とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 84 花の三度笠・長谷川一夫

2017-01-31 16:22:20 | 日記
花の三度笠(小畑 実)


長谷川一夫というと、この唄をすぐに思い出します。当時小学生だったAは小学校の講堂での映画会が楽しみでた。映画館がないので年に何回か小学校で夜の映画会がありました。当時股旅物が流行っていて、流行歌にその主題歌がよく登場しました。

「花の三度笠」歌詞(UTA-NET)


歌詞の中で「かわやこやなぎ・・・」とか、「せわにくだけて・・・」とか、意味がよく分からない言葉がありましたが、聴いたまま歌っていました。
映像としては、長谷川一夫の振りが一番カッコイイと思っていました。敵の家でさんざん相手をこらしめて、「邪魔ーしたな」と言って引き下がる。その姿に痺れていました。木で剣を作り腰に差してチャンバラごっこをしていました。


Wikiより

長谷川 一夫(はせがわ かずお、1908年2月27日 - 1984年4月6日)は、日本の俳優。旧芸名に林 長丸(はやし ちょうまる)、林 長二郎(はやし ちょうじろう)。愛称は長さん。
戦前から戦後にかけて、二枚目の時代劇スターとして活躍し、同時代の剣戟俳優である阪東妻三郎、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。歌舞伎界から松竹に入り、松竹時代劇の看板俳優となった。その後東宝、大映と移り、300本以上の作品に出演。舞台やテレビドラマでも大きな活躍を見せており、晩年には宝塚歌劇『ベルサイユのばら』の初演で演出を行った。没後、俳優初の国民栄誉賞を受賞。
最初の妻は初代中村鴈治郎の次女・林たみ。のちに離婚し、新橋の名妓・飯島繁と再婚。俳優の林成年は長男、女優の長谷川季子と長谷川稀世は長女・次女、また稀世の娘に女優の長谷川かずきがいる。(Wikiより)



(画像はhttp://ameblo.jp/rojiura-kinema/entry-12111967909.htmlより借用)

あちこち「SYOWA」 83 ♪ Roman Holiday (1953) Full Movie

2017-01-30 00:20:51 | 日記
何度見てもヘップバーンは美しい。演技力も抜群。ただ「ローマの休日」は最初別の女優が候補に挙がっていたといいます。しかし、結果として彼女の天性の才能が花開きアカデミー主演女優賞を獲得しました。Aの忘れることのできない映画の一つです。


Wikiより
♪ Roman Holiday (1953) Full Movie


オードリー・ヘプバーン(英: Audrey Hepburn、1929年5月4日 - 1993年1月20日)は、イギリス人で、アメリカ合衆国の女優。日本ではヘップバーンと表記されることも多い。ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびにファッション界のアイコンとして知られる。アメリカン・フィルム・インスティチュート (AFI) の「最も偉大な女優50選」では第3位にランクインしており、インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも殿堂入りしている。
ヘプバーンはブリュッセルのイクセルで生まれ、幼少期をベルギー、イングランドで過ごした。オランダにも在住した経験があり、第二次世界大戦中にはナチス・ドイツが占領していたオランダのアーネムに住んでいたこともあった。各種資料の一部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものがある。これは、戦時中にナチス・ドイツ占領下にあったオランダで、「オードリー」という名があまりにイギリス風であることを心配した母エラが、自らの名前をもじって(EllaをEddaとした)一時的に変えたものである[1]。5歳ごろからバレエを初め、アムステルダムではソニア・ガスケル (en:Sonia Gaskell) のもとでバレエを習い、1948年にはマリー・ランバートにバレエを学ぶためにロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に立った経験がある。
イギリスで数本の映画に出演した後に、1951年のブロードウェイ舞台作品『ジジ』(en:Gigi (1951 play)) で主役を演じ、1953年には『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得した。その後も『麗しのサブリナ』(1954年)、『尼僧物語』(1959年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『暗くなるまで待って』(1967年)などの人気作、話題作に出演している。女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞、英国アカデミー賞を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品である『オンディーヌ』(en:Ondine (play)) でトニー賞を受賞している。さらにヘプバーンは死後にグラミー賞とエミー賞も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっている。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 82 川端康成 1968年ノーベル文学賞受賞 三人目の日本人ノーベル賞受賞

2017-01-28 18:10:09 | 日記
日本人の文学が世界的な賞を受けるとは夢にも思っていませんでした。拙い文章を書き始めたAは驚くとともに新聞に掲載された記念講演の文章を繰り返し繰り返し読みました。道元禅師の歌は今でもはっきり覚えています。この歌は道元禅師が永平寺の夜空を眺めて詠ったものだそうです。

  春は花夏ほととぎす秋は月
         冬雪さえて冷しかりけり


川端康成 1968年ノーベル文学賞受賞 三人目の日本人ノーベル賞受賞


「美しい日本の私」

『美しい日本の私―その序説』(うつくしいにほんのわたし――そのじょせつ)は、川端康成の評論。1968年(昭和43年)12月10日、日本人として初のノーベル文学賞を授与された川端(当時69歳)が、12月12日にストックホルムのスウェーデン・アカデミーで行われた授賞記念講演において演説した芸術観・文化論である。
日本人の美の心を端的に語った『美しい日本の私―その序説』は、世界に向かい、広く日本の古典文学・芸術を紹介し、その根底をなす伝統的な日本人の心性や思想の特質、西欧と異なる死生観などを説いた日本文化論であると同時に、現代の日本文学者・川端自身の心根にも、その伝統が脈々と受け継がれていることを宣言した記念碑的な作品である。
講演の全文は同年12月17日の朝日新聞ほか各紙に掲載され、翌1969年(昭和44年)3月16日に、旧仮名遣いで講談社現代新書より英訳付きで単行本刊行された。文庫版も同社より刊行されている。翻訳版はエドワード・G・サイデンステッカー(英題:Japan, the Beautiful, and Myself)をはじめ、各国で行われている。


川端康成はまず、道元や明恵の古歌に心を惹かれることを、それぞれの詩句を挙げて説明し、そこに感じる自然と融合した日本人の心を説明している。月を見て月に話しかける「自然と合一」している心情、四季折々の〈雪月花〉の美に触れ、感動にめぐり合った時、共に見たいと思う友(広く人間)を思う心など、自然を愛し見つめ、それを友とした古の日本人の心や宗教観を語っている。そして、良寛の辞世の歌や、35歳で自殺した芥川龍之介が遺書の中で書いた、〈末期の眼〉という言葉に惹かれたことを関連させながら、人の末期の眼には自然はいっそう美しく映じるものだということ、「自分の死後も自然はなほ美しい」という感覚の世界を説明し、日本人にとっては生の場合と同様に死も、自然との合一、自然への回帰であるというような豊饒自在な世界を説明し、西洋人の死の見方との違いを語っている。
また、童話などで柔和な和尚として親しまれている一休禅師が、実は「峻厳深念」の禅僧で二度も自殺を企てたことと、宗教の形骸に反逆し、「人間の実存、生命の本然の復活、確立」を目ざしたことなどを説明し、一休の唱えた、〈仏界入り易く、魔界入り難し〉という言葉に惹かれたことを語り、〈魔界〉なくして〈仏界〉はないと述べている。そして、親鸞にも垣間見られた孤独において道を拓く仏徒の運命は、芸術家の運命でもあることを語り、禅宗に「偶像崇拝」はなく、日本人の〈無〉は、西欧風の虚無ではなく、むしろその逆であるとし、「万有が自在に通ふ空、無涯無辺、無尽蔵の心の宇宙」について触れている。
そして、そこから生まれてくる東洋画の精神、生け花などの美意識、日本庭園と西洋の庭園の違いを〈枯山水〉などを例に説明しつつ、露をふくませた一輪の白いつぼみの椿や牡丹に「花やかさ」を見る日本人の感覚、生け花や焼き物に表れている芸道、「白」に最も多くの色を見、〈無〉にすべてを蔵する美意識、心の豊かさを内に包んで簡素閑寂を愛する心を語っている。また、藤の花に女性的優雅を見た『伊勢物語』の一節を引きながら、『古今集』、『新古今集』、『源氏物語』、『枕草子』など日本の美の伝統を形づくっていった文学作品に触れ、特に『源氏物語』は日本の最高の長編小説であり、この名作への憧れから「真似や作り変へ」が幾百年も続き、これに及ぶ小説が日本にないこと、川端自身、『源氏物語』を少年時代から親しみ、その心がしみこんでいることを語り、これらすべての古典文学や歌に流れている東洋的な虚空であるところの〈無〉、自然意識を永福門院の歌などを引いて説明している。
そして最後に、川端自身の作品が「虚無」と評されることに対し、それは「西洋流のニヒリズム」という言葉は当てはまらず、「心の根本」が違うことを述べ、道元の四季の美の歌も実は強く「〈禅〉に通じたもの」だとしている。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 81 アカシアの雨がやむとき (西田佐知子)

2017-01-28 16:33:52 | 日記
「アカシアの雨がやむとき」は、60年安保当時の世相を表現するテーマ曲のように扱われており、その物憂げな歌声はニュース映像のBGMで使用されることが多く見受けられる。

そうでした。そうでした。この唄、このメロディー。ビブラートなしのスーッと尻尾を伸ばす歌い方。Aは憧れていました。この唄い方ができる歌手は他にはいません。澄んだのびやかな歌声。そうですね、物憂げでしょうか ? Aは透明なイメージを持っています。家庭に入ったのち全く唄わなくなった。残念でなりません。

アカシアの雨がやむとき (西田佐知子)


西田 佐知子(にしだ さちこ、本名:関口 佐智子。1939年1月9日 - )は、日本の元歌手。愛称は「さっちん」。夫は俳優・テレビ司会者・タレントの関口宏、俳優・タレントの関口知宏は息子。

西田佐知子 エリカの花散るとき


来歴・人物

大阪府大阪市城東区生まれ。帝国女子高等学校(現:大阪国際滝井高等学校)卒業後、西田佐智子の名で歌手デビュー。それ以前には、「浪花けい子」の名で活動したこともあった。代表作「アカシアの雨がやむとき」は、60年安保当時の世相を表現するテーマ曲のように扱われており、その物憂げな歌声はニュース映像のBGMで使用されることが多く見受けられる。
1971年3月24日の結婚後は仕事をセーブし、オリジナル作品のほか歌謡曲・演歌・ニューミュージックなどのカバー作品も発表し、レコーディング活動が中心となっていたが、1982年発売のシングルレコード「テレビを見ている女」を最後に、現在は専業主婦となっている。1990年には、作詞家としての活動があった。
この時期の多くのスター歌手はモノラルとステレオの端境期を体験しており、過去のモノラル録音曲をステレオで再録音する歌手も多かった。結婚後の1970年代後半にモノラル時代の主要曲をアルバム用にステレオ再録音したが、現在は廃盤となっている。また、現在発売されるコンピレーション・アルバムでは、モノラル録音のものはそのモノラル・オリジナル音源を収録することで統一されている。
「初めての街で」は現在も菊正宗酒造のTVコマーシャルで歌声が使用されているが、2009年にはジェロが歌うバージョンも使用された。
                                                   (Wikiより)

あちこち「SYOWA」 80 七人の侍

2017-01-26 11:43:49 | 日記
この作品をどのタイミングで貼り付けようかと今まで思案していました。世界の映画界に多大な影響を与えた黒澤映画。その最高傑作。・・・もう余分なコメントは要らないと思います。

七人の侍(プレビュー)


『七人の侍』(しちにんのさむらい)は、1954年(昭和29年)4月26日に公開された日本映画である。東宝製作・配給。監督は黒澤明、主演は三船敏郎と志村喬。白黒、スタンダード、207分。
当時の通常作品の7倍ほどに匹敵する製作費をかけ、何千人ものスタッフ・キャストを動員、1年余りの撮影期間がかかったが、興行的には成功し、700万人の観客動員を記録した。日本の戦国時代(劇中の台詞によると1586年[2])を舞台とし、野武士の略奪により困窮した百姓に雇われる形で集った七人の侍が、身分差による軋轢を乗り越えながら協力して野武士の一団と戦う物語。
黒澤が初めてマルチカム方式(複数のカメラで同時に撮影する方式)を採用し、望遠レンズを多用した。ダイナミックな編集を駆使して、豪雨の決戦シーンなど迫力あるアクションシーンを生み出した。さらにその技術と共に、シナリオ、綿密な時代考証などにより、アクション映画・時代劇におけるリアリズムを確立した。
黒澤が尊敬するジョン・フォードの西部劇映画から影響を受け、この作品自体も世界の映画人・映画作品に多大な影響を与えた。1960年にはアメリカで『荒野の七人』としてリメイクされている。ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞。(Wikiより)

キャスト

  三船敏郎 志村喬 加東大介 木村功 千秋実 宮口精二 稲葉義男