とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

手を挙げた少年

2010-08-31 10:04:30 | 日記
手を挙げた少年



 松江市で用事をすませ、車を走らせて午後五時半ごろに斐川町の自宅近くまで帰った。農道に橋がかかっていて、その手前百メートルくらいの地点から、橋のたもとに数人の子どもが立っているのが見えた。川の向こう土手の路と農道の交差点の左側の位置だった。ちょうど橋の欄干のかげに隠れる場所だったので、見えにくかったが、先頭の小学一年くらいの少年が高く右手を挙げているのが分かった。その後ろにもう二人の子どもがいた。ルームミラーで後方を見ると、一台の普通車が私の車についてきていた。
 無視して通り過ぎることもできないことはなかった。しかしよく見ると、その少年の手の挙げ方、表情が真剣そのもので、私にはその少年の仕種が精一杯の自己表現をしているように見えた。私は自然にブレーキをかけて少年のいる手前の位置で止まった。後ろの車も止まった。三人の子どもたちはこちらに一礼すると、嬉しそうに農道を渡っていった。私は車を発車させながら、眼に焼きついたその少年の姿に感動した。
 しゃきっと伸びた手。運転している私をじっと見つめていたその輝く眼。きっと私が止まってくれると信じきっていたに違いない。登下校時ではないし、横断歩道でもないので、手を挙げて渡る習慣がその少年にはきちんと身についていたのである。
 私は、今、その少年のはつらつとした意思表示を見て、自分の心が自然と素直になったその仔細を心地よく思い出している。
 子どもに教えられる、いや、大人の濁った心が子どもの言動でにわかに澄んでくる。そういう経験は理屈を超えたさわやかな風を胸に送り込んでくれる。  (2006年投稿)

七重八重…

2010-08-31 10:01:27 | 日記
七重八重…



 世の真実は常に何歩も奥にあるということを思い知らされた経験が誰しもあると思う。特に専門外のことに軽軽に結論を出して、後でしまったと思うことが私には数え切れないほどある。例えば動植物に関してそういうことが多い。
 私の家に白い花が咲くヤマブキがある。妻が苗木を知人から貰ってきたので大切に育てていた。活着し株が張り、樹形が整ってきた。高さは一メートルちょっとであろうか。春になると、なるほど名前のように白い可憐な花が咲いた。花弁は四枚で一重咲きである。
 ある年その木は花の後で黒い実をつけた。四粒か五粒かがまとまって成り、表面がつやつやとしている。その実を見つけて私はあの有名な歌を思い出した。「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」。歌中の「実の」は「蓑」の掛詞である。これに関する伝説の説明は省略するが、この歌はヤマブキには実がならないということが前提にあって初めて成り立つし、伝説の面白さも生まれてくる。「おかしいなあ、ヤマブキには実がならないはずなのに……」と私は毎年花の咲くころになると、大発見をしたような気分になって誰かに教えてあげようと思っていた。やっと今年その事実をその道のある研究家に話すと、その方は非常に感心された。しかし、しばらくしてから重大な真実を教えていただいたのである。
 シロヤマブキはいわゆるヤマブキではなかったのである。姿が似ているのでそういう名前がついたそうである。しかも、研究家の話には重大な付録が付いていた。シロヤマブキは旧平田市の佐香の海岸の岩場に自生していて、天然記念物の指定を受けているそうである。
                             (2006年投稿)

私と戦争

2010-08-31 09:58:03 | 日記
私と戦争



 今年もまた終戦の日を迎えた。私は戦中生まれの戦後育ちで生々しい戦争体験がないのだが、戦争時代のことが気にかかってしかたがなかった。祖父母に戦争中私はどうしていたか聞いたことが何度かある。「お前はのー、空襲警報のサイレンがなーと、どこで遊んどってもとことこ歩いて防空壕にもどってきたけん」。私はそういう話を聞くと、大変な「戦争体験?」を自分もしていたような気分になっていた。
 戦後の混乱期に育ったことを象徴的に示す「事件?」に遭遇したことも貴重な体験であった。何歳のころだったであろうか。街中を友だち数名と歩いていると、後ろから進駐軍のジープが走ってきた。慌てて道を空けると、後ろの窓から機関銃の銃口がのぞいていた。その後ろに白人の兵隊のにやにやした顔が私たちを見ていた。どうして笑っているのか分からない。私たちはその後をついて走ろうとした。すると、ダッダッダッ……という機関銃の音がした。殺される! とっさにそう感じた私たちは近くの小路に逃げ込んだ。しばらくすると音は遠のいた。私たちは恐る恐る通りを覗いてみた。ジープは何事もなかったように走り去っていった。実弾を撃ったような形跡はなかった。空包(くうほう)のようであった。
 二度の応召から無事帰還した私の父は陸軍主計伍長だった。軍曹になりそこねたことを残念がっていた。その父にねだって話してもらった体験談は軍国主義に偏したものだということが、成長するにつれて分かってきた。分かるにつれて胸の奥で渦巻くものがあった。戦中に生をうけた最後の世代の一人として、しなければならないこと、それは「九条」を守ることであると。(2006年投稿)

犬・猫譲渡会

2010-08-31 09:56:08 | 日記
犬・猫譲渡会


 本紙六日の「あんぐる」の犬・猫譲渡会の写真記事を見ていて、三年前のわが家の犬猫騒動を思い出した。
 わが家は長い間犬も猫も飼っていた。どちらも元々は宿無しの捨て犬、捨て猫である。犬は職場である学校の敷地内で、猫はわが家の近くで拾った。犬は茶の中型犬でメス。猫は真っ白のすらっとした体型でこれまたメス。だから飼い始めた当初、子どもが産まれたらどうしようと思って心配していた。かわいそうだがペペと名付けた犬はまだ子どものころに不妊手術をした。鈴(りん)という猫はそのままにしていた。
 案の定、三年前の春間近い頃猫のお腹が大きくなった。ある日外出から帰って玄関の戸を開けると、くぐもった甘えるような猫の声がした。私はピンときて急いで座敷に入ると、一層甘えた声がコタツの中から聞こえてきた。コタツ布団を上げてみてびっくり。五匹の仔猫がうごめいていた。健気にも母猫は子どもをペロペロなめて体を清めてやっていた。後産はすべて食べてきれいになっている。私と妻は感激のあまり言葉を失った。さて、それからが大変だった。五匹は飼えない。しかも同居する予定の娘の出産を控えていた。そこで出雲保健所の犬・猫譲渡会に夫婦連れで出かけ、二匹引き取っていただいた。残りの三匹は新聞広告を出して里親を見つけた。そして鈴も運よく里親が見つかった。
「捨てなくてよかった」。私はこれだけは数少ないよい思い出としてほのぼのとした気持ちで思い出す。しかしペペは散歩の途中悪いものを拾って食べ、中毒死した。だから娘夫婦と同居するときにはペットは一匹も残っていなかった。……その代わり健やかな孫娘に恵まれたのである。(2006年投稿)

苦しみ多く…

2010-08-31 09:50:15 | 日記
苦しみ多く…



昔、教科書に高校生の短歌が載っていたことがある。その中でも完全に記憶していて、ときどき思い出す作品がある。
 むつまじく花のカタログ見ています苦しみ多く生き来し父母
 この歌を思い出すときは何か非日常的なことがあったときである。実は先日来風邪から来る歯痛でずっと苦しんでいた。熱もあった。すべての気力が失せ、ただ歯痛と全身の筋肉痛に耐えていた。こういうときは何もかも投げ出したいような気持ちになる。苦しみながらしがみつくように思い出したのがこの歌であった。
 私の父母はもういない。しかし、この歌の上の句のような場面は一度も見たことがなかった。眼が突然不自由になった父の後半生の生活とは全く縁遠い世界である。だから、下の句の「苦しみ多く……」の部分だけが生々しく私には迫ってきた。失明した父と祖母と母は相談して綿打ちの仕事を始めたという。そして、その後、わが家の家業は製麺業、米穀販売業、新聞販売業などと次々と変わっていった。どれも忙しい仕事で、父母がくつろいでいる光景など私は一度も見たことはなかった。
 では、私の今はというと、夫婦一緒に花のカタログこそ見ないが、それでもくつろぐ余裕はある。これもすべて祖先のお陰だと感謝している。しかし、思い起こせば私たちにもそれなりの苦しみ多き日々があった。子どもたちは老いた私たちを眺めて、「苦しみ多く生き来し父母」と思っているだろうか? と思うときがある。
 かくして、歯痛に耐えながら七月二十日、父の祥月命日を迎えた。墓に供えた花の色を父は見ることができただろうか?  (2006年投稿)