とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

謎の竹篭

2010-08-06 22:44:04 | 日記
  謎の竹篭



 先頭に日傘をさした母親。左手にはハンドバッグ型の竹篭を提げている。竹篭は折り畳み式で竹の骨は黒く染めてあり、隙間は黒い網が巻いてある。その後にあどけない女の子。続いて茶色の柴犬らしき犬。一〇五歳まで絵筆を執った女性日本画家故小倉遊亀氏の「径(こみち)」の絵の素材である。昭和四一年の制作で、求道の精神を描いたと言われている。私の心に染み入る作品の一つである。この絵をどこかの美術展で見て、私は画中の竹篭と同じ物を子どもの頃見たことがあると思った。そうだ。斐川町の竹細工職人の故Nさんが作ったものだ。名画と故郷との繋がりを発見し、私は一人で興奮していた。
 そのことが契機になり、その「証拠」探しに強い関心を持ち始めた。幸い、現在県外に住んでいる故Nさんの長男に昨年の還暦同窓会でたまたま会ったので尋ねてみた。「間違いないよ」。そう彼は懐かしそうに言った。私は舞い上がりそうになる心を抑えて、その裏づけを得ようと、所蔵している東京芸大美術館の関係者に確かめた。その方は鎌倉の小倉遊亀氏のご遺族の住所を教えてくださった。私は即刻手紙を出した。すると、養女さんか、お孫さんか分からないが、女性の方から電話を頂いた。「あの竹篭は一品ものではございません。プラスチック製で、お手伝いさんが使っていたものです」。私は愕然とした。プラスチック? そりゃ記憶違いだ。そうに違いない。どちらにしても原型は確かにNさんが作ったものだ。私は必死に「Nさんの竹篭」の世界に取りすがった。しかし、現段階では私の思いはまだ夢にくるまれた謎に過ぎないのである。(2004投稿)

「森のくまさん」

2010-08-06 14:26:09 | 日記
  「森のくまさん」

 「森のくまさん」の童謡で「お嬢さん」が落としたのはイヤリングである、○か×か。これは、私の町の地区民体育大会のアトラクション「○×ゲーム」の問題である。私は「×」のエリアに移ったので見事失格。子どもたちが勝ち残った。
私はその悔しさから、翌日歌詞を調べてみた。確かに「貝がらの小さなイヤリング」とある。作詞者は馬場祥弘氏である。全体をよく読んでみると疑問が次々湧いてきた。動物である「くまさん」が少女に「おにげなさい」と言葉を喋るのはメルヘンとしてよくある。しかし正確に書くと「自分に食べられたくなかったらおにげなさい」となる。また、逃がしておきながら少女が落としたイヤリングを熊が追いかけて返している。そして最後にそのお礼に少女が歌を歌っている。ほのぼのとした森の雰囲気が感じられるが、メルヘンとして少し無理があると私は思った。
更に調べてみると、実は原作はアメリカ民謡であった。しかも主人公は男である! ある日森の中で男は熊と出合った。熊は「お前は銃を持っていないようだが逃げなくてもいいかな?」と言う。男は一目散に逃げる。しかし危機一髪のところで助かる。男は今度は銃を持って出かけて熊を仕留め部屋の敷物にしてしまうのである。まことに残酷な話である。だから原作の歌詞は大変長い。曲を二回繰り返して歌うように作られていたのである。
日本ではどうして子ども向けの歌詞になったのか? どうして男が少女に変わったのか? 謎が深まるばかりであるが、本当は怖い歌だと子どもたちに私は教えたくない。
(2004投稿)

新聞配達

2010-08-06 06:04:43 | 日記
新聞配達



 日本の新聞の一日の発行部数は約五千三百六十万部。そのうち五千万部もの新聞が約四十六万五千人の新聞配達員によって、毎日戸別配達されている。お世話になってます! 
 実は私の家も昭和三十年代後半から十数年間、某新聞の専売店をしていた。私と妻はサラリーマンだったので、配達は母と弟と従業員が行っていた。配達部数はよく覚えていない。最初の頃は母が国鉄の駅まで早朝新聞の荷物を取りに出ていた。その後トラック便の輸送となり、母の仕事は多少楽になった。しかし、どんな天気の日でも暗いうちに配達に出る母たちに、私はいつも心を痛めていた。夜はチラシ広告の折り込みのセットの仕事があった。この手仕事は時間との闘いなので、帰宅すると私や妻も手伝った。正月前などは枚数が多すぎて、紅白歌合戦を横目で見ながらの作業となった。・・・・・・懐かしい思い出である。
 私は今年四月の退職直後、近くの新聞販売店でチラシ広告の折り込みの従業員を募集していたので頼みに行った。ところが誰かに先を越された。その店には折りたたみ機械があり、フル稼働していた。その機械を珍しげに見ていると、操作をしていた中年の男の人が「機械があっても立ち仕事で大変ですよ。それでもよかったら、欠員が出次第連絡しますから・・・・・・」と笑顔で答えてくださった。
 しかしその後何の連絡もない。新聞が毎朝、毎夕受け箱に届いているのを見るにつけ、昔を思い出して感謝している。  (2004投稿)

二十四の瞳

2010-08-06 05:56:13 | 日記
二十四の瞳


 年の瀬になると、自ずと人は回顧的になる。NHK連続テレビ小説「わかば」の母親役田中裕子さんの姿を見ていて、昭和六十三年にタイムスリップしてしまった。場所は小豆島である。
 私は、その年の夏は文芸部の文学散歩で生徒たちと壷井栄の故郷を訪ねる旅をした。土庄港でフェリーを降りた。すると、「平和の群像」が私たちを迎えてくれた。「二十四の瞳」に登場する大石先生と十二人の子どもたちのブロンズ像である。そこで記念撮影をするとレンタサイクルで岬の分教場へ向かった。明治三十五年に建てられた建物の中を覗くと、黒板の前に高峰秀子さんが立っている幻を見た。昭和二十九年制作の「二十四の瞳」第一作は本物の校舎で撮影されたそうである。
 それから私たちは第二作が撮影された分教場のオープンセットへと急いだ。途中に昭和初期の町並みが再現されていて、田中裕子さんが自転車に乗って走っているシーンを思い出した。その通りを抜けると、先ほど見た校舎とそっくりの建物が見えてきた。近づいてよく見ると間取りなど旨く作ってあり、大道具係の技術に驚嘆した。
 校庭からは瀬戸内海の青い海原が見え、旅の疲れを癒してくれた。歳を重ねて涙もろくなった大石先生を息子が舟で送り迎えしたのも確かこの海だったと私は思った。連れてきた生徒たちははしゃいで波と戯れていた。この一帯は今「映画村」となっている。
 田中裕子さんが演じた大石先生は、おっとりした感じで包容力があった。「辛いことがあったらいつでもいらっしゃい。一緒に泣いてあげる」。私は、テレビの中から大石先生の優しい声がしたような気がした。それは遠い空から届いた作者の声かもしれない。
                          (2004投稿)


モネ作品への誤解

2010-08-06 05:50:13 | 日記
モネ作品への誤解



 一雨ごとに秋の空気が濃くなっていく昨日、今日。体育の秋、芸術の秋到来である。だからというわけではないが、私は不意に美術関係の本を手にしていた。
書名は『西洋美術館』(小学館)である。部厚い本なのでまだ通して読んでいない。そこで私の好きなモネの作品のページを開いて見ていた。目に止まったのが「夕日の積み藁」。出雲地方の「シシス」によく似たフォルムの藁塚が描いてあるあまりにも有名な作品である。解説を読んでいて驚いた。積んであるのは藁ではなく、麦の穂だそうだ。最近の研究で明らかになったという。
私だけが知らなかったのだろうか。私は驚くとともにこの絵に対する見方が大きく変わってしまった。麦の実が屋根の形に積んであったのである。だから同書では「モチーフがもつ『豊穣』などの意味を重視する必要がある」と解説する。単に形の面白さ、光の美しさだけに注目していた私の鑑賞態度が根本から揺らいでしまった。すると夕日はなんだろう。これも解説から引用する。「生命を育むものとしての光」、「後半期のモネは、むしろ光の神秘を感じ取るようになり・・・・・・」。
 そうか、そうか、とり憑(つ)かれたように繰り返し積み藁を描いていたモネの心の底にはそういう大きな世界観が広がっていたのか。「生命」を育む太陽。そう考えると、まだ見ぬジヴェルニーの土地が私の心の中にすうっと入り込んできた。  (2004年投稿)