とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」(番外) スワンの涙 Mi-Ke このスワンの涙が好き

2024-08-17 01:52:50 | 日記
オックスの原曲をカバー。これがまたいいですね。カッコいい。

スワンの涙 Mi-Ke このスワンの涙が好き Best collection


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

Mi-Ke(ミケ)は、日本の歌手グループ。B.B.クィーンズの音楽コーラス隊「B.B.クィーンズシスターズ」として誕生。後に単独のアイドルグループとしてデビューした。

スターダストプロモーション所属。原盤制作をビーイングが担当。

オリジナルロゴには「Presented by B.B.QUEENS」と書かれている。

概要

アイドルグループとして1991年にデビュー。振付を意識した当時のアイドルグループの形態をとりながら、アルバムごとにテーマを定めたリバイバル・カバープロジェクトであった。振付担当は五十嵐薫子。

グループ名の由来は当時ヒットした「たま」をもじり、メンバー3名の個性を活かして三毛猫から取っており、白が宇徳、茶色が村上、黒が渡辺と、3色のイメージカラーに分けられていた。

なお、Mi-Keをさらにもじった名のアイドルグループ「ザ・ポチ」や「DORA」(日本テレビのアナウンサーによるグループ)、「NORA」(読売テレビのアナウンサーによるグループ)が存在した。

ビーイングの流行りのサウンドとアレンジで60年代後半のグループサウンズの「往年の名曲」のパロディを大量に盛り込んだプロデュースが認められ、日本レコード大賞、日本有線大賞、全日本有線放送大賞(現・ベストヒット歌謡祭)、日本ゴールドディスク大賞と各音楽賞の最優秀新人賞を総ナメにし、『第42回NHK紅白歌合戦』(「想い出の九十九里浜」)にも出場した。なお、スターダストプロモーション所属のアーティストが、新人賞を受賞したのはMi-Keのみである。

1992年4月、同月から放送が開始された『NHKヒットステージ』にてアシスタントとしてレギュラー出演。1993年3月の放送終了まで出演した。またスターダストプロモーション所属であったことから、多くのバラエティー番組や、CMにも出演した。

MVの大半は岩井俊二が監督したコミカルな作風のものであり、1991年にVHSと2002年にDVDでソフト化も行われている。

リードヴォーカルを務める宇徳敬子は、1993年にシングルCD「あなたの夢の中 そっと忍び込みたい」でソロデビュー。Mi-Keとしては同年にシングル「Please Please Me, LOVE」をリリース。アルバム「永遠のリバプールサウンド〜Please Please Me, LOVE.」リリース後はソロ活動に専念している。

村上遥はグループ活動休止後、タレント活動を行う。1993年から1998年までビーイング系音楽番組『NO.』(テレビ朝日)のナレーターを務めた。

渡辺真美は活動休止後改名し、2024年現在は「麻宮百(まみやもも)」名義でラジオDJや、ジャズクラブ・ライブハウスを中心とした音楽活動を行っている。

Mi-Keは活動休止後も公式に解散宣言等の発表がされなかったため、長らく「活動休止中」とされたままであったが、2024年8月現在、宇徳敬子以外のメンバーは既に芸能界を引退しており、また宇徳も2023年10月15日放送の「千鳥の鬼レンチャン」に出演した際には「元 Mi-ke」と紹介されていたことから、事実上解散していることは明白である。

メンバー

村上遙
コーラス。立ち位置左。単独コーラスはほとんど宇徳が行っていたため、TV出演時以外はサビのコーラスパートのみであった。神奈川県出身。
宇徳敬子
リードボーカル&コーラス。ほとんどのコーラスも宇徳の単独コーラスであり、Mi-Keの音源では彼女の声が9割を占める。ソロ転向後にはアルバムでオリコン1位を獲得するなどヒットを出している。鹿児島県出水市出身。
渡辺真美
コーラス。立ち位置右。村上と同じくコーラスだが、「想い出の九十九里浜」のカップリング曲「あっぷる・らぶ」では、自ら作詞して歌っている。Mi-Keの楽曲ではないが、YouTubeで渡辺のライブ映像を見ることができる。2008年2月より、ブログおよび定期ライブを開始した。2016年3月より麻宮百(まみや もも)として活動する。東京都出身。


あちこち「SYOWA」810 追悼「丘さとみ」なつかしの東映城のお姫様

2024-08-14 00:56:11 | 日記
東映城のお姫様として不動の人気を博した女優、丘さとみさん。訃報に接し悲しく思っています。東映城の三姫、桜町弘子さん、大川恵子さんと並び東映時代劇を支えた女優さんでした。ここに謹んでお悔やみ申し上げます。

追悼「丘さとみ」なつかしの東映城のお姫様


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
おか さとみ
丘 さとみ

来歴・人物
1953年3月、尼崎市立尼崎高等学校在学中にディズニー映画『シンデレラ(シンデレラ姫)』の日本公開を記念して行われたRKOラヂオ映画社と毎日新聞社主催の「日本シンデレラ姫コンテスト」に応募し、ミス・シンデレラの栄冠に輝く。その副賞で1953年3月20日から4月4日まで渡米し、ディズニー撮影所や女優・アン・ブライスの自宅などを訪問したり、ケーリー・グラントとの2度に亘る会食やソニア・ヘニーのアイスショー観覧といったハリウッド見学に招待されている。

1954年に尼崎市立尼崎高等学校を卒業後にRKOラヂオ映画社日本支社に就職。RKOラヂオ映画社日本支社関西支社で支社長の秘書として配属される。しかし、東映にスカウトされて、1955年に東映ニューフェイス第2期生として東映に入社して芸能界へ転身した。同期には高倉健・今井健二・五味龍太郎らがいる。芸名を丘 さとみにして同年の映画『御存知怪傑黒頭巾・新選組追撃』でデビュー。東映時代劇での貢献が大きく、「東映城のお姫さま」と呼ばれ、人気を博した(引退までの10年間で約150本もの映画に出演)。

1962年に東映を退社してフリーになり、映画出演も続けながらテレビドラマに主な活躍の場を移す。

1965年、在米日系人2世の商業デザイナーと結婚し、引退。3子をもうけるが、1975年に別居。同年、離婚し、女優に復帰する。

その後、6歳年下の司法書士と再婚し、再び女優業から遠ざかる。

2010年10月16日、T・ジョイ京都で開催された「巨匠・内田吐夢 名優・月形龍之介 東映時代劇傑作選(その一) 内田吐夢、月形龍之介没後40年回顧」のトークショーに出演した。

2024年4月24日、心疾患のためアメリカ合衆国カリフォルニア州の自宅で死去。88歳没。

あちこち「SYOWA」(番外) ZARD きっと忘れない【6】

2024-08-10 01:52:23 | 日記
永遠の坂井泉水さん。この曲も歴史に残る名曲だと思います。もし生きていたら・・・・。何度も、もし、もし、という言葉を繰り返しています。

ZARD きっと忘れない【6】


坂井 泉水
出生名 蒲池 幸子
生誕 1967年2月6日
日本の旗 日本・神奈川県平塚市
死没 2007年5月27日(40歳没)
東京都新宿区・慶應義塾大学病院
学歴 松蔭女子短期大学卒業
ジャンル
J-POPロックポップ・ロック
職業
歌手シンガーソングライター作詞家モデル(初期)
担当楽器 ボーカル
活動期間 1989年 - 2007年
レーベル B-Gram RECORDS
事務所
スターダストプロモーション(1989年 - 1992年)
Ading(1992年 - 1998年)
SENSUI(1998年 - 2007年)
共同作業者 ZARD
公式サイト https://wezard.net/       (Wikipedia)

あちこち「SYOWA」809 園まり・何も云わないで

2024-08-07 19:52:05 | 日記
えっ、亡くなられた!!! そうですか。またひとり懐かしの昭和のスターが・・・・。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

園まり・何も云わないで


園 まり(その まり、本名:薗部毬子〔そのべ まりこ〕、1944年4月12日 - 2024年7月26日)は、日本の歌手、女優。東洋音楽学校高等部卒業。

略歴
神奈川県横浜市保土ケ谷区出身[1]。1954年10歳で安西愛子に師事しコーラスグループ“杉の子子ども会”を経て、キング児童合唱団へ入団。1956年、本名の薗部毬子名義で、キングレコードから「つゆの玉ころり」で童謡歌手としてデビュー。同時に岸惠子、有馬稲子と共にミシンの広告モデルとしても活動。

元々はクラシックの歌手を目指していたが、1960年11月NET『あなたをスターに』で優勝。1961年4月渡辺プロダクションに入社。1962年5月「鍛冶屋のルンバ」でレコードデビュー。7月フジテレビ『レッツゴー三人娘』で中尾ミエ、伊東ゆかりと『スパーク3人娘』を結成。『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)などに出演。

洋楽の日本語カバー「マッシュ・ポテト・タイム」「太陽はひとりぼっち」「女王蜂」「花はどこへ行った」がヒット。1964年「何も云わないで」がNHK”きょうのうた”で放送され、歌謡曲の初ヒットとなる。その後「逢いたくて逢いたくて」「夢は夜ひらく」「何んでもないわ」「愛は惜しみなく」 等のヒットも記録し、園まり節と呼ばれる歌唱法でヒット。また、「夢は夜ひらく」は藤圭子歌唱によるバージョンも存在する。これら3作は同名タイトルで日活で映画化された。『NHK紅白歌合戦』には1963年から1968年まで6回連続出場(1963年の「キューティ・パイ・メドレー」と1964年の「夢みる想い」は、中尾・伊東と三人娘で歌唱)。

1966年 - 1967年マルベル堂のブロマイド売り上げ女性歌手第1位。

その後、ディナーショーや女優としてのドラマ出演などで活動。1990年代に一時[いつ?]、芸能界を退いていたが、2001年7月にテレビ東京「第32回夏祭りにっぽんの歌」で芸能活動を再開。2006年に25年ぶりのシングル「2人はパートナー」(原曲:ペ・ヨンジュン主演・韓国ドラマ「初恋」挿入歌)を発売。「逢いたくて逢いたくて」は2007年、映画『歌謡曲だよ、人生は』の第9話(主演:妻夫木聡)の歌に起用された。

2009年3月4日放送、テレビ朝日『徹子の部屋』で、初期の乳がんだったことを告白。2007年に発見したが、翌2008年1月に手術して克服し、早期発見の大切さを訴えた[いつ?]。

2010年4月「アクティブシニア2010」園まりふれあいコンサートinナゴヤドーム、6月「大人の文化祭2010」園まりふれあいコンサート in 長野エムウェーブなどのシニア向けコンサートに出演。

2011年(2011年6月・7月NHK「ユアソング」)「もう一度逢いたくて」発売。

2019年、がんが再発。闘病生活を続けるかたわら、中尾ミエ、伊東ゆかりとの3人娘コンサートやテレビ出演を続けた。同年8月5日放送の『徹子の部屋』へは、伊東ゆかりと2人で出演した。年末の日本レコード大賞では功労賞を受賞。

2024年7月26日、急性心不全のため東京都内の病院で死去した。80歳没。訃報は翌月の8月1日に日本歌手協会より発表された。生涯独身だった。(Wikipedia)

2024-07-09 19:09:26 | 日記


                                  瀬本あきら

 下手な三段謎である。『わかば』と掛けて何と解く? 女優田中裕子さんと解く。……

してその心は?

 妻がNHK連続テレビ小説『わかば』を今朝も視ていた。飯を食べながら視ていた。私

は続けて視ていないので、ひとつも面白くない。『さくら』、『まんてん』、『こころ』、

『てるてる家族』、『天花』、『わかば』。短期間でタイトルが次々変わるので、何が何

だか分からなくなる。しかし妻は頭がいいから、よく切り替えが利く。しかもこまめに視

ている。

 まあいい。私は退職後再就職したが、向こうの都合で解雇された身だ。暇を持て余して

いる。しばらく付き合うか。そう思って一緒に視ていた。すると、いやいや私は暇ではな

い、という気持ちが込み上げてきた。そうだ、一年と二ヶ月の女の子の孫がいる。だから

孫の両親が出勤した後の子守りは大変である。私たち夫婦はまた新婚時代に返ったような

忙しさを味わうこともある。しかし、今、その孫は二階で朝食後の睡眠を楽しんでいる。

そういうときは家の中はまことに静かなものである。そんなこんなで、私はテレビを視な

がら『わかば』というタイトルと田中裕子さんを変な方向から繋げてしまう奇妙な想念に

取り付かれていたのである。

 ……してその心は? 銃後の女の哀しみ惻々と……。

 第二作目の『二十四の瞳』の映画は昭和六十二年に公開された。主役の大石先生は田中

裕子さんが演じた。昭和二十九年制作の第一作の主演は高峰秀子さんで大ヒットしたので、

田中裕子さんも演りにくかっただろうと思っていた。ところが、封切りされた作品を視る

と、シャキシャキして飛んでいるといった高峰秀子の大石先生とはまた違うおっとりとし

た感じの包容力のある女性教師像を作り上げていた。これは立派だと思った。キャストが

違うと人物が別物になる。そういったことをまざまざと見せ付けられた思いがした。

 壺井栄の原作はよく知られている通り、反戦思想に裏づけされている。これは夫の壷井

繁治の影響が背景にある。プロレタリア文学の色彩が底に流れている。小豆島の岬の分教

場に赴任してきた大石久子先生が十二名の子どもたちと運命的な出会いをするが、時勢は

次第に軍国主義の思想に染められてゆく。そして戦争。成人した島の男の子たちは出征し

て帰らぬ人となってしまう者が出てくるし、同窓生でも目が見えなくなって帰ってくる者

も出てくる。女の子たちも厳しい社会環境の中で苦しみぬいて生きてゆく。死んで行く者

もいる。久しぶりに同窓生が集まって恩師を囲む会を催すが、大石先生は時局の荒波に飲

み込まれていく教え子たちの生き様を悲しむ。彼女自身も夫を戦争に奪われ、子どもも病

で失っていた……。

 実は、私は昭和六十三年に小豆島のロケ現場を見に行ったことがある。映画が公開され

た直後だった。オープンセットの分教場、昭和初期の町並みなどを映画のシーンを思い出

しながら私は見て回った。セットの分教場は本物の分教場から少し離れたところに設えて

あった。校庭から瀬戸内海の青い海が見えた。その海は「泣きみそせんせ」と呼ばれるよ

うになっていた母を学校まで舟で送っていった息子「大吉」の海である。その色がいつま

でも私の記憶の底に漂っていた。

 十五分の放送時間はすぐ終わる。私はドラマを視るともなく視ていたので、食事はすで

に終わっていた。妻は終わると同時に食べ終えて片づけを始めようとする。私の心の中の

海が突然揺らいだ。

 「……泣きたくなったらいつでもいらっしゃい。一緒に泣いてあげる」

 突然私がそう言った。すると、ぎょっとしたような目つきになって妻が言う。

 「えっ? 何ですか? ……気持ち悪い」

 私はそのとき頭がぼやけたようになっていた。だから、恐らくトロンとした眼で妻を見

ていたのだろうか。それは自分で分からないが、今言った言葉が胸のうちで反響していた。

 「……一緒に泣いてあげる」

 もう一度言うと、妻は手を休めて、私の前の椅子にどかっと座り込んだ。

 「ちょっと、あなた、気がおかしくなったんじゃない?」

 そう言われて、はっと私は我に返った。

 「いや、ごめん、台詞だよ。台詞を急に思い出したんだ。田中裕子の台詞」

 「台詞?」

 「そうだよ。田中裕子の『二十四の瞳』」

 「『二十四の瞳』? それがどうしたの?」

 「その中の名台詞だよ。ぐっとくる……」

 私はまだほろ苦い余韻を味わっていた。

 「それとさっきのドラマとどういう関係があるの?」と妻はいつもの突っ込みを始めた。

 「いや、関係はまったくない。ただ、田中……」

 「……裕子を見ていて、いつものように飛躍したんですね?」

 「まあ、そういうことだ」

 やっと理解して貰えた、という安堵感で私は嬉しくなった。

 ところが、妻は冷たい視線を送りながら、「痴呆は御免ですよ」ときっぱりと言い放った。

 そして、茶碗などを流し台に移し始めた。

 私は、自分の部屋に戻ると、『現代日本文学全集』の中の「二十四の瞳」を探し出し、

大石先生の台詞を一つひとつ当たってみた。

 ところが、どこにもその台詞らしきもの出てこないのである。第二作目の映画の極めつ

けはその台詞にあると信じていたので、私は少なからずうろたえた。いや、どこかにある

はずだ。いや、ないかもしれない。私は混乱してきた。……痴呆は確実に進行している。

私はそう思って、少し深刻になってきた。

 そこで、ビデオレンタルの店でまた借りてきて、飛ばし飛ばししてすべてを視聴した。

裏通りで大石先生と女の子の教え子がひそやかに話している。ここだ、ここだ、と思った。

「……一緒に泣いてあげる」

 大石先生は、確かにそう言った。私は、ほっとした。

 しかし、原作にないということは、脚本段階で作られたものに違いない。私はそう思っ

た。脚本担当は、第一作、第二作ともに木下惠介氏である。第二作では脚本の書き換えが

なされたかどうかは分からない。どちらにしても名台詞を旨く作ったものだ。私は疲れ果

てた頭でそう思った。やはり、青い海の色が見えていた。女は大きな海だと思った。生き

物はすべて海から産まれ出た。……一緒に泣いてあげる。海はすべてを包み込む。

 それから、ふとまた思い出し、レンタル店で黒澤明脚本の『一番美しく』というモノク

ロ映画のビデオを借りてきた。そして、これまた飛ばし飛ばしして「問題」のシーンを確

かめた。

 この映画はいわゆる国威発揚、戦意高揚のために制作されたものである。

 敗戦色濃い昭和十九年。奇しくも私が生まれた年である。女子挺身隊として平塚の精密

機械の軍需工場に徴用された若い女性たちが、献身的にお国のために働く姿をドキュメン

タリータッチで描いている。挺身隊が担当していたのは兵器の照準器のレンズを作る作業

である。女子挺身隊は、毎朝工場に出かけるときは鼓笛隊の隊列を組んで行進する。その

姿がりりしい感じがする。主人公はその隊長として信頼されている責任感の強い女性であ

る。その隊長である主役渡辺ツルは矢口陽子さんが演じている。後で彼女は黒澤明氏と結

婚することになる。

 ある日、出来たレンズの目盛りを顕微鏡のような器具で修正していた隊長は、隊員の報

告により未修正の一枚があることに気づく。その日他の隊員と一緒に修正したレンズは夥

しい枚数である。責任感を感じた隊長は工場の者が止めるのも聞き入れず、一人で再検査

を始める。徹夜に等しい労働を繰り返すのである。疲労困憊する体に鞭打って。そして、

過酷な労働の結果やっと見通しがたつ。明け方帰ろうとすると、別室で男性の工場の責任

者が待っていて、よく頑張ったねと声を掛けて慰労する。

 「美しい」のはその一途な責任感だろう。一枚でも焦点の狂ったレンズが戦闘機や兵器

の照準器に取り付けられれば、大切な戦闘手段を失うことになる。その一枚を探すことが

お国のためになる。だから、時間との闘いだし、我が女の命を燃やし尽くすことにもなる。

そうした熱情が視ている者の胸を打った。

 そうだ、「わかば」……。「わかば」が「問題」である。「わかば」というと唱歌を私

は思い出す。唱歌の「若葉」は昭和十七年に作られている。「あざやかなみどりよ、あか

るいみどりよ、鳥居をつつみ、わら屋をかくし、かおる、かおる、若葉がかおる」。私は

昭和十九年生まれである。小学校のころ沢山唱歌を歌ったが、その中でもこの「若葉」が

一番好きであった。初夏の緑に覆われた平和な村々の情景が頭の中に広がってきた。その

唱歌をこの映画の中で聴くことになるとは夢にも思わなかった。

 隊長とともに働いていた隊員の中で病気や怪我で倒れる者も出てきた。隊員の間に感情

の行き違いが生まれ、ぎすぎすした雰囲気になっていった。その上、レンズの紛失。隊長

の命を掛けた奮闘。隊員は夜になると宿舎の庭に整列した。そして、何とその「若葉」を

斉唱したのである。私は衝撃を受けた。ここで「若葉」が……? どうして? どうして?

という疑問が私の心の中に染み付いた。私の好きな唱歌がこの映画では、テーマ曲として

挿入されている。黒澤明はどうしてこの歌を採用したのか? 私はずっとこの疑問をあた

ためてきた。望郷の歌か、それとも……。

 それを歌った場面の正面には「ふるさとの土」と題する木製の看板のような詩碑が建て

られていた。土からすべての恵みは生まれ、父祖伝来の日本の国土もその土の上に築かれ、

人間の歴史も土とともにある。内容は定かではないが、そういうことが記してあったと思

う。そう言えば、隊員はその寮に入るときに、一握りの「ふるさとの土」を持参して庭に

敷き詰めていた。すると、「若葉」は国土の繁栄を祈る賛歌かもしれない。そして、隊長

が身を挺して仕事をしている夜中に、宿舎に残っている隊員がその歌を歌ったということ

は、隊長の志気を称え、無事を祈る気持ちの表れであろうか。

 誰か専門家に尋ねれば明快な解答をするだろう。しかし、私はいかなる解答も受け付け

ないほどの衝撃がトラウマのようにへばり付いていた。だから、テレビドラマのタイトル

でも、私の感受性は即座に反応するのである。許せないことはない。問題は、爽やかな初

夏の風景を歌ったこの歌と映画の国粋主義の中で健気に闘う銃後の女の闘志と哀調にはマ

ッチしないと思ったのである。映画の最初に出てくる「討ちてし止まん」の切迫した言葉

と穏やかな「若葉」の曲調は調和しない。そして、作品の底に流れている戦時体制の中で

のヒューマニズムも私にはどう理解していいか分からなかった。もしかして、黒澤明氏は

豊かで平和な国土への回帰の願いをこの歌に密かに託したかもしれない。しかし、それは

私の憶測にすぎない。

 「おい! 『わかば』はもしかして哀しい物語なのか?」

 古いビデオを視始めた私から逃れて洋間に移っていた妻に大声で問いかけた。

 「何言った? 聞こえない」と妻が隣から問い返してきた。

 私は居間から出て行って妻の前のソファーにどんと座った。

 「『わかば』はもしかして哀しい物語なのか?」

 「もうやめて」

 そう言って妻はそっぽを向いた。

 「だから、『わかば』というドラマは……」

 「あなた! そんなに気に掛かるのなら、続けて視さいよ!」

 「飛び飛びに視てるけどさぁ……」

 「もう何にも言わないで!」

 「『わかば』というのは女の子の名前だろ? 原田夏希とかいう女優が演ってる……」

 「当たり前じゃないの!」

 「その女の子がもしかして哀しい運命を背負っているとか……」

 私は執拗に聞いた。

 「どうしてそんなに拘るの?」

 「いやね、『若葉』という子どもの歌があるだろ。そのことと繋がってきてさ……」

 「それで、どうしたの?」

 「『若葉』は明るい歌だと思っていたけどさ。黒澤の映画では切実な祈りの歌になって

いる……」

 妻は、とうとう黙って俯いてしまった。

 「黒澤の『一番美しい』では、大地への祈りの歌もしくは鎮魂歌として歌われている」

 「……」

 「それが謎なのさ。その訳が知りたい」

 妻は「謎」と聞いて、頭を挙げた。

 「謎だか何だか知りませんが、そのこととドラマは、全く関係ありません!」

 仕舞いには怒りだした。

 「だから、『わかば』という言葉の響きが私を刺激したんだよ」

 また、黙ってしまった。妻の体全体からぐっと重いものが私に押し寄せてくるような気

持ちがした。

 「私が一番好きな唱歌なんだよ」

 「あなたの仰っていることは、少しも私には通じません」

 「だからさ……」

 妻は立ち上がって言った。

 「こりゃだめだ」

 そう言うと、すっと玄関の方へ出て行った。しばらくしてドアを立てきる大きな音がし

た。私の海は大きなうねりを見せ始めた。

 取り残された私は、一人で、「あざやかなみどりよ、あかるいみどりよ、鳥居をつつみ、

わら屋をかくし、かおる、かおる、若葉がかおる……」と歌った。すると、海の波が静ま

り、若葉の爽やかな色が頭に浮かんできた。そして、先ほどの妻の言葉がひょいと頭から

胸の芯まで降りてきた。

 「チホウハ ゴメンデスヨ」

 私はそうかもしれないと思って急に不安になった。不安になるとじっとしておられない

ような気持ちに追い込まれた。しばらく時間を持て余していると、二階の方から子どもの

泣き声が聞こえてきた。

                                     (了)