、次作「水に挿した花」も同年11月19日付の同社チャートで週間1位を記録し、同チャートにおいて通算21曲の1位を獲得、女性アーティストでは歴代6位の記録となっている[56][87]。

デビュー10周年目を迎えた1991年、3月に26枚目のシングル「二人静 -「天河伝説殺人事件」より」をリリース後、7月にスペシャル・ライブ夢 '91 Akina Nakamori Special Liveを開催した[88][89]。この年は、8月放送のフジテレビ系ドラマ『悪女A・B』の他、4本のテレビドラマに主演した[90]。また、同年には新事務所「コンティニュー」に移籍した[82][91]。

1992年、4月より自身初の連続テレビドラマ『素顔のままで』(フジテレビ系、月9)に安田成美と共にダブル主演し、中森はダンサーの卵である月島カンナ役を演じる[65][92][93]。このドラマは最終回で、最高視聴率31.9%を記録した[94]。その後、新たにファンクラブ(QUATRE BAISER)を移すが、再び所属事務所のトラブルにより事務所と共に運営が行き詰まる[82][91][95]。また、音楽制作上の意見の相違によりデビュー以来所属していたワーナーミュージック・ジャパンを離れたが、この移籍トラブルをはじめ、写真週刊誌『FOCUS』で日出郎との密会がスクープされるなどスキャンダル報道も相次ぎ、不遇な時期を過ごす[96][91][82]。こうした中、この夏より新作の制作が行われていたものの、実際に中森のもとに届くことなく翌年まで持ち越される[96][97]。この年は新譜リリース実現に至らなかったが、歌手活動と並行し、7月に公開された映画『走れメロス』で声優として出演するなど女優としても活動した[98][99]。

1993年 - 1999年
1993年、MCAビクター(現在:ユニバーサル ミュージック ジャパン)に所属レコード会社を移籍し、MCAがマネジメントの実質的な業務窓口も担う[100][82]。また、個人事務所NAPCを設け、5月には2年ぶり27枚目となるシングル「Everlasting Love ・ NOT CRAZY TO ME」を発売し、9月には、昨年来制作していた15枚目のスタジオ・アルバム『UNBALANCE+BALANCE』を4年ぶりにリリースした[100][97][101]。このアルバムの楽曲である「愛撫」は有線チャートで最高順位3位を記録し、翌年にはシングルカットされた[102][103][101][104]。

また、1994年3月24日には自身初のカバー・アルバム『歌姫』も発売する[105][106]。同作は批評家から肯定的評価を受け、歌手としての新境地を開拓する[107][108]。その後同作はシリーズ制作される。12月にはPARCO劇場にて、同カバー・アルバムを中心としたスペシャル・ライブツアー歌姫 パルコ劇場ライブを開催した[109]。かねてより大ホールではない小規模でのステージを希望していた中森の意向がこのライブで実現された[110]。

1995年、7月に16枚目のスタジオ・アルバム『la alteración』をリリース[111]。セルフプロデュースで制作を開始して以来、同作は、楽曲制作からボーカル録音直前までの制作作業のほとんどをスタッフに委ねる試みとなった[111]。11月には、ブライアン・セッツァープロデュースによる32枚目のシングル「Tokyo Rose」をAKINA名義でリリースした[1]。

1996年、30歳を機にディナーショー開催の意向をファンに語っていた中森は、5月に自身初となるディナーショー・ツアーを開催する[112]。8月には小室哲哉フル・プロデュースを受けた33枚目のシングル「MOONLIGHT SHADOW-月に吠えろ」をリリース[113]。12月にもディナーショー・ツアーを開催し、この年以降、年末ディナーショーを開催していく。さらにこの時期には、ファンクラブ (Alteracion)の再開も伝えられた[114][115]。

1997年、3月に17枚目のスタジオ・アルバム『SHAKER』を発売し、新たな歌唱法に挑んだというこのアルバムを携え、全国コンサート・ツアーFelicidadを5月より開催した[116][117][118]。このコンサート・ツアーは1988年に行われたFemme Fataleツアー以来9年ぶりであった[119][7]。

1998年、MCAビクターからガウスエンタテインメント(現在:徳間ジャパンコミュニケーションズ)へ所属レコード会社を移籍[120]。1月には日本テレビ系列の連続テレビドラマ『冷たい月』永作博美と共にW主演。2月には同ドラマのテーマソングで移籍第1弾となった35枚目のシングル「帰省 〜Never Forget〜」をリリース[121]。6月には18枚目のスタジオ・アルバム『SPOON』の発売と同作を引っ提げた同名のツアーSPOONを開催した[122][123]。

1999年1月、前年に続き、日本テレビ系列の連続テレビドラマ『ボーダー 犯罪心理捜査ファイル』で主演を務め、同ドラマのテーマを歌った38枚目のシングル「オフェリア」を発売する[65][124]。12月には19枚目のスタジオ・アルバム『will』を発売した[125]。この発売の後、中森はガウスエンタテインメントを離籍した。

2000年 - 2004年
2000年、音楽プロダクション楽工房と契約し、現在:個人事務所FAITH、現在:公式ファンクラブFAITHWAYを発足[126][127][128]。前年に見舞われたトラブルを整理した末、マネジメントを一新。芸能活動の基盤を整える。前年末から虚実ないまぜのゴシップが流れ、所属レコード会社との契約が決定していない状況にあったが、中森は「曲でもコンサートでもいいものを届けたい気持ちが先に立っちゃうんです。それには、スタッフと色々悩みながら作り上げていく過程が大切。そうすれば結果がどうであれ、一緒に作ったという土台は残るでしょ」とコメント[129]。こうして心機一転を図り、5月には2年ぶりに、自身初となるバラードコンサート・ツアー「中森明菜2000 〜21世紀への旅立ち〜」を開催した[7][129]。2000年代には演歌やムード歌謡、フォークソングなどのカバーアルバムを次々と発売し、歌い手としての力量を見せつけた[130]。

デビュー20周年目を迎えた2001年、5月にMusic@nifty内のインディーズレーベル@easeにて、40枚目のシングル「It's brand new day」を音楽配信で先行リリースする[131]。6月からは20周年記念ツアーの第1弾としてALL ABOUT AKINA 20th Anniversary IT'S BRAND NEW DAYを開催した[131]。

2002年、デビュー満20周年となったこの年、契約していた楽工房から現在:所属事務所FAITHにマネジメント業務を移し、現所属レコード会社のユニバーサル ミュージック ジャパンに移籍する[132][7]。同年3月20日、移籍第1弾カバー・アルバム『-ZEROalbum- 歌姫2』を発売[7]。山口百恵の「秋桜」や、松田聖子の「瑠璃色の地球」などをカバーした同作は、4月8日付のオリコン週間アルバムランキングで『la alteración』以来7年ぶりにトップテン入りしヒットした[133][134][135]。以降、複数のカバー・アルバム企画を発表していく。5月には移籍後初の41枚目となるシングル「The Heat 〜musica fiesta〜」と20枚目のスタジオ・アルバム『Resonancia』の発売に、このアルバムを引っ提げた20周年記念ツアーの第2弾として「MUSICA FIESTA TOUR 2002」を開催した[7][136]。その後12月31日に行われた『第53回NHK紅白歌合戦』に出場し、同月に発売したベスト・アルバム『Akina Nakamori〜歌姫ダブル・ディケイド』バージョンの「飾りじゃないのよ涙は」を披露、14年ぶりの紅白出場であった[137][138][139]。

2003年、バラード集となった21枚目となるスタジオ・アルバム『I hope so』を5月にリリース。中森が4曲作詞している[140]。8月2日には、台湾の音楽祭である第14回金曲奨にプレゼンターとして出演、デビュー以来初訪台となった[7][141]。12月にはカバー・アルバム歌姫シリーズの3部作の最後となった『歌姫3 〜終幕』をリリース[142]。この歌姫シリーズは最終的に累計で100万枚を記録したと発表された[143][144]。

2004年、5月にユニバーサル ミュージック ジャパン内の私設レコードレーベル歌姫レコーズを設立し、同レーベルより43枚目のシングル「赤い花」を発売する[7][145]。

2005年 - 2009年
2005年、7月より品川のclub eX(450席)にてスペシャル・ライブツアーAkina Nakamori Special Live 2005 Empress at CLUB eXを開催[7][146]。カバー・アルバム歌姫シリーズである『歌姫』、『-ZEROalbum- 歌姫2』、『歌姫3 〜終幕』の3作を中心に構成され、同シリーズを締め括るライブとなった[146]。

2006年、デビュー25周年目。4月より日本テレビ系列の連続テレビドラマ『プリマダム』に出演[65][147]。自身にとって7年ぶりの連続テレビドラマ出演となる[148]。また、同ドラマのテーマ曲として46枚目のシングル「花よ踊れ」を5月にリリースした[149]。6月には、3年ぶりとなった22枚目のスタジオ・アルバム『DESTINATION』を発売し、同作を携えたツアーAKINA NAKAMORI LIVE TOUR 2006 〜The Last destination〜も開催した[150][151][147]。さらに同月には、パチンコメーカー大一商会から自身をモチーフとしたパチンコ台『CR中森明菜・歌姫伝説』が導入され、ヒット機となる[152][153]。

2007年、デビュー満25周年。1月にカバー・アルバム歌姫シリーズのベスト・アルバム『歌姫ベスト 〜25th Anniversary Selection〜』をリリース[144]。同作は、1月29日付のオリコン週間アルバムランキングで『Akina Nakamori〜歌姫ダブル・ディケイド』以来4年ぶりにトップテン入りする[144]。6月には、自身初となる演歌楽曲をカバーしたアルバム『艶華 -Enka-』をリリースし、こちらも同チャートでトップテン入り、第49回日本レコード大賞で企画賞を受賞した[154][155][156]。12月31日には、初のファンクラブ限定カウントダウン・ディナーショーAKINA NAKAMORI 25th ANNIVERSARY COUNT DOWN DINNER SHOW 2007-2008を開催した[157]。

2008年、MCAビクター、ガウスエンタテインメントに所属していた1990年代に発表した楽曲を総括したベスト・アルバム『歌姫伝説 〜90's BEST〜』を2月にリリースする[158][159]。3月には、2007年度第22回日本ゴールドディスク大賞でザ・ベスト・演歌/歌謡曲・アーティストを受賞した[160]。

2009年、カバー・アルバム『ムード歌謡 〜歌姫昭和名曲集』、『フォーク・ソング2 〜歌姫哀翔歌』、3年ぶり通算23枚目のスタジオ・アルバム『DIVA』と6月から8月にかけて3か月連続でアルバムをリリースする[161]。また、8月より、3年ぶりのスペシャル・ライブツアーAKINA NAKAMORI Special Live 2009 “Empress at Yokohama”を行った[162][161]。このライブは、カバー・アルバムフォーク・ソングシリーズの『フォーク・ソング〜歌姫抒情歌』、『フォーク・ソング2 〜歌姫哀翔歌』の2作を中心に構成され、2005年に行われたEmpressライブに続く第2弾として開催された[161][163]。NHK・SONGS(第102回・第103回)に2009年8月12日、8月19日の2週連続で出演[164]。9月には3年ぶり47枚目となるシングル「DIVA Single Version」を発売した[165]。

2010年 - 2013年・芸能活動休止
2010年、7月13日にパチンコ台の第2弾となる『CR中森明菜・歌姫伝説〜恋も二度目なら〜』(大一商会)の9月導入が発表された[166][167]。加えて、この『CR中森明菜 歌姫伝説〜恋も二度目なら〜』のために書き下ろされた楽曲「Crazy Love」が、48枚目のシングルとして自身初の配信限定でリリースされた[168]。同年10月28日、体調不良により当面芸能活動の無期限休止を発表した[169][170]。この発表直後の2010年12月22日には、フジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』に中森が出演した際の映像をまとめた『中森明菜 IN 夜のヒットスタジオ』が6枚組のDVD-BOXで発売された[169][171]。

2011年12月15日、TBS系列で放送された音楽番組『ザ・ベストテン』の出演映像を収録した5枚組DVD-BOX『ザ・ベストテン 中森明菜 プレミアムBOX』が、デビュー満30周年を記念し翌年に発売されることを発表、2012年3月28日に発売された[172][173]。また、この発表にあたり活動休止中にある中森直筆によるメッセージも公開された[174][172]。

2014年 - 2017年・活動一時再開
2014年、8月6日にワーナーとユニバーサル時代の曲が収録された2種類のオールタイム・ベストアルバム『オールタイム・ベスト -オリジナル-』と『オールタイム・ベスト -歌姫(カヴァー)-』が同時発売される。新曲「SWEET RAIN」はオリジナルに、「恋の奴隷」と「男と女のお話」はカヴァーの方にそれぞれ収録されている。11月15日、NHK『SONGS』第320回で「〜歌姫伝説〜」と題して放送された[175]。12月31日には第65回NHK紅白歌合戦にサプライズゲストとして登場し、accessの浅倉大介が作曲した新曲「Rojo -Tierra-」を披露。4年2か月ぶりに歌手活動を再開した。

2015年、先行配信されていた楽曲「Rojo -Tierra-」を1月21日にDVD付き・通常盤の2形態でリリース[176]。「月華」以来20年4か月ぶりにオリコン週間シングルトップテン入りする[177]。曲名「ロホ・ティエラ」はスペイン語で「赤い大地」という意味。1月28日には、カバーアルバム『歌姫』シリーズの最新作『歌姫4 -My Eggs Benedict-』をリリース[176]。オリコン週間ランキング5位を記録した。第29回日本ゴールドディスク大賞では(ザ・ベスト・演歌/歌謡曲・アーティスト)を受賞。9月30日、シングル「unfixable」(初回限定盤DVD付と通常盤)をユニバーサルから発売。「unfixable」は全編英語詞のシングル。カップリング曲「雨月」は日本語詞。同日、4枚組DVDボックス『中森明菜 PREMIUM BOX LOCUS 〜NHK紅白歌合戦 & レッツゴーヤング etc.』もユニバーサルから発売。デビュー以来、NHKの音楽番組『レッツゴーヤング』『ヤングスタジオ101』に出演した映像や、これまで8回出演したNHK紅白歌合戦の映像が収録されている。12月30日、アルバム『FIXER』(初回限定盤DVD付と通常盤)をユニバーサルから発売。2014年夏から1年かけて制作された6年ぶりのオリジナルアルバム。今年リリースされた4曲のほか新曲「FIXER -WHILE THE WOMEN ARE SLEEPING-」、「kodou」、「Re-birth」など11曲と、ボーナストラック2曲が収録。EDM、ラテン、バラードなど、この30年で培った実績と技の集大成であり、復帰後の自由で新しい創作方向を示す内容になっている。

2016年、2月24日にシングル「FIXER -WHILE THE WOMEN ARE SLEEPING-」をユニバーサルから発売。昨年末リリースされたアルバム『FIXER』に収録されている同名曲のシングルバージョン。この楽曲は2月27日公開の映画『女が眠る時』のイメージソングとして採用されたため、ニューアレンジされての先行リリースとなった。また、カップリング曲「ひらり-SAKURA-」は、アルバム『SHAKER』(1997年)収録の「桜(びやく)」以来、2度目の桜ソングである。宗本康兵が作曲、ポルノグラフィティの新藤晴一が作詞を担当した。5月4日、5月1日のデビュー34周年記念日に合わせて7枚組DVDボックス『1994-2009 THE LIVE DVD COMPLETE BOX』がユニバーサルから発売。1994年から2009年までに行われたライブ映像が収録されている。また、これに先行して4月23日から4月30日まで角川シネマ新宿で上映会も行われた。7月13日、51歳の誕生日に合わせて全世界1,000セット限定 中森明菜アナログセットが歌姫レコーズから発売。Amadana Musicの中森明菜バージョンプレーヤーと、歌姫レコーズ既出のシングル18タイトルをアナログ化したレコードがセットになっている。シリアルナンバーNo.1は中森明菜に贈呈された。11月30日、カバーアルバム『Belie』(初回限定盤DVD付と通常盤)をユニバーサルからリリース。山口百恵「謝肉祭」(1980年)、薬師丸ひろ子「ステキな恋の忘れ方」(1985年)、ポルノグラフィティ「サウダージ」(2000年)、小田和正「たしかなこと」(2005年)などポップス・ロックナンバー10曲が収録。DVDは全曲歌唱映像で構成されている。12月21日、カバーアルバム『Belie + Vampire』(UHQCD+アナログレコード)を発売。11月30日のCD音源を高音質化したものと、アナログ専用に録音したものをセットにして限定生産された。アナログレコードの収録曲はCDとは別で、山本リンダ「どうにもとまらない」(1972年)、Char「気絶するほど悩ましい」(1977年)、アン・ルイス「あゝ無情」(1986年)など6曲が収録されている。また、2016年には7年ぶりにディナーショーを開催。12月4日(ファンクラブ会員限定)を皮切りに、12月29日まで全国7都市10会場にわたって行われた。当初は7日間の予定であったが、ファンの熱望に応えて3日間追加公演された。

2017年、5月1日にデビュー35周年を迎える[178][179]。前年に続きディナーショーを開催。AKINA NAKAMORI DINNERSHOW 2017 CLUB NIGHTと題し[180]、11月13日・11月14日のハイアットリージェンシー大阪を皮切りに、12月24日・12月25日のグランドニッコー東京台場でのクリスマス・ディナーまで全国を回った[178][180]。会場は7都市を追加して全国14都市18会場に増え、前年は公演がなかった九州(福岡・鹿児島)、四国(徳島・高知)、神戸、金沢、宇都宮でも開催[178][180]。2017年はファンクラブ会員限定公演はなく、全会場で一般販売となった[178]。

2018年 - ・活動再休止・新ファンクラブ開設
2年連続でディナーショーを開催した翌2018年以降、芸能活動は再び休止することになる[181][182]。

2021年、5月1日にデビュー40周年を迎え、これを記念してワーナーミュージックから特設サイトが公開された[183]。また、6月9日にアナログBOX『ANNIVERSARY COMPLETE ANALOG SINGLE COLLECTION 1982-1991【30枚組】』を発売する[184]。

2022年4月、NHK BSプレミアムにて1989年までに行われたヒット曲を集めたコンサートを収録し、それを最新技術を使いリマスターリングした「伝説のコンサート〜中森明菜」が放送され、視聴者からの反響の意見も多数寄せられた。これを受け、地上波のNHK総合テレビジョンに於いても同年6月19日に放送されることになったが、同日15時過ぎに能登半島で起きた地震の影響で急遽放送差し替えとなり休止となった(代替7月9日)。また、2009年の横浜BLITZでの邦楽のカバー曲のコンサートを収録した「中森明菜スペシャルライブ〜2009・横浜」も新たにBSプレミアムで7月に放送されることが発表された[185]。

2022年8月に新たに個人事務所(HZ VILLAGE)を設立。同年12月27日、新しいファンクラブ『ALDEAアルデア』を開設し入会手続きを開始した[186]。

2023年11月8日発売の『林哲司50周年記念トリビュートアルバム サウダージ』に中森自身がセルフカバーした新録曲「北ウイング-CLASSIC-」が収録された。発売日に先駆け、同年10月30日にニッポン放送の番組内で初オンエアされ話題となった[187][188]。

2023年12月17日、ニッポン放送で特別番組『中森明菜 オールタイムリクエスト』が放送され、中森は番組に肉声によるメッセージを寄せた[189]。中森がメディア出演するのはおよそ9年ぶりである[190][191][192]。中森のファンと公言するミッツ・マングローブとフリーアナウンサーの垣花正がパーソナリティーを務めた。事前に番組に寄せられたリクエストに加え、4時間10分に亘る生放送中にも電リクを駆使して更にリクエストを募った。                   (Wikipedia)

あちこち「SYOWA」799 竹内まりや /ドリーム・オブ・ユー (Live 1981)

2024-04-12 17:18:51 | 日記
いや、私の結婚披露宴を思い出しますね。もう何十年も前です。竹内まりやさんの生家、旅館です、出雲大社のすぐ近くです。式をあげて、そこで披露宴でした。それからずっとカーステレオで初期の唄声を聞いて通勤してました。後で彼女の母校に勤務することになったのも不思議なご縁でした。いや、勝手にそう思っているだけですが。その後のご活躍はすごかったです。今も応援してますよ。

Mariya Takeuchi /ドリーム・オブ・ユー (Live 1981) | Subtitulado en Españ



1970年代後半
1978年、竹内はビクターより発売された『ロフト・セッションズ (1)』に参加し、「ハリウッド・カフェ」と「8分音符の詩」の2曲を録音する。この「ハリウッド・カフェ」と「8分音符の詩」はプロモーション・オンリーの7インチシングル盤でシングルカットされた。この時の竹内の名義は「竹内マリヤ」であった(※『名義』も参照)。竹内は、同年11月25日、RCA/RVC より、シングル「戻っておいで・私の時間」、アルバム『BEGINNING』で音楽界デビューを果たした。この時、23歳であった。アイドル不在の時期と重なったため、当初はそのルックスも相まってアイドル歌手のような役割を担った。

1979年8月21日(火曜日)、3枚目のシングル「SEPTEMBER」を発売した。この曲はトップ100圏内に半年近くチャートインし続け、同年12月31日に開催された第21回日本レコード大賞で新人賞を獲得するに到った。「SEPTEMBER」では新宿音楽祭の金賞を受賞し、イタリアのサンレモ音楽祭にも出場した。


1980年代前半
1980年2月5日(火曜日)には、資生堂の化粧品のCMソングとなったシングル曲「不思議なピーチパイ」が大ヒットした。担当した安井かずみが「あなたの声にぴったりな曲」と言われたのを今でも覚えている。当初は安井かずみ・加藤和彦夫妻や松本隆などが提供する曲を歌っていた竹内であったが、自らも作詞・作曲を手がけるようになった。

但し竹内自身、当時のアイドル的活動には大きな不満を持っていた。心ならずもバラエティ番組や、雑誌の表紙やグラビアなどにも引く手数多の、芸能活動をやらされることになった竹内は、歌唱させて貰えない仕事も数多くこなさざるを得なかった。与えられた任務を懸命にこなしながらも、根本的疑問を抱えていたこの時期の竹内の前に、アレンジャー(編曲家)として現れたのが、のちに公私に亘ってパートナーとなる山下達郎であった。

山下と大貫妙子が率いるシュガー・ベイブや山下のライブをアマチュア時代から見に行っていた竹内は、特に自らのデビューライブの直前に見た山下のライブに大きな衝撃を受けていた。竹内のレコーディングにアレンジャーとして起用された山下は、その後、同じRVC所属のシンガーのレコーディングに際して双方がコーラスに起用されるなど、関わりを密にしていった。アイドル的活動に深く思い悩んで行き詰まった自分に山下は親身になって相談に乗ってくれて、それが結婚に到るきっかけになったと竹内は語る。音楽番組『夜のヒットスタジオ』の同年7月28日放送回に出演した竹内は司会者に問われて山下との交際を認めている。

なお、竹内の結婚前の作品は、山下達郎をはじめ、加藤和彦、細野晴臣、告井延隆(センチメンタル・シティ・ロマンス)、大貫妙子、林哲司、伊藤銀次、杉真理、安部恭弘、浜田金吾といった作家が提供している。

1981年、先述したアイドル歌手としてのオファーと、自身の希望する活動とのギャップに原因するストレスと過酷なスケジュールが祟って喉を傷めて入院、音楽活動に一旦整理をつける意味から一時休業を宣言。

1982年4月6日(火曜日)、27歳のとき山下と結婚。これ以降メディア露出はほとんどなくなったが、同時に作詞家・作曲家として活動を開始し、河合奈保子に提供した「けんかをやめて」「Invitation」などがヒットした。同年の秋、山下の担当ディレクター小杉理宇造がRVCから独立し、アルファ・ムーンを設立すると、山下も「役員兼所属ミュージシャン」として移籍した。

1984年、アルファ・ムーンに移籍し、シングル「もう一度」、そして全曲を自身が作詞・作曲したアルバム『VARIETY』をリリースした。このアルバムの構想段階では、以前のように外部作家を起用して制作する予定であったが、休業中に書きためたオリジナル曲のクオリティの高さに山下が驚き、結果、全曲を自作曲のアルバムとしてリリースすることとなった。同作品は最終的に30万枚以上のヒットを記録した。同年、娘が誕生。

1980年代後半
1981年の休養宣言と1982年4月の結婚をターニングポイントとして、それ以降は家庭を最優先にする生活になったため、ライブ活動からは遠のいた。しかし、アレンジャーとプロデューサーを務める夫のサポートを受けながら、シンガーソングライターとして活動は続けた。

作詞・作曲家としては、薬師丸ひろ子の「元気を出して」(1984年)、岡田有希子の「-Dreaming Girl- 恋、はじめまして」(1984年)、中山美穂の「色・ホワイトブレンド」(1986年)など、数多くのヒット作を生み出してゆく。ホワイトブレンドの作製時はまだ子供が小さく寝た子供を起こさないように洗面所にミニキーボードを持ち込んで作業をした。なお、「元気を出して」は1987年に竹内がセルフカバーしているほか、中国語カバー(北京語と広東語のいずれか)が香港と台湾あるいは両地域で2005年までに4度発売されている。日本におけるセルフ以外のカバーは早くも初年(1984年)にピアノソロ曲を出した村松健や、2003年にカバーしてヒットさせた島谷ひとみばかりでなく、多くのカバー曲が生み出されてきた。

1980年代半ばに中森明菜のアルバム『CRIMSON』のためにテーマに副った楽曲群を提供し、アルバムは1986年に発売された。これ以降、竹内はOLの何気ない日常に焦点を当てた歌や、道ならぬ恋を題材にした曲を数多く世に送り出していった。これらは高評価を得て、竹内の音楽世界のパブリックイメージの一つとして定着する。なお、竹内は、中森のアルバムに提供した5曲中の2曲を1987年)発売のアルバム『REQUEST』の中でセルフカバーしており、また、もう1曲のセルフカバーは『Denim』(2007年)の初回特典CDに収録された。

『REQUEST』は3年間のロングセールスを記録する。同1987年11月にはシングル「AFTER YEARS/駅」が発売されているが、「駅」は中森明菜の持ち味に合わせて作詞・作曲された竹内にしては珍しいマイナーコードの曲であったものが、当初は予定に無かったセルフカバーとしてリリースされ、大きな支持を集めることとなり、広くこの曲が知られるようになった。

1989年9月、『火曜サスペンス劇場』の8代目主題歌であった「シングル・アゲイン」が発売され、ロング・ヒット曲となった。

1990年代
1990年9月、『火曜サスペンス劇場』の9代目主題歌「告白」が発売され、これもヒットした。

1992年5月、「マンハッタン・キス」がヒット。同年10月に発売されたアルバム『Quiet Life』は、発売と同時にミリオン・セラーとなった。

1994年5月、「純愛ラプソディ」を発売。竹内まりや最大のヒット曲(シングル売上ランキング第1位曲)となった。 同年7月に発売されたベスト・アルバム『Impressions』は売上枚数300万を超える大ヒットを記録。

1995年11月発売のシングル曲で、ケンタッキー・フライドチキンのクリスマスキャンペーン用CMソングとして使用された「今夜はHearty Party」では、当時たまたま観ていたフジテレビ系ドラマ『あすなろ白書』に触発され、歌詞に「キムタク」のフレーズを入れたことから、SMAP・木村拓哉の起用をジャニーズ事務所へ打診したところ快諾を得て、コーラスと冒頭、間奏の台詞に木村が参加している。

1997年には、人気アイドル広末涼子が歌手としてデビューするに当たってシングル曲「MajiでKoiする5秒前」を提供し、これもヒットした。眩いほどの希望に溢れた少女の心情を爽やかに謳った曲で、先述の大人の道ならぬ恋の歌を生み出す竹内の振り幅の大きさを改めて示す作品になった。

1998年11月、フジテレビ系木曜劇場『眠れる森』主題歌「カムフラージュ」発売。竹内の作品としては初のオリコンシングルチャート週間1位を獲得する大ヒットとなった。

1990年代の竹内は、縁故のあるミュージシャンのライブにサプライズゲストとして登場し、洋楽カバーを数曲歌うことはあっても[注 8]、公式にライブ活動再開ということではなかった。

2000年代
2000年7月、約18年ぶりの本格的なライブを東京・日本武道館(11日、12日)と大阪・大阪城ホール(31日)で行い、計2万5000人を動員する。その後もアルバム『Bon Appetit!』(2001年)、カヴァーアルバム『Longtime Favorites』(2003年)などをリリースし、2作品はいずれもオリコンチャート第1位を獲得した。

2004年には山下のシングル「忘れないで」の作詞を担当など、音楽活動を着実に増やし続けていた。

2006年になると、子育てが一段落したことにより、新譜リリースを精力的に行うようになった。この頃からは、歌手として曲を提供されて歌っていた当時のことも思い出して、他人の作った曲も積極的に歌ってゆこうと考えるようになった。

2007年には、6年ぶりのオリジナルアルバム『Denim』を発表した。この作品でもオリコンチャート第1位を獲得した。同年8月に発売したシングル「チャンスの前髪」には、サザンオールスターズの原由子がゲストボーカルとして参加している。

続く2008年5月のシングル「幸せのものさし」では 、この曲が主題歌となったTBS系ドラマ『Around40〜注文の多いオンナたち〜』の主演女優・天海祐希が竹内たっての希望でコーラスに参加し、ミュージック・ビデオにも出演した。デビュー30年を迎えるこの年の9月には、竹内の曲のみで構成されたジュークボックス・ミュージカル『本気でオンリーユー』が松浦亜弥主演で初演された。また、竹内の故郷である島根県を舞台としたNHK連続テレビ小説『だんだん』が9月29日から放送開始されたが、主題歌「縁の糸」とナレーションを竹内が担当し、また、ヒロインを務めたマナカナ(三倉茉奈と三倉佳奈)には劇中歌「いのちの歌」を提供している(※『名義』も参照)。

同10月1日には、今までの発表曲を集大成したCD3枚組(初回のみボーナスディスク入りの4枚組)のベストアルバム『Expressions』が発売された。このベストアルバムの選曲にあたり、公式サイトで楽曲のファン投票を行い、NHK『SONGS』1周年記念特別番組にて発表している。10月23日には、東京国際フォーラムで開かれた作・編曲家 林哲司の活動35周年記念のコンサートにサプライズゲストとして登場し、林が手がけた「September」「象牙海岸」の2曲を生披露した。12月28日、大阪フェスティバルホールで開かれた夫・山下達郎のフェスティバルホール最後の公演に、「私もフェスティバルホールにさよならをさせて欲しい」との意向でアンコールのサプライズゲストとして出演し、「人生の扉」「September」を披露したのに加えて、ダブルアンコールでは山下とのデュエットで「LET IT BE ME」を披露した。

2009年4月17日、山下のコンサートツアー東京最終公演(追加公演を除く)にあたる中野サンプラザホールの公演にも、アンコールのサプライズゲストとして出演し、「September」を披露したうえで残り2曲のコーラス隊にも参加した。


2010年代前半
2010年8月14日に北海道で行われた野外フェス『RINSING SUN ROCK FESTIVAL 2010 in EZO』に山下が出演した際、バックコーラスの一人として全曲に参加。同年12月4日、10年ぶりの本格的なライブである『souvenir again』(日本武道館)の初日にピアノ弾き語りで「いのちの歌」を披露した。これは連続テレビ小説『だんだん』において主題的な意味を持つ重要な曲で、「作詞 Miyabi、作曲 村松崇継」ということになっているのであるが、実は「Miyabi」は竹内のペンネームであるということをその場で明かした(※『名義』も参照)。

2012年4月6日、結婚30周年(真珠婚)を迎えた同年9月2日、『SWEET LOVE SHOWER 2012』に山下が出演した際、スペシャルゲストとして登場し、「家に帰ろう(マイ・スイート・ホーム)」「元気を出して」を披露した。

2013年には出身地の出雲市からの依頼を受け、出雲大社の60年に一度の大遷宮が斎行されるこの年に、故郷への想いを歌った楽曲『愛しきわが出雲』を書き下ろし、同年8月に提供した。出雲の市民コーラス隊と共に、地元でレコーディングした4日には、デビュー35周年の記念企画としてアン・ルイス「リンダ」、河合奈保子「けんかをやめて」、中森明菜「駅」など他のアーティストへの提供楽曲を集めた2枚組コンピレーション・アルバム『Mariya's Songbook』を発売。自ら監修・選曲を手がけ、楽曲解説も自ら執筆。初回限定盤には自身が歌った提供楽曲のデモバージョンなどのレア音源も収録された。

2014年、7月デビュー35周年アニバーサリイヤーを飾るシングル「静かな伝説(レジェンド)」リリース。竹内自身の発案で桑田佳祐、原由子をコーラスに迎え、山下達郎も加えた4人での楽曲制作が「蒼氓」以来26年ぶりに実現した。同年9月、7年ぶりのアルバム『TRAD』をリリース。オリコンチャート2週連続で1位獲得。第56回日本レコード大賞「最優秀アルバム賞」を受賞した。また、同年11月から12月にかけて1981年以来33年ぶりに6都市9公演の全国アリーナツアー『ケンタッキーフライドチキン presents 「souvenir2014」supported by JAPAN FM NETWORK』も開催した。同年11月19日、ムーン移籍後最初のアルバムである『VARIETY』の30周年記念盤をリリースした。

2010年代後半
2015年3月、出雲市から特別功労者として表彰を受けた。市に楽曲『愛しきわが出雲』を提供するなどしたことで地域への愛着醸成に貢献した功績による受賞であった。同年5月、第6回岩谷時子賞を受賞。

2016年2月、嵐のニューシングル「復活LOVE」の作詞を手掛けた。作曲・編曲は山下達郎。同年4月、テレビ東京系列経済ニュース番組「ワールドビジネスサテライト」のエンディングテーマ「今日の想い」を書き下ろした。

2017年7月15日には第三者の手でYouTubeに80年代の曲「PLASTIC LOVE」(プラスティック・ラヴ)がアップロードされ、作品リリースの無い海外でも視聴され始めた。同年11月22日には『REQUEST』の30周年記念盤をリリースしている。

2018年、デビュー40周年を迎えた。この年、上述した「PLASTIC LOVE」の動画再生回数が2400万回以上という驚異的な伸びを見せ、大きな話題となった。2010年代初頭に始まったヴェイパーウェイヴが数多くサンプリングしたことで、かつて日本で大流行しながら欧米に輸出されなかったために国際的にはほぼ無名であったシティーポップなる音楽ジャンルが“少しずつ”海外に知られることとなり、加えて、知ったからにはと世界中どこからでもボーダーレスで簡単にアクセスできる動画共有サービスを使って熱心に掘り起こされる過去作の中から「PLASTIC LOVE」と竹内が見出され、一躍脚光を浴びることになった。それがこのブームの本流の動きであった。往時の竹内はシティーポップの第一人者というわけではなかったが、2017年発のブームの下では係る音楽ジャンルを代表する楽曲および人物と捉えられるまでになった。火付け役となったYouTubeには数多くのシティーポップ集がアップロードされるが、「PLASTIC LOVE」と竹内まりやはその種のコンピレーションでは定番中の定番となった。

詳細は「プラスティック・ラヴ#海外でのブーム」を参照
同年10月17日には、デビュー40周年を記念してシングル「小さな願い/今を生きよう」をリリースし、11月18日には初のファンミーティングを開催した。11月21日からはデビューアルバム『BEGINNING』の40周年記念リマスター盤が発売されたことを皮切りに、RCA/RVC時代のカタログが最新リマスターとボーナストラック付きで順次発売された[31]。11月23日からデビュー40周年を記念して製作されたライブ・ドキュメンタリー映画『souvenir the movie~MARIYA TAKEUCHI Theater Live』が、期間限定で全国ロードショー(後述)。

2019年3月、芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)を受賞。同月、デビュー40周年記念特番「竹内まりやMusic&Life〜40年をめぐる旅」がNHK総合で放送された。39年ぶりにNHKスタジオにて歌唱。ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ映画『ダンボ』(ティム・バートン監督)にて日本版エンディングソング『ベイビー・マイン』を歌唱。同年5月、「関ジャム完全燃SHOW(テレビ朝日系列)にて竹内まりや特集がオンエア。前年公開された映画『souvenir the movie~MARIYA TAKEUCHI Theater Live』がアンコール上映される。同2019年9月、40周年記念アルバム『Turntable』をリリース。オリコンチャート1位を記録し、これにより「昭和・平成・令和3時代で1位を獲得した初の女性アーティスト」となると同時に、「女性最年長1位獲得アーティスト」(64歳6か月)となった。10月、映画「最高の人生の見つけ方」(犬童一心監督・吉永小百合・天海祐希共演)主題歌「旅のつづき」を書き下ろし、シングル・リリースする。11月、『第61回輝く!日本レコード大賞』にて「特別賞」を受賞。12月31日にはNHK紅白歌合戦の特別企画・竹内まりや×第70回紅白「未来へつなぐいのちのメッセージ」に出演し、「いのちの歌」を歌唱した。


2020年代
2020年1月1日発売の「いのちの歌」(スペシャル・エディション)が13日付オリコン週間シングルランキングで第1位獲得。64歳10か月での1位獲得は歴代最年長記録となった。これにより、「カムフラージュ」以来21年1か月ぶりの1位インターバル記録を樹立した。11月18日、初の映像作品「souvenir the movie~Mariya Takeuchi Theater Live (special edition)~」をDVD、Blu-rayで発売。《Disc 1》には、デビュー40周年を記念して2018年11月に劇場公開され大ヒットしたライヴ・ドキュメンタリー映画『souvenir the movie 〜MARIYA TAKEUCHI Theater Live〜』を、《Disc 2》には、これまでに制作されたほとんどのミュージック・ビデオと、映画では未公開だったライヴ映像を4曲収録。さらには、山下達郎とのスペシャル対談やライヴ写真を掲載した80ページのブックレットが封入されている。「オリコン週間DVDランキング」、「オリコン週間Blu-ray Disc(以下BD)ランキング」で、ともに初登場1位を獲得。音楽作品のDVDとBDを合計した「ミュージックDVD・BDランキング」でも、合計売上6.2万枚で初登場1位を獲得し、3部門同時1位となった。 初めての音楽映像作品でオリコンチャート3部門1位は史上4組目である。

2021年1月22日、前年11月に7年ぶりの全国アリーナツアー『ケンタッキーフライドチキン presents 「souvenir2021」』を2021年4月~5月に全国6都市で計13公演開催する事を発表したが、新型コロナウイルス感染拡大と緊急事態宣言の再発令を受け、中止を発表。 2月、アルバム『Turntable』とシングル「旅の続き」の応募抽選特典として、2019年4月に計画されていたZepp Tokyoでのライブが新型コロナ感染の影響で11月に延期となったが、感染状況が収束の兆しを見せないことから、無観客での配信ライブ『LIVE Turntable』として、当選者約2000人を対象にMUSIC/SLASHにて配信された。 5月29日、2月に応募特典として配信された『LIVE Turntable』のネット上での反響と全国アリーナツアーの中止を受け、初の有料ライブ動画配信『LIVE Turntable Plus』を実施した。2月に配信した限定ライブ映像に2010~2014年のライブ映像を加え、動画配信20分前には『サンデー・ソングブック出張編』として音声配信「夫婦放談Plus」も実施され、音声とともに収録の様子の静止画が流された。プラットフォームはMUSIC/SLASH。6月11日〜13日にアンコール配信が実施された。

2021年11月3日に杏里とのユニット「Peach&Apricot」で「Watching Over You」(作詞:竹内まりや、 作・編曲:林哲司)の配信をスタート。林とのタッグはシングル「イチゴの誘惑」以来40年ぶり。旧知の仲である杏里との初コラボ作品。(Wikipedia)