続いて訃報。岸部シローさん。タイガース。・・・もうベストメンバーでは演奏できなくなりましたね。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。・・・ああ、そういう俺もそのうち逝くんだなあ。昭和万歳 !!!!
追悼 岸部シロー(R. I. P. Shirō Kishibe)/ザ・タイガース(The Tigers)/ラレーニア(Laleña)
岸部 四郎(きしべ しろう、1949年〈昭和24年〉6月7日 - 2020年〈令和2年〉8月28日)は、日本のタレント、俳優、司会者、元実業家。岸部シロー名義も1994年まで使っており、2000年代中期頃より再び使うようになっている。元ザ・タイガースのメンバー。アン・ヌフ所属。
京都府京都市出身。父は元憲兵。兄は同じくタイガースのメンバーであった岸部一徳。甥に一徳の長男である岸部大輔がいる。京都市立近衛中学校卒業。
来歴・人物
ザ・タイガース時代
中学卒業後に印刷会社へ就職。後に退職しバンドボーイとなる。タイガースのデビュー後にしばらく音楽面でのアドバイザーを務めた後、メンバーと渡辺プロダクションの援助で1968年(昭和43年)7月アメリカへ渡り、留学の名目で『ミュージック・ライフ』の音楽特派員として活動。1969年(昭和44年)3月、タイガースから加橋かつみが脱退したため、兄・一徳からの電話によって呼び戻され、新メンバーとなる。加橋の後釜としてギターを担当するも、加入当初は実際には弾けず、弾く真似をしていた。また、タンバリンを演奏[2]したり、加橋のヴォーカルパートを引き継ぐ。
岸部の加入により、タイガースもユニフォームの常時着用をやめ、ステージのレパートリーではフォークソングやハードロックを取り入れるなど積極的にイメージチェンジを図り、それまでの「白馬に乗った王子様」的なアイドルのイメージより徐々に脱却。敢えて積極的に近畿方言を話し、また当時のアイドルではタブーとされていたメガネを着用、そして司会を担当したステージでは軽快なトークを披露することで次第に好評を得た岸部は、その気さくなキャラクター性が受け入れられ単独でのTV出演をも果たす。ステージでは主に『花の首飾り』『ホリデイ』などそれまで加橋がソロを担当していた曲に加え、ドノヴァンなどのフォークソングも得意とした。また1970年(昭和45年)には岸部一徳とのユニット「サリー&シロー」名義でもアルバムを発表。この頃には、ある程度のリズムギターおよびタンバリンをこなせるようになっており、1970年(昭和45年)8月22日の田園コロシアムに於けるコンサートや、1971年(昭和46年)1月24日の日本武道館に於ける解散公演では、実際に演奏しているのが映像から確認できる。
タレント活動
タイガースが解散して間もない頃にアメリカ合衆国で知り合い交際を続けていた1歳年上の女性と結婚。
その後も人気は衰えず、1971年(昭和46年)、ブレッド&バターに合流した後、当時所属していた渡辺プロ(現:ワタナベエンターテインメント)のザ・ピーナッツ、天地真理などのステージで司会や、当時ブームとなった青春ドラマ等の俳優として活動。
1978年(昭和53年)、テレビドラマ『西遊記』(日本テレビ系列)に沙悟浄役で出演。
1984年(昭和59年)10月から、沢田亜矢子の後任として『ルックルックこんにちは』(日本テレビ系列)の司会を務める。その後、自己破産(後述)により降板する1998年4月まで13年半に渡って担当した。
1994年(平成6年)渡辺プロダクションから独立と再婚を機に本名の「四郎」に改名した。(「Wikipedia」より)
追悼 岸部シロー(R. I. P. Shirō Kishibe)/ザ・タイガース(The Tigers)/ラレーニア(Laleña)
岸部 四郎(きしべ しろう、1949年〈昭和24年〉6月7日 - 2020年〈令和2年〉8月28日)は、日本のタレント、俳優、司会者、元実業家。岸部シロー名義も1994年まで使っており、2000年代中期頃より再び使うようになっている。元ザ・タイガースのメンバー。アン・ヌフ所属。
京都府京都市出身。父は元憲兵。兄は同じくタイガースのメンバーであった岸部一徳。甥に一徳の長男である岸部大輔がいる。京都市立近衛中学校卒業。
来歴・人物
ザ・タイガース時代
中学卒業後に印刷会社へ就職。後に退職しバンドボーイとなる。タイガースのデビュー後にしばらく音楽面でのアドバイザーを務めた後、メンバーと渡辺プロダクションの援助で1968年(昭和43年)7月アメリカへ渡り、留学の名目で『ミュージック・ライフ』の音楽特派員として活動。1969年(昭和44年)3月、タイガースから加橋かつみが脱退したため、兄・一徳からの電話によって呼び戻され、新メンバーとなる。加橋の後釜としてギターを担当するも、加入当初は実際には弾けず、弾く真似をしていた。また、タンバリンを演奏[2]したり、加橋のヴォーカルパートを引き継ぐ。
岸部の加入により、タイガースもユニフォームの常時着用をやめ、ステージのレパートリーではフォークソングやハードロックを取り入れるなど積極的にイメージチェンジを図り、それまでの「白馬に乗った王子様」的なアイドルのイメージより徐々に脱却。敢えて積極的に近畿方言を話し、また当時のアイドルではタブーとされていたメガネを着用、そして司会を担当したステージでは軽快なトークを披露することで次第に好評を得た岸部は、その気さくなキャラクター性が受け入れられ単独でのTV出演をも果たす。ステージでは主に『花の首飾り』『ホリデイ』などそれまで加橋がソロを担当していた曲に加え、ドノヴァンなどのフォークソングも得意とした。また1970年(昭和45年)には岸部一徳とのユニット「サリー&シロー」名義でもアルバムを発表。この頃には、ある程度のリズムギターおよびタンバリンをこなせるようになっており、1970年(昭和45年)8月22日の田園コロシアムに於けるコンサートや、1971年(昭和46年)1月24日の日本武道館に於ける解散公演では、実際に演奏しているのが映像から確認できる。
タレント活動
タイガースが解散して間もない頃にアメリカ合衆国で知り合い交際を続けていた1歳年上の女性と結婚。
その後も人気は衰えず、1971年(昭和46年)、ブレッド&バターに合流した後、当時所属していた渡辺プロ(現:ワタナベエンターテインメント)のザ・ピーナッツ、天地真理などのステージで司会や、当時ブームとなった青春ドラマ等の俳優として活動。
1978年(昭和53年)、テレビドラマ『西遊記』(日本テレビ系列)に沙悟浄役で出演。
1984年(昭和59年)10月から、沢田亜矢子の後任として『ルックルックこんにちは』(日本テレビ系列)の司会を務める。その後、自己破産(後述)により降板する1998年4月まで13年半に渡って担当した。
1994年(平成6年)渡辺プロダクションから独立と再婚を機に本名の「四郎」に改名した。(「Wikipedia」より)