とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 316 異国の丘

2018-03-31 22:43:45 | 日記
時々思い出して心の底で口遊む唄です。終戦の前年に生まれ、戦後の混乱した時代の中で育った私は、言葉は悪いですが、流行歌のように子どもの頃唄っていました。シベリアという地名も知ってはいましたが、そこでどんなことが起こっていたか、当時は分かりませんでした。ただ、故国へ帰りたいという切ない思いが少年の心に染み込んでいきました。

異国の丘


『異国の丘』(いこくのおか)は、シベリア抑留の兵士の間で歌われていた日本の歌謡曲の楽曲であり、およびそれをモチーフとして1949年(昭和24年)に製作・公開された日本の映画である。

歌謡曲

作詞作曲

増田幸治作詞(佐伯孝夫補詞)、吉田正作曲。

1943年(昭和18年)に陸軍上等兵として満州にいた吉田正が、現地で療養中、部隊の士気を上げるため作曲した「大興安嶺突破演習の歌」が原曲である。戦後、シベリアに抑留されていた兵士の間で歌われ、抑留兵のひとりだった増田幸治が作詞した。非常に強い望郷の思いを歌っている。原題は『昨日も今日も』である。

歌唱

竹山逸郎、中村耕造の歌唱で、1948年(昭和23年)9月、ビクターレコードから発売された。

経緯

昭和23年8月、NHKラジオの素人のど自慢でシベリア復員兵の中村耕造が、よみ人しらず「俘虜の歌える」と題して歌った。しかし、よみ人しらずで歌ったため伴奏のアコーディオンがついていけなかったこともあり、その回は鐘ひとつ(不合格)で終わったという。しかし、その後(翌週とのこと)、再びこの曲を歌う者が現れた。その際は、アコーディオンがその曲を知っていた(前回よみ人しらずで歌ったため)こともあり鐘三つで合格したのだが、「この曲は一体何の曲?」と話題となり、NHKがラジオにて作曲家をさがし始めることとなった。

しかし、募集直後から「私が作曲した」と偽ったものが何人も応募し、作曲家探しは混乱を極めてしまった。
一方、同月、2月に舞鶴港へ復員し、静養の後、入隊前の会社に復帰した吉田正がその話をたまたま聞き、NHKへ名乗り出たことにより、正式な作曲家が確定。翌月補作詞した後この曲が世のものとなり、また吉田正が大作曲家としての足がかりとなった。
名曲として様々な歌手によって歌い継がれており、シングルとしては1961年に三浦洸一のカバーが発売されている(レコード番号:VS-601)。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 315 高橋真梨子 桃色吐息

2018-03-31 00:28:34 | 日記
髙橋 真梨子。以前もアップさせていただきました。この唄もいい響きの唄ですね。歌詞ももいいです。


高橋真梨子 桃色吐息



髙橋 真梨子(たかはし まりこ、1949年3月6日 - )は、日本の歌手、作詞家。旧芸名、高橋 まり。本名、広瀬 まり子(ひろせ まりこ)旧姓、髙橋。
広島県廿日市市出身、福岡県福岡市育ち。うお座。駒沢学園女子高等学校卒業。夫はミュージシャンのヘンリー広瀬。スポーツ観戦を趣味とする。所属レコード会社はビクターエンタテインメント。所属事務所はザ・ミュージックス。


「桃色吐息」(ももいろといき)は、高橋真梨子の10枚目のシングル。1984年5月21日にビクターインビテーションから発売された。

三貴「カメリアダイヤモンド」のCMソングとして一般に浸透し、高橋の代表曲の一つとなった。妖艶・濃厚な大人の世界を描きながら、それまで業界の大勢であったムード歌謡とは一線を画する美しさを兼ね備えた作風であり、同じく当年の大ヒットである安全地帯「ワインレッドの心」と並び称される。

作詞者の康珍化は本作で第26回日本レコード大賞作詞賞を受賞し、音楽界における地位を確固たるものとした。高橋は同楽曲で、ソロ歌手としては1984年末の「第35回NHK紅白歌合戦」に初出場を果たした(但し高橋自身の紅白出演は、1974年末の「第25回NHK紅白歌合戦」にペドロ&カプリシャスのボーカリストとして「ジョニィへの伝言」以来10年ぶり2回目となる)。

TBSテレビの音楽番組「ザ・ベストテン」は同曲で唯一の出演を果たす。1984年7月19日にスポットライトで初登場。1984年8月16日以降、同年9月20日まで6週間ランクイン、最高位は5位。なお、「ザ・ベストテン」1984年の年間ランキングは28位だった。
オリコン発表の売上枚数は36.8万枚。

PENICILLINが34枚目のシングル幻想カタルシスのカップリングにてカバーをしている。また、JUJUも歌謡曲のカバーアルバムスナックJUJU 〜夜のRequest〜にて同曲をカバーしている。(「Wikipedia」より)


あちこち「SYOWA」 314 中村あゆみ - 翼の折れたエンジェル

2018-03-29 22:52:45 | 日記
私自身はこの歌手がヒットしたころは精神的に苦境に立たされていました。 「翼の折れた・・・」。なに、俺と同じじゃないか。私ははっとしてこの唄に聞き入りました。ハスキーな声質、溌溂としたアクション。しかもボーイッシュな風貌。私は繰り返しこの唄を歌って自分を励ましていました。とにかくカッコイイ。


中村あゆみ - 翼の折れたエンジェル



中村 あゆみ(なかむら あゆみ、1966年6月28日 - )は、大阪府出身のシンガーソングライター。株式会社Lady.A所属。
明治大学付属中野高校定時制中退。明大中野高校時代の同級生には、シブがき隊、少年隊、石川秀美、奥居香、パパイヤ鈴木、三田寛子などがいた。

略歴

大阪で生まれる。出生後すぐに福岡県福岡市に転居するが、中村が4歳の時に両親が離婚し父親と生まれ故郷の大阪に再度移り住む。その後東大阪市の高校で1年過ごした後、福岡の母親宅に戻り、福岡の高校へ転校するが半年後に上京。定時制高校に通いながら、昼はOLをして自活。OL退職後は道路工事の仕事をし、真夜中はディスコなどで遊びまくるというハードな生活を送っていた。そんな中、「面白い子がいる」と噂になり、大手芸能プロダクションから声がかかったこともあるが、デビューするまでには至らなかった。

当時は歌手ではなく、女優を目指していた。また更にその前は、貿易会社の社長やインテリアコーディネータになりたいと思っていた。
その後、当時住んでいた自宅に泥棒が入ったため、困り果て知り合いの飲食店に駆け込んだところ、後のプロデューサーである高橋研と出会う。この出会いがデビューのきっかけとなった。

高橋と知り合うまでまともに音楽は聴いたことはなく、それまでレコードは1枚も持っていなかったという。高校3年の1984年9月5日に高橋研プロデュースによるシングル「MIDNIGHT KIDS」でハミングバードレコード(現・ワーナーミュージック・ジャパン)よりデビュー。翌1985年4月21日にリリースした3枚目のシングル「翼の折れたエンジェル」が日清カップヌードルのCMに起用されて大ヒットを記録する。

1985年8月31日に日比谷野外音楽堂でREBECCAとジョイントライブをしたのをきっかけに毎年8月31日は「AYUMIDAY」とし、日本武道館などでスペシャルライブを行った。

代表曲には、「翼の折れたエンジェル」のほかに、翌1986年「ちょっとやそっとじゃCAN'T GET LOVE」、1989年「ともだち」などがある。その他、プロレスラーの鈴木みのるに入場曲「風になれ」を提供している。

1987年にはデビュー期からのプロデューサーである高橋の元を離れ、自作曲を発表するようになる。
1999年の出産を機に音楽活動を休止したが、2004年に加山雄三のイベントにゲスト出演をしたことを契機に歌手活動を再開した。
独特のハスキーボイスの持ち主で、「デビューするに至り、自ら喉を潰した」などと言及されることが多々あるが、中村自身は生まれながらのものと語っている。(「Wikipedia」より)





あちこち「SYOWA」 (番外)松たか子 - 明日、春が来たら

2018-03-29 00:35:41 | 日記
古風な芯の強い女性を演じるキャラクターは抜群だと思います。『藏』でその持ち味が遺憾なく発揮されました。彼女が演じると主人公と物語のすべてが「たか子色」に染められて奥深い哀感が醸し出されます。素晴らしい女優です。唄も「アナ雪」などで実力を発揮しましたね。もっと出演して欲しいです。


松たか子 - 明日、春が来たら


松 たか子(まつ たかこ、1977年6月10日 ‐ )は、日本の女優、歌手。本名・佐橋 隆子(さはし たかこ)。旧姓・藤間(ふじま)。日本舞踊松本流名取、初代 松本 幸華(しょだい まつもと こうか)の名も持つ。東京都出身。夫はミュージシャンの佐橋佳幸。日本アカデミー賞最優秀主演女優賞や読売演劇大賞・最優秀女優賞等を受賞。


DVD画像より

来歴

九代目松本幸四郎(当時は六代目市川染五郎)と藤間紀子の末子として東京都に生まれる。白百合学園中学校・高等学校から、芸能活動のため堀越高等学校に転校し、卒業。亜細亜大学中退。

白百合学園小学校・中学校時代の同級生に宝塚歌劇団81期生の妃里梨江がいる。
16歳だった1993年(平成5年)に、歌舞伎座の『人情噺文七元結』で初舞台を踏む。翌1994年(平成6年)にはNHK大河ドラマ『花の乱』でテレビドラマに初出演。1995年(平成7年)には同局のドラマ『藏』で主演し、以降、テレビドラマ・舞台等で女優としてのキャリアを重ねる。

恵まれた容姿と演技力、ブランド力により、1996年(平成8年)の『ロングバケーション』、1997年(平成9年)の『ラブジェネレーション』、そして2001年(平成13年)の『HERO』と、フジテレビ系列の月9ドラマに出演[1]。いずれも木村拓哉と共演し、30%前後の高視聴率を記録している。

1996年(平成8年)には、史上最年少(19歳)でNHKの『第47回NHK紅白歌合戦』の紅組司会に抜擢される。

1997年(平成9年)に歌手としてデビューする。初期のキャリアを担当した音楽プロデューサーの日向大介からの第一印象は「最初に今井美樹さんの楽曲を歌ったデモテープが送られてきたのでそのイメージから離れるのに苦労した」と語るが「ピアノが下手なプロより上手で、純粋な音楽家になれる素質があった」「僕の仮歌を一度聞くだけで、すぐに頭の中に入れてくれた」と賛辞のコメントを残している[3]。同年末の『第48回NHK紅白歌合戦』には今度は歌手として出場を果たす。以後も女優業と並行しながら、歌手としての活動も精力的にこなし、2009年(平成21年)までにシングル21枚、アルバム12枚を発表、全国コンサートツアーも3度行っている。

2007年(平成19年)にミュージシャン・佐橋佳幸と結婚。
2011年(平成23年)春に長年所属していたパパドゥを退社、個人事務所を設立し独立。
2014年(平成26年)には声優としてディズニー映画『アナと雪の女王』に主演、また同作品の日本語吹き替え版劇中歌『レット・イット・ゴー』はフル配信100万DLを達成。

歌舞伎や新派、また父・松本幸四郎が主演するミュージカルに出演し、蜷川幸雄演出『ハムレット』で初めて外部の舞台を経験、以後、野田秀樹、串田和美などの作品では主役に抜擢される。三谷幸喜の群像劇にも出演したほか、『嵐が丘』『おはつ』などの商業演劇でも主演している。父・松本幸四郎は「野田秀樹らに演出された主演女優が、自分のミュージカルに出てくれるとは光栄だ」とおどけてコメントした。

2014年11月27日、第1子の妊娠を発表。2015年(平成27年)3月30日、第1子女児の出産を発表。同年7月の舞台『かがみのかなたはたなかのなかに』で仕事復帰を果たす。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 313 Misty [日本語訳・英詞付き]  ジュリー・ロンドン

2018-03-25 22:23:06 | 日記
この声質にはいつ聴いても痺れますね。今こういう雰囲気のある歌手はいないのでは・・・。というと怒られそうですね。私が無知なだけかもしれません。

Misty [日本語訳・英詞付き]  ジュリー・ロンドン



ジュリー・ロンドン(Julie London、1926年9月26日 - 2000年10月18日)は、アメリカ合衆国の女優、歌手。本名、ゲイル・ペック(Gayle Peck)。

来歴・人物

1926年9月26日、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタローザに生まれる。両親はヴォードヴィルの歌と踊りのチームでラジオ番組を持っていた。幼い頃のジュリーもその番組に出演しており、3歳の時にはマレーネ・ディートリヒのヒット曲「フォーリング・イン・ラヴ・アゲイン」を披露している。

1941年、ロサンゼルスに移住するとともに、15歳でエレベーターガールとして就職する。まもなく、俳優のエージェントをしていたスー・キャロル(故アラン・ラッド夫人)にその美貌を評価され、芸能界にスカウトされる。
1944年、『ジャングルの妖女』で映画女優としてデビュー。『赤い家』『愛と血の大地』『機動部隊』などの映画にワーナーニューフェイスとして出演したが、女優としては幸運に恵まれない下積み時代を過ごした。
 
1947年に役者のジャック・ウェッブ(Jack Webb)と結婚し、徐々に主婦業に集中する。二人の娘を出産。
1953年に離婚。ボビー・トゥループ(Bobby Troup)の勧めで芸能界へ復帰。歌手に転向し、ナイトクラブで歌うようになる。ジャズピアニストで「ルート66(Route 66)」の作曲家としても有名なトゥループの指導を受け、本格的なジャズシンガーとしてのキャリアをスタートさせた。

1955年、ファーストアルバム『Julie Is Her Name(邦題:彼女の名はジュリー)』を録音。同アルバム内からシングル・カットされた『クライ・ミー・ア・リバー(Cry Me a River)』がヒットして一躍人気歌手となり、同時に映画活動も再開。『女はそれを我慢できない』『西部の人』などに出演するなど、一躍スターとなる。歌手としては主にスタンダード・ナンバーを数多く歌い、レコードを発表している。また、『You'd Be So Nice To Come Home To(帰ってくれれば嬉しいわ)』は、日本ではヘレン・メリルの歌唱がよく知られているが、アメリカではジュリー・ロンドン版もヒットした。

1959年12月31日、トゥループと結婚し、トゥループのプロデュースでアルバムもリリースした。
1964年5月28日にはボビー・トゥループ楽団とともに来日も果たし、その時の様子は特別番組『The Julie London Show』(TBS)として録画されている。

その後はテレビドラマ『エマージェンシー!』などでテレビや映画に出演しているものの、歌手としての一線は退いている。
1995年に脳卒中で倒れてから体調を崩すようになる。

2000年10月18日、カリフォルニア州エンシノにある病院で、心臓病のため74歳で死去。アメリカ、イギリス、日本の各報道機関がジュリーの死を報じた。ジュリーがかなりのアルコール好きだったことが死因に関係しているとされる。

人気の理由として、その美貌と共にハスキーボイスが挙げられる。ジュリーの声は「スモーキー・ヴォイス」とも呼ばれていた。(「Wikipedia」より)