とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」694 追悼 岸部シロー(R. I. P. Shirō Kishibe)/ラレーニア(Laleña)

2020-09-24 17:18:29 | 日記
続いて訃報。岸部シローさん。タイガース。・・・もうベストメンバーでは演奏できなくなりましたね。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。・・・ああ、そういう俺もそのうち逝くんだなあ。昭和万歳 !!!!

追悼 岸部シロー(R. I. P. Shirō Kishibe)/ザ・タイガース(The Tigers)/ラレーニア(Laleña)


岸部 四郎(きしべ しろう、1949年〈昭和24年〉6月7日 - 2020年〈令和2年〉8月28日)は、日本のタレント、俳優、司会者、元実業家。岸部シロー名義も1994年まで使っており、2000年代中期頃より再び使うようになっている。元ザ・タイガースのメンバー。アン・ヌフ所属。

京都府京都市出身。父は元憲兵。兄は同じくタイガースのメンバーであった岸部一徳。甥に一徳の長男である岸部大輔がいる。京都市立近衛中学校卒業。


来歴・人物

ザ・タイガース時代

中学卒業後に印刷会社へ就職。後に退職しバンドボーイとなる。タイガースのデビュー後にしばらく音楽面でのアドバイザーを務めた後、メンバーと渡辺プロダクションの援助で1968年(昭和43年)7月アメリカへ渡り、留学の名目で『ミュージック・ライフ』の音楽特派員として活動。1969年(昭和44年)3月、タイガースから加橋かつみが脱退したため、兄・一徳からの電話によって呼び戻され、新メンバーとなる。加橋の後釜としてギターを担当するも、加入当初は実際には弾けず、弾く真似をしていた。また、タンバリンを演奏[2]したり、加橋のヴォーカルパートを引き継ぐ。

岸部の加入により、タイガースもユニフォームの常時着用をやめ、ステージのレパートリーではフォークソングやハードロックを取り入れるなど積極的にイメージチェンジを図り、それまでの「白馬に乗った王子様」的なアイドルのイメージより徐々に脱却。敢えて積極的に近畿方言を話し、また当時のアイドルではタブーとされていたメガネを着用、そして司会を担当したステージでは軽快なトークを披露することで次第に好評を得た岸部は、その気さくなキャラクター性が受け入れられ単独でのTV出演をも果たす。ステージでは主に『花の首飾り』『ホリデイ』などそれまで加橋がソロを担当していた曲に加え、ドノヴァンなどのフォークソングも得意とした。また1970年(昭和45年)には岸部一徳とのユニット「サリー&シロー」名義でもアルバムを発表。この頃には、ある程度のリズムギターおよびタンバリンをこなせるようになっており、1970年(昭和45年)8月22日の田園コロシアムに於けるコンサートや、1971年(昭和46年)1月24日の日本武道館に於ける解散公演では、実際に演奏しているのが映像から確認できる。

タレント活動

タイガースが解散して間もない頃にアメリカ合衆国で知り合い交際を続けていた1歳年上の女性と結婚。

その後も人気は衰えず、1971年(昭和46年)、ブレッド&バターに合流した後、当時所属していた渡辺プロ(現:ワタナベエンターテインメント)のザ・ピーナッツ、天地真理などのステージで司会や、当時ブームとなった青春ドラマ等の俳優として活動。

1978年(昭和53年)、テレビドラマ『西遊記』(日本テレビ系列)に沙悟浄役で出演。

1984年(昭和59年)10月から、沢田亜矢子の後任として『ルックルックこんにちは』(日本テレビ系列)の司会を務める。その後、自己破産(後述)により降板する1998年4月まで13年半に渡って担当した。

1994年(平成6年)渡辺プロダクションから独立と再婚を機に本名の「四郎」に改名した。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」693 追悼!守屋浩

2020-09-24 16:54:51 | 日記
また、また、昭和の歌手が亡くなりました。守屋浩。・・・ほんとに「ぼくは ないちっち」です。このタイムリーな画像のupに感謝致します。最後の「お千代さん」とのデュエットを聞いていて、胸がいっぱいになりました。お疲れ様。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


追悼!守屋浩



守屋 浩(もりや ひろし、本名:守屋 邦彦(もりや くにひこ)、1938年9月20日 - 2020年9月19日)は、日本の歌手、俳優である。千葉県出身。安田学園中学校・高等学校卒業。女優、歌手の本間千代子は元夫人。

所属事務所は1960年より堀プロダクション(現在のホリプロ)、所属レコード会社は日本コロムビア→日本クラウンであった。ホリプロ所属タレントでヒットした第1号である。亡くなるまで同社の所属であった。


来歴・人物

1957年、スイングウェストのバンドボーイとして芸能界入りし、1958年に日劇ウエスタンカーニバルでデビューする。ほぼ同時に堀プロダクションを設立した堀威夫の提案により芸名を「守屋浩」とする。これは既に第一線で活躍していた井上ひろし、水原弘に合わせたものと言われている。3人合わせて「三人ひろし」と言われた時期もある(かまやつひろしを入れて「四人ひろし」となる場合もある)。

守屋は当時のロカビリーブームで大躍進し、茶の間にも知られるようになった。

1960年の堀プロダクション設立後は同事務所に移籍(それ以前の所属事務所は不明)。この頃に歌謡曲に転向し、「夜空の笛」や「僕は泣いちっち」が大ヒットする。その後も「大学かぞえうた」や「有難や節」などをヒットさせる。

また映画でも活躍していた。出演作は20本を数える。

1976年3月からはホリプロダクション(堀プロダクションを改名)の社員に転じ、同社の宣伝部長などを歴任した。

ホリプロタレントスカウトキャラバンの立ち上げに関わり、1976年の第1回(榊原郁恵と荒木由美子を発掘した)では実行委員長を務めた。

1986年に正社員としては退社し、改めて社業兼務のタレント契約に移行して歌手活動を再開した。この頃静岡県伊東市へ移住し、並行してカラオケ教室を開いていた。その後も2011年時点ではホリプロのスカウト部長を兼務して新人の発掘などの業務を行い、また次代を担う若い歌手及び社員などの教育・指導にも当たっていた。

なお、守屋はホリプロ(1990年再改名)創立当時より2020年時点に至るまで在籍した唯一のタレントでもあった(守屋の次に在籍年数が長いのは和田アキ子である)。

そのため歌手・タレントしての活動は一時はほとんど行っていなかったが1986年の正社員としての退社後、本格的に活動を再開させ、懐メロ番組や歌のステージなどにも積極的に出演するようになった。

近年、脳梗塞に倒れたがリハビリの末に復帰した。病気の後遺症もあり、2008年以降はステージに置かれた椅子に座っての歌唱となっていた。

2020年9月19日、前立腺がんのため、静岡県内の施設で死去。81歳没。(「Wikipedia」より)



あちこち「SYOWA」692 日野てる子 ワンレイニーナイトイン東京

2020-09-19 00:17:56 | 日記
こんなに夢見るようにしっとりと歌える歌手がいた。驚異です。

日野てる子 ワンレイニーナイトイン東京



日野 てる子(ひの てるこ、結婚後の本名:一ノ瀬 輝子 - いちのせ てるこ、1945年7月13日 - 2008年9月9日)は、日本の女性歌手。所属事務所はハブ・マーシー。

来歴・人物

愛媛県松山市出身。

1962年、全日本ハワイアンコンテスト優勝をきっかけに翌1963年に上京。バッキー白片らに師事する。

1964年、ハワイアン歌手として日本グラモフォンよりデビュー。

1965年に発表した「夏の日の想い出」がヒット。本分のハワイアンとは趣を異にする曲ではあったが、100万枚を超えるミリオンセラーとなったことから自身の代表曲となり、同年のNHK紅白歌合戦にも初出場を果たした。ちなみにこの曲は当初「ワン・レイニーナイト・イン・トーキョー」のシングルB面曲だったもので、ヒットにより後にA面としてジャケットを差し替え発売されている。

1969年、作曲家・編曲家の一ノ瀬義孝と結婚、翌1970年に引退。以後、1男1女を儲け主婦に専念していたが、子育てが一段落したのを機に1978年から歌手活動を再開した。

2003年12月に肺癌と診断され、以後入退院を繰り返すようになる。その間も活動は続けられたが、2007年12月を最後に休止。

2008年(平成20年)9月9日、肺癌のため東京都杉並区の病院で死去。63歳没。葬儀・告別式は近親者だけで行われたが、同年10月20日、都内のホテルで「お別れの会」が営まれ、鈴木道明、三沢あけみ、大月みやこら約300人が出席した。また同年の第50回日本レコード大賞で特別功労賞が贈られた。

長いストレートの黒髪と花の髪飾りがトレードマークであった。

長女の一ノ瀬トニカ、長男の一ノ瀬響は、ともに音楽家として活動している。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」691 長崎の鐘 藤山一郎 昭和の歌

2020-09-13 07:58:33 | 日記
これは、永遠の鎮魂歌です。永井隆先生、安らかに、安らかに・・・。私たちの世界の永遠の平和を・・・。

長崎の鐘 藤山一郎 昭和の歌



『長崎の鐘』(ながさきのかね)は、永井隆が執筆した随筆。

内容は、長崎医科大学(現長崎大学医学部)助教授だった永井が原爆爆心地に近い同大学で被爆した時の状況と、右側頭動脈切断の重症を負いながら被爆者の救護活動に当たる様を記録したもの。被爆時に大学をはじめとする長崎の都市が完全に破壊された様子、火傷を負いながら死んでゆく同僚や市民たちの様子を克明に描いている。永井は、この時妻を亡くした。また、救護の際には、頭部の重症と疲労から自らも危篤状態におちいるが、同僚医師や看護婦たちの努力により一命を取り留める。「長崎の鐘」とは、廃墟となった浦上天主堂の煉瓦の中から、壊れずに掘り出された鐘のこと。

作品は1946年(昭和21年)8月には書き上げられていたが、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の検閲によりすぐには出版の許可が下りなかった。精神科医の式場隆三郎が創刊に関った『東京タイムズ』に「原爆病患者の手記」の連載を始めると大いに話題になり、1948年、永井隆の『生命の河』がやはり式場隆三郎の経営する日比谷出版社から出版された。『長崎の鐘』は、GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、1949年(昭和24年)1月、同じく日比谷出版社から出版され、紙不足の当時としては空前のベストセラーとなった。

永井自身は、「なかなか出版してくれる出版社がなく、式場隆三郎氏などの尽力により出版にこぎつけた」と本書序文に書いている。

同年7月にサトウハチロー作詞・古関裕而作曲で同書をモチーフとした歌謡曲が発売されて大ヒットし、翌1950年(昭和25年)には松竹により映画化された。

概要

藤山は1951年(昭和26年)1月3日放送のNHK『第1回NHK紅白歌合戦』で本曲を歌唱し、白組トリおよび大トリを務めた。紅白ではその後も1964年(昭和39年)・第15回、1973年(昭和48年)・第24回(特別出演)、1979年(昭和54年)・第30回(特別出演、メドレーの2曲目で歌唱)の3回歌唱された。

「長崎の鐘」の吹き込みは最初、池真理子で行おうとレコード会社は考えていたが、歌詞を見た池は「『長崎の鐘』は永井隆博士のご心境を歌ったものであるから、男の人が歌うべき」と思い、尊敬していた藤山一郎による吹き込みを切望し、会社側を説得した。自身は母の気持ちを歌ったB面「いとし吾が子」を吹き込んだ。

ヒットの要因

サトウハチローの詞には、原爆を直接描写した部分は全くない(当時の米軍の検閲をはばかったものと思われる)。単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌であり、打ちひしがれた人々のために再起を願った詞である。古関裕而が作曲し、藤山一郎が優秀な音楽技術で格調高く美しく歌い上げた。なお、サトウの弟も広島の原爆の犠牲者となっている。

レコーディングには逸話が残っている。1949年4月4日のレコーディング当日、藤山は国内のスケジュールの疲労から体調を崩し40度近い高熱を出し苦しみ、吹き込みは後日ということになったが、式場隆三郎や山下清ら関係者がすでにコロムビアのスタジオに来ているということを聞き、妻の運転する車でスタジオに向かった。録音は再吹き込みするという条件のもとで行われたが、藤山の絶唱がスタッフ・関係者一同の感動を呼び、再吹き込みを経ることなくそのまま発売された。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」690 この広い野原いっぱい - 森山良子

2020-09-01 00:11:26 | 日記
この広い野原いっぱい - 森山良子



森山 良子(もりやま りょうこ、1948年(昭和23年)1月18日 - )は、日本の歌手、タレント。本名同じ。

東京都出身。平成18年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。平成20年秋紫綬褒章受章。長女は森山奈歩、長男は森山直太朗。


来歴

森山久を父として、浅田陽子を母として誕生。兄がいた(故人)。

かまやつひろしは従兄(母の甥)、その長男かまやつ太郎は従甥にあたる。

成城学園高等学校に入学、1年間の留年を経て卒業(同級生に小宮山洋子がいる)。高校時代、先輩の黒澤久雄に手渡されたジョーン・バエズのレコードがきっかけで友人らとフォークグループを結成した。作品がラジオで流れたのがきっかけで、19歳になった1967年に、黒澤プロダクション所属のソロ歌手として、「この広い野原いっぱい」でレコードデビュー。黒澤プロの所属になったのは、黒澤家をたびたび訪問し歌も披露していた森山が歌手になると聞いた黒澤明の意向だった。この時期の森山はカレッジフォークに分類される。

デビュー当初はフォーク歌手のイメージだったが、1969年の山上路夫作詞・三木たかし作曲による「まごころ」のヒットで、日本レコード大賞大衆賞を受賞し、NHK紅白歌合戦に初出場したことから、"フォークから歌謡曲の女王"になったと評された。一時期、出産のため活動休止するが、1972年に「遠い遠いあの野原」で復帰。同年の『第23回NHK紅白歌合戦』に出場し、「美しい星」を歌う。1960年代後半から1970年代にかけてヒット曲を数多く生み、当時は主に村井邦彦や森田公一といった作家陣による楽曲を歌った。1998年長野オリンピック開会式では、テーマソングの「明日こそ、子供たちが…」を子供達と一緒に長野オリンピックスタジアムで歌を披露、世界中に放映された。

1998~2000年頃にいくつかのアルバムで発表した「涙そうそう」(BEGINとの合作で森山は作詞、BEGINは作曲)も話題となった。「さとうきび畑」で、2002年『第44回日本レコード大賞』の最優秀歌唱賞を受賞。同大賞では、作詞した「涙そうそう」が夏川りみの歌唱で金賞となり、森山自身もこの曲で作詩賞を受賞した。2003年には、(フォークを歌い始める前からの念願だった)初のジャズアルバム「The Jazz Singer」をリリース。ニューヨークなどのライブハウスで一連のライブ活動も行った。2006年の第48回日本レコード大賞で「涙そうそう」が特別賞を受賞した。

2007年1月、『拝啓、父上様』の主題歌「パピエ」をリリース。2009年2月25日、映画『60歳のラブレター』主題歌の「candy」などを収録した4年3ヶ月ぶりとなるオリジナルアルバム『Living』発売。2010年、矢野顕子とユニット「やもり」を結成。2013年2月6日には、自身初のクラシックアルバムとして、「Ryoko Classics」を発表した。その一方で、現在も年間100公演以上のペースで、コンサートやディナーショーを開催している。

女優として『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』では、ドラマ初出演にもかかわらず奥田瑛二演じる年下の男と不倫に堕ち、その中で少しずつ自分を見つめ直し変わって行く主婦役を巧みに演じた。その後も2002年には、『おとうさん』で田村正和の後妻に入る「タマちゃん」を演じた。2004年には、『夫婦。』(主題歌も歌う)にゲスト出演。スーパーマーケットの食料品売り場で働く女性を演じた。
(「Wikipedia」より)