とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」696【追悼】筒美京平サビメドレー

2020-10-25 12:38:29 | 日記
ヒット曲あげれば際限なく出てきます。・・・そんな偉大な作曲家でした。私の血肉となって記憶されています。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【追悼】筒美京平サビメドレー




筒美 京平(つつみ きょうへい、1940年〈昭和15年〉5月28日- 2020年〈令和2年〉10月7日)は、日本の作曲家、編曲家。筒美音楽事務所(個人事務所)代表(神奈川県逗子市所在)。本名は渡辺 栄吉(わたなべ えいきち)。弟は音楽プロデューサーの渡辺忠孝。既婚。 東京府東京市牛込区(現:東京都新宿区)出身。青山学院大学経済学部卒業。 2003年、紫綬褒章受章。

概要

1960年代後半のグループ・サウンズ、その後は歌謡曲、アイドル歌謡曲、J-POP、『サザエさん』に代表されるアニメ主題歌等の作曲と多数のヒット曲を世に送り出した職業作曲家。

1971年、1972年、1973年、1975年、1976年、1981年、1982年、1983年、1985年、1987年と10回にわたって日本の作曲家別レコード売り上げ年間1位を記録。また作曲作品が、1960・1970・1980・1990・2000年代と、5年代連続でチャート1位を獲得。1960・1970・1980・1990・2000・2010年代と、6年代連続でTOP10にチャートインしている。

来歴

幼稚園児からピアノを始める。青山学院初等部・青山学院中等部・高等部を経て青山学院大学経済学部卒業。大学在学時はジャズに打ち込み、大野雄二とも面識があった。

大学卒業後の1963年に日本グラモフォン(後のポリドール・レコード→ユニバーサルミュージック)に入社。洋楽担当ディレクターとして勤務する傍ら、大学の先輩である作詞家の橋本淳に勧められ、すぎやまこういちに師事し作編曲を学ぶ。

1966年、「黄色いレモン」(藤浩一ほか、競作)で作曲家デビュー。1967年から専業作家となる。ペンネームは鼓(つづみ)が平らに響くという意味から「鼓響平」を考えていたが、文字を左右対称にするために「筒美京平」とした。

1968年12月に発売されたいしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」が、筒美の作曲では自身初のオリコン週間1位を獲得。自身が作曲・編曲で日本レコード大賞を受賞した曲は、1971年、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」第13回日本レコード大賞と、1979年、ジュディ・オングの「魅せられて」第21回日本レコード大賞である。

1970年代の吉田拓郎ら、シンガー・ソングライターの出現には脅威を感じたが、物ともせず、ヒット曲を世に出した。

1997年に筒美作品で構成されたCD-BOX『筒美京平:HITSTORY』が発売された。自身が手がけた楽曲では、「また逢う日まで」「さらば恋人」「木綿のハンカチーフ」が気に入っていることを、2002年のインタビューで語っている。2006年4月5日に筒美作品で構成されたCD-BOX『THE HIT MAKER -筒美京平の世界-』が、2007年7月15日に『the popular music 〜筒美京平トリビュート〜』が発売された。作曲家のトリビュート・アルバムとしては、日本初となる。

2013年には声優・竹達彩奈のシングル「時空ツアーズ」や、2015年には野口五郎のシングル「再会タイムマシン」、2016年には飯田里穂のシングル「青い炎シンドローム」を手がけるなど、作曲活動は晩年も盛んだった。

2020年10月7日、誤嚥性肺炎のため死去。80歳没。かねてより自宅で病気療養していたという。葬儀は本人の希望により近親者のみにより執り行われた。(「Wikipedia」より)


あちこち「SYOWA」(番外) 津野米咲(赤い公園)インタビュー

2020-10-20 16:20:56 | 日記
・・・・・・・・・。????? !!!!!!!!。・・・・・・・何も言えません。とにかくショック。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

津野米咲(赤い公園)インタビュー



赤い公園(あかいこうえん)は、2010年に結成された日本のロックバンド。2012年、メジャーデビュー。所属事務所はソニー・ミュージックアーティスツ、所属レコード会社はエピックレコードジャパン。公式ファンクラブは「赤すぎる公園」。

来歴

2010年1月4日、高校の軽音楽部に所属していた4人により結成。地元東京都立川市のライブハウス「立川BABEL」を拠点に活動を開始し、その年の12月には、神聖かまってちゃんが主催するライブイベントにも出演した。

2011年1月、自主制作のデモ音源「はじめまして」を発売。同年3月、自主制作によるミニ・アルバム「ブレーメンとあるく」を発表[3]。同年10月、NATSUMENやチーナなど、日本人アーティストとともにカナダで開催された『Next Music from TOKYO vol 3』に参加、注目を集める(この後 NATSUMEN のメンバーは、赤い公園をプロデュースしている。インタビュー「爆発した才能」)。複数のレコード会社による争奪戦の末にEMIミュージック・ジャパンと契約。

2012年2月15日、EMIミュージック・ジャパンよりミニアルバム「透明なのか黒なのか」をリリース、メジャーデビューを果たした。同年10月9日、バンドのオフィシャルサイトにて、ギターの津野米咲の体調不良により当面の活動を休止することを発表。

2013年3月1日午前零時、Ustreamに出演して活動を再開することを発表。同年6月5日リリースのSMAPのシングル「Joy!!」で、津野米咲が作詞と作曲を担当する(アレンジは菅野よう子)。

2017年7月3日、佐藤千明(Vo)が8月31日をもって脱退を表明。佐藤は「7年の活動の中で自分の手に負えない程のズレが生じていることに気付いた。そのズレが迷いとして音楽にまで介入してきたとき、赤い公園のボーカルという使命に、限界を感じた」ことを脱退の理由としている。

2017年8月27日、Zepp DiverCity TOKYOで行われた「熱唱祭り」が4人体制での最後のライブとなった。

2018年5月4日、『VIVA LA ROCK 2018』に出演し、新ボーカルを元・アイドルネッサンスの石野理子が務めることを発表した。

石野の加入に伴い、同年より津野、藤本、歌川の3人は石野の所属事務所であるソニー・ミュージックアーティスツに移籍した。



音楽性と楽曲

ギターの津野が全曲の作詞・作曲・プロデュースを手掛けている。

作曲は、吹奏楽経験もある津野が、クラシックや現代音楽のスコアを参考にしたりしながら、ポップスやロックのセオリーでは不協和音になる音をあえて使ったり、カウンター・メロディーを入れたりと、さまざまな試みをしている。ギターで曲を考えるのが苦手であり、ピアノで全部のパートを作ってからそれを無理やりギターで演奏している。

楽曲制作では、まず津野が歌・ベース・ドラム・シンセサイザーを入れたデモ音源を作る。デモの段階ではアレンジはあまり固めず、ほとんど打ち込みで作られたバンド・サウンドとはかけ離れた形で上がってくるので、それをバンド全員でアレンジするという方法を取っている。音楽の好みがはっきりしていて専門外のことはよく知らない他の3人と一緒に仕上げることによって、アンバランスでありながら普通の人も聴けるポップスになる。そしてその歪さが耳に引っかかるフックとなり、赤い公園の音楽を特徴付けている。

レコーディングでは極力オートチューンを使わないようにしているので、歌の音程が多少ずれても補正せずにいる。

津野自身は「ジャンルがかちっと決まっているバンドが多いシーンの中で、限りなく、とてつもなく自由でいたいんです。だから、方向性を決めないというのが方向性ですね」「今まで色んな音楽を聴いてきた中で、やりたい音楽がごちゃ混ぜになっているんですよね。一番好きなアーティストを訊かれたりすると困るし、"こういうバンドが好きなのかな?"と想像してくれるとうれしい」と述べている。(「Wikipedia」より抜粋)

あちこち「SYOWA」695 夢の途中 / 来生たかお

2020-10-10 16:33:40 | 日記
来生たかお氏と「セーラー服・・・」。お馴染みの組み合わせだが、改めて曲だけを聴くと、名曲だと感じます。うら悲しい青春の一ページが鮮やかに蘇ってきます。私はそこまで青春していた訳ではないけれど、うん、確かに体験していたという感覚に陥ります。素晴らしい名曲です。画像も素晴らしい。

夢の途中 / 来生たかお



来生 たかお(きすぎ たかお、1950年11月16日 - )は、日本のシンガーソングライター・作曲家である。本名は来生 孝夫(読みは同じ)。

一躍ヒット・メーカーへ

1981年12月19日、全国東映系で公開された角川春樹事務所/キティ・フィルム提携映画『セーラー服と機関銃』の主題歌は、当初、来生自身の歌唱で話は進められ、レコーディングも済んでいたが、監督の相米慎二により同映画の主演女優・薬師丸ひろ子が歌う発案がキティ・フィルム代表の多賀英典になされた。好評だったオリジナルシングル「Goodbye Day」に続く楽曲として、プロデューサー・多賀英典と共に姉弟自身もヒットを予感しており、ここで勢いに乗りたいと考えていた最中であったため、大騒ぎになった。多賀は東映側に押されて承諾したものの、薬師丸が来生のファンであったこともあり、それぞれが「セーラー服と機関銃」「夢の途中」としてリリースする“競作シングル”というかたちで決着を付けた。

この2曲は一部歌詞に相違があるが、意図的なものではない。来生えつこによれば、レコーディングのギリギリまで歌詞を書き換えることは茶飯事で、この時はいつにも増して試行錯誤を重ねていたため、受け渡しの最中に手違いがあったとされる。“夢の途中”というタイトルは不意に思い付いたものの、先にタイトルが決まっていることは稀で、また、ヒットの期待を込めた曲には“夢”というキーワードを入れる彼女としては、来生のデビュー曲「浅い夢」に絡めて拘りを持っていた“夢の途中”というフレーズが「セーラー服と機関銃」の歌詞から消えてしまったことは残念だったが、薬師丸の澄んだ歌声を聴いた時は“いけるかも”と思ったという。また、来生は同映画の主題歌候補として3曲用意しており、その決定はプロデューサーによってなされた。来生は、自信がなかった楽曲が選ばれたと回顧している。

「セーラー服と機関銃」(1981年11月21日リリース)は、リリースの前から予約が殺到し、たちまちオリコンで第1位を獲得した。一方、同年11月10日に先駆けてリリースされた「夢の途中」は、当初オリコンで第200位前後だったが、「セーラー服と機関銃」の影響もあってかランキングを上昇し続け、翌年3月には最高第4位、有線では第1位を獲得、来生の最大のヒット曲となった。ちなみに、同曲のB面に収録された「美しい女」を作詞した山川啓介と来生はほとんど面識がなかったが、「ある時1度会った際に、山川さんから『ありがとうございました』と言われました。B面の作者にも多大な印税収入が舞い込んだからだと思います」と自身のコンサートで語っている。

「夢の途中」「セーラー服と機関銃」の大ヒットで楽曲提供の依頼が殺到し、年間100曲以上作っていた時期もあり、時に、来生はもうマンネリと揶揄されることもあったが、「夢の途中」のような曲を、との注文を付ける依頼も少なくなかったため、自然と似たようなコード進行になってしまったと吐露している。また、TBSドラマ『2年B組仙八先生』の主演の話が舞い込んだが、音楽以外の仕事をする気にはなれないとの理由で断っている。

「シルエット・ロマンス」は、サンリオ(後に出版権はハーレクインに移行)の「シルエットロマンスシリーズ」のイメージソングとして作られたため、最初からタイトルは決まっていた。実力派歌手である大橋純子が歌うということで、思う存分難しい曲を作ろうと考えた来生は、先に出来上がったサビの部分に確かな手応えを感じ、“これはいける”と思ったという。一方来生えつこによれば、同曲をあまり過度な情感を込めて歌って欲しくなかったため、あえて大橋がまだ歌い慣れる前の最初の2 - 3テイクを使用して貰ったらしい。当時休業を考えていた大橋は、歌手活動再開までの間世間が自分を忘れないためにも同曲をヒットさせたいと思っており、実際、「セーラー服と機関銃」が忽ちヒットしたのとは対照的にじわじわと人気を獲得し、大橋自身も第24回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞した。

また、来生も第2回日本作曲大賞優秀作品賞を、来生えつこと共に中山晋平・西条八十賞を受賞しており、その後も多くの歌手がカヴァーを試みるスタンダードナンバーとなっている(来生たかお関連作品「被カヴァー曲」参照)。井上陽水は、来生が同曲を歌っているテレビ番組をたまたま目にし、“詞の良さ、曲の良さ、来生たかおの真摯な姿勢が相俟って、思わず涙ぐんだ”と述べつつ、改めて目の前で来生の歌を聴いた後は、“パチンコの合間にこんな良い曲を作ってるらしいんですよ”とからかっている。

「セカンド・ラブ」は、「シルエット・ロマンス」のヒットにより、大橋純子サイドから再び楽曲提供の依頼があるだろうと見越して作られた曲だったが、中森明菜を手掛けていたディレクターの目に止まり、ぜひ明菜に歌わせたいということで提供に至った。ただしセカンドシングルということで「セカンド・ラブ」というタイトルを付けたものの、実際にはサードシングルとしてリリースされた。大橋純子用に音域を広くして作った同曲を、まだデビュー間もない中森が歌ったことに対し、来生は“大変だったんじゃないかな”と述べている。また、同曲が第3回日本作曲大賞を受賞した際、松任谷由実が原田知世に提供した「時をかける少女」もノミネートされており、会場の来生たかおおよびその関係者は、滅多に公の場に姿を見せない松任谷がわざわざ来ていて、しかもステージに向かいやすい通路側に座っていたことから、「時をかける少女」の受賞は事前に決まっていると思っていたという。ちなみに、同賞の景品として車が進呈されたが、当時、姉弟は共に運転免許を持っていなかったため、急遽来生夫人が教習所へ通うことになった。ちなみに、本曲より前に松任谷由実が同じタイトルで作詞をした楽曲(作詞:呉田軽穂/作曲:杉真理)を須藤薫に書いており、後にそれを知った来生は動揺したという((オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報「HEAD ROCK」))。

1983年、念願だった美空ひばりへの楽曲提供が実現した。提供曲「笑ってよムーンライト」は、大ヒットするだろうという思惑は外れたものの、来生自身は名曲と自負している。レコーディングの折り、ひばりは真っ赤なスーツ姿でスタジオに現れ、編曲を担当した坂本龍一と共に感激したという。レコーディング自体も難なく完遂し、プロ意識を感じたと述べている。また、姉弟でひばり邸を訪れたこともあり、その際、もっとジャズナンバーも歌って欲しいと懇願したところ、ひばり自身もそれを希望しているものの、多くの観客の要望と合致しないため、なかなか叶わないという思いを吐露された。ひばりとはフジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』で一度だけ競演も果たしているが、番組側の、ピアノはフェイクでも構わないとの意向で、来生はピアノに向かっているだけで実際には弾かなかったと明かしている。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」(番外)コンフィデンスマンJP 竹内結子さんと三浦春馬さんの名シーン

2020-10-03 17:15:32 | 日記
あまりにも衝撃的でしばらくとまどっていました。この映画での共演になにかしらいろいろと意味づけて、いっそうとまどっていました。何か演技以上の迫ってくるものを感じていました。私がここでどうこうコメントすると、その現実がますます曖昧な煙幕に覆われてくるような気がします。・・・お二人のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。

コンフィデンスマンJP 竹内結子さんと三浦春馬さんの名シーン



竹内 結子(たけうち ゆうこ、1980年4月1日 - 2020年9月27日)は、日本の女優、ナレーター。埼玉県浦和市(現さいたま市南区)出身。最終所属はスターダストプロモーション。夫は俳優の中林大樹。


経歴・人物

中学校を卒業してすぐの春休み、原宿でスカウトされ現事務所に所属する。

1995年(平成7年)、大蔵省(現財務省)のCMでデビュー。

1996年(平成8年)、堂本光一主演のテレビドラマ 『新・木曜の怪談 Cyborg』(フジテレビ)での快活なヒロイン役女子高生としての全話出演で女優デビューした。

その後は数々のドラマや映画などに出演、1999年(平成11年)に放送されたNHK連続テレビ小説 『あすか』、2001年(平成13年)に放送されたテレビドラマ 『白い影』(TBS)ではそれぞれヒロイン役を務め、広く知られるようになった。その翌年に放送されたテレビドラマ 『ランチの女王』では、フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ(月9)に初主演した。

トレンディドラマの時代が終わると、女優不遇の時代が続く中、数少ない実力派として目されるようになった。

2003年(平成15年)に公開された映画 『黄泉がえり』に出演した頃には、「泣きたい夜には、竹内結子」というキャッチフレーズ入りポスターが東宝によって作成された。

2005年(平成17年)6月、映画『いま、会いにゆきます』で共演した中村獅童と結婚。妊娠していることも公表し、同年11月に第1子となる男児を出産(2008年2月に離婚。親権は竹内)。

2007年(平成19年)に公開された主演映画『サイドカーに犬』での演技は高く評価され、キネマ旬報ベスト・テン主演女優賞、日本映画批評家大賞主演女優賞など、多くの受賞した。

2008年(平成20年)、月9ドラマ『薔薇のない花屋』にヒロイン役で出演し、3年ぶりにドラマ復帰した。翌2009年(平成21年)には、アメリカABC制作のテレビドラマ『フラッシュフォワード』に出演した。

2010年(平成22年)、スペシャルドラマ『ストロベリーナイト』で主演を務め、初の刑事役に挑戦した。

2014年(平成26年)、三谷幸喜作・演出の舞台『君となら』で主演を務め、舞台に初挑戦。

2015年(平成27年)、主演作品『残穢 -住んではいけない部屋-』が、第28回東京国際映画祭コンペティション部門に出品される。

2018年(平成30年)、HuluとHBOアジアの初の国際共同製作ドラマ『ミス・シャーロック/Miss Sherlock』で女性版シャーロック・ホームズを演じ、Huluにて配信されHBOでも世界19か国で放送された。

2019年(平成31年)2月27日、所属事務所の後輩の中林大樹と再婚、連名で報告した。


三浦 春馬(みうら はるま、1990年4月5日[3] - 2020年7月18日)は、日本の俳優、歌手。茨城県土浦市出身。所属事務所はアミューズ。

来歴

芸能活動

1994年、4歳の頃から児童劇団のアクターズスタジオつくば校 に所属し、1997年にNHKの連続テレビ小説『あぐり』で子役としてデビュー、映画初出演は1999年「金融腐蝕列島・呪縛」。

2002年、『森の学校』で早くも映画初主演を飾る。同作品の西垣吉春監督は、三浦の地元である土浦(茨城県)で「天才的な子役がいる」との噂を聞きつけ、当時小学5年生だった三浦に会ったところ「本当に魅力的、特に感性が豊か。こちらが言ったことを2倍、3倍に深く理解して演技で答えてくれる。接していてもピュアで繊細で、あんな子はもういないんじゃないかというくらい素晴らしい」と、撮影のずっと前から「春馬くんを主役に」と決めていたと言う。

アクターズスタジオ時代には、松永一哉、鈴木和也とともにダンスチーム「Brash Brats」を結成(改名前は「keepout」「INAZUMA」)、ボーカルを担当していた(2005年に活動休止[9])。

2004年、アミューズに所属する。

2006年、映画『キャッチ ア ウェーブ』に主演、また同年のテレビドラマ『14才の母』(日本テレビ)でヒロインの恋人役を演じ、注目を集める。

2006年〜2013年の毎年、アミューズのファン感謝祭 通称「ハンサムライブ」に出演(2013年は映像出演 )。

また、2007年〜2018年の毎年、Act Against AIDS(アクト・アゲインスト・エイズ/略称:AAA)チャリティコンサート(日本武道館)にも出演。

2007年、映画『恋空』の大ヒットでブレイク。本作で第31回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞した。

2008年、『ごくせん』(日本テレビ)第3シリーズではメインの生徒役をつとめ、同年『ブラッディ・マンデイ』(TBS)では、テロ組織と対決する天才ハッカー役で連続ドラマ初主演を果たす。好評を博した同作は2010年に続編も作られた。

2009年、堀越高等学校を卒業。

2009年6月、『星の大地に降る涙』で初めて舞台に出演する。

2009年10月期に『サムライ・ハイスクール』(日本テレビ)、2010年1月期には『ブラッディ・マンデイ Season2』と、2クール続けて連続ドラマに主演。これは当時の若手俳優にとって異例であり、20歳にして10年を越えるキャリアに裏打ちされた演技力は群を抜いていた。

2010年2月、同じ事務所所属の俳優・佐藤健との共同企画作品、DVD「HT 〜N.Y.の中心で、鍋をつつく〜」を発売。発売初週で12,000枚を売り上げ、同年3月1日付のオリコンDVDランキングで総合5位を獲得、日本人男性俳優の「アイドル・イメージ作品部門」での歴代最高順位を記録した。

2011年、『大切なことはすべて君が教えてくれた』(フジテレビ)で初めて月9ドラマで主演を務める。

2013年、民放の連続ドラマ史上記録的ヒットとなった『ラスト♡シンデレラ』(フジテレビ)に出演。三浦が演じる佐伯広斗役のビジュアルと艶然とした色気は大きな話題となりヒットを牽引、最終回の三浦の出演シーンで瞬間最高視聴率20.9%を記録した。

この後、「命を題材にしたドラマをやりたい」と自ら企画を提案した『僕のいた時間』(フジテレビ)で、筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症し苦闘する主人公を熱演。両作品を合わせて第51回ギャラクシー賞個人賞を受賞した。

2014年、映画『永遠の0』で第38回日本アカデミー賞優秀助演男優賞を受賞。

同年、日本・中国合作映画『真夜中の五分前』に主演。オール上海ロケで日本人キャストは三浦のみ、ほぼ全編中国語の台詞であったが、監督や海外の共演者から絶賛される中国語を披露した。

2016年、シンディ・ローパーが全曲作詞作曲し2013年のトニー賞で6部門を受賞した大ヒットブロードウェイミュージカル『キンキーブーツ』日本版で主演(音楽・演出・振付はブロードウェイ版そのまま)。三浦は、本作を2013年にニューヨークで見て衝撃を受け「日本版が上演されることになったら、絶対に自分が演じたい」と熱望し、役に合った肉体改造もしてオーディションを受け、見事にこのドラァグクイーン・ローラ役を射止めた。全公演、即日完売。連日スタンディングオべーションの嵐が続き、第24回読売演劇大賞優秀男優賞と杉村春子賞を受賞。後に「初演が幕を閉じた瞬間から、再演するつもりだった」「転機となった作品」と語っている。2019年によりパワーアップして再演を果たし、再び大成功を収めた。

2017年、ロンドンに2ヵ月短期留学する。

2018年4月より、紀行番組『世界はほしいモノにあふれてる』(NHK総合)で司会を担当。

2019年1月、ミュージカル『罪と罰』に主演。2015年に出演した『地獄のオルフェウス』以来再タッグを組んだ世界的演出家のフィリップ・ブリーンは、「この役(主人公ラスコーリニコフ)を演じてもらいたいと思う俳優は、世界中どこを探しても三浦春馬以外は考えられない」と語っている。

2019年6月より、「ポール・スミス」ブランド初の日本におけるメンズ ブランドアンバサダーに就任。

2019年8月、主演ドラマ『TWO WEEKS』(フジテレビ)の主題歌で歌手デビューを果たした。「FNSうたの夏まつり」(フジテレビ系)で、この『Fight for your heart』を生放送で初披露した際には、ハイトーンボイスでこれまでにない魅力を放ち、圧倒的なダンスと俳優ならではの表現力で見る者を驚愕させ、本業の歌手たちを圧倒。出演後はTwitterのトレンドワードの上位に「#三浦春馬」が挙がるほど、新たな彼の一面に注目が集まった。

同月、韓国ソウルで過去最大規模(世界61カ国から270作品が出品)で開催された「ソウルドラマアワード2019」において、アジアで精力的に活躍し大きな影響力を持つ俳優に与えられる「アジアスター賞」を受賞。英語でスピーチを行った。

2020年1月、世界的ミュージカルスターであるシンシア・エリボ(英語版)、ドラマ「glee」のマシュー・モリソンと一緒にミュージカルコンサートのステージで共演。

2020年2月、アミューズのファン感謝祭、通称「ハンサム」の15周年記念ライブに、“レジェンドハンサム”としてサプライズ出演。

2020年3月、アンドリュー・ロイド=ウェバー日本初演作品『ホイッスル・ダウン・ザ・ウィンド ~汚れなき瞳~(英語版)』に主演。本作品はウェストエンドにて1000回を超えるロングランを記録し、劇中歌「No Matter What」は世界18カ国でヒットチャート1位、プラチナディスクを獲得した感動大作であったが、新型コロナウイルスの感染拡大の影響により初日が2週間後ろ倒しになり、千秋楽が繰り上げとなるほか地方公演も全公演中止、計53公演中11公演の上演という結果になった。

2020年4月、約4年かけて日本全国47都道府県を巡り、47の日本文化・伝統・歴史・産業などを取材し綴った著書『日本製』を出版(8月28日付でオリコンBOOK総合ランキング1位。7月に重版決定)。

2020年7月18日、死去。

2020年7月23日、『コンフィデンスマンJP プリンセス編』公開。訃報の5日後であった初日舞台挨拶では出演者各々が三浦に言及。本作は土日2日間で動員28万6000人、興収4億500万円のヒットとなった。

2020年8月15日、NHKドラマ『太陽の子』放送。本作はギャラクシー賞のテレビ部門9月度月間賞を受賞。「純朴さと狂気を併せ持った主人公を演じる柳楽優弥の演技力、対照的な三浦春馬の端正さと有村架純の強さ、田中裕子のすごみも素晴らしかった」と講評された。

2020年8月26日、2ndシングル『Night Diver』がリリース。自身が初めて作詞作曲を手がけた『You & I』も収録(詳しくは「影響のあった活動」項を参照)。

2020年9月、TBS系火曜ドラマ『おカネの切れ目が恋のはじまり』に準主演(遺作)。急逝により全4話完結に台本を練り直して放送。

2020年秋には、自身初のショーケースライブが東京と大阪で開催、と発表されていたが、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて開催は中止。配信での開催予定となっていた。

2020年12月〜2021年1月には、新作オリジナルミュージカル「The Illusionist - イリュージョニスト - 」の上演、併せて世界初演キャストとして三浦春馬の主演(タイトル・ロール)が決定していた。原作はピューリッツァー賞受賞作家 スティーヴン・ミルハウザーによる短編小説「Eisenheim the Illusionist(幻影師、アイゼンハイム)」で、エドワード・ノートン主演で映画化もされた話題作。演劇プロデューサーでウエストエンドのヒットメーカーとして名高いマイケル・ハリソンが企画、プロデューサーのスティーヴンのほか、脚本はピーター・ドゥーシャン、音楽はマイケル・ブルース、演出はトム・サザーランド(英語版)と、英国演劇界一流の実力派スタッフが揃っていた。三浦の逝去に伴い公演の今後については協議中。

2020年12月11日に、主演(タイトル・ロール)映画「天外者」が公開予定。(「Wikipedia」より)