とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

(番外)Technical Difficulties (Racer X Cover) from HOLY WINTER LIVE 2014

2017-03-31 23:59:37 | 日記
後世畏るべし。
プロデビューした天才少女ギタリストが現る!!!


Technical Difficulties (Racer X Cover) from HOLY WINTER LIVE 2014


Li-sa-X(りーさーえっくす、本名非公表、2005年(平成17年)2月8日 - )は、日本の女性ギタリストである。

5歳のころから父親の影響によりギターを始める。2014年、Youtube上に演奏動画を公開したところ、その超絶テクニックに反響は大きく、「ヘヴィメタルの未来を担う天才少女」(MTV)、「将来が楽しみな名キッズ・ギタープレイヤー」(VH1)などと言及されている。
動画を見たギタリストのポール・ギルバートから特別レッスンのオファーを受け、現在オンラインでレッスンを受けており3年目に入っている。2016年9月にポール・ギルバートが来日公演を行った際、ゲストとして共演している。

アルバム

ナンバーワン80s METALヒッツ(2016年8月10日発売、規格品番SICO4942、ボーナストラックとして収録)
セレンディピティ(2017年3月8日発売)(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 128 JOHN LENNON WALL

2017-03-31 16:50:31 | 日記
チェコのプラハに「ジョン・レノンの壁」というのがあるということを知って、AKIRAは無性に行きたくなりました。ここで、こういう風にストリート・ミュージシャンが絶え間なく唄っているいるといいます。1980年12月8日ジョンが亡くなってから追悼の絵や言葉が壁に書き込まれるようになったそうです。消されても消されても書き続けられたそうです。

JOHN LENNON WALL - TRAVEL PRAGUE


ここのページを参照ください。

釣人の散歩道

ジョン・レノン殺害事件

1980年12月8日の午前中、自宅アパートのダコタ・ハウスでジョンはアニー・リーボヴィッツによる『ローリング・ストーン』掲載用写真のフォトセッションに臨んだ。11月に発売されたニューアルバム『ダブル・ファンタジー』では、整髪料をまったくつけないマッシュルームカットのヘアスタイルにトレードマークの眼鏡を外し、ビートルズ全盛期の頃のように若返った姿が話題を呼んだが、この日のジョンはさらに短く髪をカットし、グリースでリーゼント風に整え、眼鏡を外して撮影に臨んだ。その姿はデビュー前、ハンブルク時代を彷彿とさせるものであった(10月ごろには伯母ミミに電話で、「学生の頃のネクタイを出しておいてよ」と頼んでいる)。

フォトセッションを終えてしばらく自宅でくつろいだ後、17時にはヨーコの新曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミックスダウン作業のため、レノンはニューヨーク市内にあるレコーディングスタジオ「ザ・ヒット・ファクトリー」へ出掛けた。
一方、レノン夫妻は「ザ・ヒット・ファクトリー」にてラジオ番組のインタヴューを受ける。この最期のインタヴューで、レノンは新作や近況についてや、クオリーメン時代のこと、マッカートニーやハリスンとの出会いについて語っている。そして、「死ぬならヨーコより先に死にたい」、「死ぬまではこの仕事を続けたい」などと発言をしている[26]。
22時50分、スタジオ作業を終えたレノンとヨーコの乗ったリムジンがアパートの前に到着した。2人が車から降りた時、その場に待ち構えていたマーク・チャップマンが暗闇から「レノン?」と呼び止めると同時に拳銃を両手で構え5発を発射、4発がレノンの胸、背中、腕に命中し、彼は「撃たれた! (I'm shot!)」と2度叫びアパートの入り口に数歩進んで倒れた。警備員は直ちに911番に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分で到着した。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 127 三つの戦争

2017-03-30 07:23:58 | 日記
第二次世界大戦後の忌まわしい戦争。AKIRAは後世の戒めのためにここに記録しておきたく思いました。今も続いている紛争・戦闘が一日も早く収束することを、和平が実現することを心から願っています。

朝鮮戦争(ちょうせんせんそう、1950年6月25日 - 1953年7月27日休戦)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡り北朝鮮が、国境線と化していた38度線を越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争。
分断国家朝鮮の両当事国、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国のみならず、東西冷戦の文脈の中で西側自由主義陣営諸国と1949年10月1日に建国された成立間もない中華人民共和国が交戦勢力として参戦し、3年間に及ぶ戦争は朝鮮半島全土を戦場と化した後に荒廃させた。1953年7月27日に中朝連合軍と国連軍は朝鮮戦争休戦協定に署名し休戦に至ったが、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され、朝鮮半島は北部の朝鮮民主主義人民共和国と南部の大韓民国の南北二国に分断された。
現在も南北朝鮮の両国間、及び朝鮮民主主義人民共和国とアメリカ合衆国との間に平和条約は締結されておらず、緊張状態は解消されていない。休戦以来、休戦直後の1953年10月1日に調印された米韓相互防衛条約に基づいて大韓民国は北朝鮮を想定した米韓合同軍事演習を度々行い、他方朝鮮民主主義人民共和国も大韓民国への領空・領海侵犯を契機に武力衝突を勃発させている。


38度線についてはWikiのここを参照

ベトナム戦争(ベトナムせんそう, 英: Vietnam War)は、インドシナ戦争後に南北に分裂したベトナムで発生した戦争の総称。第二次インドシナ戦争(英: Second Indochina War)ともいわれた。ベトナム社会主義共和国では米国戦争(越: Chiến tranh Mỹ quốc)、対米抗戦(越: Kháng chiến chống Mỹ)、抗米救国戦争(越: Kháng chiến chống Mỹ cứu nước)などと呼ばれる。
ベトナム戦争は宣戦布告が行われなかったため、戦争がいつ開始されたかについては諸説ある。
この戦争は、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義陣営と、ソビエト社会主義共和国連邦を盟主とする共産主義陣営との間に、第二次世界大戦後に生じた対立(いわゆる冷戦)を背景とした代理戦争でもあった。
ホー・チ・ミンが率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)側は、南ベトナムを「アメリカ合衆国の傀儡国家」と規定し、共産主義イデオロギーを背景に、ベトナム人による南北ベトナム統一独立国家の建国を求めるナショナリズムに基づく植民地解放戦争であるとした。
第一次インドシナ戦争終結後も、北ベトナムが支援する南ベトナム解放民族戦線(アメリカ合衆国民はベトコンと呼称)が南ベトナムで武力を用いた反政府活動を続けたため、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー政権は少数のアメリカ軍人からなる「軍事顧問団」を南ベトナムに派遣した。その後ジョン・F・ケネディ大統領は軍事顧問団の規模を増大させることで事実上の正規軍の派兵を進めた。リンドン・ジョンソン大統領は大規模な正規軍を送ってベトナム戦争に積極的に介入した。
アメリカの他にSEATO(東南アジア条約機構)の主要構成国である韓国、タイ、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドが南ベトナムに派兵した。ソビエト連邦や中華人民共和国は、北ベトナムに対して軍事物資支援を行うとともに多数の軍事顧問団を派遣したが、アメリカやSEATO諸国のように前面に出る形での参戦は行わなかった。北朝鮮は飛行大隊を派遣し、ハノイの防空を支援した。
ベトナム戦争をめぐって世界各国で大規模な反戦運動が発生し、社会に大きな影響を与えた。1973年のパリ協定を経てリチャード・ニクソン大統領は派遣したアメリカ軍を撤退させた。その後も北ベトナム・南ベトナム解放民族戦線と南ベトナムとの戦闘は続き、1975年4月30日のサイゴン陥落によってベトナム戦争は終戦した。

湾岸戦争(わんがんせんそう、英語:Gulf War、アラビア語: حرب الخليج الثانية‎)は、1990年8月2日にイラクのクウェート侵攻をきっかけに、国際連合が多国籍軍(連合軍)の派遣を決定し、1991年1月17日にイラクを空爆して始まった戦争である。
1990年8月2日、イラク軍は隣国クウェートへの侵攻を開始し、8月8日にはクウェート併合を発表した。これに対し、諸外国は第2次世界大戦後初となる、一致結束した事態解決への努力を始めた[11]。国際連合安全保障理事会はイラクへの即時撤退を求めるとともに、11月29日に武力行使容認決議である決議678を米ソは一致して可決し、マルタ会談とともに当時の冷戦の終結を象徴した。翌年1月17日にアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領はアメリカ軍部隊をサウジアラビアへ展開し、同地域への自国軍派遣を他国へも呼びかけた。諸国政府はこれに応じ、いわゆる多国籍軍が構成された。アメリカ軍が多くを占めるこの連合軍にはノーマン・シュワルツコフ米陸軍中将が司令官となり、イギリスやフランスなどといったヨーロッパのみならず、イスラム世界の盟主サウジアラビアを始めとする湾岸諸国やアラブ連盟の盟主エジプトといった親米アラブ諸国、さらにイラクと同じバアス党政権のシリアのような親ソ連の国も参加した。この湾岸戦争に参加したアラブ諸国はシュワルツコフではなく、サウジアラビアのハリド・ビン・スルタン(英語版)陸軍中将の指揮下に置かれた。
国際連合により認可された、34ヵ国の諸国連合からなるアメリカ、イギリスをはじめとする多国籍軍は、バース党政権下のイラクへの攻撃態勢を整えていった。イラク政府による決議履行への意思無きを確認した諸国連合は、国連憲章第42条に基づき、1991年1月17日にイラクへの侵略を開始した。
イラクのサッダーム・フセイン大統領は開戦に際し、この戦いを「すべての戦争の母」と称した。また呼称による混乱を避けるため、軍事行動における作戦名から「砂漠の嵐作戦」とも呼ばれるこの戦争は、「第1次湾岸戦争」、また2003年のイラク戦争開始以前は、「イラク戦争」とも称されていた。
このクウェートの占領を続けるイラク軍を対象とする戦争は、多国籍軍による空爆から始まった。これに続き、2月23日から陸上部隊による進攻が始まった。多国籍軍はこれに圧倒的勝利をおさめ、クウェートを解放した。陸上戦開始から100時間後、多国籍軍は戦闘行動を停止し、停戦を宣言した。
空中戦及び地上戦はイラク、クウェート、及びサウジアラビア国境地域に限定されていたが、イラクはスカッドミサイルをサウジアラビア及びイスラエルに向け発射した。
戦費約600億ドルの内、約400億ドルはサウジアラビアから支払われた。(Wikiより)


あちこち「SYOWA」 126 芥川龍之介 「藪の中」

2017-03-29 00:40:22 | 日記
これもSYOWAではありませんね。
藪の中。真実は藪の中。・・・最近の世相、政治、などを見ていますと、全く真実が分からないのです。真実はどこに・・・。

オーディオブック サンプル 芥川龍之介 「藪の中」


藪の中
芥川龍之介


+目次

検非違使けびいしに問われたる木樵きこりの物語

 さようでございます。あの死骸しがいを見つけたのは、わたしに違いございません。わたしは今朝けさいつもの通り、裏山の杉を伐きりに参りました。すると山陰やまかげの藪やぶの中に、あの死骸があったのでございます。あった処でございますか? それは山科やましなの駅路からは、四五町ほど隔たって居りましょう。竹の中に痩やせ杉の交まじった、人気ひとけのない所でございます。
 死骸は縹はなだの水干すいかんに、都風みやこふうのさび烏帽子をかぶったまま、仰向あおむけに倒れて居りました。何しろ一刀ひとかたなとは申すものの、胸もとの突き傷でございますから、死骸のまわりの竹の落葉は、蘇芳すほうに滲しみたようでございます。いえ、血はもう流れては居りません。傷口も乾かわいて居ったようでございます。おまけにそこには、馬蠅うまばえが一匹、わたしの足音も聞えないように、べったり食いついて居りましたっけ。
 太刀たちか何かは見えなかったか? いえ、何もございません。ただその側の杉の根がたに、縄なわが一筋落ちて居りました。それから、――そうそう、縄のほかにも櫛くしが一つございました。死骸のまわりにあったものは、この二つぎりでございます。が、草や竹の落葉は、一面に踏み荒されて居りましたから、きっとあの男は殺される前に、よほど手痛い働きでも致したのに違いございません。何、馬はいなかったか? あそこは一体馬なぞには、はいれない所でございます。何しろ馬の通かよう路とは、藪一つ隔たって居りますから。

検非違使に問われたる旅法師たびほうしの物語

 あの死骸の男には、確かに昨日きのう遇あって居ります。昨日の、――さあ、午頃ひるごろでございましょう。場所は関山せきやまから山科やましなへ、参ろうと云う途中でございます。あの男は馬に乗った女と一しょに、関山の方へ歩いて参りました。女は牟子むしを垂れて居りましたから、顔はわたしにはわかりません。見えたのはただ萩重はぎがさねらしい、衣きぬの色ばかりでございます。馬は月毛つきげの、――確か法師髪ほうしがみの馬のようでございました。丈たけでございますか? 丈は四寸よきもございましたか? ――何しろ沙門しゃもんの事でございますから、その辺ははっきり存じません。男は、――いえ、太刀たちも帯びて居おれば、弓矢も携たずさえて居りました。殊に黒い塗ぬり箙えびらへ、二十あまり征矢そやをさしたのは、ただ今でもはっきり覚えて居ります。
 あの男がかようになろうとは、夢にも思わずに居りましたが、真まことに人間の命なぞは、如露亦如電にょろやくにょでんに違いございません。やれやれ、何とも申しようのない、気の毒な事を致しました。

検非違使に問われたる放免ほうめんの物語

 わたしが搦からめ取った男でございますか? これは確かに多襄丸たじょうまると云う、名高い盗人ぬすびとでございます。もっともわたしが搦からめ取った時には、馬から落ちたのでございましょう、粟田口あわだぐちの石橋いしばしの上に、うんうん呻うなって居りました。時刻でございますか? 時刻は昨夜さくやの初更しょこう頃でございます。いつぞやわたしが捉とらえ損じた時にも、やはりこの紺こんの水干すいかんに、打出うちだしの太刀たちを佩はいて居りました。ただ今はそのほかにも御覧の通り、弓矢の類さえ携たずさえて居ります。さようでございますか? あの死骸の男が持っていたのも、――では人殺しを働いたのは、この多襄丸に違いございません。革かわを巻いた弓、黒塗りの箙えびら、鷹たかの羽の征矢そやが十七本、――これは皆、あの男が持っていたものでございましょう。はい。馬もおっしゃる通り、法師髪ほうしがみの月毛つきげでございます。その畜生ちくしょうに落されるとは、何かの因縁いんねんに違いございません。それは石橋の少し先に、長い端綱はづなを引いたまま、路ばたの青芒あおすすきを食って居りました。
 この多襄丸たじょうまると云うやつは、洛中らくちゅうに徘徊する盗人の中でも、女好きのやつでございます。昨年の秋鳥部寺とりべでらの賓頭盧びんずるの後うしろの山に、物詣ものもうでに来たらしい女房が一人、女めの童わらわと一しょに殺されていたのは、こいつの仕業しわざだとか申して居りました。その月毛に乗っていた女も、こいつがあの男を殺したとなれば、どこへどうしたかわかりません。差出さしでがましゅうございますが、それも御詮議ごせんぎ下さいまし。

検非違使に問われたる媼おうなの物語

 はい、あの死骸は手前の娘が、片附かたづいた男でございます。が、都のものではございません。若狭わかさの国府こくふの侍でございます。名は金沢かなざわの武弘、年は二十六歳でございました。いえ、優しい気立きだてでございますから、遺恨いこんなぞ受ける筈はございません。
 娘でございますか? 娘の名は真砂まさご、年は十九歳でございます。これは男にも劣らぬくらい、勝気の女でございますが、まだ一度も武弘のほかには、男を持った事はございません。顔は色の浅黒い、左の眼尻めじりに黒子ほくろのある、小さい瓜実顔うりざねがおでございます。
 武弘は昨日きのう娘と一しょに、若狭へ立ったのでございますが、こんな事になりますとは、何と云う因果でございましょう。しかし娘はどうなりましたやら、壻むこの事はあきらめましても、これだけは心配でなりません。どうかこの姥うばが一生のお願いでございますから、たとい草木くさきを分けましても、娘の行方ゆくえをお尋ね下さいまし。何に致せ憎いのは、その多襄丸たじょうまるとか何とか申す、盗人ぬすびとのやつでございます。壻ばかりか、娘までも………(跡は泣き入りて言葉なし)
       ×          ×          ×

多襄丸たじょうまるの白状

 あの男を殺したのはわたしです。しかし女は殺しはしません。ではどこへ行ったのか? それはわたしにもわからないのです。まあ、お待ちなさい。いくら拷問ごうもんにかけられても、知らない事は申されますまい。その上わたしもこうなれば、卑怯ひきょうな隠し立てはしないつもりです。
 わたしは昨日きのうの午ひる少し過ぎ、あの夫婦に出会いました。その時風の吹いた拍子ひょうしに、牟子むしの垂絹たれぎぬが上ったものですから、ちらりと女の顔が見えたのです。ちらりと、――見えたと思う瞬間には、もう見えなくなったのですが、一つにはそのためもあったのでしょう、わたしにはあの女の顔が、女菩薩にょぼさつのように見えたのです。わたしはその咄嗟とっさの間あいだに、たとい男は殺しても、女は奪おうと決心しました。
 何、男を殺すなぞは、あなた方の思っているように、大した事ではありません。どうせ女を奪うばうとなれば、必ず、男は殺されるのです。ただわたしは殺す時に、腰の太刀たちを使うのですが、あなた方は太刀は使わない、ただ権力で殺す、金で殺す、どうかするとおためごかしの言葉だけでも殺すでしょう。なるほど血は流れない、男は立派りっぱに生きている、――しかしそれでも殺したのです。罪の深さを考えて見れば、あなた方が悪いか、わたしが悪いか、どちらが悪いかわかりません。(皮肉なる微笑)
 しかし男を殺さずとも、女を奪う事が出来れば、別に不足はない訳です。いや、その時の心もちでは、出来るだけ男を殺さずに、女を奪おうと決心したのです。が、あの山科やましなの駅路では、とてもそんな事は出来ません。そこでわたしは山の中へ、あの夫婦をつれこむ工夫くふうをしました。
 これも造作ぞうさはありません。わたしはあの夫婦と途みちづれになると、向うの山には古塚ふるづかがある、この古塚を発あばいて見たら、鏡や太刀たちが沢山出た、わたしは誰も知らないように、山の陰の藪やぶの中へ、そう云う物を埋うずめてある、もし望み手があるならば、どれでも安い値に売り渡したい、――と云う話をしたのです。男はいつかわたしの話に、だんだん心を動かし始めました。それから、――どうです。欲と云うものは恐しいではありませんか? それから半時はんときもたたない内に、あの夫婦はわたしと一しょに、山路やまみちへ馬を向けていたのです。
 わたしは藪やぶの前へ来ると、宝はこの中に埋めてある、見に来てくれと云いました。男は欲に渇かわいていますから、異存いぞんのある筈はありません。が、女は馬も下りずに、待っていると云うのです。またあの藪の茂っているのを見ては、そう云うのも無理はありますまい。わたしはこれも実を云えば、思う壺つぼにはまったのですから、女一人を残したまま、男と藪の中へはいりました。
 藪はしばらくの間あいだは竹ばかりです。が、半町はんちょうほど行った処に、やや開いた杉むらがある、――わたしの仕事を仕遂げるのには、これほど都合つごうの好いい場所はありません。わたしは藪を押し分けながら、宝は杉の下に埋めてあると、もっともらしい嘘をつきました。男はわたしにそう云われると、もう痩やせ杉が透いて見える方へ、一生懸命に進んで行きます。その内に竹が疎まばらになると、何本も杉が並んでいる、――わたしはそこへ来るが早いか、いきなり相手を組み伏せました。男も太刀を佩はいているだけに、力は相当にあったようですが、不意を打たれてはたまりません。たちまち一本の杉の根がたへ、括くくりつけられてしまいました。縄なわですか? 縄は盗人ぬすびとの有難さに、いつ塀を越えるかわかりませんから、ちゃんと腰につけていたのです。勿論声を出させないためにも、竹の落葉を頬張ほおばらせれば、ほかに面倒はありません。
 わたしは男を片附けてしまうと、今度はまた女の所へ、男が急病を起したらしいから、見に来てくれと云いに行きました。これも図星ずぼしに当ったのは、申し上げるまでもありますまい。女は市女笠いちめがさを脱いだまま、わたしに手をとられながら、藪の奥へはいって来ました。ところがそこへ来て見ると、男は杉の根に縛しばられている、――女はそれを一目見るなり、いつのまに懐ふところから出していたか、きらりと小刀さすがを引き抜きました。わたしはまだ今までに、あのくらい気性の烈はげしい女は、一人も見た事がありません。もしその時でも油断していたらば、一突きに脾腹ひばらを突かれたでしょう。いや、それは身を躱かわしたところが、無二無三むにむざんに斬り立てられる内には、どんな怪我けがも仕兼ねなかったのです。が、わたしも多襄丸たじょうまるですから、どうにかこうにか太刀も抜かずに、とうとう小刀さすがを打ち落しました。いくら気の勝った女でも、得物がなければ仕方がありません。わたしはとうとう思い通り、男の命は取らずとも、女を手に入れる事は出来たのです。
 男の命は取らずとも、――そうです。わたしはその上にも、男を殺すつもりはなかったのです。所が泣き伏した女を後あとに、藪の外へ逃げようとすると、女は突然わたしの腕へ、気違いのように縋すがりつきました。しかも切れ切れに叫ぶのを聞けば、あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ、二人の男に恥はじを見せるのは、死ぬよりもつらいと云うのです。いや、その内どちらにしろ、生き残った男につれ添いたい、――そうも喘あえぎ喘ぎ云うのです。わたしはその時猛然と、男を殺したい気になりました。(陰鬱なる興奮)
 こんな事を申し上げると、きっとわたしはあなた方より残酷ざんこくな人間に見えるでしょう。しかしそれはあなた方が、あの女の顔を見ないからです。殊にその一瞬間の、燃えるような瞳ひとみを見ないからです。わたしは女と眼を合せた時、たとい神鳴かみなりに打ち殺されても、この女を妻にしたいと思いました。妻にしたい、――わたしの念頭ねんとうにあったのは、ただこう云う一事だけです。これはあなた方の思うように、卑いやしい色欲ではありません。もしその時色欲のほかに、何も望みがなかったとすれば、わたしは女を蹴倒けたおしても、きっと逃げてしまったでしょう。男もそうすればわたしの太刀たちに、血を塗る事にはならなかったのです。が、薄暗い藪の中に、じっと女の顔を見た刹那せつな、わたしは男を殺さない限り、ここは去るまいと覚悟しました。
 しかし男を殺すにしても、卑怯ひきょうな殺し方はしたくありません。わたしは男の縄を解いた上、太刀打ちをしろと云いました。(杉の根がたに落ちていたのは、その時捨て忘れた縄なのです。)男は血相けっそうを変えたまま、太い太刀を引き抜きました。と思うと口も利きかずに、憤然とわたしへ飛びかかりました。――その太刀打ちがどうなったかは、申し上げるまでもありますまい。わたしの太刀は二十三合目ごうめに、相手の胸を貫きました。二十三合目に、――どうかそれを忘れずに下さい。わたしは今でもこの事だけは、感心だと思っているのです。わたしと二十合斬り結んだものは、天下にあの男一人だけですから。(快活なる微笑)
 わたしは男が倒れると同時に、血に染まった刀を下げたなり、女の方を振り返りました。すると、――どうです、あの女はどこにもいないではありませんか? わたしは女がどちらへ逃げたか、杉むらの間を探して見ました。が、竹の落葉の上には、それらしい跡あとも残っていません。また耳を澄ませて見ても、聞えるのはただ男の喉のどに、断末魔だんまつまの音がするだけです。
 事によるとあの女は、わたしが太刀打を始めるが早いか、人の助けでも呼ぶために、藪をくぐって逃げたのかも知れない。――わたしはそう考えると、今度はわたしの命ですから、太刀や弓矢を奪ったなり、すぐにまたもとの山路やまみちへ出ました。そこにはまだ女の馬が、静かに草を食っています。その後ごの事は申し上げるだけ、無用の口数くちかずに過ぎますまい。ただ、都みやこへはいる前に、太刀だけはもう手放していました。――わたしの白状はこれだけです。どうせ一度は樗おうちの梢こずえに、懸ける首と思っていますから、どうか極刑ごっけいに遇わせて下さい。(昂然こうぜんたる態度)

清水寺に来れる女の懺悔ざんげ

 ――その紺こんの水干すいかんを着た男は、わたしを手ごめにしてしまうと、縛られた夫を眺めながら、嘲あざけるように笑いました。夫はどんなに無念だったでしょう。が、いくら身悶みもだえをしても、体中からだじゅうにかかった縄目なわめは、一層ひしひしと食い入るだけです。わたしは思わず夫の側へ、転ころぶように走り寄りました。いえ、走り寄ろうとしたのです。しかし男は咄嗟とっさの間あいだに、わたしをそこへ蹴倒しました。ちょうどその途端とたんです。わたしは夫の眼の中に、何とも云いようのない輝きが、宿っているのを覚さとりました。何とも云いようのない、――わたしはあの眼を思い出すと、今でも身震みぶるいが出ずにはいられません。口さえ一言いちごんも利きけない夫は、その刹那せつなの眼の中に、一切の心を伝えたのです。しかしそこに閃ひらめいていたのは、怒りでもなければ悲しみでもない、――ただわたしを蔑さげすんだ、冷たい光だったではありませんか? わたしは男に蹴られたよりも、その眼の色に打たれたように、我知らず何か叫んだぎり、とうとう気を失ってしまいました。
 その内にやっと気がついて見ると、あの紺こんの水干すいかんの男は、もうどこかへ行っていました。跡にはただ杉の根がたに、夫が縛しばられているだけです。わたしは竹の落葉の上に、やっと体を起したなり、夫の顔を見守りました。が、夫の眼の色は、少しもさっきと変りません。やはり冷たい蔑さげすみの底に、憎しみの色を見せているのです。恥しさ、悲しさ、腹立たしさ、――その時のわたしの心の中うちは、何と云えば好よいかわかりません。わたしはよろよろ立ち上りながら、夫の側へ近寄りました。
「あなた。もうこうなった上は、あなたと御一しょには居られません。わたしは一思いに死ぬ覚悟です。しかし、――しかしあなたもお死になすって下さい。あなたはわたしの恥はじを御覧になりました。わたしはこのままあなた一人、お残し申す訳には参りません。」
 わたしは一生懸命に、これだけの事を云いました。それでも夫は忌いまわしそうに、わたしを見つめているばかりなのです。わたしは裂さけそうな胸を抑えながら、夫の太刀たちを探しました。が、あの盗人ぬすびとに奪われたのでしょう、太刀は勿論弓矢さえも、藪の中には見当りません。しかし幸い小刀さすがだけは、わたしの足もとに落ちているのです。わたしはその小刀を振り上げると、もう一度夫にこう云いました。
「ではお命を頂かせて下さい。わたしもすぐにお供します。」
 夫はこの言葉を聞いた時、やっと唇くちびるを動かしました。勿論口には笹の落葉が、一ぱいにつまっていますから、声は少しも聞えません。が、わたしはそれを見ると、たちまちその言葉を覚りました。夫はわたしを蔑んだまま、「殺せ。」と一言ひとこと云ったのです。わたしはほとんど、夢うつつの内に、夫の縹はなだの水干の胸へ、ずぶりと小刀さすがを刺し通しました。
 わたしはまたこの時も、気を失ってしまったのでしょう。やっとあたりを見まわした時には、夫はもう縛られたまま、とうに息が絶えていました。その蒼ざめた顔の上には、竹に交まじった杉むらの空から、西日が一すじ落ちているのです。わたしは泣き声を呑みながら、死骸しがいの縄を解き捨てました。そうして、――そうしてわたしがどうなったか? それだけはもうわたしには、申し上げる力もありません。とにかくわたしはどうしても、死に切る力がなかったのです。小刀さすがを喉のどに突き立てたり、山の裾の池へ身を投げたり、いろいろな事もして見ましたが、死に切れずにこうしている限り、これも自慢じまんにはなりますまい。(寂しき微笑)わたしのように腑甲斐ふがいないものは、大慈大悲の観世音菩薩かんぜおんぼさつも、お見放しなすったものかも知れません。しかし夫を殺したわたしは、盗人ぬすびとの手ごめに遇ったわたしは、一体どうすれば好よいのでしょう? 一体わたしは、――わたしは、――(突然烈しき歔欷すすりなき)

巫女みこの口を借りたる死霊の物語

 ――盗人ぬすびとは妻を手ごめにすると、そこへ腰を下したまま、いろいろ妻を慰め出した。おれは勿論口は利きけない。体も杉の根に縛しばられている。が、おれはその間あいだに、何度も妻へ目くばせをした。この男の云う事を真まに受けるな、何を云っても嘘と思え、――おれはそんな意味を伝えたいと思った。しかし妻は悄然しょうぜんと笹の落葉に坐ったなり、じっと膝へ目をやっている。それがどうも盗人の言葉に、聞き入っているように見えるではないか? おれは妬ねたましさに身悶みもだえをした。が、盗人はそれからそれへと、巧妙に話を進めている。一度でも肌身を汚したとなれば、夫との仲も折り合うまい。そんな夫に連れ添っているより、自分の妻になる気はないか? 自分はいとしいと思えばこそ、大それた真似も働いたのだ、――盗人はとうとう大胆だいたんにも、そう云う話さえ持ち出した。
 盗人にこう云われると、妻はうっとりと顔を擡もたげた。おれはまだあの時ほど、美しい妻を見た事がない。しかしその美しい妻は、現在縛られたおれを前に、何と盗人に返事をしたか? おれは中有ちゅううに迷っていても、妻の返事を思い出すごとに、嗔恚しんいに燃えなかったためしはない。妻は確かにこう云った、――「ではどこへでもつれて行って下さい。」(長き沈黙)
 妻の罪はそれだけではない。それだけならばこの闇やみの中に、いまほどおれも苦しみはしまい。しかし妻は夢のように、盗人に手をとられながら、藪の外へ行こうとすると、たちまち顔色がんしよくを失ったなり、杉の根のおれを指さした。「あの人を殺して下さい。わたしはあの人が生きていては、あなたと一しょにはいられません。」――妻は気が狂ったように、何度もこう叫び立てた。「あの人を殺して下さい。」――この言葉は嵐のように、今でも遠い闇の底へ、まっ逆様さかさまにおれを吹き落そうとする。一度でもこのくらい憎むべき言葉が、人間の口を出た事があろうか? 一度でもこのくらい呪のろわしい言葉が、人間の耳に触れた事があろうか? 一度でもこのくらい、――(突然迸ほとばしるごとき嘲笑ちょうしょう)その言葉を聞いた時は、盗人さえ色を失ってしまった。「あの人を殺して下さい。」――妻はそう叫びながら、盗人の腕に縋すがっている。盗人はじっと妻を見たまま、殺すとも殺さぬとも返事をしない。――と思うか思わない内に、妻は竹の落葉の上へ、ただ一蹴りに蹴倒けたおされた、(再ふたたび迸るごとき嘲笑)盗人は静かに両腕を組むと、おれの姿へ眼をやった。「あの女はどうするつもりだ? 殺すか、それとも助けてやるか? 返事はただ頷うなずけば好よい。殺すか?」――おれはこの言葉だけでも、盗人の罪は赦ゆるしてやりたい。(再び、長き沈黙)
 妻はおれがためらう内に、何か一声ひとこえ叫ぶが早いか、たちまち藪の奥へ走り出した。盗人も咄嗟とっさに飛びかかったが、これは袖そでさえ捉とらえなかったらしい。おれはただ幻のように、そう云う景色を眺めていた。
 盗人は妻が逃げ去った後のち、太刀たちや弓矢を取り上げると、一箇所だけおれの縄なわを切った。「今度はおれの身の上だ。」――おれは盗人が藪の外へ、姿を隠してしまう時に、こう呟つぶやいたのを覚えている。その跡はどこも静かだった。いや、まだ誰かの泣く声がする。おれは縄を解きながら、じっと耳を澄ませて見た。が、その声も気がついて見れば、おれ自身の泣いている声だったではないか? (三度みたび、長き沈黙)
 おれはやっと杉の根から、疲れ果てた体を起した。おれの前には妻が落した、小刀さすがが一つ光っている。おれはそれを手にとると、一突きにおれの胸へ刺さした。何か腥なまぐさい塊かたまりがおれの口へこみ上げて来る。が、苦しみは少しもない。ただ胸が冷たくなると、一層あたりがしんとしてしまった。ああ、何と云う静かさだろう。この山陰やまかげの藪の空には、小鳥一羽囀さえずりに来ない。ただ杉や竹の杪うらに、寂しい日影が漂ただよっている。日影が、――それも次第に薄れて来る。――もう杉や竹も見えない。おれはそこに倒れたまま、深い静かさに包まれている。
 その時誰か忍び足に、おれの側へ来たものがある。おれはそちらを見ようとした。が、おれのまわりには、いつか薄闇うすやみが立ちこめている。誰か、――その誰かは見えない手に、そっと胸の小刀さすがを抜いた。同時におれの口の中には、もう一度血潮が溢あふれて来る。おれはそれぎり永久に、中有ちゅううの闇へ沈んでしまった。………
(大正十年十二月)





底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
   1996(平成8)年7月15日第8刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
初出:「新潮」
   1922(大正11)年1月
入力:平山誠、野口英司
校正:もりみつじゅんじ
1997年11月10日公開
2011年5月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。(「青空文庫」より)





「藪の中」(やぶのなか)は、芥川龍之介の短編小説。初出は「新潮」1月号(1922年)、初刊は「将軍」(1922年)。複数の視点から同一の事象を描く内的多元焦点化(ジュネット)の手法がとられ、殺人と強姦という事件をめぐって4人の目撃者と3人の当事者が告白する証言の束として書かれており、それぞれが矛盾し錯綜しているために真相をとらえることが著しく困難になるよう構造化されている。その未完結性の鮮烈な印象から、証言の食い違いなどから真相が不分明になることを称して「藪の中」という言葉まで生まれた。今昔物語集を下敷きにしたいわゆる「王朝物」の最後の作品であり、創作の度合いは最も高い。また今昔物語の他にもビアス「月明かりの道」、ブラウニング「指輪と本」などとの類似が指摘されている。
芥川の作品中でも屈指の数の論文が書かれており、それ自体がこの短編の名作たるゆえんともなっているが、同時に読者が一人の目撃者として「真相の解釈」という名の証言を行うかのような状況を呈し、いまだ「真相」は見いだされていない。研究前史においては誰の証言が最も真実に近いのか、芥川の真意はどこにあるのかということが争われたが、近年ではテクストとしての意識が強まり、そういった「藪の中」論そのものを論じたり(読書行為論)、小説内における語りやそれに貫かれているコードを論じる研究が展開され始めている。

研究前史

「藪の中」研究の初期においては、影響関係に関するものを除けば、「藪の中」を研究するということは事件の真相を明らかにしようと試みることにほぼ等しかった。発端となったのは有名な中村光夫と福田恆存の間で交わされた論争である。中村が「すばる」創刊号において、真相が与えられないことを事実が整理されていない点にもとめ、それを構成の不備であるとみなして「活字の向こうに人生が見えない」と否定的な評価を下した。それに対して福田は文学界10月号で、そもそも事実というのは第三者にはわからないものであり、また三人の証言は事実ではなく三様の自己劇化を経た「心理的事実」を語っているため、矛盾していても問題はないとした。しかし福田は「真相」を必要としない超然とした態度をみせたようでいて、この後で結局は矛盾をきらい真相を再構成している。そしてこの論争に割って入った形の大岡昇平の「弁護」により、「藪の中」論の真相を求める傾向に火がつくことになった。
福田は「真実はわからないものだ」というのが「藪の中」の主題であるという前提に立っているため、真相さがしはどうでもいいことかも知れないが、これは対象たる作品の虐殺ではないだろうか。
— 大岡昇平「芥川龍之介を弁護する―事実と小説の間―」『芥川龍之介』 河出書房新社〈文芸読本〉、1975年 p.95
こうして真相探しは研究のうえで「避けることのできない問題」となり、三人の証言や典拠をつきあわせ、細部を検証して無数の論文が書かれ、同時に同じだけの「真相」が語られた。そのような流れが劇的に変化したわけではないが、三島譲や海老井英次らによって事実の再構成は「単なる推理ゲーム」であり、そもそも「藪の中」は「原画」を欠いているという主張がなされ、芥川は本来一つの真相へとまとめあげることを意図していたわけではないという流れが生まれた。こうして真相そのものではなく、なぜ真相さがしが頓挫するのか、どのようにして真相の解釈が「命じられる」のかといった方向へ研究は進んでいく。(Wikiより)

(番外)SCANDAL shoujo S (LIVE)

2017-03-28 00:25:51 | 日記
こういうユニットが出ていることを最近知りました。曲をいろいろ聞いていました。ガールズ・バンドはプリプリぐらいしか知りませんでした。しかし、曲調をよくこなして旨く、というか乗っていてすごく様になっていますね。いやいや、若い世代もやりますね。今後の活躍を注目していきたいとAKIRAは思っています。

SCANDAL shoujo S (LIVE)


SCANDAL(スキャンダル)は、大阪市都島区京橋で結成された日本の4人組ガールズバンドである。所属レコード会社はエピックレコードジャパン。所属事務所はキティエンターテインメント。

2006年8月21日にキャレスボーカル&ダンススクール大阪校に所属していたTOMOMIとRINA、名古屋校に所属していたHARUNAとMAMIの4名によって結成された。通う学校は異なったが、HARUNAとTOMOMIは顔見知り程度の面識はあった。
講師の「楽器をやってみないか?」という誘いをきっかけに楽器を始める。そうした誘いは他の生徒にもあったものの、ダンススクールのため興味を持てずに途中でやめる生徒が多い中、そのまま続けていたのがこの4人だったという。
「SCANDAL」というバンド名は、その当時ダンススクールの向かいにあった風俗店の店名に由来する。
結成後間もなく、路上パフォーマンスが多く行われる大阪城公園(城天ストリート)でのストリートライブを行い、関西地方のライブハウスでもライブを行うようになる。
2007年にPSP用ゲーム『スターオーシャン2 Second Evolution』のテーマソングの担当に抜擢される。

2008年10月22日にエピックレコードジャパンから1stシングル「DOLL」でメジャーデビューした。この曲は、FMラジオ・AMラジオ・CS放送40局でパワープレイを獲得。24日には、メジャーデビュー3日目で『ミュージックステーション』に出演。
10月25日にメジャーデビュー後初のフリーライブをKDDIデザイニングSTUDIOで開催した。当日用意された整理券240枚が即時配布終了となり、整理券を入手できなかったファンのために特別モニターが会場に用意された。同日にはデビュー4日目で『ミュージックフェア』に出演。(Wikiより)