とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

二つの岩樋のこと

2011-02-28 22:29:56 | 日記
二つの岩樋のこと


 今書いておかなければ、という思いがあって、またまた次のようなモノクロ写真となってしまった。上は斐伊川から西の出雲市の高瀬川へ水を引く取水口の来原岩樋である。下は斐伊川から東の斐川町へ水を引く取水口の出西岩樋である。撮影は昭和48年。






 この二つの岩樋は歴史的に重大な役割を担っていた。田畑の農業用水を斐伊川から引き込むことと、忘れてならないのは米などの輸送水路だったことである。この二つの岩樋は斐伊川を挟んで向かい合っている。その位置関係もまことに面白い。
 出西岩樋の開削は、「今から約300年前の1685年(貞享2年)に松江藩の竜野九朗左ヱ門が責任者として掘り開いたと言われます。岩樋には入口と出口に水門があり、樋守(ひもり)(樋の水門番)が水門を上げ下ろしをして水位を調節して舟を通していました。このような水位の異なる川から移動させるために水門をつくる方法を『閘門(こうもん)式』といいます。」(出西岩樋の説明の案内板による)
一方、来原岩樋も同じ頃、元禄年間(1688~1704)に大梶七兵衛の孫大梶忠左衛門が掘った取水口で、やはり「閘門式」で米などの重要な輸送水路の高瀬川の入り口でもある。後、輸送水路として松江藩はこのルートに重点を置くことになる。
 このことについて『斐川町史』に明快な記述がある。来原岩樋ルートが松江藩の輸送体系としてまことに合理的だったという。

 (出西岩樋ルート)

雲南三郡→斐伊川→出西岩樋→出雲郷高瀬川→庄原川方→(外積に積換)松江御手船場→(外積に積換)大阪松江藩蔵屋敷

 (来原岩樋ルート)

雲南三郡→斐伊川→来原岩樋→神門郡高瀬川→荒木川方→(外積に積換)大阪松江藩蔵屋敷

 積み替えが一度で済むという利便性があったのである。また、その背景には「雲南三郡として最も重要な砂鉄の生産とその商品化の為の輸送を確保するという意味の政策転換」があったというのである。
 この項まだまだ説明不足なので、今少し調べて補足したい。

花の町斐川町

2011-02-26 22:36:34 | 日記
花の町斐川町


 斐川公園の梅が大分咲きました。



 ヒヤシンスはまだでした。次の写真は昨年のものです。ぼつぼつ咲いてもいい頃ですが、今年は遅れているようです。




 ウメ、モクレン、ヒヤシンス、チューリップ、サクラ、ヒマワリ・・・。
 これから暖かくなるにつれ、次々と咲きます。私はこういう斐川町を誇りに思っています。出雲市と合併しても、築地松の間に展開するこの美しい風景だけは失いたくないと思います。

法華経堤防決壊

2011-02-25 23:40:56 | 日記
法華経堤防決壊


 昭和9年9月、斐伊川支流の新川が、旧直江村法華経堤防決壊のために氾濫し、下流域の直江村、荘原村に大被害をもたらした。次の写真は、その決壊箇所に建てられた法華塔である。撮影は昭和48年。



 『斐川町史』によると、その時の水害の模様を次のように記している。


 9月21日朝紀淡海峡を襲った台風は西日本全域に大きな被害を与え、・・・斐伊川水系では続々被害が出はじめた。出西阿宮地区でも本流の決壊が10か所以上に及び、・・・洪水量のほとんどが新川に流入することになって午前8時ごろから各所で堤防決壊の危険が生じた。そして午前11時直江村の法華経堤防が切れた。洪水は直江村結地区を走って、山陰線の築堤で一時せきとめられたが、まもなく荘原村の吉成地区湾曲部でこれを破壊して、上庄原、ついで下庄原へと押し寄せた。

23日正午現在で県がまとめた被害は、橋梁流失破損170、堤防決壊破損513、道路崩壊982、・・・家屋浸水5132、死者16、・・・被害見込み総額は1000万円に達した(県全体の被害の総計)。このときの雨量は19日午後から20日にかけて出雲東部で360ミリに及んだと記されている。
 この水害が新川廃川を決断させる大きなきっかけとなった。 

海軍航空基地のこと

2011-02-22 22:35:11 | 日記
海軍航空基地のこと



 私が斐伊川の歴史にいたく関心を持っていたことを以前書いた。
 そのため昭和40年代にはいろいろな角度から斐伊川に関する写真を撮った。関連してかつての斐伊川の支流の新川(斐川町)の取材のために山に登って写真を撮った。その一部が次の2枚のモノクロの画像である。




 上が山上から撮った新川の写真。白く見える部分は新川廃川地に敗戦直前に造られた海軍航空基地の飛行場である。この基地が特攻基地だったということを言われるお方もあるが、私は確認することをまだしていない。下の写真は飛行場を北側から撮った写真である。向こうに見えるのが仏経山である。
 現在の滑走路はこういう風に綺麗ではない。コンクリートの隙間から草が生えているし、近くに住宅地もある。滑走路の東側には葬祭会館も建っている。
 斐伊川支流の新川は、天保2年(1831年)藩の命により開鑿された。斐伊川本流を水害から守ることと新田の造成が目的だった。
 突然の下命ということで地元は混乱したという。数年かかって完成するが、相当の難作業だったらしい。時の家老朝日丹波は過酷な労働を強いられた地元民のために労働歌を作ったという。それが後の盆踊り唄の「大山崩し」として残ったと聞いている。
 その新川が廃川となる一番の原因は昭和9年9月の新川決壊である。旧直江村の法華経堤防から出水し、またたくまに直江から旧荘原村に流水が押し寄せた。私はその時の水害の悲惨さを家のアルバムで知り、衝撃を受けた。家の一階は完全に水没し、表通りには舟が行き来していた。後、その決壊した地点には犠牲者の霊を慰撫する法華塔が建てられている。

 壮大な石英砂群の堆積に
 天保の開削人夫の
 埋もれた声を聞く
 湖岸に溢れた砂は
 沃野と化し
 ほとばしる水音は
 歴史の中で消された

 <流緩に水清し、舟筏通ぜず>
 その斐伊川大派流も
 今は人々の口にのぼらない
 破れた法華経堤防を
 出雲結 大川倉
 連台で固めた
 あの時のことも

 新川川床の
 光を放つ砂粒の死者たちは
 かたくなにもだすのみ
 「山崩し」の歌声を残して

 廃川はひたすらに
 川敷に重い
 昭和十五年一月のことだ

     昭和48年7月14日 中国新聞掲載


 この詩の中に廃川となった年を記しているが、その後その膨大な跡地は開拓され、耕地として利用されることになる。
 そして、戦争に突入する。日本本土への空襲が日増しに激しくなる中、昭和20年3月、海軍航空基地が急遽作られることになった。完成すると、大勢の軍人が投入され、学校などは宿舎として提供されたという。
 ここに配備されたのは、「銀河」と「桜花」である。「桜花」は非常に小さい飛行機で、弾丸を乗せて敵艦を攻撃する特攻機かもしれないという記述が『斐川町史』にある。しかしこの「桜花」について私はそれ以上のことを述べることはできない。未完成の試作機だったということを仄聞している。・・・私のレベルでは真相を解明することはできない。私のこのブログの目的はそういうことにある訳ではない。
 とまれ、私はそういう過去の詳細について子どものころは全く知らなかった。むしろ地元に飛行場があったということを誇りに思っていたのである。次第に飛行場建設の経緯を知るようになり、その気持ちが激しい嫌悪の気持ちに変わっていった。
 史実をきちんと知ること、また、語り伝えることの大切さを痛感している。付言すると、私たち家族の生活基盤は奇しくもこの新川廃川地である。
 (参考資料) 『斐伊川史』(長瀬定市)『斐川町史』(共著)
参考HP  参考HP


  

試されるとき

2011-02-20 23:15:17 | 日記
試されるとき



 今、家の玄関に水仙の花が生けてあります。妻が生けたものです。




 私は出入りする度にそのツンと鼻を刺激するさわやかな香りに己の心を見透かされ、試されているような気がして、はっとします。水仙の花の香は気を引き締めてくれます。
 その香は、日によって、時間によって、心の状態によって、香りの波動に強弱が生じるようです。極端な場合、気がつかないこともありますし、離れていても強く香ることもあります。
 私はラッパ水仙と言いますか、黄色い真ん中の突起が筒状に伸びた花の香はあまり好きではあれません。この写真のような野生の水仙がいいと思います。
 花に心を見透かされ、試されている。この緊迫感のある関係が私に大きな力をくれます。
 現代のように人が人として試されている時代は今までなかったのではと思います。いや、いつもの私の癖で、深刻になっているのですね。ごめんなさい。・・・でも、これは国内、国外の情勢から考えて本当の話なのです。